第2話 僕と社会
文字数 3,102文字
しわがれているのに、よく通る声が、僕の背後から聞こえてきた。
「今度は、何を注入させられた?ん?」
振り返ると、そこには、見えている全ての皮膚に、皺が細かく、細かーく刻まれた小さな老人が立っていた。
「あ、社会、おはようございます。今回は、強力な麻酔薬を。三日寝ていません」
僕の目の前にいる老人は「社会」と呼ばれていて、今年の誕生日で百三十歳になる、この町の情報屋だ。
この町で生まれ、育ち、百三十を迎える。では、その百三十を迎える情報屋は、一体どんな仕事をするのか。
答えは、
(何も調べない)
情報屋と紹介され、初めて社会と出会い、社会が一番に発した言葉だ。
それが何を意味するのか。当時の僕は、まるで理解していなかった。
「一周回ってね」
僕は、そう言って笑うことしかできなかった。
マサイを倒し、理科が諮問sのメンバーとなって数日後、理科からある一本の電話がかかってきた。
「諮問sの概要は、大体分かった。専門家は多くいればいいってことよね?」
「ま、まさか、営業してくれていたのか?ふ、理科。君って奴は、実験しかできない高機能社会不適合者だと思っていたけど、考えを改めないとな」
「あら、自白剤は解けたのね」
「お陰様でな!八時間話せないのは流石に辛いぞ」
「およそ八時間っと」
電話越しに、キーボードを叩く音が聞こえてきた。そして理科は続けた。
「残念ながら、営業じゃない。実は、マサイを倒した翌日に、私の元に連絡が来てたんだけど、忙しくてね。今になって思い出しちゃった」
「して、その連絡とは?」
「しもん君に会いたいとよ。その人は、情報屋で『社会』って呼ばれている」
「情報屋か、何でまた向こうから僕に…まさか」
「うん、しもんがマサイを倒した。私としもん以外で、このことを知っている唯一の人物」
実は、僕がマサイを倒したことは伏せていたのだ。どうやって倒したのかと訊かれたときを考えてしまい、恥ずかしさで誰にも言えなかったのだ。
今では、笑い話だ。そして誰も信じてはくれないだろう。後にも先にも、マサイを倒した事実を知っているのは、理科と社会と僕しかいなかった。
さて、理科の話を聞いた僕は、すぐにこう思い、すぐに口にした。
「なんて素晴らしいんだ」
形はどうであれ、僕はマサイを倒したことに誇りを持っていた。
誇らしいことをして、沈黙を貫く。僕の中の、理想の漢の像だ。
言えばこの像が崩れてしまう。でも言いたい。じゃあどうする?気付いてもらうしかない。
しかし、沈黙は沈黙。気付いてもらうには、やはり言葉が要る。
「すぐに社会に会ってみたい」
一つの現実を壊してくれた魅力的な存在。
会う他無い。
「おっけ。じゃあ連絡しとく。明日事務所に来ると思うよ」
「住所はいいのか?」
僕は、分かりきった意地悪な質問を投げた。
理科は、電話を切ってしまった。
「なんて意地悪な」
そう言って笑い、僕は、携帯を閉じ、天井を見上げた。
理科の反動か。僕はそこから、穏やかで、気が合い、背中を預けあえるような、最高の相棒を想像し続け、そして、あっという間に一日を終わらせた。
美しい女と会うわけではない。だからよく眠れた。あんなに思いを馳せていたのに。
事務所のドアベルが鳴り、僕は客を招き入れた。
一目で、その客が「社会」だと分かった。
刻みに刻まれた顔の皺。樹齢何千年を超える大木の年輪にも思えた。
想像とは大きく違ったが、想像以上の出会いに僕は感激していた。
「ようこそ、お運び下さいました。社会ですね?」
滑るように、僕なりの敬意が言葉に乗って口から飛び出した。
「ふぉっふぉ」
老人は、深い笑みを浮かべた。
「マサイという濁りを、鎮めた濁り。ここ数日、良いことばかり起こるのぅ」
