(9)小鬼の申し出
文字数 12,035文字
散歩気分で歩くには、さすがに近いと言えない時間を要するものの、そこが「公都キルグスタンの近郊である」ということに異論を挟む者はいないだろう。
だがたった今、意識を取り戻したトバウ村の娘パユが気づけたのは、地図上の位置どころかもっと局所的なもの――果実の甘い匂いが漂う倉庫 に自分がいるということだけであり、加えてたった今、腕を痛いほど強く引かれて誰かの隣に並ばされたという事実のみ。
男の強い力で容赦なく握りしめられた腕の痛みに、パユは自分の置かれた状況 を思い出しつつ、小さな呻き声に視線を向ければ、木樽の中から自分より年上の女性が別の男に引きずり出されるところだった。
それで自分もそうであったのだろう と察したが、それが何になるというのか。
埃と皮脂に汚れた男達の風体と粗野な態度、自分達への乱暴な接し方で、これから訪れるであろう暗鬱たる境遇の訪れを、ただ思い知らされるだけのこと。
いや、すでにパユを含めて彼女らがその身に“絶望”を植え付けられていたことを考えれば、もはや何を知ったところで、事態が好転するはずもないのだ。
当然、今さら抗おうとする者はなく、また、薬でも盛られたのか、うつろな目で立ち尽くすパユ達は、男達によって手際よく腰前で両腕を縛られ、そのまま一本のローブで繋がれてしまう。
男達の馴れた手つきにこれが初めての作業でないことが窺われるが、意識がまだはっきりとしないパユにそこまで見極めることは不可能な話しだ。
どのみち、彼女はすぐに微睡みの世界に落ちてしまったのだから。
次にパユが気付いたときには、とうに倉庫を出た後らしく、闇の中、男達が掲げるランタンを頼りにどこかの林内を歩かされていた。
(いったい、何だってこんなところを……)
踏み跡すらない道なき道に、目的があって進んでいるとはどうしても思えないが、だからといって、林の奥深くで“馬鹿げた宴会”を催すためだけにこれだけの手間を掛けているとも思えない。
実際、見張り役らしい男達が手にするランタンは、商人や貴族が使う大変高価な照明道具だと耳にした覚えがあるし、道先案内を務める先頭の男も、明らかに希少価値の高い『魔導具』と思われる短杖 まで使用して一行の道行きを支援している。
他に木箱や樽なども一緒に運んでいるのを目にすれば、彼らが確かな財力を背景に、何かを企図して“積荷の搬送”を行っているのだと考えるのが最も納得のいく答えであろう。
当然、自分達“女”も“積荷”の一部であり、ならば、この先にパユが想像もし得ない何かが待っているのは間違いない。
そんなことまで考えられるのも、前をゆく覚束ない足取りの女達と違って、山育ちのパユだからこそ、抵抗力が強く、薬の効き目が薄れてきている証拠なのかもしれない。
そうした目で見れば、どことなく身なりも彼女が一番貧相に見えてくるし、事実、他の女は町娘であったのだが、それはパユには知らぬ話しだ。
むしろ、意識が誰よりもはっきりしている分、この異常極まりない状況を認識し、まざまざと恐怖を実感するだけ不幸と云うべきであった。
こんな夜の林を。
わけもなく歩かされて。
(やだ……)
意識がはっきりするに従い、先へ進む事への忌避感がわけもなく募ってゆく。俯き加減であった視線を前方へ向ければ尚のこと。
先導者が手にする短杖 が放つ淡い翠色の光によって、まるで道を譲るように草木が自ら倒れ伏す幻想的な光景の中を進みながら、このまま異境の地へ連れ去られるような倒錯感と、それが故の強烈な不安にパユの胸が締め付けられる。
(本当に、このまま連れて行かれたら……)
もう二度と陽の目を見ることがないのでは。
それは“拐 かし”にあったときから、とうに決定していた未来であったのかもしれないが、それでもどんな遠くの地でも、酷い扱いを受けても、まだ生きる希望は持っていた。
だが、こんな人目を忍んで向かう林の奥に、いかなる未来が待つというのか、どうあっても良い想像などできるはずもなく、不安ばかりが大きくなっていく。
このまま進んではダメだ。
このまま進んでも、“人らしい未来”など望めぬ境遇が、悍ましいだけの運命が――。
「おい、立ち止まるんじゃねえっ」
知らず立ち竦 んでいたらしい。いつの間にか、近寄ってきていた男に凄まれて、パユはびくりと肩を震わし、我に返る。
短い赤毛に黒目がちな瞳と小鼻は小動物を思わせる愛らしさがある。十四の成人前どころかもっと幼く見られがちな彼女がぷるぷると足を震わせていると、ヤクザ者共の嗜虐心を大いにくすぐるものだが、男のやつれ気味な頬がぴくりとも反応することはない。
その瞳に愉悦も情欲も怒りも何もなく、まるで物を見るような目をパユに向けてくるだけだ。
(なんなの、この男 ……)
年季の入った皮鎧に見事な長剣を腰に差し、きれいに剃刀を当てた顎に剃り残しはなく、粗野な空気は隠せないが、単なるヤクザ者とは何かが違うとパユは感じた。
明らかに労働力として働く荷役の男達と違い、見張りに付いている彼らはひと味違う空気を醸し出している。
生粋の『荒事師』というべき人物をパユは街で一度だけ見かけた事があったが、それとよく似た空気を彼らからは感じられるのだ。
こうした輩は小銭稼ぎで雇われることはなく、強者の威を借りるチンピラと違って、己の武威のみを基にして大金を手にする荒事のプロがほとんどだ。
そんな連中をたかが搬送の護衛に使うというだけで、背後にいかなる組織が控えているのかと疑念も沸けば、やはり行き着く先への関心も沸いてしまう。
(本当に、この先には何が……?)
