第1話 僕と理科
文字数 3,423文字
この事務所に訪れる人間なんて、数えきれるくらいだ。しかしそれは、悲しいことではない。が、嬉しいことでもない。
その判断は、足音で決まる。
「やぁやぁ、しもんくん」
透き通った綺麗な声が、外から小さく聞こえてきた。
僕は一つ、ため息を吐く。
「やぁやぁ、しもんくん」
聞こえてくる声が少しだけ大きくなり、それと同時に、階段を登る足音が聞こえてきた。聞き慣れた足音だ。だが、僕は恐怖した。
何故毎回、それを言いながら近づいてくるのか。
「やぁやぁ、しもんくん」
その声はあっという間に、事務所のドアの前に遣って来た。
僕は、生唾を飲み込んだ。そして何故か、視線がドアの鍵に移った。
ゆっくりと鍵が回る。
僕はそれを黙って見守る。
「おはよう!しもんくんたち!」
そう言って女は、虫メガネを片手に、満面の笑みを浮かべ、事務所に入ってきた。
「あ、しもん。いたんだ」
僕は再び、ため息を吐いた。
「やっぱり君だったか、理科」
女は、決まりが悪そうに笑い、舌を出した。
女はソファの上で、正座をしていた。
「何故、鍵を持っている?」と僕は女に訊いた。
「しもんのサンプルが欲しかったの。鍵は自分で」
サンプル。如何にも理系らしい言い分だ。そして鍵を自分で作る、その呆れるくらいの執念は褒めるに値するものだ。
目の前にいるこの女は闇医者で、この町では『理科』と呼ばれている。
僕が営んでいる何でも屋『諮問s(シモンズ)』は、受けた依頼を文字通り、専門家に諮問し、解決していくのだ。
理科もその専門家の一人。しかし理科は、依頼関係なく、こうして僕の事務所へと遣って来るがあるのだ。
「そんなことよりね、しもん」
理科は、僕に説教されているのに、あろうことか足を崩し、僕を上目遣いに見てきた。
女の子座りに上目遣い。
何だかエロティック。
そうじゃないでしょ。
僕は、首を何度も横に振った。
「いかんいかん、断る」
僕がそう言っても理科は聞く耳を持たず、徐に注射器を取り出した。注射器の中は、不気味なほど透明な液体で満たされていた。
理科が、僕の事務所を訪れる理由。
それは、実験だ。
僕は、ある特異体質を持っているのだ。
五年前くらいか。僕はある男を追っていた。その男は「マサイ」と呼ばれ、当時、この町で最も話題になっていた男である。
では、マサイは一体何をしでかしたのか。
マサイは、身長が二メートル程あり、手足は以上に長く、まさに原住民族の風貌とほぼ変わらなかった。だから『マサイ』と呼ばれるようになったのだが、問題はそこにあった。
この町で、いや、この国のどの場所でも、原住民族の格好をしたら、ただでさえ目立つのに、マサイは、信じられないことに全裸だった。全裸で筋弛緩剤が塗られている吹き矢を持ち、女を追いかけ、襲う。無論、警察も出動したのだが、マサイは強靭な脚力で高く跳び、強靭な肺活量で、吹き矢を何本も放ち、警察官を蹴散らしていた。
当時の諮問sは、まだ立ち上げたばかりで、僕一人しかいなかった。
そのときの依頼者は、愛娘がマサイに襲われ、藁にも縋る思いで僕に依頼してきたのだ。
まずは僕が走らなければならない。走って走って、実績を生まねばな。専門家を勧誘するのはその後だ。
だから僕は走った。この町の隅々まで走り回った。何日も走りを繰り返したが、マサイは見つからなかった。
「今日は、この辺にするか」
その日も夜まで走り、疲れたから事務所に戻ろうとしたそのとき、目の前に奴が現れたのだ。
マサイは下着姿の女を左腕で抱えていた。
「マサイ!!!」
気付けば僕は、その名を叫んでいた。
マサイは僕に気付き、小さな僕を見下ろし、にやりと笑った。そして右手に持っていた吹き矢を僕に向け、軽く息を吐いた。
矢は、僕の肩にあっけなく刺さり、それと同時にマサイは低く屈み、高く跳んだ。
僕は、マサイを目で追う。
なんて高さだ。僕はというと、何もできず、ただ眺めていただけ。やがて、薬が回り、数秒後には動けなくなるのだろうな。