濁り。それは若さ故の未熟と捉えろ、ということなのか。しかし、貶されている気配が全く無い。
「あ、どうぞ!おかけになってお待ち下さい」
老人だということを一瞬忘れ、僕は急いで社会をソファに座らせた。
とりあえず熱い緑茶を出してみた。濁りが好きみたいだし。
社会は、緑茶の水面を眺め、ゆっくりと湯飲みの縁を、唇につけた。
飲んでくれているのか、少々不安だったが、あろうことか社会は、熱々の緑茶を一気に飲み干してしまったのだ。
「ふむ、この湯飲み。北村商店にあったものじゃ。三つ、似たような湯飲みがあったが、これは真ん中のやつじゃな。そしてこの茶。スーパー『おーまがり』で買った、な?しもん」
情報屋なら、調べれば辿り着く情報だと思ってしまうが、恐らく社会は調べていない。何故なら、湯飲みも茶もマサイを倒すずっと前に購入していたからだ。
情報屋としての実力をひけらかす、ではなく、ただ記憶していた内容を話しただけ、そんな印象を受けた。
「なんて素晴らしいんだ」
推測だけで、この感情だ。僕は、次の言葉を躊躇ってしまったが、やはり興味には勝てなかった。
「社会、是非話を聞かせてください」
社会は、湯飲みを置いた。
「わしがこの町で生まれ、情報屋としてこの町を走り、百年目にして、この町が水と化した。実に透明だった。それくらいこの町が見えるようになったのじゃ。じゃが、それが終点ではなかった。透明なこの町から湧き出てくる濁り。その濁り探しが楽しくて楽しくて、この年齢まで生きてしもうた」
そう言って社会は、小さく笑った。
「おいくつですか?」
「百と二十四」
「情報屋になって、何年ですか?」
「百と十六じゃな」
欲しい。
ただその一言に尽きる。しかし僕は、社会の心を動かす決定打的なものを持っていなかった。
スカウトに時間を要するな、と、そう思ったとき、
「仲間に入れておくれ」
「はい?」
僕は嘘を吐いた。本当は聞こえていたのだ。
「わしは、この町では気味悪い存在として扱われとる、そらそうじゃ、何でも知っているからのぅ。オールストーカーなんて呼び名もあるくらいじゃ」
僕はただ黙って、社会の次の言葉を待った。
「しもん、お前は実に良き濁りじゃ。そして良き濁りを呼び寄せてくれる。じゃから」
社会の言葉が止まった。僕が止めたからだ。
「嬉しいです。理科のあとってこともあるだろうけど、実に素晴らしい人だ」
社会は、口を開け、涙目でこちらを見ていた。
「孤独になっても尚、情報屋を極めるその心に感服しました。是非、諮問sの情報屋として、宜しくお願い致します」
これは泣くぞ社会、と思ったが、
「ありがとう!では、早速」
「ん?」
「店の一番重い商品を一つだけ奪っていく巨漢 通称『弁慶』。この町の有名な犯罪者の一人じゃ。どうじゃ?弁慶事件」
切り替え早っ。しかし、面白そうだ。
「よし。早速、調査だ」
興味深い情報を持ってきてくれる社会のお陰で、様々な依頼にも応えることができるようになり、少しずつ諮問sの知名度は上がっていった。そして現在に至る。
「眠れないのは辛かろう」
社会は、僕の目元を見ているようだ。
「眠くないから辛くはないですよ」
僕は、目やにが付いているのかもしれないと思い、急いで目を擦る。
目やには、起きていても溜まるからな。
「そんなことより社会、どしたの?」
「ここ最近、奇妙な濁りが見えてのぅ、恐らく、この町の外から来ている者達じゃろうな。何故か大量に集まっておる」
「その濁り達の情報を集めているという訳だな?」
「まさしく。まぁ、また何かあったら言うぞい」
そう言って社会は、僕に背を向け、歩き出した。
僕は、段々小さくなる社会の背中を目で追っていたが、急に激しい睡魔が襲ってきた。
「薬が切れたか」