行きたくないという気持ちとは裏腹に、抑えがたい強烈な好奇心。もしかすればそのせいで、彼女は狙われ 、囚われたのかもしれないのに。
「おい、さっさと足を動かせ。これは命令だ 」
語気を強める荒事師に、妙に「従わなければ」という強い思いが沸き上がり、再び歩き始めたパユ達を今度は先頭の男が制止させた。
「どうした――?」
せっかく歩き始めたと思えば。
掛けた声に苛立ちを隠さぬ荒事師も、即座に理解の色を瞳に示して腰の剣を抜き放っていた。その視線が向ける先は先頭の男と同じ場所――それが、二、三箇所へとたちどころに増えてゆく。
グルルル……
グァウ
ゥゥ……
右や左、斜め後ろにも。
気付けば周囲のいずこからも犬らしきものの低い唸り声が響き始めていた。
「……囲まれたな」
冷静に状況を据える荒事師とは異なり、積荷を運んでいた男達は肩に担いだ梃子棒を放り出し、「な、なんでこんなところに?」と怯え出す。
これまで幾度も繰り返してきた搬送任務でトラブルが起きなかったわけではないのだが、たいがいの危険な生き物はさすがに駆逐していたはずであり、だからこそ安心しきっていた荷役達は心の不意を突かれて大いに動揺してしまう。
少なくとも、動物的な本能でこの辺りが奴ら にとって危険な地であることを察していてもよいはずなのに。
だから他に別の理由があるのだと、推測する者が現れても不思議ではなかった。
「野犬の群れでも俺たちを狙うことはねえ。こいつぁ、ヤツ がいるな」
あくまで冷静さを失わず、ぬかりなき鋭い眼光を周囲に巡らす荒事師の言葉に「『賢しき狼 』か」と別の見張り役が応じる。
「で、どうする?」
「決まってるだろ」
先の荒事師がリーダーなのか、当然のように戦意を示すと尋ねた男の方は“別の判断”が下されると思っていたらしい。
「何を云ってる? ここは肉樽を与えてやり過ごすのが一番だ。わざわざ争う必要はない」
「お前こそふざけるな。シッポを振るのは奴らであって、俺たちじゃない 」
気炎を上げるリーダー格に「当然だっ」、「きっちり掃除しねぇとな!」などと他の見張り役も賛意の声を荒げる。
「ちっ。リーダーとしての初任務だからってカッコつけやがって……」と慎重論を唱えた男もこれは抑えられんと覚悟を決めたようだ。近くの荷役にランタンを渡して自らも長剣を抜き放ち戦闘態勢に入る。
そうした間にも唸り声を上げる獣の数は増えていき、双方の機が熟したところでリーダー格が檄を飛ばした。
「俺は他のリーダーと違って逆らうヤツに容赦はしねえ。いいか、誰がこの森のご主人様か徹底的に教えてやれっ」
「「「おおっ」」」
見張り役達が、平穏すぎた日頃の鬱憤も相まって戦意を漲らせるのへ、抑え役に回っていた男が「甘く見るな」と冷静さを促す。
「あれ をただの野犬の群れだと思うなっ。『賢しき 狼 』が統率するだけで、奴らは『怪物』に匹敵するほどの戦力にまで引き上げられるんだ!」
「それこそ望むところっ」
云うなり、リーダー格が女達を囲むように積荷を移動させる指示を出し、その動きに反応して獣たちが襲い掛かってきた。
経験上、こちらが動けば“開戦の合図”になることは承知している。だから、守りながら陣形を組むしかないことを運送チームの面々は危機管理の情報として十分心得ていた。
無論、実戦でそう簡単に心身が反応できるはずもないのだが、それでも彼らはうまくやったというべきであろう。
想定外の敵戦力に遭いながら、それでも一番大事な物品 を守るべく身命を賭したのだ。彼らの稼業で命を賭すのは当然であり、特別なことではなかったからこそ、逃げることもなく、最後まで戦い抜いたと言える。
ただ惜しむらくは、彼らの想定以上に『賢しき狼 』に統率された獣たちが強かったということだ。
「くそっ。こいつら腕を狙って……」
「ぐっ……ぎゃあぅ!!!」
脛に噛みついた一匹に気を取られた瞬間、右腕に飛びつかれ、焦ったところでさらに左腕をとられてそのまま引きずり倒される。
牽制するもの。
足に特攻をかけるもの。
腕を封じるものなどと巧みに連繋をかけるだけの数がいて、その抜群のタイミングを察すれる切れ者が群れの中に複数存在しているとは。
巧みな連繋をとってくる獣たちに、班の大外で各自対応せざるを得なかった見張り役達が、まともに立ち向かえるはずもなかった。
「積荷の近くに寄れっ。奴らに攻撃の幅 を持たせるな!!」
誰かが必死に叫ぶが後の祭りだ。すでに仲間は半数以上が倒されて、荷役にも死傷者が出始めている。
「きゃあああ!!」
「この犬コロがぁ!!」
ひとり、またひとりと確実に人間側が減っていく。
ついに女達にまで被害が及ぶころには、運送チームは取り返しのつかない状況にまで陥っていた。
その圧倒的な存在感故に『怪物』ばかりに目が行きがちだが、この世界で“人種”はあまりにも脆弱な生き物であり、“生物界のヒエラルキー”では下層階級に位置する生き物なのだということを忘れてはならない。
例え彼ら荒事師達が、“喧嘩馴れ”のレベルを超え、戦士としての強さを手に入れた『一羽級』の『探索者』に匹敵する腕を持っていたとしても、“危険生物”というものが侮ってよい相手ではないことをもっとよく知るべきであったろう。
すべては遅きに失したが。
血が飛沫き、肉を断つ身の毛もよだつ争いの音に蹲 り、必死で耳を塞いでいたパユが、いつの間にか、辺りが静まり返っていることに気付いたのはしばらく経ってからのことである。
「……」
おそるおそる顔を上げ、それでも屈み込んだ態勢から立ち上がる勇気が持てず、ゆっくりと顔だけ巡らしてみる。
鼻につく血の臭いが、服や頬にまで飛び散った誰かの血のせいであると気付くこともなく。
動く者がいなくなった夜の林の中で、今や自分がひとりきりであることをパユは知る。
「誰も……?」
生きていないのか。
中心で守られていたはずの女達の中でも身動ぐ者は誰もいない。すぐ前にいたウェーブがかった金髪が美しい女の子は、澄んだ碧い瞳を虚空に向けたまま事切れているのは明らかだった。
こんな訳の分からぬ場所で、命を散らさねばならなかった無念など感じる暇もなかったろう。鋭い何かで咽を切り裂かれているのは、見張り役が振り回す刃に不運にも当たってしまったせいに違いない。
他に、目に届く範囲ではもっと無残な姿で息絶えている者がほとんどだと思えば、むしろ幸せな死に方だったろう。
何の慰めにもならないが。
「そんな……」
絶句するパユの目が、そこである人影を捉える。
はじめ、樹木のように身動ぎひとつしないため、本当に樹影だと誤認していたくらいだ。だが、よく目を凝らせば、全身黒づくめだからこそ、影に見えただけの姿には明らかな四肢があり、手にしているのは鉈のようなゴツい武器であることは間違いなかった。
(あれ……?)
