(8)旅の道連れ

文字数 11,232文字

『モディール王国』
  クレリアン伯居城――


 ヨルグ・スタン公国より北を目指し、大陸有数の山岳地帯アル・カザルを越えてゆけば、そこにはモディール王国の南部地域を一手に治めるクレリアン伯爵の広大な所領地が横たわっている。
 その昔は現王家であるモディール家と覇権を競い合ったという権勢を今に残しつつ、しかしながら王家との血縁的な結びつきも強くなった時代の流れもあり、今では王家を支える大貴族のひとつとして他国にも知れ渡る存在となっていた。
 そのクレリアン伯爵が居を構える都市パスワウの城にて――。

「――騎士団をコダールに?」
「はい、ニルヴァ様。500程度ではありますが、公国軍第三軍団と思われる騎士団がコダール丘陵地近くで駐留しているのは間違いありません」

 隣国ヨルグ・スタンの動向を伝える情報官にニルヴァ・ディア・クレリアン伯爵は口にしかけたグラスを置き、情報官に気付かれぬようそっとため息をついた。

「“北魔”の一件に区切りが付くかと思えば……」
「いえ、まだ“仕掛けてくる”と決まったわけではありません」

 煩わしげな伯爵の声に、情報官は「あくまで規定に添った報告」なのだと語調を和らげる。

「今はまだ第一報にすぎず、公国の意図するところまで分析し得る段階にはありません。まずは情報集めに時間をいただき、ある程度状況が明らかとなった段階で、あらためて報告させていただきますので、それまでは――」
「気持ちはありがたいが、そうもいくまい」

 その声に覇気を漲らせて、伯爵は情報官の気遣いを「無用」と退ける。

「奴らがその気になれば、コダールから“魔境”を迂回してアル・カザルの砦へ辿り着くことができる。
 騎士500は攻めるに十分な兵力と言えないが、さりとて補充にしては多すぎる……ならば、我らとしては万一に備えねばなるまい」

 忌々しげに理由を告げる伯爵に、情報官は納得したように頷き、その話しの流れで何気なく尋ねてくる。

「では、念のためこちらも国境警備の増員を?」
「それでは悪戯に前線の緊張感を高めるだけだ」

 伯爵が即座に否定したのは、山岳地の国境警備という任務が、いかに警備兵達にストレスを与えて判断力を奪うか――その危うさを知るが故だ。
 現場での(いさか)いやちょっとした対応ミスが小競り合いに発展し、その小競り合いがさらなる争いを生んで、国同士の大きな衝突にまで発展することなど、歴史を振り返れば決してあり得ない話しではない。

「分かっているだろうが、今はそういう時期じゃ(・・・・・・・・)ない(・・)

 伯爵が説くのは“平和主義”でもなければ“経済政策”でもないことは情報官も承知している。今はある大義を成すために必要な“雌伏の刻”なのだということが。

「どのみち、周りを他国に囲まれた状況下で、背後も気にせず喧嘩を吹っかけるような馬鹿な真似を公国がするとも思えんが」
「確かにコダールでの動きについては、“出兵”と捉えるより、国内事情(・・・・)に起因するものと捉えた方が納得できます」

 だから警備兵の増強などと無駄に軍事費を浪費する必要はない、という伯爵の考えは分かったが、ならばいかなる対策を立てるのか。
 情報官の疑念を先取りして、伯爵が尋ねられる前に教示する。

「バシューム男爵に任せるとしよう」

 それで情報官には事足りたようだ。
 バシューム男爵とはアル・カザル山岳地帯を挟んだ辺境沿いの公国領を統べる貴族のひとりであり、そこへ三ヶ国での行商を許された息の掛かった(・・・・・・)商人を通わせ、日頃から不特定の様々な情報を収集させていた。
 もちろん、情報の“収集”ができるなら、意図的に“流出”させることも可能であり、そうした手練手管を用いることでクレリアン家は代々外敵から国を守ってきたのだ。
 『諜報部』として明確に組織化したのは現当主ニルヴァになってからだが、5年以上携わってきた情報官もさすがに馴れてきたところでもある。

「それではいつもの商人に訪ねさせ、“コダール地方の世間話”に花を咲かせてもらいましょう」
「少し“面子”を傷つけてやれ。すぐにでも騒ぎだすようにな」
「そうなれば、騎士団も、いつまでもうろついているわけにはいきませんね」

