第19話 太陽の女神(5)

文字数 3,060文字

 テネア城の東の城門を出て直ぐに小さな教会がある。日曜日になると多くの人々が祈りに集うこの教会は、テネアで初めて建てられたもので、前地方長官であるルーマニデアが建てた、比較的新しい建築物だ。
 元々テネアには教会がなかった。それは決して人々に信仰心が無かったからではない。
 ルーマニデアが来る前、人々の信仰の対象は古くから伝わるローラル平原の神々だった。エメラルド近郊の貴族出身であるルーマニデアは敬虔なルエル教の信者であり、テネアに赴任する際、エメラルドから牧師夫妻を招いていた。
 初めのうち、人々は都から来た異教を奇異に感じ、牧師夫妻を避けるように距離を置いた。しかし、牧師夫妻は人々に対して信者になるよう強制することはなかった。ひたすら、この小さな教会で質素な生活を送り、神に祈りを捧げる日々を送っていたのである。
 そんな牧師夫妻の真摯な人柄に、次第に悩みを抱える人々が教会を訪れるようになっていった。そうした月日が経つうち、人々は牧師夫妻を信頼するようになり、自然と教会に集うようになったのである。
「お早う、ステラ牧師様。ご機嫌はいかが」
「お早う、マークフレアー。あたしゃ、いつでも元気さ。ところで、あたしのことを牧師と呼ぶのは止めとくれと何回も言っているだろう。あたしゃ、牧師じゃないんだよ。牧師だったのは死んだ旦那さ」
 聖典を小脇に抱えて、眼鏡を掛けた老婦人が立っていた。歳の項は七十代で、小柄で痩せていたが、その眼光は鋭い。
「では何とお呼びすれば良いの。人々に御救いのお言葉を御与えになる方を牧師様と呼ばずに何とお呼びすれば良いのかしら」
「牧師以外だったら何でもいいさ。牧師は教えを正しく伝える人のことさ。あたしみたいに型破りな話ばかりする者が牧師だったら、それこそルエル様が卒倒なされるよ」
 この老婦人の名前はステラ・オーバル。ルーマニデアに請われてテネアに来た牧師の妻だ。
 夫のオーバル牧師は十年前に病で他界している。夫の死後、テネアの人々の心の拠り所として教会を一人で守ってきた彼女は若い頃、教会付きの看護師として幾多の戦場で負傷した兵士達を看護した経験があった。その時、看護の甲斐なく目の前で死んでいく兵士を数多く見ていた。また自身も戦場で流行り病に罹り、死線を彷徨ったこともあった。
 そうした人生経験に裏打ちされた彼女の助言は悩める人々の心に刺さり、いつしか彼女はテネアの母と呼ばれるようになっていた。
 マークフレアーも、ステラ牧師を頼りとし、欠かさず朝夕に教会を訪れては祈りを捧げていた。今朝も教会を訪ねている。
「ところで、今夜の夕食、一緒にどうだい。承知のとおり豪勢な物は何もないがね。お前の好きな蒸しパンと煮込んだ野菜のスープがあるよ」
「本当、うれしい。御馳走になるわ」
「ロド、お前の分もあるからね」
「は、はい」
 ニキビ顔の少年従卒が笑みを浮かべる。