そこでパユは疑念に顔をしかめる。
そんな武器を持つ見張りが男達の中にいただろうかと。
いや、あんな波模様の不気味な仮面を着けた者など、絶体にいなかった。
それも三人も。
「誰――?!」
思わず声を上げたのは、息が詰まるような恐怖を払い除けようとする無意識の防御反応にすぎない。ただ本人が思っていた以上に、低くかすれた声しか出なかったのだが。
それも、背後から声を掛けられたところで、彼女のなけなしの精神防御はもろくも崩れ去ることになる。
「(悪い。何匹か逃がしちまった)」
「ひぃっ」
ぴょんと身体を前に跳ねさせて、そのままへちゃりと地面に頽 れる。そんな彼女を仮面達はどう思っているのか。
「(その――手首のブレスレットをどうした?)」
正面の人影が鉈でパユの左手を指し示しつつ、発した声は獣の唸り声。いや、パユにははっきりと言 葉 として捉えることができていた。唸り声にしか聞こえないはずのそれを彼女は明快な言語として捉えることができ、それには当然理由がある。
「(答えろ、女)」
「(あなたたち……小鬼 、なの?)」
「(ほう?)」
それは彼らにとっても意表を突かれる事態であったのか。
明らかに興味を抱いたらしい反応に、一時は恐怖で押し潰されかけたパユの精神がひとつの光明を見出し、辛うじて持ち直す。
彼女が知る小鬼 とはあまりに異質な感じがするものの、言葉が通じるのであれば、まだ助かる見込みはあるのだと。
まさかこんなところで、小鬼語を解する特技が役に立つなんて――。
“新たな脅威”の出現。
今の状況についていけなくとも、それが効果があるのかどうかも分からなくても、ただ命惜しさにパユは懸命に言葉を発する。話していれば、言葉をやりとりしている間だけは殺されることがないと信じて。
「(私の村は――)」
大丈夫。彼らの言葉をちゃんとまだ覚えている。
「(戦いを避けたくて、小鬼 と争わないことを誓い合った時期があったの……これ はその時の名残よ)」
「(言葉もか?)」
「(そうよ)」
はじめは子供ならではの好奇心であり、興味本位にすぎなかった。そして“怖いもの見たさ”というか“怖いもの知りたさ”で小鬼 の恐ろしさを聞き、その暮らしぶりを聞き、彼らの使う挨拶や忌避すべき言葉を覚えていき、いつの間にか多少の会話までできるようになっていた。
その平穏な親交があったのは、ほんの数年前までのことである。
だがまさか、彼女が知る限り、小鬼 は“人種”の文明を借りる ことはあっても自ら生み出すことはないはずである。
せいぜいが狩猟や戦闘などの工夫に智恵が回るだけで、あとは食欲や性欲を満たすことにのみ関心を示すだけと教えられてきた。
いや、事実そうだった。
現に年頃の女性に向けられる視線に獣欲の光を感じて嫌悪を催し、諍 いが起こったことは一度や二度ではない。
それが親交を断つことになった切っ掛けのひとつとなったのも間違いなく、彼らが欲求を抑えることもできないのも、そこそこの智恵しか回らず創造性が欠如しているのも確かなことであった。
それがどうして仮面 なぞ着けているのか。
どう見ても、自分の手で拵えた としか思えぬ、その仮面を。
それに種族的欲求に忠実な小鬼 が他種族を手助けをするなんてことは。
いや、助けたとは限らない――?
思わずぎゅっと自分を抱きしめるパユの仕草で察したのか、正面の人影――小鬼 は「(傷つけるつもりはない)」と静かに語りかけてくる。
「(ただ、そのブレスレットが気になってな。そもそも顔を出すつもりもなかった)」
その明らかなパユに対する気遣い に彼女は益々驚きに目を見開いてしまう。
「信じられない……どうして小鬼 が? 何なの、その格好? 野犬はどうなったの?」
「(悪いが、何を云ってるか分からないんだが?)」
興奮して思わず人語でしゃべっていたのに気づかされ、パユは慌てて頭を下げる。
「(ごめんなさいっ。それで、その……野犬は? ねえ、一体何がどうなってるの?)」
混乱するパユがあらためて問いかけるが、質問自体も支離滅裂になってしまうのはやむを得まい。それでもその小鬼 はやはり普通の『怪物』とは違うらしく、丁寧に状況を説明してくれる。
「(仲間がお前達の争いに気付いてな。よせばいいのに近づいて、そこで『狩猟のブレスレット』をしている人間の存在を知り、興味が抱いたと云うだけだ)」
『狩猟のブレスレット』とは、小鬼が成人するときに生え替わる牙を用いて作った小物 のことである。
“成人の証”として本人が身に付けるのが習わしであり、人間にとって金額的価値がないものをわざわざ身に付けている者がいれば、違和感を感じるのも当然であったろう。
小鬼 を知るパユだからこそ、云いたいことはよく分かる。
「(つまり――助けてくれたの?)」
「(それとなく 、だ)」
「?」
意味が分からないと眉をひそめるパユにそれ以上の説明をするつもりはないようだ。
「(ただ理由が知りたかっただけだが……“不思議な縁”というのも意外にあるものだな)」
まるで他の事案を知っているかのように何かに思いを馳せ、その小鬼 はすぐに口調をあらためた。
「(とりあえず野犬は追い払ったが、生き残ったのはお前だけだ。何をしに森に入ったか知らんが、諦めて戻るがいい)」
そうしてあまりにあっさりと踵を返す小鬼 に、パユは慌てて腕を上げる。
「(ま、待って!)」
「(何だ? まだ何か用か)」
人影がひとり、ふたりと消えてゆく中、話しかけてきた小鬼 だけが立ち止まって一人その場に残る。
「(これ見て! 私はこいつらに捕まって連れてこられただけなのっ)」
「(……)」
パユは紐で縛り上げられた両腕を掲げて、自分の状況を精一杯訴える。自分でもなぜ小鬼 なんかにこんなことを云うのかと頭の片隅で疑念に感じながら、それでもこれはチャンスなのだと心のどこかで訴えるものに突き動かされるまま、必死でそのチャンスとやらにしがみつく。
「(助けてっ。貴方たちに関係ないことは分かってるけど、自分でもヘンだって分かってるけど、それでも私たちを 助けて欲しいの!!)」
「(私たち ?)」
言い間違いではない。
それこそが、彼を呼び止めた時点ではパユ自身分かってもいなかった本当の理由なのだから。
言葉にする過程で、自分の望みを、願いを、初めて形にできたというのが正しいだろうか。
だが、綱渡りの状況で生まれたその言葉に 彼は確かに反応し、それを知って、パユは胸奥からこみ上げてくる喜びを抑えることができなかった。
きっと彼らは助けてくれる――っ
不思議とその確信だけがパユの胸に広がっていた。
*****
血生臭い場所を離れ、安全が確保できる距離を置いた林内でパユと小鬼 達は休息をとっていた。
例の現場がある方向からは樹木の影に入るような形で焚き火を熾し、その一方で、拾ってきた獣の血抜きと皮剥ぎ、解体までをパユが驚くほどの鮮やかさで作業を分担して終わらせ、火で炙り始める。
小鬼 は犬種でないのかと、訝しげな目で見るパユを彼らは気にせず、四人(?)ともじっと焼かれる肉を見守り続ける。
まるでご飯を待っている子供のように。