マサイは、一度のジャンプで三階建ての建物の屋上に辿り着き、仁王立ちで僕を見下ろしていた。
マサイは再びにやりと笑い、こう言い放った。
「お前じゃ無理だよ、ちびちんのすけ」
その瞬間、僕は無意識に跳んでいた。何故か、マサイと同じくらいに跳べると確信したのだ。
僕の右手は、マサイに届いた。
マサイの無防備だった大事なところをしっかり掴み、そしてすぐに屋上の縁の側面に、両足を置いた。
「うぇ」
僕はそう言いながらも、握る力を最大にし、縁の側面に置いた軸足を左右切り替え、マサイに背を向けた。そして、右肩に力を入れ、思い切り建物の下にぶん投げた。
マサイの後を追うようにして、僕も落ちていったのだが、マサイはアスファルトに、僕は奇跡的にツツジの群れに落ち、重傷を免れた。
さらに、何故か僕の意識が途切れることはなく、すぐに立ち上がることができたのだ。
「意外と平気だ。あ、」
僕は、アスファルトの上で伸びているマサイを見て思い出した。
「女を忘れてた」
僕は慌てて女を探す。すると、
「私はここよ」と、下着姿の女が、僕の背後に立っていた。
下着姿なのに、恥じらう様子がまるでない。
とにかく僕は、女に上着とズボンを貸した。そのときは冬だったが、走ったり、闘ったり、落ちたりと白熱の時間を過ごしていたから、寒さは特に感じなかった。また、ズボンの下に防寒用のタイツを穿いていたため、ズボンも平気で貸せた。
「さっき君が、マサイの股間を掴んだときに手が緩んだみたい。その隙に抜け出して、急いで階段から降りてみれば、君がいたから嬉しくなった」
そう言うと女は、僕の全身を眺め始めた。
「へぇ」
全身を眺め終わると、次は、僕の全身を嗅ぎ始めた。
「見た目も匂いもそんなに変わってない」
なんだこの女は、さっきまで攫われていたんだぞ。
「あの、何ですか?」
すると女は、慌てて僕から距離を取った。
「私は『理科』って呼ばれてる。この町の闇医者よ」
理科?闇医者?マサイ。全裸。人体。興味。研究?
このときの僕は、えらく頭が冴えていて、これらのワードが瞬時に、脳内に現れた。
「もしかして、マサイにわざと捕まりました?」
「いいね君。そう、初めて自分が女であることに感謝したわ」
女は、輝かせた目を僕に向けていた。何だか、嫌な予感がする視線でもある。
女は、僕の体に触れ始め、こう続けた。
「でも、あれはただの長身マッチョなだけ。今は、あなたに夢中。弛緩剤を投与されたのに、筋肉が引き締まっている。だからあれだけ跳べたのかも。逆のことが起きるなんて」
そして女は、僕の手を取り、両手で握ってきた。
女の顔が目の前に遣って来る。僕は慌てて顔を逸らした。
「是非、実験させて」
興味があったとはいえ、マサイに拉致されていたのだ。興奮か緊張か、どちらかわからないが、理科の口からすごい匂いがした。きっと、唾液が足りず、口の中が乾いているのだろう。
しかし、嫌いじゃない。
「諮問sのしもんと申します。是非、諮問させてください」
医者の意見を聞けるのは心強い、と思ったから、僕はすかさず、女に名刺を渡した。
「ふふ、交渉成立ね」
そう言って女は、嬉しそうに名刺を受け取ってくれた。
それを見て、僕は微笑んだが、もしタイムマシンが開発されたら、微笑んでいる僕を間違いなくぶん殴りに行っていただろう。
その翌日、理科は事務所に遣って来て、僕の体質を「天邪鬼」と名付けた。そしてその後は、何も言わず、滑らかに、注射針を僕の首に沈ませた。
そして今に至る。
僕と理科は今、睨みあっていた。
薬を打ちたい理科と薬を打たれたくない僕。その二人の気迫が事務所の空気を歪ませていた。
「気付け、理科。お前がここへ来るから、客が来なくなる」
しかし、理科は何一つ言葉を発さない、それどころか、注射器の押し子に親指を乗せたまま、微動だにしなかった。
何故、武を感じてしまう?
研究一筋のふくらはぎじゃないぞ、あれは。
人ってあんな急にパンプアップするのだろうか。
いや、そう見えているだけか。
そう見せる理科は一体。
華奢なのに。理科は、女?男?
