(12)始原の武器

文字数 17,843文字


「ちがう。握りは、こう(・・)だ――」

 剣を持つ小さい無垢な手を、節くれ立つ大きな手がすっぽりと包み込む。
 その掌はがさつき、硬くなったマメの角が肌に擦れてちょっぴり痛みを感じさせるが、それでも顔をしかめることなく、むしろ柔らかく頬をゆるませたのは、その大きな手から伝わるお日様のような(ぬく)もりが大好きだったからだ。
 こんなにも暖かく。
 心地よくて。
 そして自分の手が隠れてしまうほど大きく、力強い手だったなんて、ちっとも知らなかった。

 そんな、父の手を――。

 そうして、陽だまりにうたた寝をする子猫のように目をつぶっていると、いつの間にやら、剣を持つ手の位置や指の絡ませ方などやんわりと丁寧に正されて。

「――さあ、しかと持て」

 久しぶりに聞く、低く落ち着いた父の声に背中を押され、返事の代わりにぐっと気持ちを引き締め両手に力を込める。

「そう力むな。剣は己の一部(・・・・・・)。もし、誰かに腕や足を強く握りしめられたら、痛くはないか?」
「――。……」
「そうだな。難しい――だが覚えておきなさい。剣は握りに始まり、握りに終わるのだと」
「?」

 思えば生真面目な父らしい教えの言葉。
 幼子に剣の極意など、愚直に説いたところで伝わるはずもなければ、覚えていられるかどうかすら危ういものを。
 それでも、父に構ってもらえるのが嬉しくて、ちゃんとやれるほど一緒にいられると期待して、その言葉を懸命に思い留めようとしたのだ。

 “脇を締めて腕を振れ”

 “息を吐ききるに合わせて、腹を締めよ”

 “股の下に体重を落とし込め”

 正直どういうつもりで、父が剣を教えてくれたのかは分からない。
 長く跡継ぎのいない苦悩を味わってきたため、誰に言われることなく子が剣に興味を示したことがよほど嬉しかっただけなのか。
 父手ずから、幼子に合う小さな木剣をこしらえてくれ、ゆるりと剣を振る手本まで、それも焦れることなく繰り返し示してくれたことも強く印象に残っているのだが、それ以上に何よりも嬉しかったのは、父が“剣の握り”を教えてくれることだった。
 本格的に稽古が始まってからもずっと、手始めに必ず持ち手を確認し――そして大きな父の手に包まれる、その一瞬が。
 唯一、父とふれあえる、その時が。
 それが途絶えたのは、いつ頃のことであったろう。
 その記憶が痛みへと変わったのは――。

「云ったことは必ず守る」
「どういう意味だ?」

 息が詰まりそうな圧を感じる太い声と戸惑う父の声。あの時の記憶はいつも霞の中で、不思議と声ばかりが強く印象に残っている。

「意味か……それはむしろ俺が聞きたいくらいだ。人道を口にし、振るわぬ剣(・・・・・)に何の意味があるのか、と」
「剣とは無垢なるもの。それを乱りに振るえば凶器となり災いをもたらすことにもなりかねん。それも分からねば、振るうだけ(・・・・・)の剣(・・)なぞ虚しいだけだ――お前のように」

 毅然とした父の声を、だが「笑止」と太い声は一蹴する。
 そこにたっぷりと混じる(あざけ)りは、どれほど愚かな言葉を口にしたのかと、確信している者のそれであった。

「俺の剣が虚しいと。その俺が、望みのもの(・・・・・)を手に入れたと云っても、まだその戯言を口にできるのか?」
「何――まさかっ」

 それはまさに痛烈な返しの一手。
 あの寡黙な父が、思わず大声を上げたほどの驚きは何によるものであったのか、今なら分かる。そしてなぜ太い声が憐れみさえ滲ませたのかも。

「だから云ったのだ。口約束であっても守るとな」
「待――」
「捨て去るか、己の信念を」

 動きかけた父の唇が固まる。
 そしてその時確かに、きしり、と父の肉体の裡から何かの軋む音が聞こえてきたのだ。
 まるで鉄の鎖を幾重にも巻き付けられながら、それでも四肢を動かそうと足掻くがために、見えない力の拮抗が“音”となってこの場に干渉したかのように。
 そうだ。
 それは“信念”という名の鎖に縛られた父の狂お(・・・・)しいほどの葛藤(・・・・・・・)だ。
 皮肉なことに、誰が縛り付けたものでもない、父自身が鍛え上げ、繋ぎ合わせて己の身に巻き付けた強靱な鋼の鎖。
 おそらく父自身も気付いていなかったろう。生涯を掛けて練り上げたものが己を縛り付ける“鎖”であったなどと。
 後の深い後悔を知るならば、いかに愚かな話しか分かろうというもの。いや、たかが信念など、とっっとと捨て去ればよかったのだ。
 それ以上に大切なものを失う痛みに比べれば、何を躊躇う必要などあったろう。

 だが、父はそれができなかった。

 金擦りの音など幻聴にすぎない。
 実は耳が痛くなるほどの静寂の中、一個の彫像と化した父へ侮蔑すら込められた太い声が、さらに留めとばかりに突きつけられる。

あいつ(・・・)はお前と子を守った。だが、肝腎のお前は、誰を守った――?」
「……っ」

 その振るわぬ剣(・・・・・)で。
 生涯掛けて磨き上げた剣で、何を守れたかと。
 父は答えない。
 答えられるわけがない。
 いや、心を軋ませる悲痛な沈黙こそが、その答えだった。
 そう。

