(4)軍神の決断

文字数 9,344文字

さらに半刻後
羽倉城周縁の森
 諏訪軍『中央本隊』――


「――――そういうことか」

 両名からの(・・・・・)報告を受け、しばし吟味した後、万雷はただ低く呟いた。
 何を喝破(かっぱ)したのか、目の奥底に闘争の鬼火が宿り、同時に抑えられぬ喜悦に唇の端が吊り上がる。

「この儂が主導権を取られるとは――」

 指揮官のただならぬ独白は、だが、後ろから付き従う榊の耳には届かなかった。なぜなら己があるじの背中から立ち昇る、異様な覇気に気圧されていたからだ。

 それは怒りか、喜びか。

 つい先ほど、合流したばかりの二隊の(かしら)を喚びつけ、直に前線の戦況を語らせた内容の“何か”が『軍神』の闘争心に火を付けたのは言うまでもない。
 味方でさえ息をのむ威圧感に、報告を終えた暮林、宇城の両名だけは、臆する素振りも見せず大将である万雷の両脇を固め、下知が放たれるのを静かに待っている。
 いや、そんなはずはない。
 現地では今も遅滞戦闘が継続されており、足止めを買って出た暮林衆二番槍隊は、すでに決死隊と化している。
 特に勇猛で鳴らす暮林からすれば、友を犠牲にする無様さに、忸怩たる念いは拭えまい。

「「まことに、面目次第もございませぬっ」」 

 例のごとく“行軍報告”という奇態な手法をとっていなければ、土下座していたであろう隊頭二名に、だが万雷は叱責することも、とりなすこともなく思考に耽る。

(無庵は頃合いを見て、“城落ち”の策を上申すると云うていた。つまり儂らの役目は、守備に徹する防衛戦――)

 そのことは、一兵卒に至るまで浸透させ、できるかぎり時間を稼げと言い含めていた。実際、同盟軍が夜営すると知ったときは、思わずほくそ笑んでしまったくらいだ。
 だが敵は、予想だにしない強気な一手を打ってきた。
 重武装の部隊による強襲で、こちらの防衛線を突き崩す手荒な一手を。

(幸い、重装部隊の数は少ない)

 定石通りであれば、損害を受けた暮林・宇城隊の再編をして即座に攻勢をかけるべきところだ。副将である榊も同じ事を考えているだろう。
 だが子細を聞き終え、黙考の末に下した万雷の決断は予想外のものであった。

「城に使いを出せ」
「城に――でございますか」

 誰もが想定する内容とは真逆の指示に、榊が思わず聞き返す。強兵と聞き、自ら喰らわんと攻撃の号令を発すと思ったのだろう。だが、本当の想定外は次の台詞の方であった。

「無庵殿に伝えるのだ――“敵に先手を打たれた故、防衛戦を放棄する”とな」
「何と?!」

 思わぬ伝令の内容に、榊どころか暮林、宇城の両名からも驚きの声が上がる。
 城を見捨てる――?
 近場で聞こえていたせいか、側侍達の間でも驚愕に立ち止まる者さえおり、本陣の動きに乱れが生じたのを察して万雷が一喝する。

「狼狽えるでないっ。今は一刻を争うときぞ」

 声を張り上げ前進を促すも、さすがに説明は必要と思ったか言葉をつなげる。

「今我らはこの『防御林』という“地の利”に慢心し、敵の“奇襲”と“想定外の戦力”によって後手後手に回っておる。分からぬか――“敵に主導権を握られている”ことに」

 その指摘に場の空気が明らかに変わった。

 主導権――『軍神』の手解きを受けた者ならば、その意味することは十分に理解している。それこそが『軍神』の“兵法の妙”であり、数多の戦場で勝利し得た要因であるのだと。
 主導権を優先権と捉えれば分かり易いが、その考えは実にシンプルだ。即ち主導権さえ握れば――

 “天の利が得られる時期”に、
 “地の利がある場所”を敵より先んじて布陣し、
 “相性のいい兵種”を敵に当てることができ、

 さすれば勝利は間違いなし、というものだ。当然、まかり間違っても逆の立場になることなど考えたくもない。
 つまり極論を言えば、戦とは――

 “主導権の獲り合い”――と言ってもいい。

 強引ではあるが、それが万雷の持論であり、事実山のように戦果を挙げている以上、異論を唱える者は誰もいない。

 その考えに照らし合わせれば、先の件は既に二つの要素で主導権を取られたがための敗走であり、その上、今なおその主導権は相手に握られたまま――自分たちの置かれた危機的状況に皆が気づいたからこそ、場の空気が重苦しくなったのだ。