 夕闇が迫る頃、教会の中にある小さな食卓で三人は神に感謝の祈りを捧げた。
 パンと野菜スープだけの質素な食事だが、マークフレアーは安らかな表情を見せる。
 ステラ牧師は優しい眼差しで見つめながら、赤ワインをマークフレアーのグラスに注ぐ。
「お前のブロンドの髪は相変わらず美しいね。だけど、今夜は少し陰りが見えるよ」
 思わず食事の手が止まる。
「フウ、何でもお見通しね」
「分かるさ。お前が赤ん坊の時からずっと見ているんだ」
 実母を失くして以来、ステラ牧師は母親代わりだった。時に優しく時に厳しく我が子同然に接してくれた。
「悩むのは悪いことではないよ。けれど悩みすぎは駄目さ」
「そうね。分かってはいるのだけれど、つい考えてしまうのよ」
 人々から太陽の女神、テネアの太陽と讃えられる一方、その責任感と重圧は並大抵のものではない。
「愚痴を吐きたきゃ吐いていけばいいさ」
「フフ、そんなことをしたら折角のおいしい食事が台無しになるわ」
「あたしの料理を美味しいと言ってくれるのはお前とサルフルムくらいなものさ」
「そんなことはないわ。ロラルドだって、ステラ牧師様の蒸しパンは大好物なはずよ」
「そうかも知れないが、あいつは教会に寄りもしないよ。あたしに小言を言われると敬遠しているのだろう」
「フフ、今度言っておくわ。ステラ牧師様が会いたがっていたって」
「そうだね。お前からも言っておいておくれ。蒸しパンを食べにおいでとね」
「フフ、分かったわ」
 本当の母娘のように会話をしながら、食事が進む。
「ステラ牧師様、悪霊の騎士の話を聞いたことはある」
「何だい、突然」
「気になるのよ」
 二人は食事の手を止めた。
「聞いたことはあるさ。21年前のテネアに現れ、人々に恐怖を与えたという騎士のことだろう」
「そう、人々の間で伝説となっているけれど、本当にいたと思う、ステラ牧師様」
 ステラ牧師が凛とした厳しい表情になる。
「人は誰しも欲というものを持っている。恐らく、悪霊の騎士というのは、人の欲深さを表しているものじゃないかと思うね」
「深い欲望ということなの」
「そうさ。欲深さを改めなさいと、ルエル様は仰られた。何処までも欲を求めることは破滅を招く。まして私利私欲に走った者の末路は酷いものだ。それを体現した象徴なのだと、あたしは思うね」
「人々の際限のない欲望が産んだ怪物ということなの」
「そうかもしれないね」
 マークフレアーは考え込む。欲のない人間などいない。欲を持つこと自体が悪いことなのだろうか。
「もし、本当に悪霊の騎士がいるとしたら、私は勝てるのかしら。人々を守ることが出来るのかしら」
「マークフレアー、いつも言っている様に真実は一つしかないんだ。自分を信じて、やるべき事をやるしかない。神様はお前のことを見捨てず、お導きになるだろう。あたしもどんな事になろうとも、決してお前の事を見捨てたリはしない。いつもお前の傍らにいる」
「ありがとう、ステラ牧師様」
 安心感に包まれ穏やかな気持ちになるのを、マークフレアーは感じずにはいられなかった。

「マークフレアー様」
「何、ロド」
 城への帰り道、ロドが聞く。
「悪霊の騎士は、本当にいるのでしょうか」
 不安そうな顔だ。
「そうね、私にも分からないわ」
「そうなのですか」
「でもね、ロド。ステラ牧師様が仰られたように人々の欲望というものは何処までも際限がないと思うわ。ルエル様も仰られたわ。足るを知りなさいと」
「足るを知る、ですか」
「そう。際限のないものを幾ら追い求めても、満ち足りることはない。永遠に求め続け苦しむだけ。そのことを知りなさいということね」
 うーんとロドは真剣に考え込む。
「でも、ロドはまだ若いわ。これから色々なことを経験するのだから、消極的ではだめよ」
「え、マークレアー様に一生懸命お仕えしているつもりですが」
 ううん、とマークフレアーは笑いながら首を横に振る。
「あなたの仕事ぶりは素晴らしいわ。本当よ」
 ロドは安心した表情を見せる。
「私が言っているのは、もっとプライベートなことも頑張りなさいということよ」
「え、プライベートなことですか」
「そう」
 何のことだろう。ロドは考え込む。
「素敵な女性と恋をしなさい、ということよ」
 パチンとウインクして、マークフレアーは先に進む。
「え」
 東の城門が迫っていた。城兵が四人が敬礼してマークフレアーを出迎えている。
「ほら、急いでロド」
「は、はい」
 身近にこんなにも魅力的な女性がいるのに、僕は他の女性に恋することなんてできるのだろうか。ニキビ顔の少年は駆け足で、城門をくぐり抜けるのだった。
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