(5)それぞれの…(2)

文字数 7,655文字

「“異境”に迷い込んだのだ……いちいち動じていては身が保たぬぞ」

 障子戸の向こうへ何度も顔を向ける付き人に、出された茶を啜りながら禿頭の老人が窘めた。

「ですがこのような処へ訪問客でございますよ? しかも客人は見目麗しい“異人”だとか……無庵様も気になりましょう?」
「ならんな」

 さらりと言い捨てる無庵に、十五歳になったばかりという付き人が白い頬や小鼻をひくつかせ、鼻白んでしまう。
 昨日から驚天動地のことばかり、めまぐるしい展開に頭がおかしくなりそうなところへ、此度の一件だ。それも昨夜の戦いは目にせずとも、庭先で見た“あの恐ろしげな異形”が這い出してきたという森から人が現れたのだ――これでどうして平然としていられよう。
 無庵様こそ、どうしてよいやら分からぬほど気が動転しているのではないか?
 この一大事に外の喧噪を閉め出すように書室に閉じこもり、我関せずとばかり茶なぞ啜ったりして。

 それとも“忌み子”故の――?

 若輩の付き人がひとり煩悶しているのを他所に、無庵は先ほどから、手に持つ一枚の(ふみ)()めつ(すが)めつ読み直し続けている。
 まるで想い人への内なる情熱をどう表現すべきか悩んでいる若人か、はたまた、敬愛して止まぬ師へ抱えた難題を相談するための初めの書き出しに苦慮する弟子のごとく。
 無論、老境をとうに過ぎた無庵には、どちらもあり得ぬ話しではあったのだが。

「……ところで、先ほどから熱心に何を読んでおられるのです?」
「“聴聞書”だ」
「聴聞?」
こちら(・・・)に来てからの皆の体調の変化を知りたくてな。何をどう問うべきか、一問づつ吟味しているところよ」

 聞けばいつも丁寧に答えてくれる老人だが、いつ(・・)ものように(・・・・・)話の半分も理解できない。それでも付き人に任じられてより丸一年――若衆にもそれなりの矜持があり、分からぬなりに話しを合わせようと試みる。

「確かに身体の調子を整えるのは大事でございますが……」
「そうではない」
「え?」
「あの異形を見たであろう」

 云われて庭先で見たものを思い出し、思わず口に手を当て、若干顔を青醒めさせつつ付き人は小首を動かす。

「よいか。あのようなモノは、“暖かい土地”や“冷たい土地”だとか、滋養の高い食べ物を食するだとかそういった事で生まれるモノではない」
「……」
「儂が思うにな……“我らのいるべき地”と“この地”では、似ているところもあろうが、やはり根本である“世の理”というべきものに、一部なりと違いがあるのだろうよ」
「“世の理”……でございますか?」
「うむ。例えば、この湯呑み」

 そうして老人がまだ湯気の立つ茶の入った磁器を掲げてみせる。

「儂が手を離せば、どうなると思う?」
「それは……まぁ、落ちて茶が零れてしまいます」
それはなぜだ(・・・・・・)?」
「はぁ?」

 おかしな老人の質問に、付き人が間の抜けた声を上げるのは無理もない。だが、冗談ではないらしい老人の眼は、自身が掲げる磁器の風合いどころか運命すらも見定めるかのごとく真剣味を帯びる。
 どうにも腑に落ちぬことなれど、答えを待っているらしい老人の姿に、付き人は訝しげに小首を傾げながらも言葉を紡ぐ。

「いや……その……手を離して落ちるのは、当然でございましょう?」
「ならば、水が高き処から低き処へ流れるのは?」
「それは――」
「石を投げれば飛んでいくのは? 太陽が東より昇るのは? 火が燃えるのは?」
「…………」

 次から次へとあまりに当然のこと(・・・・・)を問い連ねる老人に、何を血迷うてしまわれたのかと付き人が言葉も無くして凝視する。そんな己の孫ともいえる付き人を置き去りにして、老人の言葉はさらに続く。

「あれも当然、これも当然。石を誰が投げても飛んでいくのが当然。ならば問おう――なぜ当然なのだ(・・・・・・・)? あるいはこう言い換えても良い――誰が当然と決めた(・・・・・・・・)?」

 禅問答のような老人の言葉が、寺より聞こえてくる鐘音のように付き人の脳内に響き渡る。
 考えたこともない。
 そんな当たり前のこと。
 だが当たり前だというのに、いざ問われれば、答えなどまるで浮かばない。

 だって、そうであるから(・・・・・・・)
 まさか、そうではないのか(・・・・・・・・)

