(12)“羽倉城の狂宴”(中編)

文字数 9,587文字

 皆殺しにされる――

 切迫した女の警告を、一笑に伏す者は一人とておらず、即座にその立ち位置によって二つの行動に分かたれた。
 即ち、異様な影達へ向き直り、腰を沈めて刀の鯉口を切る者と、突然の奇矯な言動に困惑と不審が混じり合った視線を女へ向ける者とに。

「無庵様、一体何事で……?」
「分からんっ」

 動揺する丸顔に白髯の初老は眉間にしわ寄せ、唸るように吐き捨てる。
 そもそも怪しげな面を被り、全身黒づくめのいか(・・)がわしい(・・・・)風体の者共が城内を闊歩していること自体がおかしいのだ――本来であれば門番が止めるか、あるいは『城影』に潜む者が人知れず相応の処置をする――それがまさか、身内の案内によって殿の御前にまで立ち入らせてしまうとは。
 前代未聞の醜態ぶりに、さすがの『慧眼』と称えられし無庵でも、何が起こっているかなど、答えられようはずがない。

(それも、よりによってあの(・・)碓氷の仕業とは)

 万雷でさえ手を妬く(・・・・)と耳にする若武者の姿に、自然と苦虫を噛み潰した顔になるのは、何となくここに至るまでの経緯を容易に想像できてしまったからに違いない。
 そんな無庵の苦悶など露知らず――。
 突然の展開に、はっきりと事情も掴めぬまま誰もが某かの対応を迫られる中、女だけは己がすべきことを心得てるかのように、迷いなく懐から何かを取り出した。

「あれは――」

 それをひと目見るなり心を強く惹きつけられたか、彼女の言動に注視していた者達が言葉を失ってしまう。
 それは遙か西海の果て――異文化の栄える大陸に秘められし至芸の逸品であったろうか。
 手にするは煌びやかな蒼き水晶を冠頂に戴き、明らかに外つ国発祥と思しき紋様を精緻に施された銀の短杖。
 それ自体が言い得ぬ気品を帯び、高名な仏寺に奉納されし至宝と云われれば、無条件で信じてしまうほどの幻想美を放っている。
 その、この世の物とは思えぬ美しさに、侍達が一瞬でも心奪われてしまうのは無理もなかった。
 彼らは知らない。
 それが単なる宝飾品に非ず、『精霊術』の遣い手が、ここぞという時に頼りとする精霊の短杖(スピリチュアル・ワンド)と呼ばれる珠玉の『魔術工芸品(マジック・クラフト)』であることを。その効力は、ひよっこの術士にさえ中級レベルの術を無条件で行使できるほどの精霊力を支援(アシスト)する力があり、それ故通常は、窃盗や暴力による強奪を未然に防ぐため、今のように人目に触れるような使い方は決してしない。
 逆に言えば、“切り札”と呼ぶべき秘具を人前で――それも初端(しょっぱな)から繰り出すほど、彼女がこれ以上ない危機感を抱いていることの表れでもあった。
 つまり“闇墜ち”とはそれほどの――

「水精の子らよ――この場に集いて、(たわむ)れて頂戴っ」

 女の言葉か込められた思いにか、応えるように短杖の頂きを飾る水晶が淡い青色に輝きだし、風もないのにすぐそばの貫頭衣が、何かの力に押されるようにゆらりと波打ちはじめる。

「おいっ」
「何だ――?」

 その異常な現象に目を(みは)り、口を開けて驚きを露わにする侍達の耳に、どこからかバシャバシャと童の水遊びに似た音が聞こえてくる。それが近くにある池の水面が波立つ音だと、ほぼ同時に全員が気づき、そして目にした。

「「あっ?!」」

 水面から不自然にするりと延び上がった水流が何かの姿を(かたど)る様を。
 それが鼻面を槍のように尖らせた“異形の魚”であると認識したときには、産まれ出でた池を巣立つように――それも常人の目では追い切れぬほどの速さで――宙に跳び立っていた。