 それだけじゃない、と伯爵はさらに狙いを付け加える。

「うまくすれば、あちらさんの事情(・・・・・・・・)とやらが、さらに(こじ)れるかもしれん」
「そうなれば今しばらく、ニルヴァ様は“北魔討伐”の戦後処理に集中できるということですか」

 少し機嫌がよくなった伯爵が再びグラスを手にするのを見つめながら、情報官は理解できたことが間違いないか確認の意味を込めて口にする。その落ち着いた口ぶりとは裏腹に、瞳に敬意を込めながら。

「それで、王都には?」
「無用だ」

 報せるまでもない、と“己の役目”と“王家からの信頼”に絶大な自負を持つ伯爵はさらりと口にする。

「報せるときは――“モディールの悲願”が成される時だ」

 その目が窓外の向こう――アル・カザル山岳へと、それを越えた南の地へと向けられているのを承知しつつ、情報官は静かに頭を垂れて退室した。
 一人残された伯爵は、結局、掲げたグラスを傾けることなく、しばらくは窓外に思いを馳せる。
 東から西へ果てなく続くアル・カザルの雄大な山嶺――眺める分には癒やしをもたらすその存在は、挑むとなれば、途端にその獰猛な牙を容赦なく突き立ててくる。
 だからこそ、人を容易に受け付けぬ土地は、そのまま王国にとっても公国にとっても天然の要害となって外敵から身を守る手段に使われていた。
 
(おかげで、英気を養う十分な刻を稼げる――)

 “北魔”という王国にとって“目の上のこぶ”も切除することができ、そのために負った怪我(・・)をしっかり癒やす時間が何よりも必要なのだ。
 だが、それさえ無事にやり過ごせれば。

あえて(・・・)覇権争いを放棄し、クレリアン家が何のために宿敵を王として(かしず)いてきたのか――」

 アル・カザルの山並みを睨み据える伯爵の双眸に、情報官にも見せなかった凄まじい覇気が強烈な光となって宿る。
 それは誰よりも王たる威厳に満ち、神々が祝福するに相応しき人物に映るのだが、それを目にすべき臣下も民もこの場にはいない。いや、彼の真の姿を知る者など、誰ひとりとして。

 臣下にあるまじき不遜なる野心を、クレリアン家はいまだ秘めているというのか――?

 あるいは、もっと大きな何かを欲するのが、そもそもの行動原理なのであろうか。
 いずれにせよ。
 北国で人知れず、だが確実に、その胎動は脈打ち始めていた――。

         *****

コダール地方
 『ソルドレイ』より先の道中――


「――あの、私お邪魔だった?」

 ふいに、遠慮がちに声を掛けてきた女に右隣を並んで歩いていた扇間が「あ、いや……」と言葉を詰まらせ黙り込む。

「ごめんなさい、どうしても早く公都に戻りたくって……」

 なおも申し訳なさげに謝る女へ返答に窮したまま、扇間ははにかみながらぽりぽりと頬を掻くばかり。
 確かに訳あり(・・・)であることを自覚しているだけに、他人を道連れにすることの危うさを考えれば迷惑以外の何ものでもないのだが、一緒に行動することで公国軍の目から逃れやすくなる利点を無視できないのもまた事実。
 そんな複雑な心境が絡まって、扇間を困らせていたのだが、もう一人の侍には何の制約にもならいらしい。

「お邪魔だなんてとんでもない!」

 そう明るく告げたのは女の左隣にいた鬼灯である。何となく気まずい空気となっているのも、見知らぬ女性を男二人の間に挟み込むという、誰にとっても居心地の悪い隊列(・・)を彼が推奨したことが原因のひとつではあったのだが、当の本人はまったく気付いてないらしく朗らかに笑顔を向ける。

「旅に“道連れ”は付き物です。それが美しき女性であるならなおのこと」
「でも……」

 女が右隣で途方に暮れている扇間をちらと見やるが、肝心の相棒は上機嫌で安請け合いをする。

「いいのですよ。むしろ、我々にとってはこれも“良き試練”になりますから」
「はぁ……」

 訳が分からぬと怪訝な顔をする女に「我々(・・)じゃなくて貴方だけでしょ」とすかさず指摘するのは扇間だ。軽くため息をついて、鬼灯の言動に陳謝する。

「田舎もんの云うことと思って聞き流して。鬼灯さんも(それがし)も、トッド殿に無理言って、初めての旅をさせてもらってるから、勝手が分からないっていうか……」
「そう……ですか? いえ、でも分かります」