 その日を境に母の顔(・・・)を見た覚えがない――。

 その意味を理解できたのはずっと後のことだ。
 あれから父はより多く顔を見せてくれるようになったが、剣を教えてくれることは二度となかった。
 母がいぬ寂しさに泣く自分を、母がなぜいなくなったのかと嘆き怒る自分を、父は木彫りのような表情をわずかも崩さずにただただ受け止めるだけで精一杯だったのだろう。
 無論、父にも思うところはあったろう。
 実際、常に陰を差す父の面差しを見るのは子供心に息苦しく、時折、責めるような眼差しを向けられる理由が分からず、分からないからこそ不安で怖かった。だから余計に泣いたのだ。
 哀しむ以外に、幼子に何ができるだろう。
 そうして父との関係も気付けば崩れていた。
 会いたいのに会いたくない、云い表せない気持ち悪さで胸が痛く重くなる、嫌な気分。
 お腹が痛い、気分が悪い、何かと理由を付けて父を遠ざけて、それなのに扉の陰から窓辺から父の姿をこっそり目で追っている。
 だから知っていた。
 毎朝毎晩、父が部屋を抜け出し、稽古場ではない敷地の外れで長時間、剣を振るうのを。
 凄く怖い顔で、一心不乱に振り続ける剣は、教えられたものとはまったく違う、ありったけの力が込められた力任せの剣。
 立ち塞がるものを薙ぎ払い、刃向かうものをねじ伏せる大鬼(オグル)を思わす剛の剣。

 その姿は、まるで太い声(・・・)のよう。

 実際に太い声(・・・)が剣を振るう様を目にしたわけでもないのに、なぜか確信できるのだ。
 そして気付く。

 父はそれ(・・)を求めたのだ、と。

 何が足りず、何が必要か。
 失って初めて、気付くとは。
 気付いたところで、今さら何も取り戻せず。
 腹に抱えた無念を振り払うこともできずに、足掻いてもがいて、取り憑かれたように剣を振り続ける悲壮なその姿。

 慚愧と苦悶の囚われ人――。

 気付けば目頭が熱くなり、その熱いものが頬を濡らし顎を伝ってとめどもなく流れていた。
 急いでベッドに戻り、シーツにくるまって嗚咽を漏らし続けていたのを覚えている。
 可哀想なのか、悔しいのか、情けないのかもはっきりせず、ただ父を失ったことだけ(・・・・・・・・・)は理解できた。
 きっともう戻れない。
 失ってからは二度と取り戻せない。 
 剣を振り続ける父の姿がすべてを伝えている。
 それだけは誰に教えられずとも、幼心に十分に理解できた――。

         *****

「――バルデア様」

 己を呼ぶ声で遠き日の余韻に浸っていたバルデアは、静かに黙祷を解き、すでに装備済の腕輪をフードの上からそっと触れた。
 『魔術工芸品(マジック・クラフト)』――公国内だけでなく時に国外へ自らの足を運んでまで手に入れた至玉の逸品。
 それは日々の鍛錬に感じていた“限界”という名の壁を糸も容易く乗り越えさせてくれたバルデアにとって掛け替えのない宝。

 己が強さの根源だ――。

 そのおかげで、幼き頃に刻まれた悪夢を受け止められるようになり、逆に今やこうして、悪夢を糧に己を奮い立たせるようにもなったのだ。

 振るうべき時に、剣を振れるように。
 さもなければ、どうなるか(・・・・・)をあらためて己に知らしめるために。
 そしていつの日か――

「全員、いつでも出立できます」

 きびきびとした張りのある声は若さに溢れ、事実、振り返ったバルデアの目にまだ少年の面差しを残す副団長補佐が、踵をそろえて直立不動の姿勢をとっていた。
 緊張した面持ちは、これからの任務を思えば当然の反応だが、彼の場合は今に限ったことではない。

「このロイディオ、まだまだ若輩ではありますが、副団長の代わりとして、精一杯、補佐の役目を務めさせていただきますっ」
「頼む」
「はいっ」

 まるで大抜擢された兵卒のような意気込みで腹から声を出す若き騎士であったが、副団長が留守番するために代役となる流れはすでに何度も経験しているはずである。そしてそれに相応しき技倆と胆力も十分に備わっている。
 だが代役を任じられるたびに、初めて抜擢されたような勢いで彼は奮起し、そんな眩しいくらいの青臭い反応で古参の騎士達を呆れさせていた。
 理由は誰もが気付いている。
 若き騎士がバルデアに向ける“崇敬”の眼差しを目にすれば。いつだって強者というものは血気逸る者にとって憧れの存在であるのだから。
 そんなある意味いつもと変わらぬ調子の若き騎士に、バルデアは何の感慨も示さず隣室で待つ部下たちの下へ向かう。

「人数は十名。これでも倍する希望者をふるいに掛け、選りすぐったくらいです」

 足を止めたバルデアの様子から、ロイディオにしか分からぬ疑念を見てとったか、誇らしげに言い添える。
 実は今回の任務、あまり堂々と表立って動ける内容ではないだけに、バルデアが望んだ人数より少し多いくらいなのだ。
 バルデアとしては、どれほど言葉を飾ってみた(・・・・・・・・)ところで(・・・・)、汚れ仕事の本質が変わることはなく、だからこそ、身内でも(・・・・)賛同できる者はごく少数に限られると踏んでいた。それが――

「きちんと伝えたか?」
「余さず。それでも我ら(・・)は貴方についてゆくだけですっ」

 “我ら”のところで、幾名かがちらと猛る副長代理を一瞥したが気付くはずもなく。ロイディオの言葉を疑ったわけではないが、念には念をでバルデアは口を開いた。

「承知だろうが、もう一度伝えておく」

 そのかすれた声が傾聴を促す。

「正式な要請は警備隊宛てに出されているため、我らはあくまで臨時の(・・・)警備隊として出動することになる。当然、騎士の制式装備は使用禁止、建前だけは厳守しろ」

 居並ぶ者達は外套に身を包んでいるが、その下は鎖帷子(チェインメイル)の上から革製鎧(レザーアーマー)を重ね着し、手には革の手袋、剣も上質の騎士剣ではなく数打ち物の長剣(ロングソード)に切り替えられている。

「入手した情報では、襲撃者たる今の『クレイトン一家』には『裏街』の名だたる武闘派が顔を揃えているとのこと。その上、『俗物軍団(グレムリン)』の上位者が紛れていることも想定されている」
「「「――」」」

 『俗物軍団(グレムリン)』の名を耳にしても精鋭達の動揺は微塵も感じられず、むしろ、ぐっと真剣味が増したのを感じるくらいか。
 その理由は明らかだ。

「確たる証拠は掴めてないが、奴らが闇に紛れて都民に無道を働いているのはもはや周知の事実。女や子供の区別なく、口にするのも(おぞ)ましい人外の所業を繰り返す奴らを、このまま野放しにすることをルストラン殿下は望まれておらん。――いや、我々もだ」
「「「――っ」」」