 まるで行き場をなくした野良猫のような面持ちで、何を云えばよいのか途方に暮れる付き人からの応答を老人が待つことはなかった。

「あまり難しく考えんでよい。儂はな……“当然なのは神仏がそのように定めたから”と思うておる」
「神仏が……」
「そうだ。神仏の定めた“理”だからこそ、貧富や身分、老若男女の違いに関係なく“石を投げれば飛ぶのだ”と思うておる」

 それはある種の特権階級に位置する者が耳にすれば、敵視され兼ねない危険な思想とも言えた。だが、そのようなことまで付き人は思いも寄らずに老人の話しに聞き入っている。

「分かるか? 儂らを含めて世に生きとし生けるもの――それどころか石ころなども輪に入れた、この世にあるすべてが、神仏の定めた“理”の影響を受けている。これは馬鹿げた考えかな――?」
「――いえ、そのようなことは」
「ならば、ひとつ想像してみよ。もしも、その“理”が、ある日突然変わってしまったら? この世はどうなる? いや、儂らはどうなる?」

 “理”が変わる?
 当然が、当然でなくなる?
 さらに訳の分からぬことを問われて付き人の顔が困惑に歪む。頭はとうに固まって何かを考えられなくなっているのに。
 石が飛ばなくて困ることはなさそうだが、火が燃えなくなるのはよろしくない。陽が昇らぬのも、雨が降らぬのも……。よくないことばかりではないのか?
 徐々に想像が膨らんできて、そのどれもが厄介極まりない出来事ばかりであることから、付き人の唇が引き結ばれ、頬が強ばり、瞳が挙動不審になっていく。

「とにかく……恐ろしいことになります」

 ようやく、それだけを述べる付き人に、だが、老人は満足そうに頷いてみせる。

「飯が炊けぬのは辛かろう。着物が干せぬのは嫌であろう。些末なことから大事に至るまで。一体どれほどの影響を及ぼすことになるのか……」
「先ほど、無庵様は“一部なりと”と申されましたね?」

 はたと気づいて問いかける付き人に老人は口元に浮かべた笑みを深める。

「そうだ。周りを見て何か違いを感じるか? 儂らといい、この城といい、そして“外”さえも儂らが知る景色と同じか似通っているところが多いくらいだ」
「だから“一部”であろうと?」
「……そろそろ、話しを始めに戻してもよいようだな」

 そうして湯飲みを卓に置き、視線も手持ちの文へ戻しながら、老人が頃合いだと話しを戻す。

「儂らは何故か、異境の地へ迷い込んだ。そして昨夜から今朝までに見聞きしたことを踏まえた上で、儂は気づいたのだ。
 これが夢幻ではなく、真に“世の理”が違うところへ移ろうたのだとすれば、我らの身体に何らかの影響があって然るべきということに。いや、現に起きている、とな」
「それは……例えば、死んでしまうとか?」
「誰か死んだとは聞いておらんな」

 間の抜けた問いに老人――無庵は呆れることも叱ることもなく真面目に応じる。

「何も肉体的な変化とは限らん。人の考え方や気質が変わるやもしれぬ。食べ物の好みとかな。……儂としては、髪が生えることを願う」
「そういえば! 先ほど“異人”と話ができたと云っておりましたっ」

 老人のささやかな夢を大声で掻き消して、付き人が耳にした情報を得意げに語って聞かせる。

「何でも、知らぬ言葉(・・・・・)なのに聞いているだけで理解(わかる)のだとか」
「“心根”が伝わるということか……?」
「さあ、そこまでは」
「そのうち、儂らの言葉遣いも変わるやもな。まあ、何があっても不思議ではあるまい。むしろ、それを調べるための“聴聞”だ」

 だいぶ遠回りした感があるものの、ようやく最初に投げた問いの答えを与えられ、やたら疲れた表情と共に付き人の肩から力が抜け落ちる。
 これで何度目であろう。
 老人との話には、こうした思わぬ罠が待っている。
 いまだ罠をうまく切り抜ける術も事前に回避する術ももたない付き人は、たびたび大火傷(・・・)をするのだが、だからといって、会話をしないという選択肢はない。

(それに……私は無庵様を勘違いしていたようです。それに気づけたのは、何よりです)

 若様まで挨拶に出られた一大事に、部屋にこもる老人を不心得者と思っていた己が恥ずかしい。

(無関心どころか、むしろ、誰よりも諏訪の皆を案じておられた……)

 そんな老人に仕えられたことに、あらためて誇らしく思い、そして敬服する。

(それにしても、とても重大なお勤めを為されていたのですね)

 何の因果か、“神隠し”にあった自分達の身体は、いつ何時、どんな恐ろしいことが起きるか分からない。とにかく早めに調査する必要があるのだ。
 とても良い試みではないか。
 まあ、“異人”を眺められぬのは惜しいけれども。
 それでも胸のつかえがとれ、晴れ晴れとした気分
で思うがままに付き人は述べる。