 ぴゅぴゅんっ

 帳面務めが本分の無庵や丸顔を置き去りにして、武に秀でた者達だけが美しき水細工の行方をしっかと追い、庭端にて佇む影達に凶器となって襲い掛かる様をはっきりと捉える。
 鋭利な形状と驚異的なその速さ――それが見知らぬ奇怪な呪術によるものであったとしても、目にした事象より判ずれば、自ずと悲劇的な結末しか見出せまい。――それがまさか、あっさり覆されるとは。

 ――ほう。

 現実に吐息は洩れずとも、腕に覚えのある侍達の相貌を彩った感情は、“驚愕”ではなく“感心”。
それが決して上から目線のものでなく、むしろ、少なからぬ称賛と警戒心をもって皆の目が鋭く細められるのは、飛燕の速さで迫る“水の凶魚”をそれ以上の速さで(・・・・・・・・)一刀のもとに斬り伏せた“影の力量”を目にしてのもの。

(あの得物――)

 一方で、“剣鉈”と云うにはあまりに長くて分厚い“規格外の形状”に弦之助が怖気すら感じて、

あれ(・・)で後れを取らぬとは)

 また一方で、規格外故の重量で、疾駆する水の凶器へ見事に斬り合わせた影の業前(わざまえ)に、弦矢が新たなる騒動の勃発を予感して、

 だがやはりと云うべきか、『抜刀隊』の面々だけは当然のように二人と真逆の印象を胸に抱く。

「軸がぶれぬ」

 振り下ろした重量物をぴたりと止めて、わずかも身体が流れぬその姿に。
 技でなく、凄まじい膂力が為した結果と、隊長である月ノ丞が看破したものを、副長片桐の堅い声音が代弁する。そこに、隠しきれぬ喜悦を見え隠れさせながら。
 脅威と警戒し、あるいは強敵と喜び――それぞれの抱いた思いに違いはあれど、皮肉にも、侍達の関心は“逃げること”よりも“闘うこと”に向けられる。
 当然、彼らの身から発散する猛き闘争心に影達が気づかぬはずがない。だが。

「ねえ、これはどういう了見で――!」

 一気に不穏な気配を漂わせ始めた場の空気を知らぬげに、のんきな碓氷が突然の凶行に走った異人を非難しようとしたところで、さすがに何かを感じて言葉を止める。
 振り返った碓氷が目にしたのは、剣鉈を振るった影を中心に同胞の三名が臨戦態勢で散開したその姿。

「(奴ら――『探索者』だぞ!)」
「(いきなり仕掛けてくるたぁ、相変わらず好戦的な連中だな)」

 それぞれ波紋様の異なる仮面の者達が、ぎゃいぎゃいと騒ぎ立て、その獣声を耳にして、そばにいた守衛達がぎょっとしたように後ずさる。

「な、なんだこやつらは?!」

 不審な者とは思っていても、その正体をさすがに人外とまでは考えもしなかったのだろう。一人は腰の刀に手を掛けることさえ忘れて及び腰になり、だが、それ以上に今一人の守衛は別のことに気を取られていたようだ。

「や、だが言葉が……」

 なぜ自分は言葉が分かるのか、と云いたかったのだろう。そのまま絶句する守衛達を尻目に、庭の中程にいる弦矢や異人達へ向かって、影達が背中の得物を抜き放ちながら前に出る。

「あ……」
「おいっ」

 スス、と玉石砂利の上であっても、わずかな足音のみで歩を進める体術の凄さに、守衛達が気づくことはなく呆気にとられた状態で見送ってしまう。

「あれ、ちょっと……?」
「(『探索者』共には少なからぬ因縁があってな)」

 同じく急激な展開に当惑する碓氷に、最後尾を歩む、剣鉈を振るった影が心なしか詫びを含んだ声音で理由を告げる。

「(殺らねば殺られる――ならば、相応に相手をするしかあるまい)」

 じゃり、とわざとらしく音を立てて踏み出すのは、警戒色を強める侍達よりも、むしろ実際に仕掛けてきた女に対する闘争の意志を示したものであったろう。
 他の三名より胸の厚みがひと周りは違うその体躯が、踏み出すと同時にさらに膨張したように感じられたのは、恐らく解き放った闘気のせいに違いない。碓氷のすぐそばを通り過ぎる際、面貌を炙った熱気の強さで若武者の笑みを心なしか強張らせた事実で推し量れようものだ。

