(3)副長片桐の剣

文字数 5,647文字

丑の刻
羽倉城『東の曲輪』
     副長片桐――


 先行させた隊を害させるわけにはいかぬ。
 黒き異形をしっかと見据え、片桐は躊躇することなく足を踏み出し、“城壁蜘蛛”の前に己が身を晒した。

 すでに相手の間合いには入っている。

 常人では反応しきれぬ“速さ”と一撃で胴鎧をぶち抜く“威力”を兼ね備えた“足槍”が、いつ襲ってきてもおかしくない状況だ。
 剛胆な者でも足を(すく)ませる緊張感の中にあって、しかし、片桐の端麗な顔に一切の気負いは見られない。
 戦場では常に敵陣のただ中へ身を躍らせ、八方から斬りつけられる白刃の中を踊り狂い、敵と額付き合わせて命を奪い合っているのだ。
 抜刀隊員ならば、むしろ“心地よい緊張感”と事も無げに言おう。
 それは副長である片桐にとってはなおのこと。
 一見無造作にみえる歩みは、しかし、水面を滑るアメンボのように滑らかで、心持ち腰を落とした重心の有り様は、いついかなる瞬間も雷速の抜刀を放たんと、狙い澄ます弓手の佇まいを想起させる。
 間合いに入るものすべて、立ち所に斬り伏せられる“空気”がその身に漂っていた。

 見る者が見れば、そこに「虎が歩いている」と息を呑んだだろう。

 それほどに片桐の心身はかつてないほどに研ぎ澄まされており、自身、先ほどの短い一戦で十全に感じ取っていた。

(今宵はすこぶる調子がいい)

 握りの感触、腕の振り、足裁きと身体のキレが信じられぬほどよい。それが剣筋へ如実に顕れるのだから兵法者冥利に尽きるというもの。
 恐らくは隊員達も同じはずで、これからの一戦で彼らも実感するはずだ。
 はじめはむしろ、他人様のもののように自身の肉体に“違和感”すら感じていたが、それが何かの勘違いかと思えるほど、今ではすっきりとしている。

(師直伝の『想練』が効いたのやもしれぬ)

 己が師事した抜刀術における精神鍛錬の秘伝として、『想練』なるものがあった。
 剣士として理想とされる戦闘精神の状態――即ち“闘想”を独特の呼吸法に合わせながら練り上げようとする一種の座禅である。片桐の修めた流派では立って行うため正しくは“立禅(りつぜん)”と言うべきか。
 戦に限らず平常心が求められる時、あるいは病を克服しようとした時に『想練』を行うのも効果があるとされていたが、片桐は今宵“身の不調”というよりも“身中の異変”とでもいうべきものを感じた際、一刻ほど『想練』による心身の調律を行っていたのだ。
 同様に、秘伝だからと隠さず伝授していた隊員らにも、調律を行わせていた経過がある。杞憂どころか、むしろ試していなければ、あの異形を相手に今頃どうなっていたことか――。
 ただ本来、心身の不調を整える効果はあっても、肉体を強くするような効果があるわけではない。なのに今、片桐が実感するのは、肉体が強くなったと錯覚するほどの内奥から噴き上がる抑えがたい活力であった。
 先ほども、物の怪となることで甲殻とでも呼ぶべき堅さを帯びた蜘蛛の体を、本来であれば断ち切れなかったのではと薄々感じている。
 “足槍”の初撃を躱せたのも、暁光と言うべきもので、いつもの己では気づくこともできずに刺し貫かれていたはずだ、とも。

 それが今――

 物腰に普段は(まと)えぬ“凄み”が備わっていることに、片桐は気づかない。
 それこそ己が一目置く隊長に匹敵するほどだとは、無論、夢にも思わず。
 蟲にもそれが伝わるのか否か、城壁間近まで迫る片桐に“城壁蜘蛛”はいまだに何の反応も示さない。いや――。
 
(何だ――怒り、いや怯え……?)