「確かに――」

 動揺で細面を強張らせながらも榊が訴える。

「確かに、予想外な被害を受けましたが、しかるに、部隊を退かせる(・・・・・・・)のは我ら当初の思惑通り……まだまだ踏み止まることはできまする」
「そうではない」

 苦しげに呻きながらも口を挟むのは暮林。

「よいか。宇城殿の撤退を支援するあの時、儂はいっそ敵を蹴散らすつもりで当てたのだ(・・・・・)。この篠ノ女軍先手方の暮林がな。だが……」

 そこで何を思い出したのか、こみ上げる何かを喉奥へと呑み込む仕草をする。

「あれは儂らが退いたのではない……退かされたのよっ」

 吐き出された苦鳴に、慰めの言葉はない。
 諏訪家と対立していた頃より、篠ノ女軍にあって常に先手方を任じられる勇猛な将である暮林にとって、その撤退がいかに屈辱であったかは推して知るだけに、掛ける言葉などあろうはずもない。
 ただ苦痛に満ちた暮林の陰々たる言葉が続く。

「あの鎧武者――あれは普通では止められぬ。されど、我らに抑え込める力がなくば、この先どうなるか――」

 その先を聞くまでもなかった。
 戦術どころか戦略さえ崩壊させてしまう過剰兵力の存在を許せば、まともな戦にさえならなくなってしまう。
 即ち、亡領の“確定”だ。
 それほど衝撃的な暮林の発言に、思わず否定を求めて榊が視線を向けるも、大将の首は微動だにしなかった。

 たかが一部隊で――?

 その戦いぶりを直に見ていない故の戸惑いだが、榊とは違い、『軍神』と謳われし歴戦の猛将は十分に察しているらしい。
 聞き違えようのない微かな歯ぎしりが暮林の口より洩れる。

「我が軍が壊走すれば、“明日の決戦”も露と消える。もはや何としてもあの鎧武者を抑え込む必要があり、それには我らも本腰を入れねばならぬ(・・・・・・・・・・)。さすれば当然――」

 そこで暮林がハッとしたように話しを止めたのは、大将の意図に気付いたがため。同様に察した榊が後を繋げる。

「当然、我らは前掛かりな攻撃的布陣に変えねばならない。それ即ち、“守備的な防衛戦を放棄する”ということ」

 それが先の伝令の意図することか。
 粘り強く戦線を維持する防衛戦をかなぐり捨て、篠ノ女軍本来の姿である好戦的な戦いに切り替えると。
 しかしそれは、羽倉城を危機にさらす方針の転換ではないのか?
 危険性と勝機――ふたつの要素を天秤にかけ、即断した『軍神』万雷には、現状の戦況全体とこれからの絵図がどのように見えているのか。
 その絵図を垣間見た榊が、畏怖するように呻く。

「万雷様は……敵の強部隊を撃破するだけでなく、さらにその後も(・・・・・・・)
「当然狙わねば、攻撃的とは云うまい」

 敵将の首を取りにいく――万雷がそう告げたと知って全員が身震いする。
 見捨てるのではない。あくまで勝ちに行くのだ。

「――そうでなくては」

 声を震わせたのは暮林。そして覇気漲らせるのは宇城。

「それでこそ、万雷様――」

 万雷の真意に気づかされ、項垂れていた前線指揮官の二人が色めき立つ。

「すでに一町(約100m)ほど、敵を森に引きずり込んでやりましたが、奴らの動きは多少鈍った程度にすぎませぬ。抗じる術がない限り、正面から突き崩すのは控えるべきかと」
「左様。むしろ『鶴翼』にて懐深く誘い込み、包囲攻撃を仕掛けるのが最善の策と愚考します。幸か不幸か森の様相が変化して、用兵が容易になっておりますからな」

 暮林の具申に宇城も首肯する。無策にぶち当てれば悪戯に兵を損耗させるだけだと十分に体験している二人だけに重みがある。その現場の意見に負けじと気を取り直した榊が待ったをかける。