「む――」

 それは離れた場所にいたエンセイにも察すれるほどの大きな闘気の塊であり、その場にいる異人グループの誰よりも早く不穏を感じ取って「トッド――」と仲間に警告を放つ。
 ワンテンポ遅れて察知したミケランも慌てて抜剣したところだ。

「――もういいよな?」

 警告に反応したトッドが万雷に断りを入れ、影達の動きに対処しようとするのを「待て――」と弦矢に足止めされる。

「止める相手が間違ってないか?」

 少しだけ苛立ちを声に滲ませるトッドに、弦矢は
掲げた手を降ろさずはっきり告げる。

「いや、先に仕掛けたのはおぬしの仲間だ」
「そんなこと云ってる場合かよ」
「じゃから、あれ(・・)は儂らが何とかする。替わりにおぬしは“衣の娘”を――」

 そう二人が交渉するのをよそに、影の動きに血相を変えた女が「来るわよっ」と悲鳴に似た声を再び上げる。

「言い合ってないで早く逃げてっ。私が何とか時間を――」

 フードをはらった女が汗で濡れた赤髪を額に張り付かせながら、再び術の行使にかかる。
 今度こそ本気の全力だと、深い精神集中を窺わせる表情で、女は短杖(ワンド)に手を翳す。

 もっとたくさん――“魚の群れ”で遊ぶのよっ

 蒼水晶の放つ光が一段と強くなり、彼女のソバカス顔をはっきりした青色で浮き上がらせる。それは周囲の空気さえも淡い水色に染めるほどの強い光度を伴っていた。

「――――っ」

 注力していた者達が思わず手を面前に掲げ、あるいは目を細めてしまうほどの光。
 見る者が見れば、水の精霊力が異常に高まり、多少なりとはいえ、現実に視覚化された光景に思わず言葉を失くすに違いない。そしてすぐに思う――いかなる術を使うつもりなのかと。
 その答えを待つ必要はなかった。

さあ、集いなさい(プラシーレ・コリジェンテス)――)

 女の鼓舞に水面がより広い範囲で粟立ち、激しい水しぶきの音を奏でた後、先ほどの倍する数の“水の凶魚”が一斉に姿を現した。

 『槍魚の飛翔(フライング・スピアフィッシュ)』――
 漁港では高値取引される“極上の魚”の名を冠したその術は、水の精霊術において、上級に位置する攻撃術であった。その威力は一撃で皮鎧さえも貫き、『火蜥蜴の舌槍』と共に戦場では『指揮官殺し』の異名を誇る。
 それだけに水が豊富な高い精霊力を必要とし、一般の術士ならば顕現させても一匹が限度、熟練の術士ならば三、四匹まで扱えるが、『精霊の短杖(スピリチュアル・ワンド)』によって術を強化した女は実に七匹という凶悪な力を操るに至っていた。

「『槍魚の七光(スピアフィッシュ・レインボウ)』――いきなり奥の手か」

 陽射しを水の鱗で七色にはね返す美しき魚たちの姿に、トッドが思わずといった感じで、仲間の使った必殺の術の名を口にする。それへ、さすがにただ事ではないと感じたか。

「いかんっ」
「待て――」

 焦りを帯びた誰かの声が発せられるも刻既に遅し。
 虹の軌跡を宙に描いて、煌めく魚群が一斉に飛び跳ね、すぐに七色に輝く光の矢となって討ち果たすべき敵に向かって疾駆した。
 その煌びやかさとは裏腹に、抗うことを許さぬ数の暴力は、瞬きふたつの間に、今度こそ影の身体に七本の凶槍を突き立てる――誰もがそう予見した未来を、よもや、横からぶち壊しにする者がいるなどとは。
 否――彼ならば(・・・・)、さもあらん。
 美しくも“死の軌跡”に立ちはだかったのは碓氷という名の若武者ひとり。
 笑顔さえ浮かべる彼の手が、腰の両脇に(・・・)佩く刀の柄に添えられていると気づいているのは、ごくわずかな者だけだ。