瞼が重たすぎた。僕は、左瞼を捨て、右瞼を必死にこじ開けながら、帰路についた。
「今度は、何を注入させられた?ん?」
振り返ると、そこには、見えている全ての皮膚に、皺が細かく、細かーく刻まれた小さな老人が立っていた。
「あ、社会、おはようございます。今回は、強力な麻酔薬を。三日寝ていません」
僕の目の前にいる老人は「社会」と呼ばれていて、今年の誕生日で百三十歳になる、この町の情報屋だ。
この町で生まれ、育ち、百三十を迎える。では、その百三十を迎える情報屋は、一体どんな仕事をするのか。
答えは、
(何も調べない)
情報屋と紹介され、初めて社会と出会い、社会が一番に発した言葉だ。
それが何を意味するのか。当時の僕は、まるで理解していなかった。
「一周回ってね」
僕は、そう言って笑うことしかできなかった。
マサイを倒し、理科が諮問sのメンバーとなって数日後、理科からある一本の電話がかかってきた。
「諮問sの概要は、大体分かった。専門家は多くいればいいってことよね?」
「ま、まさか、営業してくれていたのか?ふ、理科。君って奴は、実験しかできない高機能社会不適合者だと思っていたけど、考えを改めないとな」
「あら、自白剤は解けたのね」
「お陰様でな!八時間話せないのは流石に辛いぞ」
「およそ八時間っと」
電話越しに、キーボードを叩く音が聞こえてきた。そして理科は続けた。
「残念ながら、営業じゃない。実は、マサイを倒した翌日に、私の元に連絡が来てたんだけど、忙しくてね。今になって思い出しちゃった」
「して、その連絡とは?」
「しもん君に会いたいとよ。その人は、情報屋で『社会』って呼ばれている」
「情報屋か、何でまた向こうから僕に…まさか」
「うん、しもんがマサイを倒した。私としもん以外で、このことを知っている唯一の人物」
実は、僕がマサイを倒したことは伏せていたのだ。どうやって倒したのかと訊かれたときを考えてしまい、恥ずかしさで誰にも言えなかったのだ。
今では、笑い話だ。そして誰も信じてはくれないだろう。後にも先にも、マサイを倒した事実を知っているのは、理科と社会と僕しかいなかった。
さて、理科の話を聞いた僕は、すぐにこう思い、すぐに口にした。
「なんて素晴らしいんだ」
形はどうであれ、僕はマサイを倒したことに誇りを持っていた。
誇らしいことをして、沈黙を貫く。僕の中の、理想の漢の像だ。
言えばこの像が崩れてしまう。でも言いたい。じゃあどうする?気付いてもらうしかない。
しかし、沈黙は沈黙。気付いてもらうには、やはり言葉が要る。
「すぐに社会に会ってみたい」
一つの現実を壊してくれた魅力的な存在。
会う他無い。
「おっけ。じゃあ連絡しとく。明日事務所に来ると思うよ」
「住所はいいのか?」
僕は、分かりきった意地悪な質問を投げた。
理科は、電話を切ってしまった。
「なんて意地悪な」
そう言って笑い、僕は、携帯を閉じ、天井を見上げた。
理科の反動か。僕はそこから、穏やかで、気が合い、背中を預けあえるような、最高の相棒を想像し続け、そして、あっという間に一日を終わらせた。
美しい女と会うわけではない。だからよく眠れた。あんなに思いを馳せていたのに。
事務所のドアベルが鳴り、僕は客を招き入れた。
一目で、その客が「社会」だと分かった。
刻みに刻まれた顔の皺。樹齢何千年を超える大木の年輪にも思えた。
想像とは大きく違ったが、想像以上の出会いに僕は感激していた。
「ようこそ、お運び下さいました。社会ですね?」
滑るように、僕なりの敬意が言葉に乗って口から飛び出した。
「ふぉっふぉ」
老人は、深い笑みを浮かべた。
「マサイという濁りを、鎮めた濁り。ここ数日、良いことばかり起こるのぅ」
濁り。それは若さ故の未熟と捉えろ、ということなのか。しかし、貶されている気配が全く無い。