現場には他に食料があったのだが、グドゥと呼ばれたリーダー格らしい小鬼 の考えで手をつけていなかった。
他にいるであろう男達の仲間に悟られないよう配慮してのことらしい。
今は彼らが調達してきた水にパユが近場で見つけたクグユの葉を煎じたもので咽を潤しつつ、パユがぽつぽつと事の経緯を語り出していた。
彼らが黙って聞いてくれるのは、本当に願いを聞き入れてくれるからなのか、あるいは単に肉が焼けるまでの暇つぶしかは分からない。
いずれにしても、彼らが食事を終えればすぐに眠りに就くのは分かっていただけに、パユは今しかないと懸命に言葉を重ねた。
「(私ね、村に訪れる行商人のおじさんと話しをするのが好きだったの。遠くの村や町のことが聞けるから……)」
大きな風車が建ち並ぶ町や雨に濡れただけで散る稀少な花が咲く村、辛い料理が特徴だったり、流行りの遊びがあったりと様々な話をしてくれる商人の訪れをパユはいつも心待ちにしていた。
「(あるときおかしいと思ったの。近隣の町や村で必ず誰かが失踪していることに)」
人が消えるのはそれほど不思議な話しではない。
外に出れば夜盗や危険な生き物がいるし、大きな町なら強盗やら諍いやらで人ひとりが裏路地に消えるのはよくある話しだ。
ただし、こうした不幸に見舞われる、あるいは事件に巻き込まれるのは大抵が男と云ってもよいだろう。
家や近場で仕事に勤しむのがほとんどの女性の暮らしぶりであり“出かける”という行為自体が圧倒的に男が多いのだから。
「(だから、いなくなる人に、どこも必ず女の人がいるのっておかしいと思ったわけ)」
時期がまばらであり、ここ数年間の話しのため誰も気付いていないとパユは云う。
もちろん、失踪のたびに捜索は為されるが遺体や遺品だけが発見されることもあれば、何も見つからないまま刻だけが過ぎてゆく場合もある。その状況で共通点があると思う者はさすがに出てこない。
ただ、誰もが聞き流す“よくある失踪の話し”を哀しい出来事として記憶していたパユだからこそ、その共通点に気づけたのかもしれない。
「(……世話になった近所のお姉さんも、いなくなっちゃったからね)」
決して他人事ではないのだとパユはしんみりと語る。そして自分がこうなって初めて、その気づき が単なる思いつきでないことを彼女は確信したのだ。
「(ぜったい、みんなも同じ目 にあったのよっ)」
だから生き延びれば、きっとみんなに会えると思った。
「(……自分が間違ってないって思って、ヘンに意気込んだのはいいんだけど。だから頑張ろうって何か熱くなっちゃってたんだけど。だからって自分じゃどうにもできないのに、ね)」
苦笑いするパユに、そこで初めてグドゥと呼ばれていた小鬼 が話に割り込む。
「(仲間はいないのか? 仲間に助けを求めればよかったろう)」
「(云ったわ。でも誰も聞いてくれなかった)」
小娘の戯言を真剣に受け止める大人はいない。
皆精一杯捜索にあたっていたし、失踪した者の家族への配慮もして疲労の極みにあったのだ。そして何よりも、近隣町村を股にかける広域での指揮権を誰も有していないというのが一番の問題であった。
正確には領主や代官がいるのだが、一介の村娘が情報を伝える手段さえあるはずもなく。
「(やはり人の社会は面倒だな)」
「(というか、同族を守れない、同族をただ痛めつける、相変わらずわけわからん連中だよな)」
ひたすら肉を注視し続けながらも辛辣に評したのはグルカと呼ばれる小鬼 だ。仮面の波紋様がいくつも乱暴に書き殴られているので、パユはそれで見分けをすることにしている。
「(だが、あの方達のような人もいる)」
「(ああ。俺たちにとってはそれで十分だ)」
長身を横たえたまま、肉を見つめる小鬼 がグナイ。仮面の波紋様は変形十字が特徴で、今一人が四人の中では一番小柄なグクワ。波紋様は渦を巻く手の込みようで、パユのつくった煎じ茶をちびちび舐める間もじっと肉から目を放すことはない。
(どんだけ肉好きなのよ、この小鬼 たち)
四人の視線で肉がおかしくなるのでは、と意味不明な不安を抱きつつパユは話を続ける。
「(それで――)」
「(それで、この先には何がある?)」
機先を制したグドゥの質問に、開きかけた口を閉じ、一拍置いてからパユは答えた。
「(知らない)」
「(でも想像はつく)」
グドゥの落ち着いた声にパユはこくりと頷く。
「(『隠れ家 』でしょ)」
「(食料に女、場所を知られないように隠す行動のすべてが、彼らの巣の存在を表している)」
はじめから気付いていたのかと思うグドゥの台詞にパユは非難の目を向けることなく同意する。
「きっと、そこにお姉さん達がいる」
それは人語であっても彼にも伝わるのだろう。あえて意味を尋ねることもなく、意外なことを切り出してくる。
「(どうだ、取引しないか)」
「(どういうこと?)」
それはパユだけでなく、彼の仲間も同じ気持ちだったらしい。さすがに仮面の向きが変わることはなかったが、少しばかり意識を向け、耳を傾けているのは確かに感じ取ることができる。
「(俺たちは“仮の塒 ”を捜していた)」
「(おいっ)」
「(話していいのか?)」
即座に仲間から非難の声が上がるも「よい」とばかりにグドゥは無視 で応じる。
「(俺たちは奴らを倒して塒を手に入れる。お前は仲間を助けて帰ればいい。その代わり――)」
「(なに?)」
身構えるパユにグドゥが求めたのはささやかなもの。
「(俺たちも塒のことも誰にも云うな。今回のことをすべて忘れてしまえ)」
「……」
もとよりここがどこかも分からない。だが帰路につけば場所ははっきりするだろう。自分は黙っていられても、お姉さん達がどうかは分からない。
(いや、きっと思い出したくもないはず……)
どんな目にあっているかも分からない。すべてを家族に知られたくないと思う者がいても不思議ではない。
それは商人から聞かされた“不運な女性の話”で何となく知っていた。おじさんは都会の恐ろしさを伝えたかったのかもしれないが、結構ショッキングな話しの内容に、転がり落ちる女性の昏い人生にパユは子供心に胸を締め付けられたものだ。
(説得するしかないっ。すべて無かったことにできるなら、それはそれでやり直せるチャンス。そう思ってもらうしか……。少しでも慰めになるなら……)
簡単な話ではないと分かっているが、持ちかけられた取引は呑む以外に選択肢がないことをパユは自身に言い聞かせる。
「(わかったわ。気付いたら別の場所にいたとだけ云うことにする。何も覚えてないって言い続ける」「(おいおい、そんなんで大丈夫かよ)」
殴り書き模様のグルカが呆れるのを「(それでいい)」とグドゥが了承する。
「(小細工したところでどうにもならん。ひとつに絞ってそれを押し通すだけを考えた方が辻褄を合わせやすい)」
本当に小鬼 だろうか、と感心させられながらパユもしっかりと頷く。
「(それで、貴方たちは大丈夫なの? 組織と争えば、結局は大事になるんじゃない?)」
「(いや『隠れ家 』というくらいだ、下手に騒いで人目を引くのは連中が最も嫌がることだろう。むしろ憂い無きように殲滅することが条件だな)」