「なれど敵軍全体の動きをまだ把握しておらぬ。万雷様。我らがかの部隊を包囲した際、他方から敵の援軍が現れれば、かえって窮地に陥ります」
「その前に打ち破ればよいではないかっ」

 苛立ち混じりに暮林が声を荒げるも、「容易に倒せぬ相手と仰られたは暮林殿でござる」と先の報告内容を引き合いに出し、榊は冷静に切り返す。

「榊殿。今ならこちらの兵数は五百――さすがに五倍も差があれば、敵も思う力を発揮できず、援軍が届く前に打ち倒せると思わぬか?」

 二番槍隊を気遣う暮林の焦りを知るだけに、宇城が穏やかに取りなすが、「数ではござらん」と榊は態度を軟化させない。

「兵装に差があり過ぎる。例え囲い込んでも、当たれば相当の損耗を被ることは必至。万一、別に敵の主攻が存在すれば、これを相手取るだけの兵力が残らぬ恐れもある」
あれ(・・)が主攻でなくば、我らの負けは必至よ」

 暮林の自嘲を込めた皮肉に榊が視線を鋭くする。険悪な空気を醸し出す二人へ、

「いずれにせよ“待ち”とて悪手ぞ」

 宇城が榊に意見を述べる。

あれ(・・)は例え主力でなくとも敵にとっては“虎の子”の部隊に相違ござらん。なればこそ、戦の序盤で討ち果たせば勝利の天秤が我らに大きく傾くは必定。それには、見た目に分からずとも三町を歩ませた消耗がある今しかないっ。だのにこの機を逃し、易々と回復の機会を与えるなど……」

 すかさず、「然り」と膝を叩かんばかりに勢いよく暮林が後を継ぐ。この二人、死線を共に乗り越えて妙に息が合ってきている。

「万雷様――いや親父殿(・・・)。討つべき好機は今を置いて他にありませぬっ」

 憑かれたような執着を示し、思わず身内だけの呼び名を口にしてしまう暮林に、宇城も同意とばかりに己が大将を仰ぎ見る。仮にも隊頭を勤める者が、一時の感情に振り回されているとすれば論外だが、

「是非もなし」

 訴えた暮林が当惑するほど、万雷はあっさりと首肯した。その上、「真に好機か否かは賭けになるが、それもやむなし。損耗など言ってはおれん」と榊を大いに動揺させる。
 その様子に「分からぬか?」万雷が諭すように言葉をつなげる。

「かの鎧武者が強過ぎる。騎馬なら打撃を与えられようが、それでは戦場を“平地”とすることとなり、我らが得手とする“林野”を離れるなど本末転倒もいいところ」

 つまり、この“林野”の戦いで遅れをとるようでは『諏訪』の敗北は必至――逆に言えば“それほどの戦力”を敵はぶつけてきたことになる。

「本番を“明日”と言っているのはこちらの勝手よ。そのようなこと敵は関知しておらぬし、だからこそすでに仕掛けてきている(・・・・・・・・)
「やはり、万雷様もあれ(・・)が敵の主攻と……」
「違いあるまい」

 宇城の呟きに万雷が応じたところで暮林が意気込む。

「万雷様――」
「うむ。今宵こそが我ら『諏訪』の命運が掛かった一戦となる。何としても敵主攻を仕留めるぞっっ」

「「応っっ」」

 大将の下知に隊頭二人が了承の声を発する中、一人水を差す者がいた。

「……されど万雷様。いかにして?」

 共に昂揚しきらず気持ちを落ち着かせた榊が、何とか聞くべきことを口にする。
 常に“他者と違う視点を持つ”ことこそが己の役目と自負しているからこそ、冷静に尋ねずにはおれないのだ。それを知ってか満腔の笑みで大将は答えた。

