第99話 ミリオースの覚悟(5)

文字数 2,773文字

「どなたか、この子をボルデーまで連れて行ってはくれませんか。後生です。どなたかこの子をボルデーに連れて行ってはくれませんか」
 必死に懇願する老婆に立ち止まる者は誰もいない。自分達のことで精一杯なのだ。
 一度、同じくらいの年頃の子供二人を連れた一家の母親が立ち止まったが、「御免なさい。私達もボルデーに行くの。だけど食料は家族で食べる分だけしかないのよ。だからその子は連れていけないわ。ご免なさい」と頭を下げて立ち去る。
 オオ、と老婆は嘆きの声を洩らす。
「おばあちゃん、僕ここにいるよ。おばあちゃんと離れるのは嫌だよ」
「オオ、マオや。お前はアデリー山脈からやって来る異人達の恐ろしさを知らない。あいつらは人の皮を被った悪魔なんだ。お前の爺ちゃんは彼奴等に殺されたんだ」
 老婆の話は21年前、アジェンスト帝国に侵攻された時の事を言っているようだった。あの時の惨事は今も忘れ去られてはいない。
「いいかいマオや、よくお聞き。お前のママは今、ボルデーに住んでいる。そこへ行きなさい。ラドーネにいては駄目だ」
「嫌だよ。僕はおばあちゃんと一緒にいるよ。ここにはパパもいるし」
「マオや、婆ちゃんの言うことを良く聞きなさい。お前のパパは騎兵団の騎士として戦いに行かなければならない。相手は悪魔なんだ。生きては帰れないだろう。お願いだから分っておくれ。婆ちゃんはお前まで失いたくはないんだ。お願いだから言うことを聞いておくれ」
「嫌だよ、嫌だ。お婆ちゃんと一緒にいる」
 男児は泣き出した。老婆はオオ、と嗚咽を堪える。
「婆さん、ボルデーまでなら俺が連れて行ってもいいぜ」
 エッ、と老婆が顔を見上げると、容姿端麗な若い男がいた。
「あ、あなた樣は」
「テネアの商人さ。商談でラドーネまで来たんだが、それどころじゃなくなったってところさ」
「ほ、本当にこの子をボルデーまで連れて行ってくださるのですか」
「ああ、いいぜ」
 ナランディが驚いた顔をしている。無言だが正気か、といっているようだ。
「あ、ありがとうございます。ああ、あなたは神様のような方じゃ」
 涙を流して礼を述べる老婆にオバスティは、そんなんじゃねえよと苦笑する。
「それで、ボルデーのどこに連れていきゃあいいんだい」
「この子の母親がボルデーに住んでおります。そこへ連れて行ってくだされば」
「母親がボルデーに?」
「あ、ああ、はい。実は」
 老婆は決まり悪そうに語りだした。ラドーネに騎兵団の父と母と息子、そして父の母親であるこの老婆と四人で住んでいたのだが、3年前に母親が若い男と駆け落ちし、子どもと夫を残してボルデーに去っていったという話だった。
 騎士だという夫とは不仲で、この老婆とも折り合いが悪かったらしい。
「その母親のところに、こいつを連れて行っても大丈夫なのかい。迷惑がられるんじゃねえのか」
 それは、と老婆はおし黙る。
「ですが、もうボルデーしか安全なところはないのです。それにこの子の母親だって人間だ。お腹を痛めて産んだ我が子を邪険にするはずがありません」
 老婆は必死に訴える。
「人間なんて何にでもなるぜ。婆さんが一番分かっているはずだ。アジェンスト帝国軍の奴らだって人間なんだぜ。それが悪魔の所業に手を染めるんだ。実の母親だろうが、何をするか分かったもんじゃねえ」
 そんな、と老婆は項垂れる。
「それに一つ言っておくぜ。ボルデーだって安全な訳じゃねえ。もしラドーネがやられりゃ、次に帝国軍が狙うのはボルデーだ。次は一体どこに逃げるんだい」
 そ、それはと老婆は言葉を失う。
「まあいいさ。婆さんの気持ちが分からない訳じゃねえ。ボルデーには連れて行ってやろう」
 オオ、と老婆は両手を組んで感謝の意を示すと、一枚の封筒を差し出す。
「この子の母親に渡してください。私からの手紙が入っております」
 何も言わず封筒を預かる。
「じゃあ、俺たちはもう行くぜ」
 そう言うと、老婆は男の子をしっかりと抱きしめる。
「マオ、元気でね。達者に暮らすんだよ」
「おばあちゃん」
 老婆の顔は涙でグシャグシャとなっていた。男児はウワンと泣き止む気配がない。
「そろそろいいかい」
「はい、すみません」
 老婆は男児の両肩を掴むと体から引き離す。そして魚のデザインのネックレスを男児の首に巻く。
「これは死んだ爺さんの形見だ。お前を災いからきっと守ってくれる」
 老婆はもう一度男児の体を抱き締める。
「じゃあね、マオ、元気でね」
「うん、おばあちゃんも元気でね」
 ウンウンと老婆は何度も頷く。
「行くぞ、坊主」
 オバスティとナランデイが歩き出すと、男児もトボトボと歩き出す。
 何度も振り向くと、その度に涙を拭う老婆の姿があった。 
「坊主、名前は」
「マ、マオ」
 涙が止まらない男児をオバスティが見つめる。
「泣きたきゃ泣きたいだけ泣くがいいさ。でもなマオ、いくら泣いたって何も変わらねえぞ。いいか、泣くだけ泣いたら前を見な。強くなりな」
 でも、でもおばあちゃん、と男児の涙は止まらない。
「いいかマオ。これからはどんなことがあっても必ず生き残ってやる、と強い気持ちを持て」
「強い気持ち?」
「ああ、そうだ」
「そんなこと出来ないよ。おばあちゃんがいなくちゃ、ウエーン」
「出来るさ、俺達がそうだったからな」
 エッ、と男児の涙が止まる。
「俺達はこれから向かうボルデーの生まれだ。俺達の親は俺達が小さい時に戦争で死んだ。お前の歳くらいの時には、同じような境遇の子供達と肩寄せ合いながら生きていたぜ」
「エッ、そうなの」
 ああ、とオバスティは返事をする。隣でナランディが悲しい顔をしている。同じ境遇の二人は幼馴染みだった。
「いいか、マオ。どんなことがあっても強い気持ちを持て。そうすりゃ、生き残れる」
 う、うん、と男児は返事をする。
 用意していた荷馬車の荷台に男児を乗せる。好天の中、三人を乗せた荷馬車はラドーネを後にし、広大なローラル平原を走る。
 泣きつかれた男児は荷台の中で寝ていた。一筋の涙が頬に残っている。
「そんな顔すんなよ。ナランディ。この子をほっとけなかったんだよ」
 この後、本当はアモイに向かうはずだった。アモイはオバスティの拠点だ。アジェンスト帝国来襲を受け、拠点で一度体制を整えようと思っていたのだ。
「アモイには、ナルダを行かせるさ」 
 ナランディは何も言わない。
(またなの。情に流されては駄目と言っているじゃない)サーメルの呆れた顔が浮かぶ。
(でも、あなたらしいけど、フフフ) 
 無性にテネアにいる恋人に会いたい気分に駆られる。
 三万ものアジェンスト帝国軍を相手に、俺達が出来ることは精々、情報収集と物資の支援だけだ。正面切って戦えない歯痒さを感じる。
「ディーン・ロード、あいつが早く王になってくれることを手助けしてやるしかないな」
 そう言うと、ナランディは頷いた。
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