 “初めての旅”と聞いて、女も腑に落ちるところがあったらしい。そうだったという風に何度も頷いて。

「私も初めて街の外に出たときは、ワクワクもしてましたが、同じくらい緊張もありました」

 街の外壁に遮られ、子供の頃は一度も目にすることなく話しで聞いただけの想像を膨らませ、脳裏に描いていた“外の風景”。
 両親や他の大人達にどれだけ危険であるかを説かれても、子供の記憶に残るのは輝かしい冒険に満ちた夢物語だけである。
 兎を狩り、時に『怪物』と戦い、星空の下で野営を重ねて、森林の奥にひっそりと咲く秘薬の元である貴重な花を採取する。
 そんな胸躍る探索行が待っている――それしか脳裏になかった新人時代を『探索者』だという女は思い出したのだろう。蒼い瞳を子供のように輝かせている。
 それは二日前に会ってから、どこか“余裕のないひたむきさ”しかなかった彼女の瞳に初めて見た“喜び”の感情だった。

「……まあ、実際はかなりシビアだったけど」
「しびあ?」

 首を傾げる扇間に「まだ新人じゃ分からないか」と女は優しげに微笑む。

「世間じゃ“星の数ほど国がある”と云うけど、実際は人種の支配地域(コントロール・エリア)は案外狭いものよ。だって、一歩でも街の外に踏み出せば、いまだに徒党を組んで歩かないと安全が確保されないんだもの」
「確かに。日ノ本とはまた違った危険に満ちてて……」
「?」

 思わず口をついて出た言葉を誤魔化すように、扇間は「そんな世の中でも逞しく生きてるんですね」と感服したように女を見やる。

「何言ってんの? 貴方たちもこれからそうなるんじゃない」
「え? ……ああ、そうでしたね。精進して、早くグリュネ殿に追いつきます」

 「あはは」と悪びれもせずに笑う扇間を女――グリュネは苦笑しながら見つめる。
 彼の首に提げられた鉄のプレートは、まだ『探索者』として正式に認められていない【見習い】の証。
 そこから昇格するには筆記試験と職業ごとの実技試験の二つを通過(パス)し、さらには10件以上の“見習い任務”である実践訓練を経て、合格した者だけが晴れて『一羽』の称号と共に『探索者』として認められることになる。
 つまりはまだヒヨッコにしかすぎず、『探索者』としては常人の域を脱したレベル5の『片翼』である彼女との間には雲泥の差がある。
 それを何も知らないのだろう、「追いつく」などとあっけらかんと口にする扇間にグリュネが苦笑を漏らすのは当然のことであった。

「まあ、頑張りなさい。貴方たちは見込みがあるから」
「そうですか? その気になってしまいますよっ」

 心の底から嬉しげに笑う扇間がグリュネの真剣な眼差しをどう受け止めているかは分からない。少なくとも、彼女が田舎者の初心者に対し、何かを感じ取っているのは間違いないということだ。
 例えば田舎者だからこそ(・・・・・・・・)、知っていてしかるべき“外の脅威”にあまりに無知すぎるというか、無頓着であるというか。
 何よりも、常に自分達を先導しているトッドは公国でも指折りの探索班『銀の五翼』のメンバーであり、その彼が道連れとしていることに好奇心を掻き立てられずにはいられない。

 一体彼らは何者か?
 それに五翼の他のメンバーはどうしたのか?

 興味深い疑念が彼女の中で渦を巻いているのだろうが、それをおくびにも出さず、決して一言も発することなく旅を続ける。

(でも新人は新人。あの“おしゃべり”トッドが真剣に先導者(パスファインダー)としての役目を果たしているんだもの。私も先輩として、彼らを守ってあげなければ……)

 仮初めとはいえ、一度道連れとなった以上はパーティの仲間として行動に責任を持たなければならない。
 それが失くしてしまったばかりの仲間(とも)を想ってのこととは自分でも気付かずにグリュネは気合いを入れる。
 そんな彼女の奮起を背中でひしひしと感じるトッドは先頭でひっそりとため息を吐いていた。

