第9話 嵐のマクネの森(2)

文字数 3,778文字

 ドキドキしながら、天幕の裾を少しめくってみる。
 息を潜めながら、そっと中を覗くと、ムッとむせ返るような生々しい熱気と女の荒い息遣いが聞こえる。
 ナナは咄嗟に、見てはいけないものを見てしまったという背徳感に襲われる。
(駄目だよ、これ以上みちゃ駄目だ)
 戒めようと思えば思うほど、目を逸らすことが出来ない。
 暗闇にジッと目を凝らす。
 ゆさゆさとセミロングの髪が揺れるたびに切なそうに吐息を漏らしている女のシルエットが見えた。
(本当にターナの姉貴なのかな)
 一瞬、そう思ったが、広い肩幅、豊かな胸の膨らみ、腰の大きなくびれはターナに間違いなかった。
 こんなターナは初めて見た。18歳の少女の目は釘付けとなる。
 女に乗り掛かられ、少年が苦しそうに顔を歪めているのが見えた。
(え、あれアルジなの)
 思わず、声が漏れそうになるのを両手で口を塞ぎ堪える。
 もう少し近くへ寄ろうとしたときだった。
 ヒュンという音と共に、槍の穂先が目の前に突きつけられていた。
「誰だい」
「あ、姉貴、あたしだよ。あたし」
「なんだい、ナナか」
 槍の穂先がシュルシュルと縮んでいく。伸縮自在な槍、ターナ愛用の武器フレキスピアーだ。
「他人の色事を覗くのは関心しないね、ナナ」
「ごめん姉貴。でも、お嬢が呼んでいるんだ、早く来て頂戴」
「お嬢が?何かあったのかい」
「行き倒れた男をあたしが見つけたんだけど、そいつ、お頭が見込んだ奴じゃないかって、お嬢がいうんだ」
「何だって」とターナが驚く。
「そいつ、生きてんのかい」「今は生きてるよ。マキ姉とルナ姉の天幕にいる。でも、衰弱しきってかなりやばいの」
「分かった。直ぐにいく」
 ターナは立ち上がった。フウと溜め息をつきながら、赤い髪を掻き上げる仕草が艶めかしく、ターナの姉貴も女なんだなと思わせられる。
 隻眼のターナの異名を持つ彼女は、腹心としてエリン・ドールに常に付き従っている。
 歳は26歳とエリン・ドールより年上だが、年下のリーダーに絶対の忠誠を誓っている。
 少し釣り上がった大きな瞳と整った顔立ちをしているが、アルフロルドで守備兵に捉えられたときに左目を失っていた。
 荒々しい性格で、彼女のトレードマークである左目の黒い眼帯が相まって人々に凄みを与える。ショートボブだった赤色の髪はセミロングになっていた。
「アルジ、お前も来るかい」カチャカチャと腰のベルトを締めながらターナが言う。
「ああ、僕も行くよ」

「それにしても、ちくしよう、反って欲求不満になっちまったよ」
 ターナはすこぶる機嫌が悪い。
「また、今度にしようよ、ターナ」
 そういいながら少年が立ち上がった。エムバ族の王子である彼は、現王レンドのたっての願いで、将来のエムバ王としての見聞を広げるため、山賊ヨーヤムサン一味に加わり、共に旅をしていた。
 チビの王子と馬鹿にされた彼も、身長がみるみる伸び、今や180センチを超えている。
(段々と、大人になっていくみたい)
 カチャカチャと腰のベルトを締める少年を、ナナが感慨深く見つめる。
「僕は会って見たかったんだ」
「うん。ずっと、そう言ってたものね」
「先に行ってるよ」とターナが天幕を出る。
「僕たちも早く行こう、ナナ」
「分かった、行こ、アルジ」
 日に日に逞しさを増していくアルジの後をついて、ナナは天幕に向かった。