「できれば良い影響ばかりだとよろしいですね」
「そう願う」

 「一本(・・)くらいならあり得ますよ」と何気に洩らした付き人が立ち去った後で、無庵がようやく目線を向けた。
 「あくまで諏訪家のためぞ」とその目が訴えているのを付き人が気づけるはずもなかった――。

         *****

 『主殿』に隣接する『遠侍』の一室。
 事の成り行きをその詳細まで聞き出したところで、初老は報告者をしっかと労った。

「よくぞ、急ぎ知らせてくれた。おかげで会談までに方針を固められそうだ」
「それで、いかが為されます?」

 共に報告を受けた補佐職の問いに『慧眼』の異名を持つ初老は白い顎髭をしごく。

「そうさな。まずは状況の整理をしておこうではないか」
「となれば、その女が“真に権力を持つ者か否か”が問題のひとつとなりましょうな」
「“よるぐ・すたん”なる国の存在もだ」
「“森”についての話しも如何でしょう」

 だが、それには初老は首を振る。

「昨夜の“化け物蜘蛛”を忘れたか? “森”について嘘は申すまい」
「では国については?」
「“異人”達の出で立ちを聞いたところでは、見事な南蛮鎧を身に付けた者もいるというではないか。“鉄”を掘り出す技術と労力……“鎧”を産み出す冶金の技……“鉄の鎧”を必要とするそれまでの歴史と戦の内容」

 まるで国や世界の成り立ちをその目で見ていたように、想像を巡らせる初老の声には確信が込められている。

「ならば、それなり(・・・・)の暮らしがあって然るべき」
「土地も人もそれなり(・・・・)にいるのでしょうな。十万人もあながち嘘とは言えませぬか」

 相づちを打つ補佐職に初老も大きく頷く。

「こちらも信じてよいであろう。それと、交渉の提示内容と自ら“姫”であると告げたことを考えるに、それなりの(・・・・・)教養があると思うべきだな」
「然り。“外交”はそこらの町娘にできるものではありませぬ」

 暗に信憑性が高いと述べる補佐職に初老も同意見であるようだ。

「ただ、己の身分を示さぬうちに、過分な交渉に入ったのは如何かと思うがな。まあ、元服もしておらぬ様子とのこと、むしろ、才と胆力を感じるくらいか」
「若輩だからと油断はできませぬな」

 目を細める補佐職の瞳に警戒の色が浮かぶ。だが、気になることでもあるらしい。初老の瞳に宿るのは“疑念”の灰色だ。

「異人の姫君か……真に相違なければ交渉相手としてこれ以上はない。ただそうなると、命も危ぶまれる森へ少ない供のみを従えてやってきた事実と不釣り合いではある」

 貴人の立場であれば、危地に飛び込む少女を周囲が黙って見ているはずがない。だが、補佐職の意見は別であった。

「むしろ、それこそが先方の置かれた状況を語り、それ故の“望み”とやらに繋がるのでは?」
「ふむ。……よほど“窮地にある”ということか」

 苦り切った声は無理もない。
 姫君と称する者の窮地。考えずとも、それは国をも揺り動かす動乱を予見させるものだ。そんな争いに自分達が巻き込まれれば、兵の命などいくらあっても足りないことは経験上知っている。

(嫌な予感しかせぬ)

 一気に室内の空気が重くなったところで、初老は努めて声に力を込めた。

「このくらいの“読み”は、若もご承知のことであろう」
「さすがは『慧眼』と呼ばれし者が見込まれた方。頼もしい限りでございます」

 補佐職の儀礼的な世辞を無視して初老は話しを打ち切る。

「ここでいくら頭を捻ってみても憶測は憶測。答え合わせは会談の場でしてみるしかあるまい」
「然り。とにかく、我らには“外”の知識が足りませぬ。こうして“異人”が現れた以上、この先、いつ不測の事態が起きても不思議ではありませぬ……早い内に知見を広めるべきでござりましょう」

 胸に溜まった重苦しい気持ちを吐き出す補佐職に初老も同じく深い息を吐く。
 二人が同時に伏し目がちになったのは、今後の暗い道行きを慮ったからだけではなく(・・・・・・)、むしろもっと目先の事案に気が向いたからだ。

