第27話 私としもん

文字数 3,164文字

 私を見くびらないで。
 私だってできるもん。
 コンマ五秒くらい。
 縮めてやるんだから。
「やっぱ無理」

 舌の裏から、さらさらの唾液が溢れ出てくる。
「あ、また吐いた」
 そう言ってしもんは、水が入ったペットボトルを、私の視界に入れて揺らしてきた。
「あ、ありがとう」
 私は目の前のペットボトルを握り締め、キャップを緩めた。
「少しずつ飲めよな」
「分かってる!!!」
 とは言ったものの、やはり、耐えられなかった。
「あーあ」
 誰が何と言おうと、私の体だけが、大量の水を受け入れてくれた。
 そして私は、走り込みを再開した後、同じように吐いたのだった。
「やっぱ無理」

 夏休み。
 目覚まし時計の鈴が鳴る。
 私としもんは、秋の運動会に向けて、走り込みをしていたのだが、初日がきつすぎて、布団に入るとすぐに朝になっていた。
「一瞬、目を閉じただけだった…。あ、」
 私は、携帯を手に取り、パスワードを入力して、画面を開いた。
 しもんからメールが一通届いていた。
(仕事がある。良かったら一緒にいかが)
 この文面といい、しもんからは何か、独特なものを感じる。
(うちの学校、バイト禁止だけど)
 返信を済ませ、携帯電話の電源ボタンを押し、そのまま、携帯電話を枕の横に置くが、すぐに着信音が鳴った。
「返信はや」
 私は再び、画面を開く。
(バイトじゃない。ま、詳しいことはまた後で)
「え、私、イエスって言ってないけど」
 ま、行くからいいけどさ。
 だって、いくら嘔吐しても、しもんといると楽しいんだもん。
(すぐ行く)
 私は返信を済ませ、すぐに立ち上がり、洗面所へと向かい、櫛で髪を梳かし、ヘアゴムを一つ取り出し、後頭部の下辺りで、髪を結んだ。
 そして、ジャージに着替え、準備を整えた。
 私は玄関に向かい、今日履くスニーカーを見つけ、手に取ろうとするが、一瞬、手が止まった。
 頭の中で、何かが引っ掛かっていたからだ。
 しかし、その『何か』は、大体分かっていた。
 私は再び、洗面所へ向かい、鏡に映った自分をじっと眺めた。
「やっぱ、お団子にしよう」
 私は髪を解き、すぐに結び直して、お団子ヘアを完成させた。
「ちょっとでも、なんてね」
 いつしか、しもんに会えることが喜びとなり、そして、私の心の燃料となっていた。
 私は、多分、しもんが好きなんだ。

 しもんが待ち合わせに指定した場所は、とある倉庫だった。
 私がそこへ着くと、しもんが、倉庫の搬入口で私の名前を呼んで、手を振ってきた。
 私は嬉しくなり、小さく手を振り、小走りで、しもんの元へと向かった。
「やぁやぁ、国語。よく来てくれた」
 独特な話し方を他所に、私は、倉庫の中を見渡した。
「私たちは、何をするの?」
 純粋でシンプルな質問を、しもんに投げた。
「今から来るトラックの、荷卸しの手伝いだ」
「バイトだよね?」
「手伝いだから給料は出ない。だから、バイトじゃない」
 嘘ではないみたいだ。
「ま、それならいいのかな」
「さすが国語。物分かりが良い…、お、早速一台目のトラックが来たぞ」
 しもんの言った通り、一台の大きなトラックが、搬入口へと遣って来た。
「いわゆる十トン車だ。これがあと何台か来る。そして僕と国語で、トラックの荷台の中にあるカゴ台車をどんどん引っ張っていく、それが今日の仕事」
「運転手は、何もしないの?」
 私の問いに、しもんは微笑み、そして、トラックの荷台をノックの要領で、二回叩いた。
 すると、運転席から、ヘルメットを被った小さな老人が降りてきた。
「見て分かるように、彼は老人だ。そして、今日来るトラックドライバー全員、老人だ」
 しもんの声はとても大きかったが、そこにいる老人は気にも留めていない様子だ。
「物流の滞りは、僕らの生活に悪影響を及ぼす」
 老人は、しもんの言葉に大きく頷いていた。
「だから、僕は手伝うんだ。いいか国語。これは、純粋な人助けだ。よく聞く、街中で重たい荷物を持っていた老人の荷物を持ってあげた、の究極なんだ」
 少しだけ、しもんに感心していたのだが、
「あ、しもんちゃん。しもんちゃん宛ての荷物」
「ぅっわーい!!!待ってましたぁ!!!」
 この老人とのやり取りを見て、一気に感心の熱が冷めてしまった。
「うわー、何かずるーい」
「ずるいとは何だ。ずるくない。波模様が入った拘りの出刃包丁。僕の生活の必需品さ」
「はいはい」
 包丁なんてどれも同じでしょ、と言おうとしたが、二台目のトラックが入ってきた為、私たちはすぐに、作業に取り掛かった。