 “城壁蜘蛛”の顔らしき部分を、じっと睨み付けていた片桐は、小さな月を映し出す八つの目に信じがたい“感情の片鱗”をみとめて微かに心を乱す。
 
 それを狙っていたわけではあるまいが。

 片桐が軽く首を捻ったところへ、音もなく黒い線が走り抜けた。
 頬にうっすらと浮かんだ朱線は、蜘蛛の歩脚に生えた微毛までは躱しきれず、軽く撫でられた(・・・・・)せいだろう。
 続けて、かくん、と左膝を落としたように片桐の身体が左へズレ、同時に右腿あたりの袴が二撃目の黒線でわずかに切り裂かれる。

 懸命な回避(・・)に、一拍遅れただけの攻撃。
 それは片桐をして限界間際の攻防か――否。

 研ぎ澄まされた片桐の神経は、迫り来る“足槍”を余裕をもって感知し、あまつさえ、正確にその軌道を捉えていた。
 凄まじい“足槍”の連撃であっても紙一重で躱すなど造作もない。
 傍目(はため)にはわずかといえ、削られていく姿にじり貧(・・・)と見える攻防も、その実、片桐が圧倒的優勢で進んでいる。
 回避の刻を極限まで抑え込むことで、反撃の刻を産み出そうとしているのだ。

 一度。
 二度。

 躱すたびにじわじわと“反撃する刻”を積み上げていく。その刻とは、“抜付(ぬきつけ)”から斬撃までの一瞬を指し、片桐の腕ならば、積み上げる時間は何ほども要しまい。

 一度の躱しで“抜き先の間”を稼ぎ。

 二度の躱しで“刀身の峰”を。

 さらに、鞘から切っ先が離れ――

 今少しで達せんとした折り、突如として、“城壁蜘蛛”の攻撃に変化が生じた。

「――っ」

 片桐の反応が遅れたのはやむを得まい。浅いとはいえ、脇腹に初めて傷を負ったのも。
 まるで、先ほど受けた“歩脚斬り”の反撃を許しはしないと示すかのように、単発だった攻撃が上から左、下から右と虚実を織り交ぜた(・・・・・・・・)巧みな連撃に切り替わってきたのだ。

 彼奴の切り札か――?

 片桐は気づいていないが、先ほどまで地面に突き立てるなど全力で振り切っていた“足槍”の刺突が、手前の宙で止めることで素早く手元に引き戻されている。それ故に連撃の回転速度が尻上がりに速くなっているのだ。

 まさか“戦い方(・・・)を学んだとでも(・・・・・・・)

 驚天動地――蜘蛛の思わぬ戦術転換に、立場がぐるりと逆転する。

 一度。
 二度。

 今度は回避のたびに、懸命に積み上げた“反撃の刻”をどんどん削り取られていく。

「――っ」

 片桐の体軸にぶれが生じたのは、ついに“城壁蜘蛛”の攻撃が有効を示したという証拠に他ならなかった。
 よく見れば片桐の狭い額には数滴の汗が浮かんでいる。

 ――三手詰め。

 このまま攻防を続ければ、“城壁蜘蛛”の三撃目で完全に体勢を崩され、致命的な一撃を被ってしまう。
 刹那にそこまで予見して、片桐の目に“苦渋”が蜘蛛の八つ目には“喜悦”の色を見たような気がした。

 だが――。

 驚きは、三手目の“足槍”が三本同時(・・・・)に放たれたことだった。

 凍り付いたのは、それがまさか、すべて躱された(・・・・・・・)からだ。

 片桐と“城壁蜘蛛”の思い(・・)が交錯し、これが運命の分岐点となって勝負の行方が明確に、一方へと流れ始める。
 “足槍”が片桐の身を貫かんと迫った刹那、一瞬だが、その身が三つに分かたれたように見えたが定かではない。

 いや“城壁蜘蛛”の八つの目には見えていたはずだ。

 そのまま、まるで微風に舞う蝶のように、三つの“足槍”の間をひらひらりと舞い逃れ、片桐が無傷でやり過ごす様を。

「『胡蝶舞』――修練中、一度も成し得なかった業だったのだが、な」

 この期に及んで、呟く片桐の端麗な顔は不興げだ。だが、纏う空気が浮ついているところを見るに本心が別にあるのは明らかだ。

「興が乗った――さらに一芸馳走して進ぜよう」

 珍しく饒舌な片桐の身体から、ふいに猛烈な“殺気”が迸る。


 ――――!!