「……若には慎重に(・・・)対応願いたいが」
「……返事ひとつ(・・・・・)、もあり得ます」

 すでに主のとる行動を確定(・・)と同義に予知するが故に、二人は憂鬱な気持ちを晴らすべく、縁側向こうの美しい庭先へと視線を流し、しばし現実逃避するのであった。

         *****

「――靜音様。どうされました?」
「どう、とは?」

 廊下を歩む靜音が振り返れば、馴染みの女中がいそいそ(・・・・)と寄ってくるところであった。

「いえ、お部屋におられると思ったものですから」「いつも部屋にこもっていたのでは、身体がおかし(・・・)くなって(・・・・)しまいます」

 「いつも……?」と怪訝な表情を女中が浮かべるのは、今朝も(・・・)弦矢の執務室へ訪問したばかりであると知っているが為だ。

「なにか……?」
「いえ。確かにたまには(・・・・)部屋からお出になるべきでございましょう。ただ、昨夜のこともありますので……」
「昼間ならば、さすがの“化け物”共もお天道様の前では悪さも考えないでしょう」

 うっすらと微笑んで再び前を向く靜音に「それで、どちらに?」とよほど心配なのか女中が重ねて尋ねる。

「先ほど、兄上のお声を聞いたような気がして」
「お声を?」
「ええ。あの弾んだような声は、兄上が何か面白いことを見つけたときのもの。そう思えば、足取りさえも小躍りするかのうように聞こえた気が(・・・・・・)……」
「気のせいでござりましょう」

 心なしか目を輝かせる靜音の様子に気づいたか、女中はしっかりと水をかけて火消しに掛かる。

「まさか“黄泉の国”で訪問客もありませぬ。むしろあったら縁起が悪いにもほどがありましょう。今は城内も慌ただしい故、家臣の声と間違われたのでございましょう」
「そうでしょうか?」
「そうですとも」

 やけに力の入った感じで女中ははっきりと断言する。いつもと違う迫力さえ漂わせる彼女に靜音も違和感を感じたかもしれない。その心中を察したろうに、それでも女中は当然のことと揺るぎもしない。

「かような事態で弦矢様は多忙にあらせられます。靜音様も諏訪家の者として、皆に落ち着きをみせられ、向こうで華でも活けられてはいかがでございましょう?」
「それは、あまり面白くありませぬ」
「……また弦矢様みたいな事を」
「何か云いました?」
「いえ。お兄上を慕うのもよろいしいですが、今は男衆の勤めを妨げるようなことがあってはなりませぬ。女は女の勤めに励みましょう」

 それを聞いた靜音が笑顔で振り返る。
 その意味深な眼と口元。
 まるでその言葉を待っていたかのように端麗な顔を綻ばせる靜音を見て、女中はなぜか自らの失策を確信した。

「当然です。むしろ女として(・・・・)、兄上を支えてあげたいのです」
「だ――」

 だめと言える道理はなく、女中が言葉を詰まらせる。
 建前はどうあれ、絶体に“愉しそうだから”に決まっている。靜音の口元に添える白い手を避ければ、きっと本音が透けて見えるだろう。
 だが、靜音に仕えた五年以上の月日が、これ以上の引き留めは逆効果になると訴えているのも確かだ。
 そうなれば、残る手立てはひとつしかない。
 女中は逸る胸の鼓動を抑えながら、それでも臆することなく必殺の手札を切る。

「――だからこそ、お留めするつもりはありません。ただ、残念でございます」

 顔を(うつむ)かせ、女中は声を沈ませる。

「丹精込めて、活けた華をご静養中の片桐様に届けて差し上げたかった……」
「――」
「今は奥様とも離ればなれでお気持ちも余計に沈んでいることでござりましょう。独り寝の寂しい殿方に、純真な女子の見舞いは、一服の清涼剤になり得ます。ですが……」
「参りましょう」

 女中が顔を上げれば、目前に凜々しい面持ちの靜音が迫っていた。
 真っ直ぐ前へ向けられた美しき黒瞳が、己が進むべき道がこの先にしかないと告げている。
 今度は女中の方が靜音の異様な迫力に気圧されつつ、不安げに問いかける。

「ですが弦矢様は?」
「兄上の遊びに付き合うほど、女の勤めは安くありませぬ」
「ですが、退屈な生け花をさせるわけには」
「……諏訪のため、身を挺してくだすった御仁の見舞いです。いかなる壁も越えるのが女というもの」

 何やら大仰に言い置いて、元来た道を戻り始める靜音を女中は頭を垂れてやり過ごし、すぐにその後に付き従う。

勤め(・・)は果たしましたよ、弦之助様)

 胸中で拳を握る女中の思惑など知らぬげに、靜音はそそくさ(・・・・)と廊下を歩んでいく。すでに片桐が部屋を抜け、道場で汗を流していることなど知る由もなく。

 陽は中天に差し掛かろうとしている。
 異人を客に迎えた城内では、歴史的会談に関係するしないに関わらず、常に各人が己の勤めに励んでいる。
 調査研究然り。
 情報分析然り。
 ――特命工作然り。
 ささやかな個々の物語が展開される中、羽倉城では異人との会談を迎えようとしていた――。
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