(5)決着~軍神の誓い~

文字数 8,239文字

丑の刻
羽倉城周縁の森
 諏訪軍『中央本隊』――


「ぅおぉぉおおおあっ――――」
 
 声の圧力だけで敵が倒せそうな咆哮を放ちつつ、万雷がはじめの三歩で三間半(約6m)を一息に走り抜ける。
 常人離れした加速で勢いに乗ると、四貫(約15㎏)は軽く超える槍を手にしたまま、樹林を行くとは思えぬ鋭さで藪を掻き、立木の間を縫って、真っ先に“狩り場”へと躍り出た。
 眼前には、筒香隊の初弾により、一人突出していた敵鎧武者が横倒れており、間一髪のところで生き延びた兵は、驚きで腰が抜けたか空き地にへたり込んでいた。

退()けぃっ」
「ひっ」

 兵の脇をすり抜けざま、万雷は敵鎧武者の首あたりを思い切り踏み抜いていく。
 留まる時間は無い。
 初撃で与えた敵の混乱を突かねば、さすがの万雷も苦戦は必死だ。
 そして相対する敵鎧武者の部隊。

 
 ドドドンッッ――――!!


 絶妙な間で筒香隊の第二射が入った。
 始めの混乱が収まりかけていた敵鎧武者たちが再びよろめき、あるいは倒れ伏すのを目にして万雷の目が細まる。

「でかしたっ!!」

 筒香、と胸中叫んで万雷は右足を力強く踏み込み、全体重を乗せて『二つ俵』を思い切り突き出した。

 ぼ、と空気を抉り抜く音。

 轟音を響かせて一体の敵鎧武者が吹き飛んだ。
 頑健なはずの大盾を弾き飛ばされ、時には銃弾さえ跳ね返す鎧の胸部を大きく凹ませて、後ろの鎧武者数体までをも巻き込み派手に転がり散る。
 まるで騎馬隊の突進を真っ正面から受け止めた有様だ。その結果には目もくれず、

「ぬりゃっ」

 渾身の力で万雷の剛槍が横に振るわれ、常軌を逸した威力の衝突に、右方にいた鎧武者がお手玉のように二体弾き飛ばされる。

「ほりゃああっ」

 さらに左方の一体を。
 恐らく、さすがの敵鎧武者の部隊にしても、初めての経験だったろう。
 見えぬ“驚愕”という感情が、敵軍の中を一気に突き抜けたのが万雷にも感じ取れた。
 無意識に後退ったのか周囲に群がる鎧武者の輪が若干広がり、明らかにその動きを鈍らせる。

 それも当然。

 無敵の防御を誇る兵装を無視して破壊の限りを尽くし、蹴り玉のごとく鎧武者を放り出されては堪ったものではない。
 突如として、軍隊の中に小さな台風が生まれ、荒れ狂っているようであった。
 接敵してからここまでのわずかな時間で、万雷は敵部隊の綻びを大きな亀裂にまで文字通り切り拓いてみせる。
 ここでようやく、本陣の側侍達が追いつき突っ込んできた。

「うぉおおおおおっ」

 決して遅れたわけではない証拠に、敵部隊の崩れた体制は未だ立て直し切れておらず、鉄砲隊の援護を十分に活かした状態で激突する。
 『赤堀衆』たる彼らの凄まじい突撃に、城壁のごとき堅牢さを示していた敵前衛がさらに大きく崩された。

「****!」

 指揮官らしき鎧武者が叫んでいる。興奮して何を言っているのか分からないが、声に反応して一斉に反撃が始まる。
 真っ先に狙われるのは、先陣を切る万雷だ。

「応っっ」

 味方の兵を無数になぎ倒してきた、分厚い刀剣の斬撃に、だが万雷は槍を横に掲げ、まとめて三本を受け止める。
 ずしりと重い一撃に、「たまらんなっ」と唇の端が大きく吊り上がる。