 カゴ台車に車輪が付いているとは言え、荷物がたくさん入っていれば、当然、重くなるのだ。
(腰を落として引っ張るんだ)
 しもんのアドバイス通りやってみるが、重いものは重い。
 しかし、しもんと老人は、どんどんカゴ台車を引っ張っていく。
 しもんは細い筈なのに。
 老人は、おじいちゃんなのに。
 そんなものを見せられたら、私もやるしかなくなる。
 だから、無我夢中で引っ張った。
「国語!後ろに人がいるぞ」
 周りも見つつ、カゴ台車を引っ張っていく。
 そして、最後のトラックの、最後の一台が終わったときの達成感ときたらもう。
 とにかく、美味しいものをたくさん食べたかった私は、その日の仕事終わりに、海鮮丼と唐揚げ弁当を買って帰った。
 全部は食べきれなかったが、今までで一番美味しかった。
 翌日も、荷卸し作業があったのだが、私が起きたのは、そこからさらに翌日の朝だった。
 それでも全身が痛かった。だが、その日も最後まで荷卸し作業を行った。
 私は、夏休みのほとんどを、この作業に費やした。
 遊びに誘う友人も、誘われる友人もいなかったから、むしろ、やることができて助かったし、それに、しもんと一緒にいれるのもあって、意外と苦ではなかったのだ。
 汗水流して働くしもん。
「ちょっと格好いいじゃん」
 しまった。
 今の、声に出てたかしら。
 私は慌てて、しもんを見るが、しもんは作業に夢中。
 その代わり、満面の笑みを浮かべていた、運転手の老人と目が合い、私は却って恥ずかしくなり、耳を赤く染めてしまった。

 夏休み最終日。
 私としもんは、公園にいた。
 懐かしの、走り込みをしていた公園。
「ねぇ、私が走るのダメダメだったから、諦めてたでしょ?」
 しもんは、不敵な笑みを浮かべ、私を見てきた。
「諦めてない」
「あらそうなの」
 意外にも、嘘は吐いていなかった。
「また今日から練習するのね」
「いや、練習じゃない」
「え?」
 私の間の抜けた声に対し、しもんはまたしても不適な笑みを浮かべ、そして、ポケットからストップウォッチを取り出した。
「仕上げだ。あの木がゴールな。ほれ、位置について」
 そう言いながらしもんは、踵で線を一本描き始めた。
 私は、その線の手前に立った。
「よーい」
 しもんは、ストップウォッチを胸の前に構えた。
 私も、とりあえず走る構えをしてみせた。
「どん!!!」の声と同時に、私は、走った。
 あれ?
 何だか、腕も脚も、重くなっている?
 でも。
 重みのお陰なのだろうか。
 腕も脚も、よく振れている気がする。
 景色の動きと、土を踏む感触が、今までと全然違っていた。
 気付けば、目標の木へと到達していたのだ。
 何故だか、息もそんなに切れていない。
「国語」
 いつの間にか、しもんが私の背後に立っていた。
「しもん、なんかね、あっという間だった」
「だろうな」
 そう言ってしもんは、ストップウォッチを見せてきた。
「コンマ五秒どころじゃないよ」
「九秒…」
 私のタイムは、九秒ジャストだった。
 およそ一秒、もタイムを縮めることができたのだ。

 私は嬉しさのあまり、その日は一日中走った。
 そして、吐いた。
 だけど、私もしもんも大笑い。
 私は、この日を一生忘れないと心に誓い、こうして、私たちの最高の夏休みが幕を閉じたのであった。
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