 ふっ

 と一瞬だけ両腕が霞み、二刀にて描かれた銀線が若武者の眼前で美しく乱舞した。それが正確に、迫り来る七つの輝く魚体の芯(・・・・)を走り抜けたと気づいたのは、さらに限られた者のみ――別に注意を向けていた弦矢と万雷を除く、月ノ丞以下『抜刀隊』でも上位者のみだ。
 だが、結果は誰もが少しだけ(・・・・)予想を違えたものとなった。

「――ぷあっ!!」

 ぱぱんと派手な音と水しぶきを上げて、弾き飛ばされた碓氷が仰向けできれいにひっくり返る。
 誰かの短い驚声を聞いた気もしたが、定かではない。それよりも、碓氷の前面を覆う鎧に赤い血潮どころか傷ひとつ見当たらず、水に濡れただけで済んだことが分かれば十分であったろう。
 当然、二刀を離さず大の字で倒れたまま、碓氷が動かぬ理由も深手を負ったり、それによる痛みがあるからではない。

「……おかしいな」

 愛らしい唇から洩れる声に苦痛はない。
 あるのはただ、釈然としない気持ちだけ。
 海苔のように濡れた前髪を額に貼り付け、その齢に相応しく目を丸くする表情が、碓氷にとっても予期せぬことであったと告げていた。
 今の一瞬、“影”が斬りつけた時と違い、碓氷の斬撃は水魚の形を崩す(・・・・・・・)ことしかできず(・・・・・・・)、結果的に威力を大きく減殺させたものの、勢いだけは殺せず“痛い(・・)水浴び”をする羽目になったのだ。とはいえ――

何が違う(・・・・)――?)

 離れた位置で事の顛末を傍観していた月ノ丞ほか数名もまた、思わぬ結果に少なからず驚きを覚えていた。
 “影の斬撃”と“碓氷の斬撃”。似た斬撃と見えるのに、何故異なる結果を生じさせたのか。
 より詳細に比べれば、二刀を使ったとはいえ、速さならば碓氷であり、武器の厚みでいえば影の方が威力はありそうだ。
 だが、それ(・・)が理由と云えるのか?
 今や騒然としているその場において、月ノ丞達が目を細めて疑念を抱いているのを知る者はいない。いや、「ごほっ、痛たた……」と鎧越しとはいえ衝撃が肉体に通っているのか、咳き込む碓氷も同じ疑念が脳裏に過ぎっているはずだ。

「……上手くやれると思ったのに」

 どこか拗ねた感じで呟く若武者は、二刀を手にしたまま顔に滴る水を拭おうともしない。だが渋い顔で「おかしい」とごちる理由は、月ノ丞達とは別の物――口ぶりから察するに、どうやら「影に張り合えなかった」という何とも子供じみた優劣に慮ってのものであったらしい。
 そんな、呑気すぎる碓氷とは違い、またしても試みをしくじった女の方はどれほどの心境で結果を目にしていたことか。

「――おや?」

 むくりと上半身を起こして目にしたものに、碓氷は思わず眉をひそめるのだった。

         *****

 刻をほんの少し遡る――

 皮鎧の男と万雷の争いをうまく抑えたと弦矢が安堵したのも束の間、どこぞ意地の悪い神仏の企みか、集うてはならぬ曲者達が鉢合わせとなり、そこからは、弦矢の許容を超えた出来事の連続であった。
 やおら女が喚き出し、水魚を凶器として飛ばす呪術にも面食らったが、それを難なく退けた影の力量にも瞠目した。

 ――やりおるっ。

 奇怪な面と異様な風体に目が行きがちだが、一個の戦力としては過大な力に一体誰の連れ(・・)かと唸っていたところで、周囲が青みがかったのにふと気づく。

(む――?)