「(なら問題ないか)」
「(うむ)」
「(そうだな)」
「ええ?!」
最後の嬌声はもちろんパユだ。あまりにあっさりと彼らは受け入れたが、単なる誘拐団とも思えぬ連中を相手に、なぜにこうも安易に考えてしまうのか。
「ちょ、ちょっと!!」
「(どうした?)」
「どうしたじゃないわよ! いや、えっと……」
慌てて人語で悲鳴を上げて、すぐに小鬼語で慎重さを説きはじめる。
「(犬の群れとは違うのよ? 相手の人数も武器とか何とか、とにかく分からないことだらけの相手に突撃するのは無謀だわ! それに“外”にも仲間がいたら? どんな手段を使ってでも奪い返しに来るに決まってるっ)」
「(それでも動かせる人数は決まってくる。目立つわけにはいかぬからな。そして少数精鋭ならば、それはそれで願ってもないこと)」
「(そうとも!)」
「どういうこと?」と疑念を向けてくるパユにグドゥはどこか嬉しげな声で答える。
「(俺たちの練習台になってもらう。人間と違って好んで他者を傷つけるつもりはないが、火の粉を払うとなれば、話は別だ)」
「……ほんとに小鬼 っぽくない」
「(?)」
仮面を取ってみせてくれないだろうかと具にもつかぬ事を考えながら、パユは疲れたようにため息を吐いた。
「(そろそろ寝るといい。明日から忙しくなる)」
「(まずはアジト捜しね?)」
「(組織の動きもある程度はみておく必要があるだろう)」
「(でも、やっぱり数が……)」
表情を曇らすパユにグドゥは心配ないと答え、鋭く口笛を吹いた。
「(それっ――)」
パユが小さな口をこれでもかと大きく開いて驚くのは、暗がりから大きな四足の狼がのそりと出てきたからだ。
あの時、その姿を目にしたわけではないが確信できる。
目の前にいるのが、紛れもなく先ほどパユ達を襲った野犬の群れの統率者『賢しき狼 』であることを。
「(なぜか知らんが、妙に懐かれてな。だが今となってはこいつ も貴重な戦力だ)」
「(……)」
「(おい、大丈夫か?)」
固まってしまったパユに「どうしたものか」とグドゥが腕を組んだところで「なあ――」グルカが声を掛けてきた。
「(何か良い案が――)」
「(肉が焼けたぞ)」
「(…………)」
「(肉が焼けた)」
ずい、と差し出された串肉をグドゥは無言で受け取り、それを見たグルカがひとつ頷くと他の仲間に配りはじめる。
そばでは今も固まったままのパユ。
それを平然と無視して焚き火のそばで身を丸める
『賢しき狼 』。
そして「いい焼け具合だ」とでも云ってるようなグルカの満足そうな横顔を何とも言えぬ目で見つめるグドゥ。
それぞれの思いを他所に、名も無き林の奥で夜は静かに更けていくのだった――。
だがたった今、意識を取り戻したトバウ村の娘パユが気づけたのは、地図上の位置どころかもっと局所的なもの――果実の甘い匂いが漂う
男の強い力で容赦なく握りしめられた腕の痛みに、パユは
それで自分も
埃と皮脂に汚れた男達の風体と粗野な態度、自分達への乱暴な接し方で、これから訪れるであろう暗鬱たる境遇の訪れを、ただ思い知らされるだけのこと。
いや、すでにパユを含めて彼女らがその身に“絶望”を植え付けられていたことを考えれば、もはや何を知ったところで、事態が好転するはずもないのだ。
当然、今さら抗おうとする者はなく、また、薬でも盛られたのか、うつろな目で立ち尽くすパユ達は、男達によって手際よく腰前で両腕を縛られ、そのまま一本のローブで繋がれてしまう。
男達の馴れた手つきにこれが初めての作業でないことが窺われるが、意識がまだはっきりとしないパユにそこまで見極めることは不可能な話しだ。
どのみち、彼女はすぐに微睡みの世界に落ちてしまったのだから。
次にパユが気付いたときには、とうに倉庫を出た後らしく、闇の中、男達が掲げるランタンを頼りにどこかの林内を歩かされていた。
(いったい、何だってこんなところを……)
踏み跡すらない道なき道に、目的があって進んでいるとはどうしても思えないが、だからといって、林の奥深くで“馬鹿げた宴会”を催すためだけにこれだけの手間を掛けているとも思えない。
実際、見張り役らしい男達が手にするランタンは、商人や貴族が使う大変高価な照明道具だと耳にした覚えがあるし、道先案内を務める先頭の男も、明らかに希少価値の高い『魔導具』と思われる
他に木箱や樽なども一緒に運んでいるのを目にすれば、彼らが確かな財力を背景に、何かを企図して“積荷の搬送”を行っているのだと考えるのが最も納得のいく答えであろう。
当然、自分達“女”も“積荷”の一部であり、ならば、この先にパユが想像もし得ない何かが待っているのは間違いない。
そんなことまで考えられるのも、前をゆく覚束ない足取りの女達と違って、山育ちのパユだからこそ、抵抗力が強く、薬の効き目が薄れてきている証拠なのかもしれない。
そうした目で見れば、どことなく身なりも彼女が一番貧相に見えてくるし、事実、他の女は町娘であったのだが、それはパユには知らぬ話しだ。
むしろ、意識が誰よりもはっきりしている分、この異常極まりない状況を認識し、まざまざと恐怖を実感するだけ不幸と云うべきであった。
こんな夜の林を。
わけもなく歩かされて。
(やだ……)
意識がはっきりするに従い、先へ進む事への忌避感がわけもなく募ってゆく。俯き加減であった視線を前方へ向ければ尚のこと。
先導者が手にする
(本当に、このまま連れて行かれたら……)
もう二度と陽の目を見ることがないのでは。
それは“
だが、こんな人目を忍んで向かう林の奥に、いかなる未来が待つというのか、どうあっても良い想像などできるはずもなく、不安ばかりが大きくなっていく。
このまま進んではダメだ。
このまま進んでも、“人らしい未来”など望めぬ境遇が、悍ましいだけの運命が――。
「おい、立ち止まるんじゃねえっ」
知らず立ち
短い赤毛に黒目がちな瞳と小鼻は小動物を思わせる愛らしさがある。十四の成人前どころかもっと幼く見られがちな彼女がぷるぷると足を震わせていると、ヤクザ者共の嗜虐心を大いにくすぐるものだが、男のやつれ気味な頬がぴくりとも反応することはない。
その瞳に愉悦も情欲も怒りも何もなく、まるで物を見るような目をパユに向けてくるだけだ。
(なんなの、この
年季の入った皮鎧に見事な長剣を腰に差し、きれいに剃刀を当てた顎に剃り残しはなく、粗野な空気は隠せないが、単なるヤクザ者とは何かが違うとパユは感じた。
明らかに労働力として働く荷役の男達と違い、見張りに付いている彼らはひと味違う空気を醸し出している。
生粋の『荒事師』というべき人物をパユは街で一度だけ見かけた事があったが、それとよく似た空気を彼らからは感じられるのだ。
こうした輩は小銭稼ぎで雇われることはなく、強者の威を借りるチンピラと違って、己の武威のみを基にして大金を手にする荒事のプロがほとんどだ。
そんな連中をたかが搬送の護衛に使うというだけで、背後にいかなる組織が控えているのかと疑念も沸けば、やはり行き着く先への関心も沸いてしまう。
(本当に、この先には何が……?)