筒香(つつごう)を呼べ。正面からぶち破る」

 ◇◇◇

 鉄砲頭(つつがしら)である筒香内真(つつごう うちざね)は遠く畿内からの移民であり、誕生して間もない『諏訪』の鉄砲隊における初代隊長であった。
 小兵だが体躯は分厚く、その小さな体で米俵三俵(約180㎏)を背にして小走りもする。
 頑健な身体に見合う四角い顔立ちは、決して褒められた器量でもなかったが、黒目がちな愛嬌のある目で存外に女子衆の受けも良かった。
 この筒香、流れ者らしく己の経歴を語ろうとはしなかったが、出自と鉄砲の扱いに熟練していることから、根来寺所縁――いや雑賀(さいか)の者ではと噂されるほど、とにかく射撃の技倆は頭一つどころか三つほど抜きん出ている存在ではあった。
 事実、森に向かって撃てば、林内を一町(約100メートル)ほど踏み入ったところで鹿が倒れていた――という実に眉唾な狩りの逸話が語り草になっている。
 もし、鉄砲に『白山七刀』のような格付けがあれば確実に選ばれる実力の持ち主ではあり、本人もこの地での立身出世には、気負うものがあるようだ。
 目的の地で陣構えを整える最中、大将の面前に顔を出した筒香は、愛らしい瞳を鋭くさせ、いつもの温和な雰囲気を拭い去っていた。

「かの鎧武者――おぬしに抜けるか?」
「そのために我らは居りまする」

 標的の尋常ならざる防御力を聞かされてなお、筒香の自信は微も揺るがなかった。
 万雷に向ける両の眼に野心の炎が揺らめき、一卒長とは思えぬ覇気を漂わせて。

「この日をずっと待ち望んでおりました――我ら新参の部隊が為すべきを為し、輝ける日を。必ずや、敵軍の腹に穴を開け、万雷様に“勝利の道”を切り拓いてご覧に入れます」
「頼もしい奴。ならば、敵の腹を食い破る突撃の先陣は、儂が行く――」
「万雷様?!」

 思わぬ大将の発言に、榊が狐目を見開き、暮林と宇城の両名は「さもあらん」と動じず受け止める。
 己が頭上に戴く大将が“指揮”だけで兵の憧憬を集めていないことを十分に承知しているからだ。
 無論、榊とて頭では分かっているものの、副将としての立場が、素直に受け入れることを躊躇わせただけだ。
 副将の胸中を察して、万雷が皆にも聞こえるように声高で宣言する。

「よいか、総力戦と心得よ。その上で、敵の主攻たる奴らを相手に、“我らの最大戦力”をぶつけるのは常道――なれば、儂の他に誰がおる?」

 単に事実を口にしているだけの問いに、実は榊どころかこの場にいる誰もが、一瞬、“城内に残った若侍”の陰を脳裏に過ぎらせたのだが口にはしない。
 むしろこの場にいたのなら、迷わず彼に突撃を命じるのは、万雷その人であろうと確信しているだけに。
 黙した側近達から視線を外し、万雷は筒香を見やる。

「此度の戦、すべてはおまえたちの働き次第――花道と思い、敵にも我らにもその力を存分に示せっ」
「ははっ」

 そのまま筒香を交えて行われた軍議は、大将たる万雷主導の下、基本戦術の組み上げと修正を驚くほど短時間で済ませるや、即座に散会となった。
 皆が持ち場に散り、大将と二人きりになったところで榊が物憂げに口を開く。

「敵の強部隊を撃破し、その後、攻めに動き出している敵布陣の乱れをついて、本陣を急襲する――確かに強引に攻めねば、逆転など望めませぬ。しかし、そのように事が運びましょうや」
「運ぶように動く」

 万雷の返事は簡潔だ。
 そこには敵本陣に切り込む際、盾となって磨り潰される部隊、切り込んで差し違える部隊など、全員を死兵にする覚悟が含まれる。
 それどころか、すり抜けた敵部隊が、先にこちらの居城を落とす最悪の結果さえも。
 凄絶な覚悟を巌のごとき相貌に押し隠す大将に、榊は畏敬の眼差しを向ける。

「……そうですね。貴方様はいつも、成し遂げる」
「他人事のように云うな」

 そう叱る万雷が意地悪げに目を細める。

「本陣突撃の際には、儂が親玉の首を取るまで、おぬしには盾となって、擦り潰されてもらわねばならん」
「……まあ、あの時よりは(・・・・・・)マシな役目です、か」

 一瞬、遠い目をする榊。すぐに表情を引き締めて話を戻す。

「いずれにせよ、敵の動向を知りたいところ」

 森外の様子を見に行かせた物見は、残念ながらまだ戻ってきていない。恐らく戻りはこちらの戦闘がはじまった後になるだろう。不安要素を残したままの開戦に、榊だけでなく万雷の眉間にもしわが寄る。