「榊――っ」

 声を張り上げれば、いつの間にかすぐ後ろで副将榊が懸命に手槍を振るっていた。

「“愉しいか”などお聞きなさるな」

 こういうときに大将が何を言うか知り尽くしてるのだろう。渋面をつくる榊に万雷は呵々と笑った。

「愉しいな――」
「…………」

 鉄砲で敵の機先を制し、突撃で体勢を崩す。
 単なる基本戦術も万雷が先陣を切る限り、何より効果的で無敵の戦法となる。
 当然のように狙いは当たったが、それでも完全に敵部隊の統制を崩すまでに至っていない。むしろ敵自慢の圧倒的な防御力で攻撃を凌ぎ、軽傷に済ませることで徐々に体勢さえ立て直しつつある。
 曲がりなりにも、万雷の下で磨き抜かれた強兵を相手に。
 笑いがこみ上げるのは当然だろう。
 これほど歯応えのある相手は、これまでの戦歴を振り返ってもそうそう思い出せない。一人の戦人として万雷が奮えるのも無理はなかった。

「むぉあっ」

 暴風と化した槍の回転で敵鎧武者達の大刀を弾き飛ばし、そのまま一体へ、上段から強力な一撃を見舞う。


 ――ごしっ


 金属のひしゃげる音を立て、敵の兜が胴体に潰れめり込む。弾けるように首の隙間から血が飛沫き、万雷の胴を濡らした。
 凄まじい剛力だが、それだけで戦場は生き抜けない。力のみを頼りにする者は、運が悪ければ三度目の戦を経験すること無く、戦場で散ることになるだろう。
 だが万雷は違う。

「ひゅっ」

 鋭い呼気と共に瞬間的に突きを二度放つ。
 速さだけでない証拠に、一撃目で大盾の隅を的確に突いて構えを崩し、二撃目で空いた隙間から敵の首筋を貫いていた。
 厳つい顔して、時に繊細な技巧を披露する場合もある。それを横目に見た榊が、誇らしげに、人知れず口元を綻ばせていることを誰も知らない。
 白山のみならず日ノ本全土に“豪傑”と呼ばれる武将は数いれど、『軍神』の二つ名で呼ばれる者はそうはいない。
 “個の力”のみでも余人に畏怖されるものが万雷にはあった。

「おあああっ――」

 剛柔織り交ぜ敵を確実に潰しながら、『軍神』はその力を存分に振るって敵陣深くへと入り込んでいく。その背後を『赤堀衆』が固めて援護し、自然と『魚鱗』の陣形が形作られていく。
 それは旧篠ノ女軍必殺の型――敵勢力が怖れた必勝態勢が整えられる中、だが今敵軍の戦意は少しも衰えておらず、また戦力の底を、実はまだ見せてはいなかった。

「――何?!」

 それは完全な不意打ちだった。
 敵のまっただ中で先陣を切るからこそ、万雷の五感は鋭敏に研ぎ澄まされ、全方位を視界に捉えるがごとくあらゆる機微を感知できる。
 そうでなくては反応できぬ攻撃だった。
 反射的に『二つ俵』で迎え撃ったそれは炎――いや、正確には『火矢』に見えたそれに叩きつけた途端、火の粉を散らして消え去るも、残りの対応できなかった何本かを身体に受けてしまう。

「ぐっ」

 続けてもう二本。
 背後から飛来するものにさえ、万雷は反応して槍を振るい、身を守るがそこまでであった。
 腹に鈍い衝撃。途端に、ぶあっと熱が広がるのを感じる。
 それは『火矢』の比ではない。
 形状も『火槍』と呼ぶべき長大な炎。
 万雷をして脂汗を滲ませる痛撃を与えながら、突き立てられたはずの腹を見やれば、不思議なことに幻のごとくそれは霧散し、鎧にはぽっかり穴を覗かせる焦げた焼け跡のみを残した。
 恐らく背を狙ったものも、地に落ちていたりはしないだろう。