 ぎしり、と膨れ上がった精鋭達の憤怒で室内の空気が軋みを上げた。この場には、己の手の中で、幼き被害者が苦しみながら息を引き取るのをただ見守るしかなかった者もいるのだ。

「昔は、確かに敬愛すべき救国の存在だった。その事実は確かな功績として決して忘れてはならない」

 抑えねば無尽蔵に沸き上がる皆の憤怒に、ただ怒りに任せるなとバルデアは説く。何が良くて、どこに“非”があるのかを己の内に明記せよと。公国の平穏を守護する者として、冷静に見極めた上で、その力を振るわねばならぬのだと。
 そして振るうべき時を見誤るなとバルデアは語る。

「だが、奴らは人々の称賛と謝意に胡座をかき、己が何者かすら見失った挙げ句、無道に堕ちた――もはや英雄でもなければ公国の軍でもない。ただの無法、外道の集団」
「奴らに正義の鉄槌をっ」

 思わず誰かが発した声に、「そうだ!」「鉄槌をっ」と呼応する声が上がる。その盛り上がる士気の炎へバルデアはあえて水を差す。

「再度云おう、確たる証拠はない、と」
「しかし――」
「そう、“しかし”だ」

 非道を捨て置くわけにはいかぬ。
 さりとて、『裏街』屈指の武闘派と救国の英雄は凡人の警備隊で相手にできる輩ではない。言わんや捕らえたところで正しく裁くことなど、できるはず(・・・・・)もない(・・・)のは百も承知。ならばどうするか――

「今宵、奴らが刃向かえば(・・・・・)手加減は無用、即座に脅威を排除せねばならん。だからこそ(・・・・・)、お前達を連れてゆく」
「「「――!!」」」

 違法すれすれ、あるいは強引とも言える近衛騎士投入の真意――それを知った精鋭達は喜色の顔色を浮かべ、あるいは奮起に顔を引き締める。
 そうとも。
 我ら以外に誰がやれるというのか。
 これまで救国の功績に護られて、あるいは見えぬ貴族の後押しで“咎め無し”になった事案は数多い。その奴らの非道を止める機会をみすみす逃す手などあるはずもない。
 例え正道から反れる手段を用いて、この手を血に染めようとも。
 精鋭達全員の双眸に、覚悟と決意が十二分に満ちるのを目にして、バルデアが静かに告げる。

「今宵の舞台に観客はいない(・・・・・・)。機会を捉えたら、必ずすべきことをしろ(・・・・・・・・)
「「「はっ」」」

 覇気漲る応答に、手応えを感じてバルデアは身を(ひるがえ)した。その背に勇み足で続く若き補佐官の声が。

「団長、お背中は私が御守りしますので、ご安心くださいっ」
「そうじゃない」
「え?」

 意気込むロイディオにバルデアは振り返ることなく背越しにダメ出しをする。

「お前は私より弱い。ならばお前がすべきことは、全力で自分を守り、決して私の足を引っ張らぬ事だ」
「いえ、しかし……」
「己の未熟を知り、認めることは大事だ。そうでなければ、決して高める努力などしないからな」
「……」

 出陣間際に話すべき内容ではない。
 黙り込む若き騎士に、だがバルデアは容赦するつもりなど毛頭無かった。負けることがどういうことか、胸に刻まれているだけに。

「鍛えろ、ロイディオ」

 足音が途絶え、離れゆく後ろの気配にバルデアは鋭い口調のまま厳しい鞭をくれてやる。

「鍛えて一人前になったら――任せてやる」

         *****

ヨーヴァル商会“倉”
  混戦となった一画――


「があああっ!!!!」

 咆哮一閃。唸り落ちる重戦斧(バトルアックス)をバルデアは同じ側の斜め下から剣を叩きつけ、反らし、柔らかく手首を返し様、飛燕の速さで切り返した。

 ――――ザグッ

 革製鎧を切り裂き、しかし筋肉に達したところでびたりと止められる。
 獰猛に嗤う長躯族。力任せに剣を引き抜くバルデア。それを好機と狙う重戦斧(バトルアックス)の猛撃をギリギリで躱して再び距離を取り睨み合う二人の強者。
 先ほどから繰り返される攻防は何度目であったろうか。

「ふん。その弱っちい肉体(ガタイ)でここまで俺とやり合えるとは、さすがだなあ『蒐集家(コレクター)』さんよ」

 岩のように盛り上がった肩の肉を重戦斧(バトルアックス)でトントンと叩きながらゼイレが目を細める。

「戦いなんざ、所詮は力と力。肉がより多い方が勝つってぇのが“戦いの摂理”――」
「せい!!」

 横合いから踏み込んできた新手をゼイレは無造作に重戦斧(バトルアックス)を振るって吹き飛ばす。相手が防御しようがしまいがお構いなしに、邪魔をするなと力に飽かせて排除する。それこそ秘具を使ってそうな豪腕に、新手は地面の上で二度、三度と転がり遠ざかる。

「どうだ、長躯族(おれたち)の“力”は?」

 それを示すがための振る舞いか。圧倒的膂力を見せつけて、バルデアの戦意をへし折ろうと。だが、はじめから変わらず淡々とした声でバルデアは指摘した。

「お前はひとつ勘違いをしている」
「何がだ?」
筋力(ストレングス)は“力”のひとつにすぎん」
「速さ、技もあってのもの――わぁってるよ、そんなこたぁ!!」

 叫ぶなり、ゼイレがこれまでになく大胆に、バルデアへ大きく踏み込んだ。
 バルデアが左右に開く足の中央――頭頂から鳩尾、ヘソを通して股間までを一直線に繋ぐ正中線、そこへ惚れ惚れするほどまっすぐに、バルデアの遙か高みから凶悪無比な重戦斧(バトルアックス)が流星のごとく落とされる。