もう、自分の体を研究しなよ。
「あっ」
勝負はいつも一瞬で決まる。気付けば僕の首に注射針が刺さっていた。
理科は、押し子をゆっくりと、ゆっくりと押した。
今日も今日とて、実験される僕であった。
その判断は、足音で決まる。
「やぁやぁ、しもんくん」
透き通った綺麗な声が、外から小さく聞こえてきた。
僕は一つ、ため息を吐く。
「やぁやぁ、しもんくん」
聞こえてくる声が少しだけ大きくなり、それと同時に、階段を登る足音が聞こえてきた。聞き慣れた足音だ。だが、僕は恐怖した。
何故毎回、それを言いながら近づいてくるのか。
「やぁやぁ、しもんくん」
その声はあっという間に、事務所のドアの前に遣って来た。
僕は、生唾を飲み込んだ。そして何故か、視線がドアの鍵に移った。
ゆっくりと鍵が回る。
僕はそれを黙って見守る。
「おはよう!しもんくんたち!」
そう言って女は、虫メガネを片手に、満面の笑みを浮かべ、事務所に入ってきた。
「あ、しもん。いたんだ」
僕は再び、ため息を吐いた。
「やっぱり君だったか、理科」
女は、決まりが悪そうに笑い、舌を出した。
女はソファの上で、正座をしていた。
「何故、鍵を持っている?」と僕は女に訊いた。
「しもんのサンプルが欲しかったの。鍵は自分で」
サンプル。如何にも理系らしい言い分だ。そして鍵を自分で作る、その呆れるくらいの執念は褒めるに値するものだ。
目の前にいるこの女は闇医者で、この町では『理科』と呼ばれている。
僕が営んでいる何でも屋『諮問s(シモンズ)』は、受けた依頼を文字通り、専門家に諮問し、解決していくのだ。
理科もその専門家の一人。しかし理科は、依頼関係なく、こうして僕の事務所へと遣って来るがあるのだ。
「そんなことよりね、しもん」
理科は、僕に説教されているのに、あろうことか足を崩し、僕を上目遣いに見てきた。
女の子座りに上目遣い。
何だかエロティック。
そうじゃないでしょ。
僕は、首を何度も横に振った。
「いかんいかん、断る」
僕がそう言っても理科は聞く耳を持たず、徐に注射器を取り出した。注射器の中は、不気味なほど透明な液体で満たされていた。
理科が、僕の事務所を訪れる理由。
それは、実験だ。
僕は、ある特異体質を持っているのだ。
五年前くらいか。僕はある男を追っていた。その男は「マサイ」と呼ばれ、当時、この町で最も話題になっていた男である。
では、マサイは一体何をしでかしたのか。
マサイは、身長が二メートル程あり、手足は以上に長く、まさに原住民族の風貌とほぼ変わらなかった。だから『マサイ』と呼ばれるようになったのだが、問題はそこにあった。
この町で、いや、この国のどの場所でも、原住民族の格好をしたら、ただでさえ目立つのに、マサイは、信じられないことに全裸だった。全裸で筋弛緩剤が塗られている吹き矢を持ち、女を追いかけ、襲う。無論、警察も出動したのだが、マサイは強靭な脚力で高く跳び、強靭な肺活量で、吹き矢を何本も放ち、警察官を蹴散らしていた。
当時の諮問sは、まだ立ち上げたばかりで、僕一人しかいなかった。
そのときの依頼者は、愛娘がマサイに襲われ、藁にも縋る思いで僕に依頼してきたのだ。
まずは僕が走らなければならない。走って走って、実績を生まねばな。専門家を勧誘するのはその後だ。
だから僕は走った。この町の隅々まで走り回った。何日も走りを繰り返したが、マサイは見つからなかった。
「今日は、この辺にするか」
その日も夜まで走り、疲れたから事務所に戻ろうとしたそのとき、目の前に奴が現れたのだ。
マサイは下着姿の女を左腕で抱えていた。
「マサイ!!!」
気付けば僕は、その名を叫んでいた。
マサイは僕に気付き、小さな僕を見下ろし、にやりと笑った。そして右手に持っていた吹き矢を僕に向け、軽く息を吐いた。
矢は、僕の肩にあっけなく刺さり、それと同時にマサイは低く屈み、高く跳んだ。
僕は、マサイを目で追う。
なんて高さだ。僕はというと、何もできず、ただ眺めていただけ。やがて、薬が回り、数秒後には動けなくなるのだろうな。
マサイは、一度のジャンプで三階建ての建物の屋上に辿り着き、仁王立ちで僕を見下ろしていた。