「流れの中で見極めるしかあるまい」
「幸い、目下の標的はこちらの狙い通りに動いております。それで良しとしましょう」

 物見の話では、遅滞戦闘を続けている暮林の二番隊が、敵を引き連れながら真っ直ぐにこちらへ後退してくるとあった。
 間もなく接敵だ。
 気持ちを切り替える二人の下に報告が入る。

「万雷様。鉄砲衆筒香隊が右の配置につきました」

 さらに続く報告を受けた榊が万雷に配置状況を伝えていく。
 今回の布陣に小細工はない。
 中央に先手(さきて)の攻撃部隊となる万雷の本隊を置き、左に横撃をかける暮林・宇城の再編部隊、右に少し離れて筒香隊を配置するものとした。
 他の部隊は初期配置のまま参加させず、継続して周囲警戒にあたらせる。状況によっては敵部隊の退路を断たせ、包囲陣を形成する段取りだ。
 この時点で、敵の“戦略的助攻”と目される“尾口攻め”の可能性は潰えておらず、対応を任せた秋水からの報告も入ってきてはいなかった。
 しかし、これに関して一言も発せぬ大将の態度が、側近達に懸念を捨てさせ、目の前の戦いに集中させる。
 なお筒香隊の配置は、右手から敵中央に向かって斜めに撃ち込むことで、真っ正面から敵の大盾とやり合うことなく、射線が通ると考えただけだ。

「恐らく敵の胴丸は『南蛮胴』を改良したものでございましょう」

 貴重な情報は榊からもたらされたものだ。以前、諸国漫遊で堺に逗留した際、見聞した経験があったらしい。

「なにぶん、暇な時期(・・・・)がありましたもので」
「しつこいぞ、おぬし」

 万雷がじろりと睨むも、榊は澄まし顔で受け流し、説明を続ける。

「もし、(それがし)の知る鎧の厚みと同等以上であれば、刀や槍では抜けませぬ。例え鉄砲でも正面から当たれば、力を反らされるだけでしょう」

 だからこそ、弾の当たる角度が重要になる。
 そこまでお膳立てを整えたとしても、すべては鉄砲の威力が鎧武者の防御に勝るか否かに掛かっていることに変わりない。
 軍議の端で一言も発しない筒香も榊の話を耳にしているはずだが、迷いのない視線を己の正面に据え置いたまま、身動ぎひとつしなかった。
 鉄砲と己の砲術に対する絶対の自負。
 石仏のごとき筒香の佇まいに、「この男なれば」と皆も(はら)を据える。
 ここまでこれば、もはや信じるしかないのだ。

「“狩り場”の状態は?」

 憂いを断つべく万雷が丁寧に支度の進み具合を吟味する。

「ぬかりなく。支障が出ぬよう、仕掛けた罠はすべて外しております。射線の確保についても筒香に確認をとらせました」
「よし。少しでも効果を上げる努力を惜しまぬことが肝要よ」
「暮林、宇城の二隊も再編成含めて準備が整いましてございます」
「今一度兵に知らせよ。筒香の鉄砲が号令代わりだとな」
「はっ」

 伝令が駆け回り、全体の士気が上がっているのが感じられる。特に殿(しんがり)部隊を供出した暮林隊の意気込みは凄まじい。
 戦の倣いとはいえ、決死隊とも言うべき殿を任せた者達が生きて戻ってくるのだ。
 恐らくはほぼ壊滅的な状況であろうが、でき得るなら、一刻も早くこちらから馳せ参じたくて仕方がないのだろう。そんな暮林隊の焦燥が窺える左軍の“気の揺らぎ”を肌で感じつつも、万雷の声に揺らぎはない。

「槍を持て」

 前方を睨み据えたまま命じれば、後方から『槍持ち』が大将の得物を抱えるようにして運んでくる。
 つい一月前、小荷駄衆から抜擢した男は万雷に比肩するほどの大男であった。
 先任の『槍持ち』が二度目の戦で膝を痛めて引退を余儀なくされたことから、「とにかく、潰れぬ者を」と万雷付きの側侍達が必死で捜し出した逸材である。
 それほど頑健な者でないと、過酷な林内行軍を踏破できぬし、また、運ぶに容易ではない特別な得物でもあった。