「はー……あ。何があったか知らないけど、重いんだよねえ、グリュネの嬢ちゃんは。こいつら(・・・・)は放っておいても大丈夫なんだよ……痛てっ」

 ふいに後頭部に小石をぶつけられ、思わず振り返った隊列の一番後ろで、長身の男がしかめっ面で手を振っていた。
 さすがに聞こえたわけではあるまいが、直感で悪口を言われたと察しても不思議ではない“何か”を持っているのだ、あの秋水という男は。

「……ほらな。とんでもねー野郎ばかりだぜ」

 後頭部をさするトッドは、だが、気難しげに唇を結ぶ。これから向かう公都には、後ろの腕自慢達を以てしても気を引き締めねばならない相手が棲んでいるだけに。
 恐らくは公城にいる第一軍団長の『蒐集家(コレクター)』。
 今一人は『俗物軍団(グレムリン)』の団長、あるいはその『幹部(クアドリ)』達。

「いやいや、今回の任務はあくまで情報集め……」

 戦闘行為などあるはずがないのに、嫌な予感しかしないトッドであった。

         *****

 先日までの好天が嘘のように、平原を脱け、今また起伏に富んだ丘陵地帯に入ったところで一行は雨に見舞われた。
 さすがは上位探索者と云うべきか、トッドは総重量20㎏までを何でも呑み込む『悪食の収納小袋(グロス・イーター・ポーチ)』という準国宝級の『魔術工芸品(マジック・クラフト)』を何気に持ち出し、目の前で簡易天幕を取り出してみせると、早めの野営に入ることを指示した。
 幸運だったのは、グリュネが地の精霊術を駆使して焚き火が可能なレベルで雨を凌げる盛り土を辛うじて実現させ、何とか暖かい食事にありつけたことだ。おかげで、雨の不快さを一時的にでも忘れて優雅な休息をとることができていた。

 その後、交代制で見張りを立ててから夜も深まる頃。

 外はいつの間にか小雨となっていたようで、サアアと遠くのせせらぎを耳にするような音が天幕内に響いていた。

「――来たかな(・・・・)?」
「おそらく」

 寝ていたはずの扇間の声に、遅れることなく鬼灯が応じる。

「今は誰が見張りかな?」
双子(・・)だよ」

 再度の問いかけに答えたのは鬼灯に非ずトッドの声。“双子”というのが秋水子飼いの『陰師』達を差しているのは既に皆の知るところとなっていた。
 「修行を課す必要があるんでね」という秋水の独断で勝手に連れてきたのを特に文句を言う者もなく、「それも修行のうち」という秋水の指示で、一行の後を影ながらずっとついてきていたのだ。
 ちなみに交代制の見張りにはこの二人で(・・・・・)取り組んでおり、真面目に「皆でやりましょう」と提言したグリュネを「それでは修行にならん」とさらに生真面目な表情で秋水が却下したので、これも問題にはなっていない。おそらく。
 とにもかくにも。
 小雨であっても天幕内に響く雨音にすべての物音が融け消えてゆく状況で、寝ていたはずの彼らは何を知覚し、目覚めたというのか。

「雨でも獣はうろつく(・・・・)んですね」
「いや、雨だからこそ(・・・・・・)だろ」

 またも疑念に応じたのはトッド。そして「おそらくこれは獣じゃない」と『探索者』としての知識を披露する。
 トッドによれば、普段は湖沼や河に棲んでいるが、雨が降ると“外”へと行動範囲を広げる危険生物がいるのだという。
 『雨を招く者(レイン・メーカー)』――雨天前に、牛に似た鳴き声で“雨乞い”をすることからそう呼ばれている――その正体は強靱な鱗に鎧われた体長1メートルほどの怪魚。
 胸びれと尾で器用に地を滑り走る姿は生理的嫌悪を覚え、相手が蟲や小動物あるいは人間であっても跳躍して襲い掛かる獰猛さと雑食性を併せ持つ。

「地を這うから攻撃しづらい上に、相手は数でくるから上位の探索者もやられる時がある。――気をつけるんだぞ」
「――て、他人事だね?」
「当然。これも見張り番の仕事だ」