マサイは再びにやりと笑い、こう言い放った。
「お前じゃ無理だよ、ちびちんのすけ」
その瞬間、僕は無意識に跳んでいた。何故か、マサイと同じくらいに跳べると確信したのだ。
僕の右手は、マサイに届いた。
マサイの無防備だった大事なところをしっかり掴み、そしてすぐに屋上の縁の側面に、両足を置いた。
「うぇ」
僕はそう言いながらも、握る力を最大にし、縁の側面に置いた軸足を左右切り替え、マサイに背を向けた。そして、右肩に力を入れ、思い切り建物の下にぶん投げた。
マサイの後を追うようにして、僕も落ちていったのだが、マサイはアスファルトに、僕は奇跡的にツツジの群れに落ち、重傷を免れた。
さらに、何故か僕の意識が途切れることはなく、すぐに立ち上がることができたのだ。
「意外と平気だ。あ、」
僕は、アスファルトの上で伸びているマサイを見て思い出した。
「女を忘れてた」
僕は慌てて女を探す。すると、
「私はここよ」と、下着姿の女が、僕の背後に立っていた。
下着姿なのに、恥じらう様子がまるでない。
とにかく僕は、女に上着とズボンを貸した。そのときは冬だったが、走ったり、闘ったり、落ちたりと白熱の時間を過ごしていたから、寒さは特に感じなかった。また、ズボンの下に防寒用のタイツを穿いていたため、ズボンも平気で貸せた。
「さっき君が、マサイの股間を掴んだときに手が緩んだみたい。その隙に抜け出して、急いで階段から降りてみれば、君がいたから嬉しくなった」
そう言うと女は、僕の全身を眺め始めた。
「へぇ」
全身を眺め終わると、次は、僕の全身を嗅ぎ始めた。
「見た目も匂いもそんなに変わってない」
なんだこの女は、さっきまで攫われていたんだぞ。
「あの、何ですか?」
すると女は、慌てて僕から距離を取った。
「私は『理科』って呼ばれてる。この町の闇医者よ」
理科?闇医者?マサイ。全裸。人体。興味。研究?
このときの僕は、えらく頭が冴えていて、これらのワードが瞬時に、脳内に現れた。
「もしかして、マサイにわざと捕まりました?」
「いいね君。そう、初めて自分が女であることに感謝したわ」
女は、輝かせた目を僕に向けていた。何だか、嫌な予感がする視線でもある。
女は、僕の体に触れ始め、こう続けた。
「でも、あれはただの長身マッチョなだけ。今は、あなたに夢中。弛緩剤を投与されたのに、筋肉が引き締まっている。だからあれだけ跳べたのかも。逆のことが起きるなんて」
そして女は、僕の手を取り、両手で握ってきた。
女の顔が目の前に遣って来る。僕は慌てて顔を逸らした。
「是非、実験させて」
興味があったとはいえ、マサイに拉致されていたのだ。興奮か緊張か、どちらかわからないが、理科の口からすごい匂いがした。きっと、唾液が足りず、口の中が乾いているのだろう。
しかし、嫌いじゃない。
「諮問sのしもんと申します。是非、諮問させてください」
医者の意見を聞けるのは心強い、と思ったから、僕はすかさず、女に名刺を渡した。
「ふふ、交渉成立ね」
そう言って女は、嬉しそうに名刺を受け取ってくれた。
それを見て、僕は微笑んだが、もしタイムマシンが開発されたら、微笑んでいる僕を間違いなくぶん殴りに行っていただろう。
その翌日、理科は事務所に遣って来て、僕の体質を「天邪鬼」と名付けた。そしてその後は、何も言わず、滑らかに、注射針を僕の首に沈ませた。
そして今に至る。
僕と理科は今、睨みあっていた。
薬を打ちたい理科と薬を打たれたくない僕。その二人の気迫が事務所の空気を歪ませていた。
「気付け、理科。お前がここへ来るから、客が来なくなる」
しかし、理科は何一つ言葉を発さない、それどころか、注射器の押し子に親指を乗せたまま、微動だにしなかった。
何故、武を感じてしまう?
研究一筋のふくらはぎじゃないぞ、あれは。
人ってあんな急にパンプアップするのだろうか。
いや、そう見えているだけか。
そう見せる理科は一体。
華奢なのに。理科は、女?男?
もう、自分の体を研究しなよ。
「あっ」
勝負はいつも一瞬で決まる。気付けば僕の首に注射針が刺さっていた。
理科は、押し子をゆっくりと、ゆっくりと押した。
今日も今日とて、実験される僕であった。