1 アポロー それは再び
文字数 3,516文字
それは、星の形の砂時計が黄昏の雫を落とすまでの華やかな舞台。
星の子らは導きを求め、歌い、踊り、焦がれ、それはやがて神話へと姿を変えて語り継がれていった。
幾星霜の時が巡り、その名をアポロンと記憶に刻まれた光のひとつは、再び星へ赴いていた……
「アポロー先生!」
声をあげて駆け寄る女性に振り返ったのは白衣を羽織った男だった。
背丈は一八〇センチほどで体格はさほど良くない。やや乱れた頭髪は天然なのか寝癖なのか。
「やあ、
振り返った男の顔は欧米人と日本人、その混血であることを印象付けるに十分だった。しかしながら顔色はあまり良くなく、どことない疲労感を漂わせていた。
「あ~先生っ、ひっどい顔してますよ? 顔洗って出直して下さい! ここは病院ですよ?」
男、アポローは愛想笑を女性へ返しながら、お約束とも取れる仕草で頭を掻いた。ともすれば不摂生な印象すら人に与える彼の空気も、
「お父さんの治療のことで来たんですよね? 来週には退院出来るって佐々木先生も言ってました」
由紀子はそう言って、自身の身体に少し大きめな服の襟を正した。それはアニメなどで見るようなメイド服であることはひと目で分かる。由紀子はコスチュームに注がれる看護師や患者らの視線に恥じることもなく、アポローの首ひとつ下から見上げて、大きな目を輝かせた。
「そうだね。木野先生は俺と違って身体のスペックが高い。すぐに退院できるよ」
「ありがとうです先生っ。それじゃ私これからお店なので、良かったら後でまたっ」
由紀子はアポローにハグをしてから笑顔で駆けていった。周囲から注がれる奇異な視線には、由紀子と同様にアポローも気にしていない様子だったが、その中から一人の医師へと顔を向けた。
「いや~アポロー先生、お待たせして申し訳ありません」
言葉と相反して牛歩で歩み寄ったのは中年の男性医師だった。胸元には循環器医の
「木野先生は来週にも退院で?」
「ええ。腎臓のほうはすっかり改善しまして。いやはや新進気鋭のミュケナイ製薬の治験に、当大学付属病院を使って頂き、むしろそっちのが奇跡とでもいいますか……」
都内でも指折りの規模を誇るセントラル記念病院。その上層階は夏の夕暮れの光を大きなガラス窓から取り込み、騒がしい院内のフロアに優しい温度をもたらしていた。
アポローは忙しく通路を往来する夕食のカートから漂う空気に、少しばかりの空腹を感じながら佐々木医師へ相づちを打つ。
「木野先生は、私が日本に来てから大変お世話になっています。治験にはリスクも多くありましたが、その点においても快諾して下さったのは木野先生です。感謝したいのは私ですよ」
「いやはや、世界の医学界で神と呼ばれるようなアポローさんが当院にと。このような縁もまた、あるもんですなあ」
二人はそんなやりとりをしながら病室へと進んだ。清潔な個室部屋でひときわ目をひいたのはサイドテーブル上の大きなフクロウのぬいぐるみだった。
「アポロー先生! お久しぶりですなあ! 由紀子は迷惑かけてないでしょうか?」
電動ベッドのリクライニングを起こしながら、
「ええ。先程娘さんとはすれ違いで顔を合わせました。バイト先でも元気にやっていますよ」
ベッドサイドの丸椅子に腰を落ち着け、アポローはサイドテーブル上のぬいぐるみに手を触れた。
「これは娘さんが?」
「ええ。持って来たときはびっくりしましたよ。しかもバイト先からとか?」
「ああ、そういえば店にあったような……でも、どうやってここまで?」
「佐々木先生が手伝ってくれたのですよ」
木野は満面の笑顔を佐々木医師へと向ける。
「そ、そうでしたね? あ、すいません。緊急入りましたんで、ちょっと失礼します」
院内端末を眺めていた佐々木はそう言い残し、慌ただしく病室から出ていった。
アポローは佐々木へ目を向けることもなく、訝しげにフクロウのぬいぐるみを見つめながら木野へと声をかける。
「佐々木医師は治験の対応で何か話をされていましたか? たしか、主治医でしたね」