「――――っ」

 それは芯から左右にわずかのズレもない、それ故先ほどのようにゼイレの力を利用した“反らし”の技が適用できぬ見事な垂直攻撃。
 力、力と云いながら術理を解したゼイレの見事な封じ手に、だが、バルデアは躊躇うことなく利き手の斜め下から渾身の迎撃を敢行する。


 ドギッ――――


 常軌を逸した二つの力が激突し、その瞬間に何が起きたかを視認できたのはバルデアただひとり。

 迎え撃った刹那、上下の攻撃圧の差で重戦斧(バトルアックス)が当然押し込み、だがバルデアはその接点を軸にして、足を踏ん張らずに滑らせ身体ごと横へずらし(・・・・・・・・・)、“垂直落とし”の線上から脱してのけたのだ。
 必要なのは反応速度と剣を支えに腕力のみで身体をズラせる肉体の強さ――最大筋力に瞬発力、体幹なども必要か――いずれにせよ歴戦の戦士だとて誰もができる行為ではない。

 むしろ曲芸師のような芸当だ。

 誰もいない地面を断ち割った態勢で、ゼイレがじろりとバルデアを睨め上げ、唇の端から声を軋らせる。

「……貴様っ」
「今のは“力”と“速さ”」
「がっ」

 呼気一発。大地に打ち込んだままの態勢から、土を巻き上げ飛び散らせるのも狙いとして、ゼイレがいきなり重戦斧(バトルアックス)を真横に払う。
 それへ剣で退き気味に受け、止め、しかして逆らうことなく自重を乗せると同時にバルデアは片足で地面を蹴った。
 重戦斧(バトルアックス)の刃でその身はふわりと持ち上げられ、しかし、足蹴りによって導かれるのは大振りしたゼイレの背後。

「?!」
「これは“技”と“速さ”」

 一瞬で相手を見失い、戸惑いで動きを止めたゼイレの逞しい首筋へ、声を這わせるような間近からバルデアが静かに説く。

「この、ちょこまかと――」

 ゼイレが二度目の『豪裂陣』を放ったときには、すでにバルデアの身体は殺傷圏外に逃れた後であった。
 戦技(スキル)の巻き起こした豪風だけが、誰もいない空間を虚しく吹きすさぶ。

「最後は“速さ”と――“経験”としておこうか」
「……やってくれるじゃねえか」
「他意はない」

 まるで師が不肖の弟子を正すがごとく。

「ただ“強さ”を見誤る者を見過ごせなくてな――戦いが“筋力”だけで決まるだなどと」
「ぬかせっ、長躯族にとっては肉こそすべてだっ。心技体など剣士気取りのごたく(・・・)にゃ、虫酸が走るんだよ!!」
「それも違う」

 またしても否定するバルデアに、ゼイレが一体何なんだとこめかみに雷の如き青筋を立てる。その物理的圧迫さえ感じる怒気を平然と受け流し、バルデアは断言する。

「剣持ち戦うにしても――“心技体”ではまだまだ不足」
「?」
「お前は、攻撃の際に重心が偏る。戦技(スキル)を仕掛ける時には奥歯を噛みしめ、硬い防御の終わりは隙だらけ――」
「おい、何のつもり――」
「相手を見極める力、咄嗟の判断力、様々な知識があれば地の利や天候も味方に付けられる」

 あるいはもっと単純(シンプル)に、としゃがれた声はいとも容易く剣士の枠(・・・・)を踏み越える。

「その手に持つ斧は何だ? 着ている革製の胸当ては? 履いてるブーツは? 大なり小なり戦いに関与しているというのなら、そのすべて(・・・)を最高のものに揃えるべきだろう」
「おまえ……」

 それが『蒐集家(コレクター)』の(いみな)を持つに至った所以(ゆえん)か。
 だから武具防具に飽き足らず、剣士でありながら、剣士の誇りさえ棄てるがごとく、『魔術工芸品(マジック・クラフト)』の蒐集に手を染めるのか。
 淡々と持論を唱えるバルデアを、もはや薄気味悪そうな目でゼイレは見つめるだけだ。
 己の発した言葉に迷いは見られず、当然のように受け入れてなお、一抹の恥じらいも無く武人として佇むその異様。

 異形だ――こいつは。

 ゼイレの目がそう告げている。
 目の前にいる者は自分の知る戦闘士とまるで違うあまりに異質な存在なのだと。

「……お前は、俺とは別のトコロに立ってるな」
「理解できないか? だが私の知っている長躯(ガリア)族は、むしろ私の理想に近く、故に『最強』に相応しい力を持っていた」
「何?」

 それがいかなる衝撃をもたらしたのか、ゼイレが目を見開き息を止め、そのまま記憶を手繰っていたのか、ようやく声を洩らす。

「……いつ会った? どこで?」
「三年になる。『コリ・ドラ族領』で」

 そうか、とため息のような声。

あの親父(・・・・)、まだくたばってなかったのか……」
「私が知る最強の商人(・・・・・)だからな」
「意外とボケやがる……誰でも知ってる商人だぜ。最強とふざけた呼ばれ方をしている、な」

 周辺国を含めても商人職が武の上位に名を連ねることはまずあり得ない。いや大陸含めても同じであろう。
 だが、長躯族であるその者だけはただ一人の別格。むしろ商人職だからこそ(・・・・・・・・)、その者は強い。それは誰もが認めるところであり、だからこそ生きた伝説でもあった。
 いかなる経緯があったのか、まさかバルデアがその者と縁があるとは思わなかったのだろう。それに同じ種族だからといって、ゼイレまでが知己らしい人物であるというのも、そんな二人がこのような場所で出遭い、死闘を演じたのは奇縁と言えようか。

「ふう。――やめだ」

 またしても、隙を突いて別の角度から躍りかかってきた新手に強烈な蹴りを喰らわして跳ね返し、ゼイレは実にあっけらかんと両手を挙げた。

「何の真似だ?」
「何のも何も、このままあんたとやり合っても愉しめないのが分かったからな」

 噛み合わないと。
 ゼイレが望むのは、例え“力”と“技”あるいは“力”と“速さ”の違いがあったとしても、己と己を、積み上げたものをぶつけあう戦いがしたいのだ。

「けど、あんたの“力”には混じりが多すぎる(・・・・・・・・)
「くだらん」
「あんたにとってはな。だが、俺は裸の付き合い(・・・・・・)じゃねえと燃えねえんだわ」