 偉そうにそう言い切られてしまえば、勝手が分からぬ扇間としては反論の余地もない。例え「面倒くさいだけ」というトッドの心の内に気付けたとしても。

「ですが、初めての相対となれば“修行”としても厳しすぎるのでは……?」

 当然のように鬼灯が、起きているであろう秋水に投げかければ。

「……ぐぅ」

 熟睡を訴える秋水のいびき(・・・)が応じて「あれ起きてるよね?」と指摘する扇間を鬼灯は何事もなかったように聞き流した。

「我々は行きましょう、扇間さん」
「いいけど、何か納得できない……」

 不満げな扇間を促して鬼灯たちが天幕の外へと向かう。
 天幕の出入口で、「ずぶ濡れでは天幕に戻りにくい」とヘンなところで悩みはじめて渋り出す扇間を「そんなことで試練を受ける好機を逃してはいけません」といつものように意味不明なことを告げる鬼灯に説得される一幕もあったが、特に問題となるわけでもなく。
 それらを含めて終始、雨音に紛れるように囁かれていた会話のせいか、ベテランであるはずのグリュネに気付かれることはなかった。
 無論、本来の彼女ならばさすがに気付いて目覚めていたことだろう。だが、直近の苛烈な出来事に見た目以上に消耗していた彼女は、泥沼に沈み込むかのようにどっぷりと眠り込んでいた。
 それを責めることは誰にできようか。
 某かの事情があるのだろうと、その憔悴ぶりを何となく察していた彼らは、だからこそ彼女を起こさぬよう静かに事を進めていたのだから。

「……いい感じで目が覚めるね」
「ええ、この冷たさもまた、良き試練の味付けになります」

 感謝するように黙祷を捧げ、小さく十字を切る鬼灯。
 星明かりひとつない闇の中、ただ雨に打たれながら二人が顔を向ける先が同じ方向なのは、決して偶然ではない。
 二人には分かるのだ。
 目に見えずとも、びちびちと何かが跳ね、しゃばばと滑り走る音が、あるいはいくつもの異形の気配が迫ってくるのをはっきりと感じ取れるのだ。
 いや、実際にはグリュネが盛った土と『陰師』の二人が守る焚き火の明かりがちらついて、か細いながらも光源があるにはあった。
 普通なら視認できないレベルのあまりに淡い光であったが。

「……わざわざ、お二人が出ずとも」

 ふいに近くで声を掛けてきたのは『陰師』二人のうちどちらかだろう。

「捨丸でございます」

 扇間達の戸惑いとその理由までを察したのか声主が的確に応じる。これで「未熟」と秋水が言うのだから恐れ入る。

「我らも身体を動かさぬと腕が鈍るんでね」
「貴方達は敵陣でたいそう(・・・・)活躍されたとか。ここは譲ってくれてもいいんじゃないですか?」

 扇間の言葉に続けた鬼灯の指摘に捨丸も同意するしかなかったのだろう。少しの沈黙の後、丁寧に謝意を述べる。

「……御助勢、有り難く頂戴致します」
「我らに取りこぼしあったら、お願いしますね」
「お任せあれ」

 短く応じて捨丸の気配が遠ざかれば、「さて」と扇間が足下も気にせず歩き出した。
 あるかなしかの焚き火の明かりでも、まるで猫のように扇間には視認することが可能であり、続いて十分な間を空ける形で展開した鬼灯もそれは同様であった。
 
某の刃(・・・)が通じるといいんだけど」
「貴方と私の刃で貫けない相手ならば、全滅するだけですよ」

 物騒な言葉に耳を奪われがちだが、告げた内容はある意味絶大な自信の誇示であり、鬼灯らしい太鼓判の押し方に扇間からの指摘などあるはずもない。
 天幕よりほどよく離れた位置で、申し合わせたように二人が立ち止まる。そうして、怪魚が近づく不気味な音や気配が一匹づつ明確に認識できるようになったところで。

「――先手はお譲りしますよ」
「当然っ」

 応じた時には扇間の腕が手刀の形を示して、斜め上に振り上げられていた。その寸瞬後、闇の先で鈍い音がかすかに響く。

「あら――弾かれた」
「なかなか厳しい世界(・・・・・)のようですね」

 その言葉以上に、鬼灯の声に真剣味が混じっているのは、雨音に閉ざされた世界で、彼も扇間と同じ結果(・・)を知覚していたからであろうか。
 あるいは相棒の放つ攻撃力を知るからこそ、それを防いだ“鱗の鎧”の頑丈さにはっきりとした“脅威”を認めたからなのかもしれない。
 だがそれは、決して追い詰められた者の声ではない。その証拠に「けれど、厳しい試練ほど乗り越えたときに得られるものは大きいのです」と喜びすら滲ませているのだから。