 振り返れば、先ほどより強い輝きを放つ女の短杖が真っ先に目に入った。
 弦矢も耳にしたことのない拳大ほどの蒼き水晶の見事さよりも、すぐそばを取り囲む空気が歪んで(・・・)見えることに(・・・・・・)わけもなく不安を覚える。
 それも看過できぬほどの強烈な不安を。

 ――――拙いっ

 “何が”かなど説明できない。だが警鐘を鳴らす己の直感を弦矢は「正しい」と無条件に確信する。それが証拠に、またしても池の水面に変化が起こる。
 ぱちゃちゃちゃちゃ……

 太鼓の面に砂をまぶし、叩くと微振動で無数の砂粒が跳ね飛びる様を見ることができる。今、水面で起きている現象はそれと似たものであり、事実、幾つもの波紋が次々と水面に生まれていき、干渉し、すぐに激しい水しぶきが皆の耳朶を打つ。

 それもすべては一瞬の出来事。
 ふいに迫り上がった幾筋もの水流が、七つの水魚を宙に生み出したとき、

「いかんっ」

 すぐ傍らにあった()の存在が消え、それが原因である(・・・・・)女へ向かったと間髪置かずに察した弦矢もまた、「待て――」と追い並ぶ(・・・・)

 それは二人以外の者にとっては、一瞬の出来事。

 その意図は認めるとばかり、弦矢が手指を閃かせて投げ短刀(スローイング・ダガー)を放ち、それが女に届く手前で、驚くべき踏み込みで現れたエンセイが、風切り音も鋭い剣撃できれいに弾き飛ばしてみせた。

(余計な――)

 弦矢の投擲が女ではなく蒼水晶を狙ってのものと気づいたはずだ――値打ちものとはいえ、道具を守って争いを止めぬ剣士に弦矢は憤る。
 その怒りをむしろ幸いとばかりに収めぬのは隣の巨漢だ。

「むあっ」

 エンセイに向けて剛拳を振るう巨漢の動作を弦矢は感じ取り、同時に視界の端では池から生まれた光り輝く魚たちが彼の努力を尻目に飛び立っていた。

(くそっ)

 間に合わなかったことに悔やむ暇もなく、すぐ隣では新たな火種が燃え上がろうとしている。

 唸り飛ぶ剛拳。
 鋭い両眼をわずかに細めて迎えるエンセイ。
 次の瞬間にはいかなる結末が眼前に展開されるかと思われたその時――

「――手遅れだ、万雷」

 弦矢の静かな声が、またしても巨漢の動きを抑制する。それだけでなく。

「お主もだ――月ノ丞(・・・)
「――御意」
 
 ふいに湧いた真後ろ(・・・)からの声に、そこで初めて気づいたのだろう。緑の貫頭衣がびくりと震え、すぐに恐る恐るといった感じで振り返って確かめる。
 そこにいつの間に近寄っていたのか、腰の剣を半ばまで抜いた状態で、鋭い視線を自身に向けてくる美貌の剣士の姿があった。

「――――っ」

 声にならぬ悲鳴を挙げ、凍り付いたように硬直する貫頭衣。驚いた拍子で思わず手から離れた銀の短杖が、玉石砂利の上に静かに落ちる。
 周囲を淡い青色に染めていた水晶の輝きが消え、庭はいつもの穏やかな景色に戻っていた。
 それを目にして、事の終わりを感じ納得したのだろう。万雷がいまだ肩に置かれたままの意外に節太の手を一瞥し、再び、ようやく交じ合えると喜んだ強敵へと視線を戻す。

「――やはりな(・・・・)
「いや、恐ろしかったよ」

 大きく凶悪な拳の影でその表情は分からぬが、淡々とした剣士の声に怯えはない。
 実際には、面貌にあたっていたはずの拳風に瞬きもせぬ剣士――その眼前で止めた拳を万雷はようやくゆるりと引き戻す。

「いや……」

 それが剣士の洩らした声であり、さらに別のことに気づいた万雷が訝しんだ。自分と同じ初老と思えぬ精気に満ちあふれた瞳が、自分を避けてその背後を見ていることに。
 だが、次に紡がれた言葉で納得する。

「……恐ろしいのは、むしろそちらのご当主か」
「ふっ」

 思わず洩らした万雷の口元に、今度は剣士が訝しんだ。

 堪えきれぬ笑みを目にして――。

 万雷だけが知っている。
 先の瞬間、彼を止めたのは“当主の声”に非ず、彼自身も的確に説明できぬ“力”によるものであると。
 少なくとも、そのからくり(・・・・)の一端は、肩に添えられた弦矢の手にあったことは疑いようがない。
 残念なのは、その理を説けないことだ。
 万雷には分からぬ。どうして、そうなるかを。
 拳を振るった側とは反対の、岩のように盛り上がった巨漢の肩に後ろから(・・・・)掌を押し当てるだけで、どうして止めることができるのか。
 白山にて戦うこと幾数十――自慢でないが、膂力で己を止められる武辺者なぞ、数えるほどしかいない。
 その戦歴に関東の雄、北条からも士官の誘いがあったほど。だがそんな己が、戦にもほとんど出陣の機会がなかった若殿にこうも軽くあしらわれる(・・・・・・)ことに期待も混じって心躍る。