 音なき凄まじい殺意の塊を叩きつけられ、“城壁蜘蛛”の動きが硬直し、その隙をついて片桐が走り出した。
 間近に迫る城壁。
 しかし速足を緩めることなく垂直な城壁に足を掛けるや、片桐は一気に二間(約3.6m)を駆け上がって城壁の上に跳び乗った。

 『猿身』――。
 いかなる(・・・・)戦地・戦況においても、敵陣に斬り込めるように『諏訪』の抜刀隊では、いくつかの“特殊技能”の習得を隊員達に課している。
 そのひとつが『猿身』であり、有り体に言えば極限まで磨いた“身軽さ”の別称である。
 始めは野山を三里(約12㎞)駆け巡り、杭の山を往復し、やがては絶壁を登り、枝から枝へ猿のごとく飛び移り、忍びもかくやの体術を身に宿す。
 当然、この荒行で死ぬ者も出るが、すべては承知の上である。むしろそこまで追い込まねば、鉄砲が主力となってきた昨今の戦場においては、早晩、抜刀隊の意義など消し炭にされる。
 ただ、粉骨砕身で習得した技術がまさかこんな形で役に立つとは、副長たる片桐も思いもしなかったろう。

 重なるふたつの月が、一人と一匹の影を小さく落とす。

 対峙するは“抜刀隊副長”片桐と黒怪の異形“城壁蜘蛛”。

「我が剣の妙――その身でしっかと味わうがいい」

 珍しく口上を切る片桐の刀身は、今も鯉口を切った状態で鞘の中。
 “城壁蜘蛛”は歩脚を(たわ)めるようにしたがために、胸胴が下に沈んでいる。その様が、剛打を放たんと目一杯手前に引き寄せた複数の槍に見えるのは気のせいか。

「――っ」

 片桐が左に重心を預けた途端、凄まじい勢いで放たれた二本の“足槍”が出鼻を挫く。

 それが片桐の“誘い”と露知らず。

 瞬時に右へ踏み込んだ片桐が、二本目の“足槍”をぎりぎり半身で躱しながら、抜刀一閃、斬り合わせた。

 清冽な切断音が空気を振るわす。

 滑らかな切り口をみせて、切り落とされた歩脚が地に落ちる音を、片桐は後ろ手に聞きながら、さらに“城壁蜘蛛”の懐深く踏み込んでいた。

(取った――)

 “長物”は、長所であるはずの“長さ”こそが、懐において逆に短所となるのは常識だ。狙い通りにたどり着いた蜘蛛の懐で、片桐は敵の八つ目を間近に見据える。


 ぎちぎちぎち。


 それは無念の歯ぎしりか。

「安心せい――一太刀で終わらせる」

 上顎の鋏角(きょうかく)に注意を払いつつ、片桐が頭部を断ち切るべくにじり寄る。と――


 スサァ――


 確かに歩脚を(たわ)めていた。事実、片桐をして背筋に悪寒が走るほどの“足槍”の威力だったのは認めよう。

 だがまさか、それが跳ぶための行為(・・・・・・・)だったとは――。

 牛ほどもある巨体が宙を舞うあり得ぬ姿に、片桐は納刀すら忘れて唖然と見上げる。

「――いかんっ」

 真上に飛び上がっただけの蜘蛛が、その後どうなるか気づいて慌てる片桐。無論、体重を活かした攻撃をするためだけに“城壁蜘蛛”が跳ぶわけもない。


 ――トトトス

 ――トス

 ――トスス


 雨あられと降ってくる“天槍雨”というべき攻撃に、心を乱したか、先ほどの『胡蝶舞』で凌ごうともせずに片桐が必死に避けまくる。
 だが、窮地を脱するどころか更に追い込まれる。
 “攻城兵器”がごとき威力を受け止めた城壁が、虫食いにやられた枝のようにぐずぐずになり、足場としての役目を失ったためだ。
 そしてついに“城壁蜘蛛”の切り札(・・・)が片桐を捕まえた。