行きたくないという気持ちとは裏腹に、抑えがたい強烈な好奇心。もしかすればそのせいで、彼女は
「おい、さっさと足を動かせ。
語気を強める荒事師に、妙に「従わなければ」という強い思いが沸き上がり、再び歩き始めたパユ達を今度は先頭の男が制止させた。
「どうした――?」
せっかく歩き始めたと思えば。
掛けた声に苛立ちを隠さぬ荒事師も、即座に理解の色を瞳に示して腰の剣を抜き放っていた。その視線が向ける先は先頭の男と同じ場所――それが、二、三箇所へとたちどころに増えてゆく。
グルルル……
グァウ
ゥゥ……
右や左、斜め後ろにも。
気付けば周囲のいずこからも犬らしきものの低い唸り声が響き始めていた。
「……囲まれたな」
冷静に状況を据える荒事師とは異なり、積荷を運んでいた男達は肩に担いだ梃子棒を放り出し、「な、なんでこんなところに?」と怯え出す。
これまで幾度も繰り返してきた搬送任務でトラブルが起きなかったわけではないのだが、たいがいの危険な生き物はさすがに駆逐していたはずであり、だからこそ安心しきっていた荷役達は心の不意を突かれて大いに動揺してしまう。
少なくとも、動物的な本能でこの辺りが
だから他に別の理由があるのだと、推測する者が現れても不思議ではなかった。
「野犬の群れでも俺たちを狙うことはねえ。こいつぁ、
あくまで冷静さを失わず、ぬかりなき鋭い眼光を周囲に巡らす荒事師の言葉に「『
「で、どうする?」
「決まってるだろ」
先の荒事師がリーダーなのか、当然のように戦意を示すと尋ねた男の方は“別の判断”が下されると思っていたらしい。
「何を云ってる? ここは肉樽を与えてやり過ごすのが一番だ。わざわざ争う必要はない」
「お前こそふざけるな。シッポを振るのは奴らであって、
気炎を上げるリーダー格に「当然だっ」、「きっちり掃除しねぇとな!」などと他の見張り役も賛意の声を荒げる。
「ちっ。リーダーとしての初任務だからってカッコつけやがって……」と慎重論を唱えた男もこれは抑えられんと覚悟を決めたようだ。近くの荷役にランタンを渡して自らも長剣を抜き放ち戦闘態勢に入る。
そうした間にも唸り声を上げる獣の数は増えていき、双方の機が熟したところでリーダー格が檄を飛ばした。
「俺は他のリーダーと違って逆らうヤツに容赦はしねえ。いいか、誰がこの森のご主人様か徹底的に教えてやれっ」
「「「おおっ」」」
見張り役達が、平穏すぎた日頃の鬱憤も相まって戦意を漲らせるのへ、抑え役に回っていた男が「甘く見るな」と冷静さを促す。
「
「それこそ望むところっ」
云うなり、リーダー格が女達を囲むように積荷を移動させる指示を出し、その動きに反応して獣たちが襲い掛かってきた。
経験上、こちらが動けば“開戦の合図”になることは承知している。だから、守りながら陣形を組むしかないことを運送チームの面々は危機管理の情報として十分心得ていた。
無論、実戦でそう簡単に心身が反応できるはずもないのだが、それでも彼らはうまくやったというべきであろう。
想定外の敵戦力に遭いながら、それでも一番大事な
ただ惜しむらくは、彼らの想定以上に『
「くそっ。こいつら腕を狙って……」
「ぐっ……ぎゃあぅ!!!」
脛に噛みついた一匹に気を取られた瞬間、右腕に飛びつかれ、焦ったところでさらに左腕をとられてそのまま引きずり倒される。
牽制するもの。
足に特攻をかけるもの。
腕を封じるものなどと巧みに連繋をかけるだけの数がいて、その抜群のタイミングを察すれる切れ者が群れの中に複数存在しているとは。
巧みな連繋をとってくる獣たちに、班の大外で各自対応せざるを得なかった見張り役達が、まともに立ち向かえるはずもなかった。
「積荷の近くに寄れっ。奴らに
誰かが必死に叫ぶが後の祭りだ。すでに仲間は半数以上が倒されて、荷役にも死傷者が出始めている。
「きゃあああ!!」
「この犬コロがぁ!!」
ひとり、またひとりと確実に人間側が減っていく。
ついに女達にまで被害が及ぶころには、運送チームは取り返しのつかない状況にまで陥っていた。
その圧倒的な存在感故に『怪物』ばかりに目が行きがちだが、この世界で“人種”はあまりにも脆弱な生き物であり、“生物界のヒエラルキー”では下層階級に位置する生き物なのだということを忘れてはならない。
例え彼ら荒事師達が、“喧嘩馴れ”のレベルを超え、戦士としての強さを手に入れた『一羽級』の『探索者』に匹敵する腕を持っていたとしても、“危険生物”というものが侮ってよい相手ではないことをもっとよく知るべきであったろう。
すべては遅きに失したが。
血が飛沫き、肉を断つ身の毛もよだつ争いの音に
「……」
おそるおそる顔を上げ、それでも屈み込んだ態勢から立ち上がる勇気が持てず、ゆっくりと顔だけ巡らしてみる。
鼻につく血の臭いが、服や頬にまで飛び散った誰かの血のせいであると気付くこともなく。
動く者がいなくなった夜の林の中で、今や自分がひとりきりであることをパユは知る。
「誰も……?」
生きていないのか。
中心で守られていたはずの女達の中でも身動ぐ者は誰もいない。すぐ前にいたウェーブがかった金髪が美しい女の子は、澄んだ碧い瞳を虚空に向けたまま事切れているのは明らかだった。
こんな訳の分からぬ場所で、命を散らさねばならなかった無念など感じる暇もなかったろう。鋭い何かで咽を切り裂かれているのは、見張り役が振り回す刃に不運にも当たってしまったせいに違いない。
他に、目に届く範囲ではもっと無残な姿で息絶えている者がほとんどだと思えば、むしろ幸せな死に方だったろう。
何の慰めにもならないが。
「そんな……」
絶句するパユの目が、そこである人影を捉える。
はじめ、樹木のように身動ぎひとつしないため、本当に樹影だと誤認していたくらいだ。だが、よく目を凝らせば、全身黒づくめだからこそ、影に見えただけの姿には明らかな四肢があり、手にしているのは鉈のようなゴツい武器であることは間違いなかった。
(あれ……?)