「面妖な……」
「万雷様っ」

 悲鳴のような声は榊のものか。
 先陣を切れば負傷するのは当たり前。矢の二、三本を受けたからと騒ぎ立てれば、むしろ『軍神』から叱責を受けるのを知っている。しかし、怪我の負い方が尋常為らざると見れば別だろう。
 事実、具足下の火傷から感じる痛みで『火槍』が幻でないと万雷は確信する。そして確かに無視できぬ深手を負わされた。

「――っ」

 すかさず打ちかかってくる敵鎧武者に槍を振るって牽制する。
 万雷の頬がわずかに引き攣った。

(出せる力は四割か)

 並の足軽相手なら十分だが今回の敵は別格だ。
 これでは後がない。だが――

「儂を――見くびるなっ」

 吼えて、先ほどから良い動きをしていた敵鎧武者を狙い澄まし、石突きで派手に突き飛ばす。
 さらに気合いで痛みと、表現し得ない腹に籠もる熱感をねじ伏せつつ、瞬速の四連撃を周囲へ疾らせ二体を倒した。

「さすがは……」

 騒乱にあって味方の感嘆を背に聞き、万雷は味方の士気だけでなく己をも鼓舞する。

 そう。

 既に鼓舞せねばならぬほど、万雷の体から急速に力が失われていた。これまで無数の傷を負ってきたが、今回の傷だけは名状し難く、さすがの万雷もどのように気持ちを持っていき耐えればよいのか分からぬのだ。
 ために、迅速に決断をする必要がある。

(榊に退却を……)

 万雷は迷わず副将に命じようとする。
 ふと、ぞわりと悪寒が走った。

「くおっ」

 その瞬間、己を奮い立たせたのが“恐怖”であると万雷は気づかない。身を動かし回避するよりも、ただ、無心でその発現点へ向けて槍を放っただけだった。
 その射線に入っていた鎧武者の頭が消し飛び、槍は奇跡的に、そして一直線に部隊の隙間を疾る。
 その一撃が敵軍の後方に位置し、全身を貫頭衣に包んだ人影を見事に貫き、再度の『火槍』による攻撃を未然に防いだとは誰に分かろうか。
 むしろ明らかなのは、全力の投擲で大きく力を消耗した万雷が、片膝を地に着かせた事実だった。
 突然の出来事に、事情を知らぬ周囲は敵味方の区別無く、戦いが始まってから二度目の驚愕に包まれる。

 何が起きた――?

 だが、時に戦場では理解する必要さえない場合もある。理解するよりも、先に、目前の事実に“然るべく反応すればいいだけ”のことが。

 それが今だった。

 敵は大将である万雷に打ちかかれば良い。対して
榊達は――
 万雷という攻撃の要を封じられたのは篠ノ女軍にとって致命的な一事となった。

          ****

 集団戦である以上、一度動きが止まれば勢いは失われ、先ほどのような快進撃は二度と起こせなくなる。
 そうなれば地力に勝る敵方が有利。
 とるべき手段はひとつしかなかった。

「させぬっ」

 反応したのは最も近くにいた副将榊。
 万雷よりなお一歩、敵陣深くへ踏み出し盾となるや、その周囲へすかさず『赤堀衆』が打ちかかり、万雷を囲む輪が縮まるのを防がんとする。
 再び局面が動き出す。

