06 パンドラ
文字数 3,078文字
「不思議よね……」
「何がだ?」
グラスを片手に部屋を見て回るアルテミスにアポローは問いかけた。
「どうして私たちは人間じゃなかったのかしら。カオスが最初で人間はその模倣? 本当は前後が逆だったんじゃないかしらってね」
「さあな。それはソクラテスにでも聞けばいい」
「うふふっ。ねえ弟ちゃん? 私は良い姉だったかしら?」
「なんだよいきなり……少なくとも以前の関係じゃ良い姉だったよ」
「私はママのように女じゃ無かった。狩りが本質なのよ。もし人間に生まれていたのなら、私はママのように女だったのかしら」
「キミはレトを護って俺を産ませた。母性……とは違うかもだが、確かにキミは良い姉だったよ」
「私が納得していないだけなのだけどね……」
グラスの氷をカランと鳴らしてアルテミスはウイスキーを一口あおった。
「ピアノなんて部屋に置いてるの弟ちゃん? それに何? この安物のエレキギター。音楽なんてまだ興味を持っているのかしら?」
部屋奥の角にはグランドピアノが置かれている。その周りにはギターや音楽誌などが雑多に散乱しており、アルテミスはそこに腰を落ち着けると悪戯に鍵盤を叩いた。
「ねえ弟ちゃん、何が弾ける? 私これでもプロの奏者に負けないのよ?」
「ああ、それなら面白いのがある」
ピアノの下に散乱している雑誌を掻き分け、アポローはその中からホチキス止めされた譜面を取り出した。
「あらあら、どこかで聴いたメロディね。弟ちゃんが復元したのね?」
「今じゃ失われてる曲だからな。それでもかなり再現できてると思う」
「えーと……じゃあ私はこっちを弾くから」
「そっちは難しいぞ? 大丈夫なのか?」
「任せて。このぐらいなら……」
アルテミスがそう応じたのを指揮にして、ピアノからは叙情的なメロディが弾み出す。アポローとアルテミスは寄り添いながら時折音を外す互いを見て苦笑し、そして笑い合った。パラスが気を利かせて部屋の照明を落とすと、二人の一角だけがスポットライトで照らされて浮かび上がった。奏でるメロディは失われた通い過去の風景を映しているようでもあり、それは今ここで姉弟二人だけを繋ぐ想いのようでもあった。
「ぱふぱふぱふー! すごーい! 先生とお姉さんって本当にプロみたい!」
演奏が終わるとカサンドラは前足をぱふぱふして声援を贈った。
「ちゃんと調律しないとダメよ弟ちゃん?」
「お? 腕が悪いのをピアノのせいにするのか?」
二人はそう言って笑い合うとソファーに戻って再びウイスキーを注いだ。
「そっちの調査ってのは順調に進んでるのか?」
「ええ順調よ? でもね、ポセイドンの痕跡までは辿り着いてないの」
グラスの中の氷がカチカチと音を鳴らす。アルテミスはしばらくグラスを揺らしながら思案すると、パラスのシステムへ顔を向けた。
「ねえパラス? トリトンは海のお話をあなたに聞かせてくれたかしら?」
「はいアルテミス様。深海の伝承や語りはトリトンの得意分野でした」
「封印されているものって、何が残っているとあなたは思う?」
「深海……にでしょうか? かつて様々なものが封印されていたようですが……」
「そうね、他にあなたに語りを説いたのはアテナ、ミネルヴァかしら?」
「ええ。でも姉さまのお話は教育的でした。姉さまがそうしたお話をするときは、触れてはいけない物への警告が多かったのです」
「パンドラについて聞いたことはあるかしら、パラス?」
「はい。とっても題材にされたお話です。多くの神々も度々お話されていました」
「聞かせて頂戴パラス? 演奏のお代としてね?」
「わ、私のつたない語りで良いのでしょうか……」