そこでパユは疑念に顔をしかめる。
そんな武器を持つ見張りが男達の中にいただろうかと。
いや、あんな波模様の不気味な仮面を着けた者など、絶体にいなかった。
それも三人も。
「誰――?!」
思わず声を上げたのは、息が詰まるような恐怖を払い除けようとする無意識の防御反応にすぎない。ただ本人が思っていた以上に、低くかすれた声しか出なかったのだが。
それも、背後から声を掛けられたところで、彼女のなけなしの精神防御はもろくも崩れ去ることになる。
「(悪い。何匹か逃がしちまった)」
「ひぃっ」
ぴょんと身体を前に跳ねさせて、そのままへちゃりと地面に
「(その――手首のブレスレットをどうした?)」
正面の人影が鉈でパユの左手を指し示しつつ、発した声は獣の唸り声。いや、パユにははっきりと
「(答えろ、女)」
「(あなたたち……
「(ほう?)」
それは彼らにとっても意表を突かれる事態であったのか。
明らかに興味を抱いたらしい反応に、一時は恐怖で押し潰されかけたパユの精神がひとつの光明を見出し、辛うじて持ち直す。
彼女が知る
まさかこんなところで、小鬼語を解する特技が役に立つなんて――。
“新たな脅威”の出現。
今の状況についていけなくとも、それが効果があるのかどうかも分からなくても、ただ命惜しさにパユは懸命に言葉を発する。話していれば、言葉をやりとりしている間だけは殺されることがないと信じて。
「(私の村は――)」
大丈夫。彼らの言葉をちゃんとまだ覚えている。
「(戦いを避けたくて、
「(言葉もか?)」
「(そうよ)」
はじめは子供ならではの好奇心であり、興味本位にすぎなかった。そして“怖いもの見たさ”というか“怖いもの知りたさ”で
その平穏な親交があったのは、ほんの数年前までのことである。
だがまさか、彼女が知る限り、
せいぜいが狩猟や戦闘などの工夫に智恵が回るだけで、あとは食欲や性欲を満たすことにのみ関心を示すだけと教えられてきた。
いや、事実そうだった。
現に年頃の女性に向けられる視線に獣欲の光を感じて嫌悪を催し、
それが親交を断つことになった切っ掛けのひとつとなったのも間違いなく、彼らが欲求を抑えることもできないのも、そこそこの智恵しか回らず創造性が欠如しているのも確かなことであった。
それがどうして
どう見ても、
それに種族的欲求に忠実な
いや、助けたとは限らない――?
思わずぎゅっと自分を抱きしめるパユの仕草で察したのか、正面の人影――
「(ただ、そのブレスレットが気になってな。そもそも顔を出すつもりもなかった)」
その明らかなパユに対する
「信じられない……どうして
「(悪いが、何を云ってるか分からないんだが?)」
興奮して思わず人語でしゃべっていたのに気づかされ、パユは慌てて頭を下げる。
「(ごめんなさいっ。それで、その……野犬は? ねえ、一体何がどうなってるの?)」
混乱するパユがあらためて問いかけるが、質問自体も支離滅裂になってしまうのはやむを得まい。それでもその
「(仲間がお前達の争いに気付いてな。よせばいいのに近づいて、そこで『狩猟のブレスレット』をしている人間の存在を知り、興味が抱いたと云うだけだ)」
『狩猟のブレスレット』とは、小鬼が成人するときに生え替わる牙を用いて作った
“成人の証”として本人が身に付けるのが習わしであり、人間にとって金額的価値がないものをわざわざ身に付けている者がいれば、違和感を感じるのも当然であったろう。
「(つまり――助けてくれたの?)」
「(
「?」
意味が分からないと眉をひそめるパユにそれ以上の説明をするつもりはないようだ。
「(ただ理由が知りたかっただけだが……“不思議な縁”というのも意外にあるものだな)」
まるで他の事案を知っているかのように何かに思いを馳せ、その
「(とりあえず野犬は追い払ったが、生き残ったのはお前だけだ。何をしに森に入ったか知らんが、諦めて戻るがいい)」
そうしてあまりにあっさりと踵を返す
「(ま、待って!)」
「(何だ? まだ何か用か)」
人影がひとり、ふたりと消えてゆく中、話しかけてきた
「(これ見て! 私はこいつらに捕まって連れてこられただけなのっ)」
「(……)」
パユは紐で縛り上げられた両腕を掲げて、自分の状況を精一杯訴える。自分でもなぜ
「(助けてっ。貴方たちに関係ないことは分かってるけど、自分でもヘンだって分かってるけど、それでも
「(
言い間違いではない。
それこそが、彼を呼び止めた時点ではパユ自身分かってもいなかった本当の理由なのだから。
言葉にする過程で、自分の望みを、願いを、初めて形にできたというのが正しいだろうか。
だが、綱渡りの状況で生まれた
きっと彼らは助けてくれる――っ
不思議とその確信だけがパユの胸に広がっていた。
*****
血生臭い場所を離れ、安全が確保できる距離を置いた林内でパユと
例の現場がある方向からは樹木の影に入るような形で焚き火を熾し、その一方で、拾ってきた獣の血抜きと皮剥ぎ、解体までをパユが驚くほどの鮮やかさで作業を分担して終わらせ、火で炙り始める。
まるでご飯を待っている子供のように。
現場には他に食料があったのだが、グドゥと呼ばれたリーダー格らしい
他にいるであろう男達の仲間に悟られないよう配慮してのことらしい。
今は彼らが調達してきた水にパユが近場で見つけたクグユの葉を煎じたもので咽を潤しつつ、パユがぽつぽつと事の経緯を語り出していた。
彼らが黙って聞いてくれるのは、本当に願いを聞き入れてくれるからなのか、あるいは単に肉が焼けるまでの暇つぶしかは分からない。
いずれにしても、彼らが食事を終えればすぐに眠りに就くのは分かっていただけに、パユは今しかないと懸命に言葉を重ねた。
「(私ね、村に訪れる行商人のおじさんと話しをするのが好きだったの。遠くの村や町のことが聞けるから……)」
大きな風車が建ち並ぶ町や雨に濡れただけで散る稀少な花が咲く村、辛い料理が特徴だったり、流行りの遊びがあったりと様々な話をしてくれる商人の訪れをパユはいつも心待ちにしていた。
「(あるときおかしいと思ったの。近隣の町や村で必ず誰かが失踪していることに)」
人が消えるのはそれほど不思議な話しではない。
外に出れば夜盗や危険な生き物がいるし、大きな町なら強盗やら諍いやらで人ひとりが裏路地に消えるのはよくある話しだ。
ただし、こうした不幸に見舞われる、あるいは事件に巻き込まれるのは大抵が男と云ってもよいだろう。
家や近場で仕事に勤しむのがほとんどの女性の暮らしぶりであり“出かける”という行為自体が圧倒的に男が多いのだから。
「(だから、いなくなる人に、どこも必ず女の人がいるのっておかしいと思ったわけ)」
時期がまばらであり、ここ数年間の話しのため誰も気付いていないとパユは云う。
もちろん、失踪のたびに捜索は為されるが遺体や遺品だけが発見されることもあれば、何も見つからないまま刻だけが過ぎてゆく場合もある。その状況で共通点があると思う者はさすがに出てこない。