「その前向きなところには、いつも感心させられるよ」

 苦笑を声に滲ませて、扇間が掲げる右手の先に覗かせるのは、鈍色(にびいろ)手裏剣(・・・)

 『扇間流手裏剣術』――『抜刀隊』にあって異色の武器となる手裏剣と体術を主軸にした総合武術は、祖父甚右衛門が独自の見解で体系化させた振興武術である。
 剣や槍、弓だけでなく近頃は新手の砲術にさえ押されて、ついぞ陽の目を見ること能わなかった不遇の生涯で、甚右衛門が願い続けたのは「ただ武術として認めさせる」こと、その一点のみ。
 だが、それを継承する藤五郎という非才なる武人の出現によって、単なる手慰みのひとつにすぎなかった手裏剣術が、ここに主武器たり得る武具として昇華されることになった。その理由こそが――

「試すに丁度よい機会だ――」

 ああ、彼もやはり武に魅入られた者のひとりか。
 闇に紛れるを幸いに、その口元に酷薄な笑みを浮かべて。
 僅かな動作で腰を、肩を、右手を外側に捻り込みながら、扇間が己の全身を連動させ、まるで弓の弦を引くように身構える。刹那、


 ――――ッギ?!


 闇夜で、鳥が咽を絞められたような奇声が発せられ、それきり途絶えて雨音に溶け込む。それが怪魚の断末魔と気付いたのは、声に称賛を込めた鬼灯だ。

「今度は一撃かい」
「けど、何度も打てないね。腕に負担がかかりすぎる」

 晴れやかと言い難い扇間の声だが、鬼灯が認識した感触は、強靱と聞かされた怪魚の胴をぶち抜くような威力の音だ。
 回転して刺さる手裏剣の特性上、決してあり得ない威力であることを鬼灯ならば気付いたかもしれない。
 たださすがに、己が武芸史に残る絶技の誕生に立ち会えた幸運を知る由もなく。その凄さだけを感じ取り、敬意を込めて問うだけである。

「技名を窺っても……?」
「『死穿(しせん)』――“奥伝”の技法として祖父が考案しながら、術理として確立できなかったものを、ようやく……ね」

 感慨深げに扇間が応じる一方、だが、まだ未完だからこそ扱う者への負担がかかりすぎると彼は嘆く。

「力の入れ具合を調整すればいいのでは?」
「そんな都合良くは。――でも、参考にさせてもらうよ」

 一度は否定しようとして、それでも扇間なりによい助言として捉え直すことができたらしい。素直な感謝の意を鬼灯は快く受け止める。

「では、私も心して“突く”としましょう」

 相棒の戦果で自信を深めたわけでもあるまいが、さらに歩を進める鬼灯の手には、いつの間にか雨に濡れる白刃が。それを眼前に掲げながら彼はひとりごちる。

「ふむ。しとどに濡れる刃もおつ(・・)なもの――『村雨丸』とでも名付けようか」

 『(なかご)』と呼ばれる刀柄に覆われる刃の根元部には、奇しくも「田の字」が彫られているのだが、その出所を知らぬ鬼灯は、ただ己の感性に従い勝手に名を付け満足する。
 「焼いて美味しいとよいのですが」と軽口を叩きつつ、鬼灯は自慢の刃を存分に振るうのであった。

         *****

 翌朝。
 陽が高くなってきて、暖めらた泥土が湿気をたっぷり含んだ不快な空気に覆われた頃、ようやく起き出してきた扇間達をグリュネの不景気な顔が出迎えた。

「いやあ、すっかりお天道様のご機嫌もよくなったようで」

 相変わらず朗らかに挨拶してくる鬼灯にグリュネの呆れたような視線と共に非難の言葉が浴びせられる。

「“外”の旅が危険だってこと忘れてない? 夜は早めに野営して防御を堅め、朝は早起きして歩く時間を確保し、少しでも距離を稼ぐ――『探索者』の基本なんだけど。ねえ、トッド先輩(・・・・・)?」
「うぇ? あ、ああ……よく聞いておけよ、お前達」