——ティタン神族であるプロメテウス様はお肉の取り分を神と人になぞらえてゼウス様と夕食を共にしました。一つは血となり肉となる部分を皮でくるんだ料理。一つは骨に脂身だけを巻きつけた美味しそうな料理でした。
ゼウス様は美味しそうな骨巻きの脂身を選びました。そこでプロメテウス様は笑いました。ゼウスよ、お前が選んだのはただの脂身だ、本当に価値のあるものは自分が食べた肉と臓物の料理なのだと。
お怒りなったゼウス様はプロメテウス様から火を取り上げました。それからしばらくしてプロメテウス様はヘパイストスの炉から火をあげ、再び地上の人間へ火を授けました。
ゼウス様のお怒りは次に人間へと向けられます。神々から人間への災いの贈り物としてゼウス様はヘパイストス様へと命じました。女性を創るようにと。
ヘパイストス様は泥をこねて女性らしきものを創りパンドラと名付けました。最初は空だったパンドラの心に、アフロディーテ様は男を悩ませる魅惑の力を、ミネルヴァ姉さまからは女性としての仕事全般を、ヘルメス様はずる賢い知恵を授けました。そして最後に神々は決して開けてはいけないとされる箱を持たせ、プロメテウス様の弟君であるエピメテウス様の元へパンドラを送りました。
プロメテウス様は弟君であるエピメテウス様へ、パンドラの誘惑とゼウスの言葉に決して耳を貸さないよう仰せになられました。しかしながら女性として素敵な要素が多かったパンドラにエピメテウス様は心を奪われて婚姻することを決めました。
パンドラは人間たちと生活を共にしましたが、ある日に開けてはいけない箱を開けてしまいます。そこからは神々がたくさん詰め込んだ災いが飛び出して人間を苦しめました……
「そして箱から飛び出さなかった災いを人間は希望『エルピス』と呼んだ」
パラスの語りの最後をアルテミスはそう締めくくった。
「女性を送って人間に災いをっていうゼウスのそれはブラフで、目的は人間に浸透したパンドラに爆弾が詰まった箱を開けさせるたことだった」
「そうよ弟ちゃん……愚かよね人間も。たまたま箱の底で引っかかって出られなかった何かを希望だなんて」
少しだけ寂しそうな色を目に浮かべ、アルテミスはウイスキーを一口飲んだ。氷の上を滑った白いモヤは、そんな彼女の溜息だったのかもしれない。
「あの、アルテミス様? どうしてこのお話を私に?」
「あら、演奏のお代じゃダメ? ふふっ。私はポセイドンへの復讐だけで調査をしている訳じゃないのよ。合衆国にそんな事は言えないし私が神族だなんて当然カミングアウトできないでしょう? お宝をついでに探しているの。それが合衆国を動かしている根拠よ?」
パラスへ向けたその答えはアポローに向けられていた。分かっているんでしょうと言わんばかりのアルテミスの表情はアポローを苦笑させた。
「合衆国はそんなオカルトな秘宝に興味があるのか?」
「あるに決まっているでしょ? サルベージはすごくお金になるんだから。世界のコレクターは喜んで言い値で買ってくれるのよ?」
「今更聞くが、キミが神族であることを合衆国は知らないんだな?」
「知らないわよ? むしろ神族が存在することを知っている人間なんて存在しないわ。誰も本心で信用しないわよ」
***
深夜4時。再び静まり返った部屋でアポローはPC端末へ向かっていた。
「お宝探しね……まあ、あっちの政府が食いつきそうなネタだよな。だが金の矢のデータは既に合衆国が持っている。アルテミスがそれを示した以上、次のお宝探しに国家レベルで本気になるっていうのも信憑性はあるか……」
「アポロー? 先程のパンドラのお話なのですが、私は姉さまからきつく仰せつかっていたことがあります」
「探すな、だろ?」
「はい。そしてそれを求めるものは神々であれ排除するのだ、と」