 「――ぐぅ」

 かろうじて両手で刀を翳し盾とするが、降り下ろしの威力に力負けして刀が肩にぶち当たり、そのまま圧力に負けて膝をつく。
 みきりと音がしたのは、肩か鎖骨かひび入れたのに相違ない。むしろ痩身に見えて、骨も折れずに耐え凌いだ片桐の強靱さをこそ褒めるべきだろう。とはいえ――。

「かはっ……」

 激痛に片桐の額からどっと汗が流れ出す。

「ぬかったわ……」

 避けきったと油断したところの一撃。足場をほぼ失ったのも原因だが、それよりもまさか、斬られた(・・・・)歩脚で(・・・)攻撃をしてくるとは予想だにしなかった。
 戦いを学習することといい、感情の片鱗を見せるところといい、そして意表を突く(・・・・・)この攻撃といい――人間を相手にしているような感覚に気味が悪い。
 いや、むしろ今となっては驚きの方が強い、か。
 のしかかってくる“城壁蜘蛛”の圧力に片桐の体躯がぶるぶると震える。

(剣士が剣以外で死ぬるなど――)

 “足槍”ならいざ知らず。
 “足蹴”にされて殺されるなど、そんな屈辱を受けるわけにはいかぬとばかり、片桐の額に青筋が浮き、顔が炎のように紅潮する。
 もはや端麗な顔を悪鬼のごとく歪めて力を振り絞るが“城壁蜘蛛”の体重と力には敵わない。
 白目の毛細血管が赤く浮き上がり、鼻からつぅと血の筋が流れる。それでも。

(一瞬でいい――)

 そう思ったところで脳裏に閃く業があった。
 『想練』の応用だ。『想練』は不動の戦闘精神を養うだけでなく、“心・気・身”を統一し、己がもてる能力を十全に引き出すことをその深奥としている。
 その道が深ければ瞬間的にも神力(・・)が備わるとも語られていた。大げさな言い回しだが、要するに――

 瞬時に、片桐の全身から力が抜けた。
 悪鬼の表情はおぼろ月を映す湖面のごとく。
 怒気すら籠もった両眼は遠くを見るように、その上、半眼となり――
 脱力の間は寸毫にもならぬ。
 忽然と支えが消え去り、“城壁蜘蛛”の重圧が体躯に襲いかかる刹那、片桐の両眼がかっと見開かれた。


「かあ――――っ!!」


 裂帛の気合いが迸り、一瞬、その上半身が一回り大きく膨らんだように見えた。
 大岩を思わす圧力に、鬼神のごとき腕力(かいなぢから)が拮抗する。
 わずかに歩脚がずれ、片桐の身が弾けるように重圧下から飛び出した真横をズシリと歩脚が落下した。

「――っ」

 全身から力が抜け落ち、空気を求めんと暴れる肺を黙らせて、片桐は夢中で落ちた刀を拾うや両膝に力を込めて駆けだした。

「ぐ……っ!!!」

 空気がほしい。だが力を抜けば揺り返しで(・・・・・)二度と動けなくなるのは分かっている。
 朦朧とし意識が急速に失われていく中で、片桐は最後の力を振り絞る。

「……っ」

 脇差しを抜き放ち、別の近くの歩脚へ突き立てるや、それを足場にして“城壁蜘蛛”の頭部目がけて思い切り跳び上がった。

 もはや業も何もない。

 体重を預けるようにして、両手で必死に“城壁蜘蛛”の鋏角の間へ――八つ目の真ん中に刀を突き入れる。
 痛みか、あるいは怯んだ(・・・)故かは分からない。

 “城壁蜘蛛”の巨体が大きく傾いだ。

 脆くなっていた足場が崩れたこともあり、蜘蛛の巨体がゆっくりと城壁からずり落ちていき、片桐の手も力なく刀から離れる。
 しかし一歩遅かった。

 “城壁蜘蛛”諸共に、城壁の向こう――城の外へと片桐は落ちていった。
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