 そうして強面(こわもて)を崩すゼイレにも譲れぬものがあるというわけだ。「それに、共通の知り合いがいるのもやりにくい」と巨漢はもうひとつの理由を付け加える。

「まあ、今夜は引き分け(・・・・)ってことで」
「……ふざけたヤツだ」
「よろしいのですか?!」

 二人の間にあった緊張がはっきり弛緩したのを気付いたロイディオが驚くのをバルデアは「構わん」と黙らせる。
 真の目的は『俗物軍団(グレムリン)』の討伐であって、『裏街』のゴロツキなど首を獲ったところで生え替わるだけだ。そんなものこそ、警備隊に任せておくべきことだろう。

「不安要素を放置するわけにいかん。やめる(・・・)というなら、この場からさっさと消えろ」
「ああ、そうするさ。あんたを受け持った分(・・・・・・・・・・)は一応こなしたからな」
まだだ(・・・)!!」

 そこへ満足げなゼイレを叱咤するのは隣で騎士達と奮戦しているざんばら髪の男。
 風采の上がらない見た目とは裏腹になかなかの手練れらしく、先ほどから副団長代理にまで登り詰めたロイディオ率いる少数と互角に渡り合っているのをバルデアも視界の端で認識はしていた。
 ただその男こそが『裏街』でも有数の『荒事師』ジグァットであるということまではバルデアも知らぬ事であったが。

         *****

(勝手な真似を――くっ!!)

 突然、ゼイレの撤退宣言が聞こえてきて、驚きのあまり、ジグァットは相手の剣を受け損ないかけた。
 辛うじて首筋に剣身を差し込んで、動脈を切り裂かれるのを皮一枚で防ぎきる。そのまま相手が剣を振りかぶるのに合わせて踏み込んで、派手に頭突きを叩き込んだ。

「っらあ!!」
「……ぶっ」

 相手の鼻が潰れ、血が飛び散る。その隙に肩口で体当たりをかまして強引に距離をつくった。すぐに次の者がカバーに入ってくるのは承知の上。そのわずかな時間に、冷静さを取り戻せばいいだけだ。

(くそっ、あのデカ物――)

 考えるだに腹立たしい。 
 ジグァットとしては、ゼイレがバルデアという強敵に集中できるよう献身的に援護していたのを勝手に投げ出されてはたまったものではない。
 まして誰の指示でもない、己の都合でなど。だから戦いすら止めて、敵と呑気に会話をはじめた長躯族へ怒りも込めて叱咤する。

「死人やら何やら想定外が多すぎるっ。ここでお前が抜けたら陣取りが崩れるぞ!」

 だが「知ったことか」とゼイレはどこ吹く風と受け流す。あまつさえ。

「俺に付き合ってもらえただけでも有り難く思っとけ」
「貴様……っ」
「云っとくが『クレイトン一家』の傘下(した)についたつもりはねえ。ただ退屈しなさそうだから、混ぜてもらっただけだ。それに――」

 そこでチラと背後へ目線をくれて、

あちらさん(・・・・・)がすぐに穴を埋めてくれるだろうよ」

 思わせぶりに口にして、ゼイレはジグァットの制止も聞かずにさっさと後退をはじめてしまう。それに合わせてバルデアが即座に歩を進めれば、自然とジグァット達は前と横から挟撃の形を受けることになり。

「くそっ……もう少し退くぞ」

 気のせいか、勢いを増した相手の打ち込みを防ぎつつ、ジグァットは悔しげに仲間へ後退の指示を出した。
 ここまでの手合わせで相手が間違いなく警備兵のレベルじゃないことは実感していた。装備は盾や兜がないことを除けば警備兵らしい妥当なラインだが、剣の技倆が明らかに警備兵のそれを上回っているし、何よりも刃に籠もる気概が凄まじい。

(まあ、『蒐集家(コレクター)』が顔を出してる時点で、こいつらは間違いなく近衛の連中だろーがな)

 最初の時以来、一人も倒せず接戦を繰り広げながら、ジグァットは相手の強さに舌を巻いていた。特に退いては突撃を繰り返してくる、まだ十代と思しき敵が若さに不似合いなほどの技倆を持っており、非常にやりにくい。
 しかも若輩かと思えば、指示を出しているようにも見受けられる。味方の優勢を知り、こちらの撤退を嗅ぎつけた時の抜け目ない攻勢は、奴自らが飛び込んで“流れ”を生み出していたのを思い出す。ならば。

「お前が“(かなめ)”か!!」

 若さ故の見落としか、こちらの後退に乗じ勢い込みすぎて連携が崩れたところをジグァットは見逃さずに、前へと飛び込んだ。
 戦いは臨機応変。相手に突け入る隙あらば、躊躇うことなく即座に突き刺すのが鉄則。

「むんっ」
「くあっ」

 虚を突かれて反応が鈍ると判じたが、ジグアットの想定を越えて、少年兵はきっちり反応してみせ、あまつさえ渾身の一撃を(こら)えきってみせる。力もある。突然の危地に動じぬ胆力も。

「若造が一端(いっぱし)の剣士気取りか……」
「! ――な、んだとっ」

 虚を突くのも戦いなら、言葉で揺さぶるのも戦いだ。
 罵倒して(おとし)めて。相手が揺らげばめっけもの(・・・・・)
 果たして、少年兵は美麗とも言える顔を紅潮させて、ぐっと力を入れてきたかと思えば、ふいに力点をずらして鍔迫り合いの均衡を崩す。同時に蹴りを叩き込んだのは、しかし、両者共にであった。

「ぐぅっ」
「ごっ」

 互いに後ろへ大きくよろめく二人。ジグァットの瞳には“感心”の色。その若さで実戦馴れもしているのかと。
 逆に少年兵の瞳には怒りのみ。賊に愚弄されてたまるかと。賊が自分をどう見ているのかを、気付いていると云わんばかりの目で。