 その名も『二つ俵』――味気なく風変わりな異名を持つその槍は、万雷が米俵二俵の陰に潜んだくせ者を、二つの俵ごと槍で差し貫いたことから呼ばれている。
 すべてが鉄で作られているため頑丈で自重があり、かつ万雷の膂力があって初めて可能な行為であったが、いつの間にかその名が定着したようだ。
 噂では、遠く信州の高名な鍛治師が、打ち前は黒髪だったものを総白髪に変えながら「生涯に一本のみ」と鍛え上げた“名槍”とも言われるが定かではない。


 ぶんっ――


 軽いひと降りが、とてつもない力感を伴って空気を震わせる。
 一撃で二十年杉の丸太をへし折る威力だけに、これまで万雷とまともに打ち合えた武将は、戦国の世であっても数えるほどしかいない。
 『二つ俵』を前にすれば、鎧武者とて確かな脅威とならず、文字通り鉄の人形に成り下がると思わせる凄まじさがあった。
 それだけに目にした者は誰もが息を呑み、そして頼もしさに勇気づけられる。
 先陣を切る前に必ず行う何気ない所作を、実は、兵の誰もが心待ちにしているとまでは万雷も知らない。

 ぶんっ

 ぶんっ

 二度。三度。
 重ねるたびに自然と兵の士気が高まっていく。
 まるで必勝祈願の打ち祓いだ。

「――頃合いかと」

 榊きに言われずとも、目前の“狩り場”である空き地を挟んだ樹林の向こうに、鎧武者の軍団が見えてきた。
 まだ距離はあるが、万雷達にとっては十分だ。
 夜陰とはいえ、月明かりをはね返す鉄の鈍い煌めきは存外に目立ち、それ以前に、金属の擦れ合う独特の音が先ほどから耳に届いている。他にも――

「残っておったか――見事なり」

 争う音まで耳に入ると、万雷は感嘆を漏らした。
 敵鎧武者の軍団と相争うは、殿を勤めた部隊に違いなく、しかも一方が数名程度であっては出せぬ喧噪に、左翼に陣取る暮林隊も気づいたのだろう。黙っておれず歓声が上がる。
 伏撃にならぬ、と思いつつ万雷も苦笑を禁じ得ない。

「期をみて左軍に戦鼓を鳴らさせよ。殿部隊に“戻り位置”を知らせる」

 万雷が命じ、突撃に備えて身構えると合わせたように本陣の気配が変わった。
 引き絞る弓のごとく。
 いや、獲物に跳びかからんとする獣のごとく。

 本陣の側侍は、大将を守る最後で最強の護衛者であり、その証として、『諏訪』では全員、領主から特別に“朱塗りの具足”を下賜される。
 敵味方どちらにとっても強固な壁となることから、城の外堀から想起して別名『赤堀衆』とも呼ばれていた。
 一騎当千の彼らが隠密を解除し、内に秘めていた闘気を体外へ放てば、強大な軍気となって膨れ上がる。そんなものを目の当たりにすればどうなるか。
 並の足軽隊など倍の兵力差があっても対面するだけで士気を挫かれ、当たれば禄に戦いもせず逃げ散り、容易に蹴散らせよう。
 それほど強大な圧力を内に秘め、肉食獣が獲物を狙い澄ますように、静かにそのときを待つ。

 とん、ととん
 とん、ととん

 左翼の陣から、軽めだが森に響く戦鼓が鳴らされた。
 呼応するように、森の奥から殿部隊であろう変わり果てた姿の兵達が“狩り場”に雪崩れ込んでくる。
 皆、手に持つ物もなく、精根尽き果てたようによろつきながら、それでも鳴り響く戦鼓に縋り付くように、左翼へ向かって足を進める。
 途中で座り込む仲間に誰かが肩を貸し、必死の形相で最後の力を振り絞る。

 もう少し。
 もう少しの辛抱だ。

 だが、その背後に迫るひとつの黒い影。さらなる背後には敵軍勢の姿が。
 「あぶな――」思わずであろう誰かの声が陣内に上がり――



 ドドドンッッ――――!!



 森全体を震わすがごとき豪砲は、一度に数十挺分の発砲音を生み出した筒香隊の鉄砲によるものだった。
 そう遠くない場所で凄まじい数の鳥の羽音が響き渡り、それを掻き消さんばかりの蛮声を上げて真っ先に突進していた影がひとつ。
 『軍神』篠ノ女万雷(しののめ ばんらい)――その人であった。
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