「近づかせるなっ」
「万雷様を守れっ」

 もはや攻勢をかける余力も無い『赤堀衆』が己の本分を全うすべく必死の形相で守勢に回る。だが敵はただの足軽ではない。
 恐るべき鉄鎧武者の一団だ。

「****!」

 魚鱗の陣は崩れ去り、鎧武者の軍団が『赤堀衆』を上回る力で一気に包囲を狭めてくる。素早く撤退しなければ、波頭が崩れた大波のごとく一気に戦場の藻屑と消え去るだろう。

「右を固めろっ」
「意地でも抜かせるなっ」
「ぐぉっ……ぁあ!」

 一気に動きが鈍った指揮官を先導する『赤堀衆』の苦戦が続く。一番の要因は、時折どこからともなく放たれる『軍神』に手傷を負わせた『火矢』あるいは『火槍』のせいだ。

「暮林殿の横撃はどうなっておる?!」
「ここまで届かぬっ。あの炎のせいだ!」
「一体何なのだ、あの妖術は――」
「あれも種子島のような、新式か?」
「どうでもよい、我らで万雷様をっ」

 しかし悲痛なる念いは、理不尽なる兵装の力の前にねじ伏せられる。

「くっ、後を頼む――」 

 一人、また一人戦場に沈んでいき、募る焦りが集中力を奪う悪循環の中で、榊が一人立ち止まる。
 血飛沫き、殺気渦巻く騒乱の中で、なぜか殺意が消えた澄んだ瞳に気づく者はいまい。
 あまりに自然体な姿に訝しむのは、味方に非ず相対する敵鎧武者のみ。

「榊っ」

 ただひとり、猛烈な倦怠感に襲われる最中、気づいて呼びかける万雷に榊は振り返らない。

「万雷様はお先に。某は今少し、ここで暴れて参ります」
「よせ」

 意図に気づいた万雷の制止は、当然聞き流される。そして、短くもそれが榊との最後のやりとりとなった。

 ◇◇◇

「――これが、あの方が常に見ていた景色か」

 叩きつけられる殺気と無数の白刃。
 普段なら怖れに心胆寒からしめるところだが、榊の心は不思議と凪いでいた。

 あの方の役に立てる。

 あまりに秀でた指揮官の下では、皮肉なことに、どれほど懸命に務めても自身の存在価値を見出だすことはできなかった。
 それが今や確信している。
 役に立てるのだと。
 そして、“ここぞ己の命の使い時”と悟ってからは、恐怖や無念や焦燥といったものが、脳裏から胸内からきれいに拭いさられた。
 いや、抜け落ちた。

 ああ――

 すべてが澄んでおり、晴れ晴れとしている。
 右からくる突きをなぜ(かわ)せたのかは自分でも分からない。
 十二の時に、己に武才がないと知ってから初めて剣に没頭した。その差異は(・・・・・)、努力で埋めればよいだけと。
 どれだけ剣を振るい、槍を突いたか覚えていない。
 剣より帳簿と部下に陰で揶揄されているのは気づいているし、それを気にしたこともない。

 いや。

 だからこそ、己の掌を他人に見せたことはなかった。
 あの方にさえ。
 無論、夜中に剣を振る姿なぞ見せられるものではない。それこそ、知らぬ妻には“密通”を疑われたこともある。

 “夜鷹を買ったのか”と。

 これまで進歩は何ひとつ感じていなかった。
 いつの間にか現れた才気溢れる若衆にも剣で抜かれ、何とか『赤堀衆』の末席に連ねられたのが己の限界だった。

 限界と思い込んでいたのか。

 やけにゆっくりと迫る左の大刀を透かして、槍を叩き込む。
 さらに二度、三度と敵の凶刃を紙一重でくぐり抜けたところで、榊は口元を綻ばせた。

「俺もたどり着いたぞ――月ノ丞よ」

 どうしても敵愾心を持つ若侍を想う。その一言には末期とは思えぬ満足が見え隠れしていた。

 ◇◇◇

 瞬く間に人海の中にその背が埋没する。

「榊……」

 呟きを短い別れの挨拶として万雷は前を向く。
 あまりに呆気ない別れだが、戦場の別れは常に唐突に訪れるもの。互いの関係の深さなどそれこそ何の関係もなく、死は誰にでも平等に一瞬で訪れる。
 そう無情に割り切ってしまえるほど、その厚き忠信で稼いだ刻は、さほど長くはなかった。それでも脱出へ向けて踏み締めた一歩一歩は、決して軽くはないことを万雷のみが知る。