「いやあ、主治医の名前はカルテに記載がありますが殆どやる事は無いのですよ。治験は薬だけ、というのもありますが検査や他のサポートは主に若手医師でしてね。大学病院らしいとも言えますが」
「ほかに治療が必要なことは無いですか? 木野さん」
「ないない! 至って元気ですわ。しかし腎臓の機能回復なんて投薬だけでどうやったら可能なのですか? ホントに魔法ですなっ」
「それは企業秘密ですよ、木野さん」
アポローは笑顔でそう答えて、少し傾いているぬいぐるみを木野の方へ向き直した。
「再生医療とでも思って頂ければ良いです。材料として他の臓器から細胞を転用していますから、一時的に肝臓が数ミリ小さくなるでしょう。それも通常の食事を続けていれば元に戻ります」
「あっはっは! 最先端企業の社長さんに企業秘密を聞こうとは思っていませんよ? しかしまあ、アポローさんとご縁があってから十年……今こうして私が救われるとは、不思議な感じが拭えませんよ」
都内で内科の開業医を営む木野薫は、娘の由紀子が産まれた年に妻を病で亡くした。
医師としての木野は、子供の怪我や急な飛び込み患者の受けれなどを広く引き受け、豪快とも言えるその性格は患者に時に厳しく、時には人情を見せ、懐の深い名物医として地域で愛されていた。
一人娘である由紀子とは不器用ながらも父親としての愛情を注ぎ、自身の気質を曲げることなくバイクツーリングやアウトドアを中心に時間を共有し、そこから多くの事柄の成り立ちを由紀子へ語って聞かせてきた。
あるとき由紀子がアポローを引き会わせたのをきっかけに、やがて二人は意気投合するようになる。
アメリカ国内の交通事故で両親を亡くし、唯一生存した天才研究者のアポローというニュースがメディアを賑わせていた当時、その出会いは木野にとって不思議な感覚だったものの、溺愛する一人娘の共通の話題を持つうちに酒を交わすようになり、加えてアポローの異次元な知識と才能に目を見張った。そしてアポローへ事業を立ち上げるよう強く勧め、木野自身もその支援に尽力した。
「あはは。それは佐々木医師も同じような話をされていました。病院にとっても奇跡の縁だとか。木野さんとの縁はそこと違うでしょう? と言っても、娘さんが繋いだ縁です。私はあの時、何もかもが分からなかったのですから」
「まあ確かに。由紀子がアポローさんを連れて来た時は私も何がなんだか……アメリカの天才ドクターが会社を起こすの手伝え、ってな感じで突然せがまれて」
木野は笑顔でそう言いながら、冷蔵庫からドリンク缶を取り出してアポローへ渡した。ラベルはしっかりと麦酒であることを主張している。
「木野さん、まだ呑んでるんですか? 良くないですよ?」
「まあそう言わんといて下さい。好きでしょ? アポローさんも」
二人はそう言って互いにニヤっと笑い合ってプルタブを引いた。小気味よく炭酸が抜ける音が心地良い。
「はあっ。やっぱり誰かと飲むのは嬉しいもんですよアポローさん」
「私もですよ。ところで木野さんは退院後どうされるんですか?」
「少しリハビリしてから、医院を再開しようと考えてるんですわ。由紀子も賛成してくれてましてね。亡くなった妻も家族で小さな病院を経営することを願ってましたから。ここでそろそろ私がしっかりやらんとバチがあたりそうで」
「そうでしたね。亡くした家族の意思は残った人にしか叶えられないものです」
「いや失礼。アポローさんこそ大変な思いをされているのに……」
木野は若干気まずい表情を見せたが、アポローは気にした様子もなくビールを一口あおった。
「いえ、私は事故で両親を亡くして自身も命を落としかけましたが、妻や子への思いは分かりません。今ここにあるのは木野さんの家族への想いですよ」
「そうですな。まったくもって…」
木野は。自身へ向いているフクロウのぬいぐるみへ太く無骨な腕を伸ばし、優しく手をかけて語りかけた。
「由紀子のこと、これからもご縁がある限りよろしく頼みますわアポローさん。あれも二十歳になったと名ばかりで、まだまだ……」
「ええ。木野さんがそう言うのなら」
病室の二人は再び顔を見合わせて苦笑し、ぐいっとビールをあおった。