お前より(・・・・)――」

 その憤慨を力に変えて、弾かれたように少年兵が飛び出してくるのとほぼ同時に「出過ぎだ、ジグァット!」そう仲間に警告され、ジグァットは即座に跳び退っていた。

 ――ダンッ
   ダンッ――

 奇しくも瞬発力はほぼ同等。
 互いの距離は縮まらず、だが戦線は『クレイトン一家』側に大きく動くことになった。そうなれば襲撃者としてはスペースが足りず動きが鈍くなる。それはこの場の混戦模様を大きく崩す事件であり、大勢を決める一手になる。
 当然、この好機をあの男が見逃すはずもなかった。

         *****

「何者だ……?」

 戦局の決定打になるバルデアの歩みを、だが、ぎりぎりのラインで止めたのはひとつの影。
 素早い動きをしようとも、不思議と顔を覆うフードがめくれることはなく、両腕を象る布端から唯一、冷たい湾刀の刃先が覘いて月の光を淡く照り返す。

 『俗物軍団(グレムリン)』が幹部筆頭――フォルム。

 だが、さすがにバルデア達に対して名乗りを上げるような真似はしない。無論、確実に殺害できるなら話は別だろうが、相手はまがりなりにも『蒐集家(コレクター)』の(いみな)を持つ“三剣士”のひとり。慎重に期す、といわけか。
 そんな事情を知らぬバルデアは、しかし、不意に現れた新手の身のこなしと佇まいに、“異質”な匂いをかぎ取っていた。

(こいつ……)

 『裏街』の住人が持つ剣呑さややさぐれた(・・・・・)感じがまるでしない。説明できぬがもっと別の何かだと漠然と気付く。
 直感といえば直感だ。
 いや、今回の襲撃には『俗物軍団(グレムリン)』の上位者が関与しているという事前の情報がある。そのような思いであらためて観察してみれば。
 足下まで覆い隠すフードのせいで、重心も読めなければ肉付きも分からない。だが見た目どおりに影としか映らぬ、これまで相対したことのない無味無臭の気配に、むしろだからこそ、バルデアはただならぬものを感じていた。
 だが、それだけで十分ではないか。
 対峙する以上、心にゆるみなどあるはずもなく。
 すでにこいつらは、全員斬り捨てる(・・・・・・・)対象なのだ(・・・・・)から(・・)

 世にはこのようなことも起こり得る。
 闇の『剣舞会』であれば、大量の白金貨を動かす珠玉のプラチナカード。
 “幹部筆頭”フォルムと“三剣士”バルデアが、ここに相見えることとなった。

         *****

 扇間が見失ったぼろ切れ覆面を懸命に捜し、あるいは包囲を形成する敵の一部を排除して、後背の憂いを断つべく行動を起こしている頃。
 鬼灯は殺気迸らせる周囲の剣戟を無縁のものとして、静かに黒影の難敵と対峙していた。

「――」
「――」

 互いに隙を見出すため、他に意識を向ける余裕はない。特にこちらと違って敵には動ける味方がおり、これまでに幾度か仕掛ける機会はあったものの、不思議なことにその好機を活かすことはなかった。
 いや、理由は分かっている。
 死人たるガルフの乱入とフード集団のおかげだ(・・・・)。少なくとも、その点だけは鬼灯に有利な流れがきていると言えるだろう。ただ――

(素直に喜べないのがいただけませんね)

 それはこちらも付け入る隙が見出せていたのに、踏み込めなかった事実があるためだ。

その武器で(・・・・・)私を滅することは叶わない』

 鬼灯の刃に貫かれながら、フォルムと名乗る人外が平然と言ってのけたその台詞。それが脳裏にちらつくたびに、踏み出そうとした鬼灯の決意を鈍らせていた。

(まさに“言葉には力が宿る”というわけですか)

 柄にもない己の“躊躇”を苦笑し、同時にそれほどの相手なのだとあらためて感じ入る。

(されど、これこそが天より与えられし真の試練)

 己を鼓舞する鬼灯の背を、ぐいと何者かが押しやるように。
 その停滞が長く続ことはない。
 どのみち、三者が入り乱れる騒乱は河の流れに似て絶えず動き続け、ひと処に留まることなどできようはずもないのだから。

「ぅおあっ」
「…………」

 ふいに、死人と誰かのもみ合う影が二人の間に割り込んで、鬼灯は反射的にそれへ目がけて飛び出していた。先ほどまでと違って一切の躊躇もなかったのは、フォルムの姿が視界から遮られたことで脳裏にちらつく呪縛から解放されたからだ。
 一足飛びで迫る鬼灯を鍔迫り合いで必死になっている影達は気付きもしない。そこへ鬼灯は巧みに気配を殺して間近に迫り、触れる勢いでするりと回り込む。
 奇襲は“迅さ”がすべて。
 すでに腰を落とし胸前に掲げた愛刀に必殺の念を込めて。死人の背中越しにフォルムの黒影を捉えたときには、己をひとつの刃と化して突きを――

 突風が頭頂部をかすめて、異人に劣らぬ見事な金髪が千々に乱れ飛ぶ。

 その金糸が舞う様を目にすることもなければ、攻撃の強制遮断に憤る暇も与えられずに、鬼灯は横へ身を投げるようにして、続く吹き下ろしの突風を転がるように避けていた。

 一体何が起きたのか――?

 鬼灯はくるりと身を転がし、すぐさま膝立ちで態勢を整える。その目に映るは上半身を半ばまで断ち切られたふたつの影。もみ合いを“目隠し”に考えたのは相手も同じだが、まさか味方諸共に斬り飛ばそうとするとは。
 突風の正体は、フォルムの湾刀が巻き起こす斬撃であった。

「なん、の……」

 致命的な一撃を受けた影が――それが“七人殺し”のヨルムであると鬼灯が知ることはついぞなかったが――目を見開いて訴えるも零れる血に咽を塞がれ、まともな言葉を発せぬまま倒れ伏した。
 だがそれは、あくまで生者の限界。
 既に死んでいるガルフは胸部の断裂など意にも介さず戦斧を振りかぶる勢いで、ミチミチと胸部の肉や皮膚をぶち切る嫌な音を立てながら、フォルムの頭部に反撃を見舞う。