「あ、どうぞ!おかけになってお待ち下さい」
老人だということを一瞬忘れ、僕は急いで社会をソファに座らせた。
とりあえず熱い緑茶を出してみた。濁りが好きみたいだし。
社会は、緑茶の水面を眺め、ゆっくりと湯飲みの縁を、唇につけた。
飲んでくれているのか、少々不安だったが、あろうことか社会は、熱々の緑茶を一気に飲み干してしまったのだ。
「ふむ、この湯飲み。北村商店にあったものじゃ。三つ、似たような湯飲みがあったが、これは真ん中のやつじゃな。そしてこの茶。スーパー『おーまがり』で買った、な?しもん」
情報屋なら、調べれば辿り着く情報だと思ってしまうが、恐らく社会は調べていない。何故なら、湯飲みも茶もマサイを倒すずっと前に購入していたからだ。
情報屋としての実力をひけらかす、ではなく、ただ記憶していた内容を話しただけ、そんな印象を受けた。
「なんて素晴らしいんだ」
推測だけで、この感情だ。僕は、次の言葉を躊躇ってしまったが、やはり興味には勝てなかった。
「社会、是非話を聞かせてください」
社会は、湯飲みを置いた。
「わしがこの町で生まれ、情報屋としてこの町を走り、百年目にして、この町が水と化した。実に透明だった。それくらいこの町が見えるようになったのじゃ。じゃが、それが終点ではなかった。透明なこの町から湧き出てくる濁り。その濁り探しが楽しくて楽しくて、この年齢まで生きてしもうた」
そう言って社会は、小さく笑った。
「おいくつですか?」
「百と二十四」
「情報屋になって、何年ですか?」
「百と十六じゃな」
欲しい。
ただその一言に尽きる。しかし僕は、社会の心を動かす決定打的なものを持っていなかった。
スカウトに時間を要するな、と、そう思ったとき、
「仲間に入れておくれ」
「はい?」
僕は嘘を吐いた。本当は聞こえていたのだ。
「わしは、この町では気味悪い存在として扱われとる、そらそうじゃ、何でも知っているからのぅ。オールストーカーなんて呼び名もあるくらいじゃ」
僕はただ黙って、社会の次の言葉を待った。
「しもん、お前は実に良き濁りじゃ。そして良き濁りを呼び寄せてくれる。じゃから」
社会の言葉が止まった。僕が止めたからだ。
「嬉しいです。理科のあとってこともあるだろうけど、実に素晴らしい人だ」
社会は、口を開け、涙目でこちらを見ていた。
「孤独になっても尚、情報屋を極めるその心に感服しました。是非、諮問sの情報屋として、宜しくお願い致します」
これは泣くぞ社会、と思ったが、
「ありがとう!では、早速」
「ん?」
「店の一番重い商品を一つだけ奪っていく巨漢 通称『弁慶』。この町の有名な犯罪者の一人じゃ。どうじゃ?弁慶事件」
切り替え早っ。しかし、面白そうだ。
「よし。早速、調査だ」
興味深い情報を持ってきてくれる社会のお陰で、様々な依頼にも応えることができるようになり、少しずつ諮問sの知名度は上がっていった。そして現在に至る。
「眠れないのは辛かろう」
社会は、僕の目元を見ているようだ。
「眠くないから辛くはないですよ」
僕は、目やにが付いているのかもしれないと思い、急いで目を擦る。
目やには、起きていても溜まるからな。
「そんなことより社会、どしたの?」
「ここ最近、奇妙な濁りが見えてのぅ、恐らく、この町の外から来ている者達じゃろうな。何故か大量に集まっておる」
「その濁り達の情報を集めているという訳だな?」
「まさしく。まぁ、また何かあったら言うぞい」
そう言って社会は、僕に背を向け、歩き出した。
僕は、段々小さくなる社会の背中を目で追っていたが、急に激しい睡魔が襲ってきた。
「薬が切れたか」
瞼が重たすぎた。僕は、左瞼を捨て、右瞼を必死にこじ開けながら、帰路についた。