(昔からそうだ。若には、儂らに見えぬ“力の流れ”が見えているようだ)

 そう昔を想起したところで、後にすべきと万雷は思い直す。背後に湧いた気配に注意を引かれたがために。

「……もういいだろう、シリス?」

 すっかり闘志を影に潜ませて、「その気なし」と万雷に首を振ってみせるトッドが、立ち尽くしたままの緑の貫頭衣に優しく問いかける。

「実際、ヘンだと思わねえか? 奴らが“闇墜ち”だと云うなら、なんで真っ先にお前が奴らの“瘴気”を感知できないんだ?」
「……」
「それに、反撃しないのもおかしいぜ」

 その一言がいかなる意味を持っていたのか、そこでようやくシリスと呼ばれた貫頭衣が身動ぎする。言葉はなくとも注意を引けたのは間違いない。

「結果的に防がれたとはいえ、命を狙われて黙っていられるほど、奴らは寛容でなければ損得勘定もしやしない。敵対者はただ抹殺するのみ――それは“闇墜ち”にとっての不文律だ」
「……だから危険なのよ」
だから(・・・)、おかしいと云うのさ」

 ようやく聞けたシリスの言葉を、トッドは容赦なく切り返す。「お前もそう思うだろ?」と。

「実際、先ほどから奴らが何もしてないのは事実だな」

 そう話しに割って入るのは剣士エンセイ。小憎らしいほど冷静な物言いに、シリスがむっとしたように応じる。

「だからっ?」
「ほんとうに“闇墜ち”か、とな」

 それは思わぬ言葉だったらしい。びくりと身体を震わした女が碧い瞳を思い切りよく剥き出しにして驚きを露わにする。

「何を――」
「いや、それで説明がつく」
「トッド、『探索者』の貴方がこの状況を理解できないの?!」
「お前こそ落ち着け、シリス。確かに全身黒づくめは怪しすぎるが、逆に云えば、“闇墜ち”と判断する材料はそれしかない。さっきも云ったように、奴ら特有の“瘴気”を感じたか? 目の前に現れるまで、お前自身、何も気づかなかったじゃねえか」
「それは……」

 途端に口ごもる彼女の態度で答えは分かろうというもの。さらに「スワの人達と、あんな風に連れ立って歩いてるのをみて、お前は何とも思わねえのか?」そうトッドは影達と地べたに腰を落ち着けた若武者を顎で差し、すっかり勢いを失ったシリスに頭を冷やせと諭す。

「絶体に無関係とまでは思わねえが、正真正銘の“闇墜ち”とはさすがに違うだろ」
「けど……」

 なおも納得しかねるシリスだが、だからといって、奴らのすべてを知っているわけではない。その真実からすれば、彼女が持つ情報も所詮はわずかな一部の事実のみ――そうであったとしても何の不思議もない。
 もはや強行に否定する理由を失い、シリスが押し黙ってしまう。

「すまぬがこれ以上、城内で事を荒立てるのは控えてもらいたい」

 シリスが激しい闘志をすっかり萎ませたところへ、機を窺っていたのだろう、弦矢の諫めるような声が投げかけられる。

「“勘違い”であればなおさらの事。客人とはいえ、度が過ぎれば腕尽くでも従ってもらうことになる。そのことを十分肝に命じられよ。――そちらの者達(・・・・・・)も同様だ」

 続けて向けられた視線の先には影達の姿が。それへ「申し訳ありませぬっ」と影達の背後から前へ進み出た者がひとり。
 そもそも、碓氷がかようにしゃしゃ(・・)()出なければ、少しは(こじ)れずにすんでいたのかもしれない。
 見覚えのあるその人物を目にして、弦矢は悟られぬよう軽い嘆息を吐くのであった――。 
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