第22話 私と

文字数 1,750文字

 高校生のしもんは、空中で何かを揉むように手を動かしていた。
「しもん、何してるの?」
 高校生の私は、すかさず訊いた。
「ん?あぁ、噂で聞いたんだが、時速六十キロメートルで走っている車の窓から手を出せば、Cカップのおっぱいを揉む感触に近くなるらしい」
 いつも通りだ。
 いつも通り、くだらないことを考えていたしもん。
「だが、僕はまだ女性の乳を揉んだことないからなぁ」
「え」
 当時の私が、少しだけ恥ずかしがっている様子を見ると、映像を見ているこっちも、何だか恥ずかしくなってきた。
「時速二十キロはどう思う?」
「おい!!!わたしか!?六十キロはありますぅ!!!」
 不意打ちを食らい、大きな声が出てしまっている。
「あ…」
 教室内が静まり、周囲の視線を感じたが、クラスメイト達はすぐに、自分達のお喋りに戻ってくれた。
 当時の私は、まさか胸の話をしていたとは傍から聞いても思うまい、と思っていたのだが、今になって分かった。私は恥ずかしいことを大きな声で言っていたのだ。
「はーい!皆さん!今から、運動会のクラス対抗リレーについて話し合いたいと思いまーす!」
 学級委員長が、前で話し始めると、教室内が一気に静まり返った。
 ただ、大したことはなく、勝つための作戦として、順番やバトン渡しなど、ありきたりな内容を長々と話し合っていたのだ。
 私もしもんも、こういう時間が苦手だった。
 しもんは紙に何やら絵を描き始め、そして私は、頬杖を突き、窓の外の自然をぼうっと眺め始めた。
 二人が各々の時間を過ごす映像。
 意外と退屈しなかった。
 真剣に紙に落書きをするしもんを観察できる。
 そんなしもんが可愛くて仕方なかった。
「隣のクラスとのタイムの差が二秒ほどありました。ですがよく考えてください。このクラスには三十人の生徒がいます。一人、コンマ一秒速くなれば、タイムを三秒縮めることができます!!!」
 クラスメイト達がざわつき始めるが、しもんと私は、上の空だった。
「国語さん!」
 委員長の声が、映像の中の私と今の私が我に返る。
 そういえば私、国語だけがいつもテストで満点だったから、皆から『国語』って呼ばれていたんだ。
「何ですか?」
「あなたはこのクラスで一番足が遅いんだから、コンマ五秒くらいはタイムを縮めてよね。十秒台はあなただけ。コンマ五秒、タイムを縮めるくらい容易いでしょう?」
 この委員長は、トップの器ではないと、この発言からでも何となく想像できるが、極めつけは、委員長の性格だ。
(私の言うことは絶対)精神が太く根付いていて、今回の場合だと、私が「イエス」の返事を出すまでは話し合いを終わらせてくれないのだ。
 それで何人もの生徒が折れるのを、何度も見たことがあったから、
「はい」と、高校生の私はすぐに返事をしてしまっていた。
「うん。それでは各自、努力するように。これにてリレーの作戦会議を終了とします」
 放課後の時間を使っていた為、委員長の話が終わると、クラスメイト達は鞄を持って、一気に教室を出ていった。
 教室に残された、私としもん。
 しもんはまだ、紙に絵を描いていた。
 そのときの記憶ははっきりと覚えている。
 私は運動神経がかなり悪く、さらに運動センスも皆無だった為、どうやってタイムを縮めようかと必死に考えていたのだ。
 今となってはどうでも良いと思っていることだが、当時の私はとにかく、皆に嫌われないよう必死だった。
 相手の言葉に嘘があっても、嘘には触れず、大袈裟に驚いたり、喜んだり、悲しんだり。
 でも、しもんがいなかったら、こんなには頑張れなかっただろうな。
 気付けば、しもんは帰る準備を済ませ、横にいる、下を向いて落ち込んでいる高校生の私を見ていた。
「心の底から、嬉しかったんだよ。しもん」
 私は、映像の外からぼそりと、そう呟いた。



 しもんは徐に、がま口財布の蓋を開け、金色に輝いた五百円硬貨を取り出し、私の机の上にカチリと音を鳴らし、置いた。
「君のコンマ五秒を僕が買う」



 カチリ。



 私は、その音が映像からではなく、私が今いるこの世界から鳴っているものだと、すぐに気付いた。
「しもん」
 私の目の前に現れたしもんは、五百円硬貨をそのまま地面に置いて、立ち上がった。
「国語、救いに来た」
 嘘じゃなかった。
 しもんなんだ。

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