 後ろ髪をぴょんと跳ね、目やにをしきりにこするトッドが左にいる誰か(・・)に向かって偉そうにもにょもにょ云っている。
 その横顔を(・・・)扇間が無言で指差し訴えるがグリュネは黙殺して話しを続ける。

「それより、昨夜何があったか教えてもらってもいい?」
「昨夜?」
「ええ、昨夜よ」

 そう云ってグリュネが周りに視線を向けるのは、あちこちに散乱しているたくさんの魚の死骸を差しているので間違いあるまい。そのうち数尾は、グリュネの前で赤々と燃える焚き火に焼かれ、実に食欲をそそる香ばしい臭いを漂わせていた。

「それ、美味しいですか?」
「『雨を招く者(レイン・メーカー)』よ――調理にコツがいるけど、一部の美食家には高値で取引される稀少食材。まあ、私たちにとってはただの精が付く食べ物ってだけね」

 生真面目に解説しながら「質問しているのは私なんだけど?」とグリュネは鬼灯を睨み付ける。

こいつら(・・・・)はね――」

 ほんのりと焦げ目がついてきた串刺しの怪魚を彼女は指差しながら諭すように続ける。

「例え高レベルの『探索者』でも油断できない危険な相手なの。それを私に報せず、トッドに任せる(・・・・・・・)なんて(・・・)――」
「いえ、それは我々――」
「弁解無用っ」

 顔を険しくしてビシリと指を突きつけてくる剣幕に鬼灯も口を(つぐ)まされる。扇間はただ苦笑いだ。

「疲れていたとはいえ、私に気付かせず奴らを退治するなんて――さすが『五翼』ということかしら?」
「……まあ、ね」

 相変わらず誰もいない方へ向いたまま、あくびまじりにトッドが自慢げに腕を組むが、当然、サマにならない。そんな状態で器用に話を合わせられることも含めて、ある意味、確かに大人物と言えなくもないが。
 扇間はといえば、指摘するのもグリュネの勘違いを訂正するのも諦めたようだ。
 どこまでも真剣な表情の彼女に、自分達を思って厳しい言葉をかけてくれると察すれば、ありがたく聞いておくのがよいと思ったのだろう。

「いくら何でも、闇夜の戦闘は新人にはハードルが高すぎるけど……それでも確かな戦術を持って戦えば、勝つことはできる。きちんと教えてあげるから、次は私を起こせと見張り番に云っておいて」
「ええ、必ず」

 鬼灯が請け負い、「申し訳ない、グリュネ殿」と扇間が素直に頭を下げる。ちなみにここまで顔を出していない秋水はといえば、この後、爽やかな笑顔で『陰師』を引き連れ戻ってきた。
 「早朝の散歩は欠かさない」というのが、出払っていた理由である。「何か自由すぎない?」と一同を見回し、疲れたようにグリュネが嘆息をこぼしたのは言うまでもない。

「――ところで、勘違いしているようだから、教えておく」

 遅めの朝食が終わり、立ち上がって背伸びするトッドがグリュネに何気ない感じで声を掛けてくる。
 先ほどの寝ぼけっぷりが嘘のような、妙に真剣味を帯びたその声に、グリュネが訝しげに耳を傾けるのへ、トッドは意外な台詞を口にした。

「魚を捕ったのは俺じゃない。あの二人だ」
「え?」
「気付いたか? 魚の死骸が集中しているところが大雑把にみて二箇所――その中心部になる地面にはそれほど乱れた足跡がない(・・・・・・・・)

 トッドが何を云っているのか、グリュネに分かるのはその噛んで含めるような口調と静かに光を放つ眼が、本気で何かを伝えようとしている、ということ。
 だから「要するに――」と分かり易く言い換えてくれたのだろう。

「この厄介な魚を、たった二人で、きれいに片付けた――てことさ」
「え?」
「面白い連中だろ? 俺だって見込みがなけりゃ、仮初めでもパーティなんか組みゃしないぜ」
「……」

 呆気にとられたままのグリュネにウインクしてトッドが天幕の片付けを始める。

(これだけいた『雨を招く者(レイン・メーカー)』をあの二人だけで――?)

 突然の話しについていけないグリュネが我に返るのは、しばらく経ってからのことであった。
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