「――むっ」

 守備の隙をついて打ちかかってきた敵の斬撃を、万雷が大刀持つ敵の手首を掴んで封じ込め、空いた別の腕で力任せに殴りつける。

「がぁっ」

 体調が万全ならば例え素手でも殴り殺せる力はあるが、短い間に満身創痍となった今の万雷では、いかに気力を込めても、鎧武者に確たる損傷を与えることはできない。
 万雷の一撃でよろめいた隙を『赤堀衆』が打ちかかってなぎ倒す。

「殿、肩を――」
「構うな。それより退路の切り拓きに集中しろ」

 槍を杖替わりとする万雷の姿に誰もが不安を覘かせる。それへ気遣い無用と絶対に逃げ切るのだと万雷は双眸を光らせる。

「……そうでなくては、副将が務めを果たしたことにならぬ」
「! ――分かりました」
「必ずや、我らが切り拓きまするっ」

 再び気力を奮い立たせた『赤堀衆』が跳び込む勢いで、退路方向の敵に襲い掛かっていった。
 当然、手薄となった三方からの敵攻勢が圧力を増す。万雷は少数の護衛者と共に、斬りつけられながらも何とか食い止める。

「***っ」
「****!」
「…………っ」

 もはや万雷に敵を仕留める力は無い。
 精々が敵の体勢を崩していなす(・・・)程度。
 足止めしかできぬもどかしさに万雷は歯噛みする。

(それにしても一体何なのだ、この軍は)

 朦朧とする意識の中で、強烈な疑念が頭を占める。
 南蛮鎧に意味不明な言葉。
 その上、呪詛の類いとしか思えぬ兵器も使う。

(兵装をみても、『白縫』というよりは――)

 まるで遠き長崎に出入りするという異国人のようではないか。
 異国人による異国の兵装、異国の呪術――異国の軍隊?

「馬鹿な……」

 発想が飛びすぎだ。例え異国の軍隊としてなぜこんな小領を襲うのか。
 同盟軍に協力させているとも考えられない。ならば逆に同盟軍が協力を求めたのか。
 だが、そんなことが世に知られれば、日ノ本全土にいる大名たちが許すはずもなく、圧倒的兵力で白山を平らげてしまうだろう。
 これまでは余計な損耗を嫌って手を出さなかったに過ぎないということを『白山四家』の者なら誰もが理解している。
 一度でも大名の介入なぞ許せば、それこそ、これまでの戦に意味が無くなってしまうと。
 白山は白山の者によって平定されるべき。
 これは不文律だ。

(だが、だとすればこの軍隊は……)

 戦いの最中に他のことに気を取られるなど言語道断と知りながら、どうしても疑念が頭から離れない。むしろ強まるばかりの疑念や当惑に万雷が苛まれていると――



 ズドン――――ッ



 響き渡った砲声に敵鎧武者による包囲の一角が崩れ去った。

「万雷様っ」

 漲る気勢は見覚えのある小兵が上げたもの。

「……筒香か」
「万雷様、早うこちらへ!」

 言うが抱えていた太い鉄砲を投げ捨て、後ろの介添え役から同じ大きさの鉄砲を受け取り構える。
 通常の倍近い太さの鉄砲は“十匁”――筒香のみが扱える中型鉄砲であり、弾は四発を数珠つなぎした特殊な散弾を使用している。
 威力については敵鎧武者をして見ての通りだ。普通の足軽に向ければ、悪鬼の所行かと見紛うばかりの凄惨な現場が生み出されよう。
 だが、此度の戦に遠慮は無用。



 ズドン――――ッ



 今度は逆側の包囲が崩れ去る。
 機を逃さず、『赤堀衆』が万雷に肩を貸しながら思い切って敵に背を向け、一気に後方へと駆け出す。
 ようやく“狩り場”を抜けて自軍の端にたどり着く。