 ――フンッ

 その戦斧持つ手首をフォルムは斬り飛ばし、もう一方の湾刀で生気無き首も斬り飛ばし。それでも死人には手ぬるいとばかりに、両腕を交差させる感じでガルフの胸部を四散させた。

 まさに鎧袖一触。

 敵味方構わず蹴散らして、それを一顧だにせずフォルムは鬼灯へと向き直る。

 いや、このまま仕切り直しは駄目だ――。
 この流れの中で仕掛けねばっ。

 急き立てる己の直感に従って、鬼灯はフォルムの動作が落ち着く前に地を蹴り、火中に栗を掴みとる覚悟で突進していた。

(はあっ――)

 気合いを胸中で押し殺し、人外の面妖を潜ませるフードの奥へと切っ先を送り込む。だが無理な体勢から仕掛けたせいか、フォルムは身をズラして躱しきり、浅くフードの縁を切り裂くのみだ。

「ちいっ」
「粗い」

 二度目の突きを冷淡なフォルムの言葉が跳ね返し、無防備になった脇腹をもう片方の刃で逆に切りつけられた。

「くっ……」
「……どうしたんだい? 精彩に欠けるね」

 小憎らしいほどの余裕振りで不思議そうに尋ねるフォルムを鬼灯は無言で見やる。数合とやり合わぬうちに、脇汗が滲みその息は乱れはじめていた。

「さっきの手練は実に見事なものだったのに。これじゃジグアットさんの方がマシな気がする」
「その人のことは存じ上げませんが……不調というのは否めませんね」

 声に苦みがあるのはその原因を鬼灯自身がよく分かっているからだ。
 武器が通じぬという当惑と不安。
 例え攻撃が届いたとしても、その先の突破口が見えぬ不安に、自分でも実感できぬほど集中力が鈍り、身体のキレもなくなってしまっているのが、その原因であることは十分に分かっていた。それは相手にも筒抜けであったらしい。

「何となく分かるがね。ただだからこそ、ゲームのルールを伝えたはずなんだが」
人ならざる者(・・・・・・)の言葉など、そう信じれるはずもないでしょう」

 その何気ない言葉が、フォルムの触れてはならない琴線に触れてしまったのか。いや、もしやすれば、味方にさえ己の正体を隠していたのかもしれない。それを鬼灯が意図せず口にしてしまったとすれば。
 気付くには遅すぎたが。

「――分かった。終わりにしよう」

 その口調から愉悦が消えたことによる危機感を鬼灯が感じ取り、思わず一歩退いたところへ。


 ――――ッフ


 胸一文字に朱線が疾って、痛みよりも先にその事実を認識した途端、鬼灯は全身から汗を噴き出させていた。

(――――危なかったっ)

 正に九死に一生。鼻先で死神の手をやり過ごした幸運に身を震わせつつ、一方で強い自責の念が沸き上がる。
 “後退”は相手に気後れしたことを意味するが故に。だが、怯まなければ致命的な一撃を受けていたのもまた、事実。

「ならば、気にしたところで詮無きこと――」

 鬼灯の切り替えは、驚くほど早い。それは学んだ剣にも起因する。

 曰く、人は怖れるもの。
 怖れとは、失い奪われることであり、痛みや哀しみを与えられることでもある。
 そしてそれらを防ごうとするにも、そうできる力が無いことや、対処法が見えぬことでも人は怖れを抱くものである。
 だから震えて身を強張らせる。
 堅く目を閉ざし、耳を塞ぎ、己の殻に閉じこもる。
 それは人に残された“逃げる”という防御でありとっておきの切り札(・・・)
 無論、やり過ごせるならば、それでいい。

 だが、そうでないならば――?

 人はいかにすれば、恐怖に抗えるのか。
 抗うには対峙せねばならず、対峙するにも何かが必要であろう。それは何なのか――。

「我が至智流は、剣士の気構えは解かぬ。ただ、内に育む“志”こそが己の芯であると解くのみ」

 奪われ、傷つけられたことへの怒りや苦しむ他者を哀れんでの義憤。
 前へ踏み込むための志ならば、いかなる源であってもその是非を問うことはない。
 ただ、その強き意志こそが人に与えられし“始原の武器”と至智流は示すのみ。

(即ち、道を拓きたいと望むなら、まずは意志持ち(・・・・)て対峙せよ(・・・・・)ということ――)

 まさかその根本を己が見失っていたとは。
 鬼灯は未熟さに恥じ入りつつ、同時にあらためて教えを受けた頃や目録を得た際にこみ上げた熱を思い出していた。

 真摯に剣と向き合っていたあの頃を――。

 そうして無意識のうちに、鬼灯は『神息』と呼ばれる神の息吹を模した調息をはじめていた。
 深く、ゆったりと。
 天の息吹を身に降ろし、大樹の根である両足から大地へ流し込む。
 己を天地の繋ぎ役として。
 あるいは“父なる天”と“母なる大地”との橋渡し役として。
 『神息』で身を清め、心と体の合一を図れば、その目に映るは、果てなき広大なる平野――それは“殻”から解き放たれた証。

「いざ――」

 剣先はフォルムに向けたまま、柄を握る両手を胸脇へと引き寄せる――『萌芽(ほうが)』の構え。その口元に浮かぶは甘い笑み。鬼灯らしい柔らかい微笑こそがいつもの彼(・・・・・)
 その気を張り詰めず、弛みすぎず、ただ自然体で若干半身に構える姿は、剣士よりも舞踊に通じる立ち姿に似ている。
 それへ一度は動きかけたフォルムが足を止め、見えぬフードの奥で洩らしたのは嘆息であったろうか。

「……死にかけて(・・・・・)本気になったのか? けど、そんな半端もの、なおさら興味はない」

 もはや時間の無駄だと。
 無造作に近づいてくるフォルムに鬼灯は躊躇うことなく足を後ろへと送る。構えをわずかも崩すことなく、堂々と“後退”を選ぶ。
 相手が二歩ならば二歩。一歩ならば一歩。
 無音で歩む死の影から目を反らすことなく、巧みに送り足を続けて。
 とん、と左足の踵に硬い石の感触を感じたときには、視界いっぱいにフォルムが纏う暗色の外套が羽ばたくように広がっていた。