ただ、誰もが聞き流す“よくある失踪の話し”を哀しい出来事として記憶していたパユだからこそ、その共通点に気づけたのかもしれない。
「(……世話になった近所のお姉さんも、いなくなっちゃったからね)」
決して他人事ではないのだとパユはしんみりと語る。そして自分がこうなって初めて、その
「(ぜったい、みんなも
だから生き延びれば、きっとみんなに会えると思った。
「(……自分が間違ってないって思って、ヘンに意気込んだのはいいんだけど。だから頑張ろうって何か熱くなっちゃってたんだけど。だからって自分じゃどうにもできないのに、ね)」
苦笑いするパユに、そこで初めてグドゥと呼ばれていた
「(仲間はいないのか? 仲間に助けを求めればよかったろう)」
「(云ったわ。でも誰も聞いてくれなかった)」
小娘の戯言を真剣に受け止める大人はいない。
皆精一杯捜索にあたっていたし、失踪した者の家族への配慮もして疲労の極みにあったのだ。そして何よりも、近隣町村を股にかける広域での指揮権を誰も有していないというのが一番の問題であった。
正確には領主や代官がいるのだが、一介の村娘が情報を伝える手段さえあるはずもなく。
「(やはり人の社会は面倒だな)」
「(というか、同族を守れない、同族をただ痛めつける、相変わらずわけわからん連中だよな)」
ひたすら肉を注視し続けながらも辛辣に評したのはグルカと呼ばれる
「(だが、あの方達のような人もいる)」
「(ああ。俺たちにとってはそれで十分だ)」
長身を横たえたまま、肉を見つめる
(どんだけ肉好きなのよ、この
四人の視線で肉がおかしくなるのでは、と意味不明な不安を抱きつつパユは話を続ける。
「(それで――)」
「(それで、この先には何がある?)」
機先を制したグドゥの質問に、開きかけた口を閉じ、一拍置いてからパユは答えた。
「(知らない)」
「(でも想像はつく)」
グドゥの落ち着いた声にパユはこくりと頷く。
「(『
「(食料に女、場所を知られないように隠す行動のすべてが、彼らの巣の存在を表している)」
はじめから気付いていたのかと思うグドゥの台詞にパユは非難の目を向けることなく同意する。
「きっと、そこにお姉さん達がいる」
それは人語であっても彼にも伝わるのだろう。あえて意味を尋ねることもなく、意外なことを切り出してくる。
「(どうだ、取引しないか)」
「(どういうこと?)」
それはパユだけでなく、彼の仲間も同じ気持ちだったらしい。さすがに仮面の向きが変わることはなかったが、少しばかり意識を向け、耳を傾けているのは確かに感じ取ることができる。
「(俺たちは“仮の
「(おいっ)」
「(話していいのか?)」
即座に仲間から非難の声が上がるも「よい」とばかりにグドゥは
「(俺たちは奴らを倒して塒を手に入れる。お前は仲間を助けて帰ればいい。その代わり――)」
「(なに?)」
身構えるパユにグドゥが求めたのはささやかなもの。
「(俺たちも塒のことも誰にも云うな。今回のことをすべて忘れてしまえ)」
「……」
もとよりここがどこかも分からない。だが帰路につけば場所ははっきりするだろう。自分は黙っていられても、お姉さん達がどうかは分からない。
(いや、きっと思い出したくもないはず……)
どんな目にあっているかも分からない。すべてを家族に知られたくないと思う者がいても不思議ではない。
それは商人から聞かされた“不運な女性の話”で何となく知っていた。おじさんは都会の恐ろしさを伝えたかったのかもしれないが、結構ショッキングな話しの内容に、転がり落ちる女性の昏い人生にパユは子供心に胸を締め付けられたものだ。
(説得するしかないっ。すべて無かったことにできるなら、それはそれでやり直せるチャンス。そう思ってもらうしか……。少しでも慰めになるなら……)
簡単な話ではないと分かっているが、持ちかけられた取引は呑む以外に選択肢がないことをパユは自身に言い聞かせる。
「(わかったわ。気付いたら別の場所にいたとだけ云うことにする。何も覚えてないって言い続ける」「(おいおい、そんなんで大丈夫かよ)」
殴り書き模様のグルカが呆れるのを「(それでいい)」とグドゥが了承する。
「(小細工したところでどうにもならん。ひとつに絞ってそれを押し通すだけを考えた方が辻褄を合わせやすい)」
本当に
「(それで、貴方たちは大丈夫なの? 組織と争えば、結局は大事になるんじゃない?)」
「(いや『
「(なら問題ないか)」
「(うむ)」
「(そうだな)」
「ええ?!」
最後の嬌声はもちろんパユだ。あまりにあっさりと彼らは受け入れたが、単なる誘拐団とも思えぬ連中を相手に、なぜにこうも安易に考えてしまうのか。
「ちょ、ちょっと!!」
「(どうした?)」
「どうしたじゃないわよ! いや、えっと……」
慌てて人語で悲鳴を上げて、すぐに小鬼語で慎重さを説きはじめる。
「(犬の群れとは違うのよ? 相手の人数も武器とか何とか、とにかく分からないことだらけの相手に突撃するのは無謀だわ! それに“外”にも仲間がいたら? どんな手段を使ってでも奪い返しに来るに決まってるっ)」
「(それでも動かせる人数は決まってくる。目立つわけにはいかぬからな。そして少数精鋭ならば、それはそれで願ってもないこと)」
「(そうとも!)」
「どういうこと?」と疑念を向けてくるパユにグドゥはどこか嬉しげな声で答える。
「(俺たちの練習台になってもらう。人間と違って好んで他者を傷つけるつもりはないが、火の粉を払うとなれば、話は別だ)」
「……ほんとに
「(?)」
仮面を取ってみせてくれないだろうかと具にもつかぬ事を考えながら、パユは疲れたようにため息を吐いた。
「(そろそろ寝るといい。明日から忙しくなる)」
「(まずはアジト捜しね?)」
「(組織の動きもある程度はみておく必要があるだろう)」
「(でも、やっぱり数が……)」
表情を曇らすパユにグドゥは心配ないと答え、鋭く口笛を吹いた。
「(それっ――)」
パユが小さな口をこれでもかと大きく開いて驚くのは、暗がりから大きな四足の狼がのそりと出てきたからだ。
あの時、その姿を目にしたわけではないが確信できる。
目の前にいるのが、紛れもなく先ほどパユ達を襲った野犬の群れの統率者『
「(なぜか知らんが、妙に懐かれてな。だが今となっては
「(……)」
「(おい、大丈夫か?)」
固まってしまったパユに「どうしたものか」とグドゥが腕を組んだところで「なあ――」グルカが声を掛けてきた。
「(何か良い案が――)」
「(肉が焼けたぞ)」
「(…………)」
「(肉が焼けた)」
ずい、と差し出された串肉をグドゥは無言で受け取り、それを見たグルカがひとつ頷くと他の仲間に配りはじめる。
そばでは今も固まったままのパユ。
それを平然と無視して焚き火のそばで身を丸める
『
そして「いい焼け具合だ」とでも云ってるようなグルカの満足そうな横顔を何とも言えぬ目で見つめるグドゥ。
それぞれの思いを他所に、名も無き林の奥で夜は静かに更けていくのだった――。