「すまぬ」

 『赤堀衆』一人が筒香に短く謝意を表す。筒香は太い笑みを浮かべただけだ。

「おい、あれは――」

 筒香の機転で脱出の機を得たところに『赤堀衆』が何かに気付く。それは横合いから駆けつけてくる援軍の姿。

「宇城殿っ」
「別働隊で来られたか!」

 口々に喜びの声を上げる『赤堀衆』。
 大将の危機を察したからなのか、たった十名前後の援護でも、追い縋る敵の勢いを止めるには十分な役目を果たしてくれる。
 今が頃合いだろう。

「戦鼓を……退却だっ」

 苦々しい一語を吐き出した万雷は、後ろへ首を回して鎧武者軍団を見ていた。そこに無くした何かを探すように。
 想定以上の負傷に、側近の死。今や全身を襲う倦怠感に巻き返しは不可能――これ以上の戦いは無意味と悟る。何より妖術まで用いる敵軍の底知れなさに、他にどんな策を隠しているか、読めないのがあまりに危険と判断したためだ。

(お前の仇はいずれ――)

 万雷は口にすることなく誓いを胸に秘めた。

 ◇◇◇

 その後、“狩り場”から撤退した篠ノ女軍を予想に反して敵は追ってはこなかった。
 物見の報告では、なぜか敵も撤退したらしく、既に林内から影も形もなくなっているという。
 恐らく、碓氷を含めた二隊が敵の退路を断つべく動いていたことに気付かれたのだろうこと、また、敵も甚大な被害を受けたため撤退したのだろうと推測された。そこに一介の侍が残した功績は、当然付されていない。
 そして一息つく間もなく城より報せが入る。

「城に異変――?」
「いえ、確かなことはまだ。ただ、いかなる異変も
見逃さず、報告せよと」

 城からの伝者を前に、治療を受けながら万雷は思いに耽る。脳裏に過ぎるのは無論、狂人共の襲撃や森の変事。そして何よりも、あの異国のものかと思われる軍隊の存在だ。あれこそ、異変中の異変。

「それともうひとつ」
「まだ何か?」

 そう云われて伝者が微妙な表情をつくったのは、種々の痛みで不機嫌な声を出す万雷に臆したわけではないようだ。

「それが……もしやすると、この戦、思わぬ方に転ぶやもと」
「?」
「敵方も戦どころではないのでは、と。ご容赦を。私にも、何がなにやら」

 自信なさげな伝者の言葉に万雷も困惑せずにはいられない。

「……その言伝、間違いないな?」
「はっ、もちろんでございますっ」

 ならばよい、と万雷は話を終わらせる。
 なぜなら、敵まで混乱の(・・・・・・)渦中にある(・・・・・)という考えまでは頭になかったからだ。

(これは早急に、方針を練り直さねば)

 これは敵大将を討ち取る好機か否か。怪異そのものについても、敵の意志がそこに介在していないとするならば、この先何が起きるか予測も立てられぬ。どのように対処していくべきか。

「いずれにせよ、城に伝えねばならんことは多い。とりあえず、物見ではなく先遣隊を出すのが先か。早急に調べねば手遅れとなるやもしれん」

 一時は『陰陽師』の存在を口にしたものの、もはやその範疇に収まるものではないと万雷は根拠もなく確信していた。
 何かが起きている。
 本来ならば、自らが城に赴き話し合いたいところだが、前線を留守にするわけにはいかない。
 苛立ちを覚えながら、万雷は樹上を見上げる。

「――――!」

 枝葉の隙間から見える月を目にして瞠目する。
 これほどはっきりした異変に気づかなかったとは。

 重なり合う満月(・・・・・・・)

 万雷の胸中に、“言い知れぬ苦み”が並々と満たされていくのを感じるのだった。
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