 右か左か――

 どちらから湾刀が襲っても、“真っ直ぐ貫くが速い”と待ち構える鬼灯をフォルムは嘲笑う。


 バッ――――


 濃灰色の布地を貫き、ど真ん中から(・・・・・・)突き出された湾刀を、だが、まるで予期していたがごとく鬼灯の直突きが迎え撃った。
 突きはじめから自然に持ち手を返して突き終わり、それによって生まれる刃の軌道はほんのりと楕円を描く。
 すべては一挙動で、身体に一切の負担をかけることなく思い描いた刃の軌跡を描くまで、ひたすら模索し練り上げる。その身にささいな違和感すら感じなくなるまで。故に。

 白きその一閃は直線にしか見えず。

 しかしてその実態はフォルムの湾刀を擦り上げるように反らして、己が必殺の刺突のみを敵の身中に滑り込ませるまさに交差法の極致。
 恐らくは二人にとってのみ、刻が凍り付いたがごとき静寂の中で鬼灯の呟きが淡く響いた。

「祓いの太刀――『朔光』」

 正しくは『偃月』の型・『朔光』の太刀筋――
 威力ある湾刀を反らしきれずに脇腹を切り裂かれながらも、苦痛に呻くことなく鬼灯は技の真名を告げる。それが定められし神事の一部でもあるかのごとく。
 そしてどこか達成感さえ感じさせる声は、フォルムの身を再び捉えた手応えが故。無論、傷を負わせることはできていまい。それでも遊戯とやらを本心で口にしているならば、得られる報酬は期待できるはず。

「む……なに……?」

 それがフォルムの呻き(・・)と知って鬼灯が眉をひそませた。警戒のため手早く刀を引き戻すと、どういうわけかフォルムはわずかであったが力なく身体をよろめかせる。
 だが、それは鬼灯も同じこと。今の防ぎきれなかった一撃だけでなく、先の胸に受けた負傷も思いのほか深く、腰まで濡らす失血量にもはや全力は出せぬと感じ取る。否、あと半刻(1時間)もすれば動けなくなろう。

「……それで、今の一撃はいかがです?」
「ああ……確かに見事な一撃だ」

 一息吐いて、フォルムは認める。不承不承と思えるのは、ムラのある鬼灯の戦い振りに不満があるからだろう。
 だが、遊戯の規律は当てはめるつもりらしい。

「君があまりに不甲斐ないから、早めに切り上げようと思ったが……結果的に勝負を焦りすぎたようだな」
「それでも一本は一本です」
「そのとおり」

 揺るぎなくフォルムは受け入れる。よもや誤魔化すつもりなど毛頭ないと。

「ルールを破るつもりはないさ。破ったら面白くないからね。……でも、次は本気でやっても良さそうだ――」

 再戦を信じるその言葉に、鬼灯はいつでも(・・・・)どうぞと微笑みで応じる。もちろん、虚勢に決まっている。

「――丁度いい。向こうをフォローせねばならないようだ。約束通り君たちに手出しはしないから、好きにするといい」
「ここから去るのでは?」
「悪いね。こっちにはこっちの都合がある。そこは穏便に見てもらうとしよう」

 もとより、フォルムが勝手に仕掛けた遊戯だ。しかもその規律のおかげで不死身の化け物から解放されると思えば、鬼灯に否やなどない。
 すぐさまどこかへと立ち去るフォルムを見送ることなく、鬼灯はふらりとよろめく。その腕を素早く掴み支えてくれたのは扇間であった。

「……かなり危なかったね」
「否定はしませんが、まだ危地を脱したわけではないですよ」

 それでも包囲の輪は完全に崩壊し、もはや激しい戦地はフードの集団がいる方に移っている。襲撃者の関心もフォルムと共に向こうへ移っているらしく、こちらを気にしている者もいるにはいるが、仕掛けてくるつもりはないようだ。

「今のうちに、何とか逃げ出さないと……」
「まあ、手はあります」

 肩を借りる鬼灯の視線が、襲撃者達が現れた屋根裏に向けられているのに気付いて扇間も後を追う。そこにゆるりと手を振る人物が。

「……秋水殿!」

 他にも見える人影は忙しく動いて何やら準備をしているようだ。恐らく縄ばしごでも降ろしてくれるのではないだろうか。

「ねえ、あっちで面白い立ち合いがおっぱじまりそうだけど……?」
「見物、したいのは……山々ですが……ね」

 そうとう具合が悪くなってきたらしい鬼灯の様子を察して扇間がさすがに慌てはじめる。秋水へ合図を送り、身振り手振りで急げとばたばたする。

「貴方だけ、残って……教えてくれ……か?」
「もういいから、とっとと上るよ!」

 どれだけ好奇心を疼かせているのか、この後に及んでまだそのような戯言を口にする鬼灯に呆れ混じりの声を返して、扇間は降ろしてもらった手製の縄ばしごを鬼灯の身体に結びつけ、引き上げるよう合図を送る。
 無論、扇間とてフォルムと手練れらしい新手との戦いは気になるし、例のぼろ切れ覆面の行方も頭から離れていないはずだ。
 だが、戦いの行方も今回の後処理なども心配している余裕はなく、負傷した鬼灯を早急に治療すべく彼らはその場を後にする。

「……まさか、こんな形で途中退場するとはね」
「上出来じゃないか?」

 仮初めの役柄を演じるためとはいえ、“任かされた務め”を放棄するも同然の行為に、扇間も胸を痛めるものがあるのだろう。
 そっと吐かれる嘆息を秋水は励ますように十分な成果だと評価する。

「『クレイトン一家』は確実に戦力を消耗させられたし、何より最後に相対したあの敵(・・・)――あれの存在を知ることができたのは、何よりも大きい」

 そう述べる秋水は、一体いつからこの戦いを見ていたのか。そして何かの対応策を彼ならば見出したかもしれない。
 いずれにせよ、その答えはしばらく後に分かるのであろうが。
 こうして、三者入り乱れた争いは――少なくとも諏訪の侍達にとってすれば――誰が勝者かも分からぬまま終わりを迎えるのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み