 ディーンはずっと夢を見ていた。父さん、母さん、ミラ姉さん、ノエル兄さん、妹のジュンがいる。いつものように談笑をして家でくつろいでいた。
 おかしいな、俺はテネアに向かうべく家を出たはずだ。いつの間にか、オリブラの我が家に戻ってきてしまったのか。
 マクネの森に入ったのが三日前だったことは覚えている。
 すっぽりと頭からフードを被り、ふうとため息をつく。フードの中からのぞかせる、その瞳は疲れ切っていた。
(嵐はいつ止むんだろう。早く森を抜けないと食料が持たないかもしれない)
 このまま森を抜けることが出来ず死んでしまうのではないか、とふと思う。しかし、その考えをすぐに打ち消すと、フフと笑った。
 嵐はやみそうにない。せめて風か雨か、どちらかがやんで欲しいと願う。
(とにかくこんな所にいても仕方がない。取り敢えず、どこかで食糧を確保しないと)
 昼でも薄暗い深い森の中、嵐という悪天候に見舞われ、特異能力といえる、空から俯瞰したかのように地形を読む能力は使えなくなっていた。
 天候が荒れそうな気配は感じていた。無理をせずマチスタで少し待っていれば良かったと後悔したが、ここまで森の奥深くに入ってしまえば引き返すこともできない。
 フードを深く被りなおすと嵐から身を守るように身を屈め、重い足を進めた。それから丸二日間、森の中を彷徨った。嵐は全く止む気配を見せず、偶然見つけた洞窟の中で体を休める。食料は底を尽いていた。
 一向に森を抜け出すことが出来ず、焦りと疲労感に駆られる。
(食べていないのに、空腹感がまるで無い・・・・・・疲れた)
 一刻も早く食料を確保しなければならなかったが、一向に止む気配のない激しい風と雨がそれを阻む。
 背中に背負っている剣が非常に重く感じられた。
 しばらく重い足取りを進めた後だった。
 微かではあるが、灯りが見えた。
「あ、あれは」
 沢を挟んで反対側の森に10張ほどの天幕が見える。こんな所に多くの天幕があるのは不審に思えたが、そんなことを言っている状況ではない。
 行ってみるしかない。そう覚悟を決めた。
 重い足を何とか一歩前に踏み出した時、足元の地面が突如滑り出した。いつもであれば咄嗟に逃れることが出来たかも知れないが、衰弱し切っていたディーンの反応は遅れた。
 足を取られ斜面の下へ滑落を始める。目の前に真っ黒な濁流が迫ってくる。
「まずい、止まれ」
 そう叫んだとき、体は寸前で斜面に留まっていた。
「危なかった」
 息を飲んで、ゴオーゴオーと目の前で飛沫を立てる濁流を見る。心臓が早鐘のように鳴る。
 少し落ち着かせてから立ち上がろうとしたのだが、力が全く入らない。
「あれ」
 すっかり体力を使い切ったのだ。
「体が動かない、だめだ。こんなところで俺は死ぬのか・・・・・・」
 雨に体温を奪われ次第に体が冷たくなっていくのが分かる。
(寒い・・・・・・ごめん。父さん、母さん、寒い寒い・・・・・・暖めて・・・・・・暖めて・・・・・・)
 意識がもろろうとなる中、ディーンは眠るように目を閉じた。
 どれくらい経ったのだろう。気付けばマチスタの我が家にいた。ああ、父さん、母さんがいる。ミラ姉さん、ノエル兄さん、ジュン、いつもの我が家の風景だ。何だ、今までのことは夢だったのか、とホッとする。
(父さん、俺、酷い夢を見たんだ)と父に語りかける。
 しかし、微笑み掛けてくれるだけで何も言葉を返してはくれない。
(母さん、聞いてくれよ、酷い嵐の中を歩いている夢を見たんだよ)母も同じだった。
 ミラ姉さん、ノエル兄さん、ジュンも微笑むだけで何も語りかけてはくれない。違和感があったが、家族と一緒にいる安心感がそれを打ち消す。
 ディーン、ディーン。どれほどの時が経ったのだろうか。遠くで自分の名を呼ぶ女性の声が聞こえる。
(あなたは、まだ死んではいけない。あなたはまだやるべきことがある)
(誰だろう)
 何時かは思い出せないが、以前にも聞いたことのある優しい声だった。知らない声なのに、何故か懐かしく感じる。
 気付けば、いつしか柔らかな女性の体に包み込まれている感触がした。非常に心地良く次第に体が暖かくなっていく。
 これは、ミラ姉さんが抱きしめてくれているに違いない。幼い頃、冬の寒さで凍える体をこうやって抱きしめて暖めてくれたものだ。余りの心地良さに身も心も委ね、ただジッとする。
 すると、次第に感覚が蘇ってくるような実感が湧いてきた。目の前のユラユラとした光景が鮮明になってくる。
「え」
 本当に女性の豊よかな胸に抱かれていることに気付く。ミラ姉さん、そう思った時、スカルのチョーカーネックレスが目に入った。いや違う、ミラ姉さんではない。
「目が覚めたか」
 女の声に、ハッとして視線を上げると、左目に黒い眼帯を着けた目付きの鋭い女がジッとこちらを見つめていた。
 この女に抱かれながら寝袋の中に入っていたのだ。しかも二人とも裸のようだ。綺麗だが、初めて見る風貌だった。異人かも知れないとディーンは思う。
「あ、あなたは」
「あたしのことはどうでもいいよ。いいかい、お前は森の中で倒れていたんだ。それを此処まで運びこんできたのさ。記憶はあるかい」
「あ、ああ」やはり濁流に呑まれかかったのは夢ではなかったのだ。
「ずっと、うなされていたぞ。しきりにミラって名前を呼んでいたが、お前の恋人か」
「いえ、姉さんの名前です」
「ふーん。まずはもう少し眠りな」
 見た目は怖いが悪い人ではないようだ。少し安心してスッと目を瞑る。
 すぐに眠りに落ちたディーンを見て、ターナは思う。アルジと変わらぬ歳の少年とは聞いていたが、本当にこいつがお頭の見込んだ男なのだろうか。
 ナナが見つけていなかったら、とっくに死んでいたはずだ。
 自分の胸の中で泥沼に沈んでいくように眠る少年にターナはチッと舌打ちする。
(仕方がねえ。取り敢えず命だけは助けてやるか)ターナは少年を包み込む様に抱きしめた。
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