8 タイムライン それぞれの思い
文字数 2,934文字
アポローが五年前に旧第三セクターの産業廃棄場を改修して創業したミュケナイ製薬は、近代建築による歴史建築物の再生と緑の融合をコンセプトに、現在も国内の新しいランドマークとして進化を続けていた。
広大な敷地には石造りのモニュメントや門が多く配置されており、中央部では二十二階建ての白い円柱タワービルが木々へ影を落としていた。その周囲を囲む高さ十メートルの壁には東西南北に厚いゲートが設けられており、それは一般向けに開放されている敷地内の風景とは相反して物々しい印象を訪れた人たちに与えていた。
「ごめんなハーレー? いっぱい付き合わせちまって」
静子が織田の店を出た頃、アポローはミュケナイ製薬の敷地内にある小さな噴水脇のベンチで犬の頭を撫でていた。
お座りポーズの五歳のゴールデンレトリバーは少しだけ息を荒げながらアポローを見つめ、しきりに尾を振っていた。
ハーレーと名付けたのはバイク好きの木野薫で、里親として迎えたときには由紀子もその名に賛同して喜んだ。由紀子が高校を卒業して転居してからは、ハーレーは木野薫のパートナーとして、その名を冠した愛車と共に四季の風景を駆けながら過ごしてきた。
そんなハーレーのことが気になったアポローはパラスへドローンを託してからすぐに郊外の木野医院へと向かった。現場は立入禁止となっており、警官は事件の疑惑がかけられているアポローに顔をしかめたものの、犬が放置されていると説明を受けて事情を察すると立ち入りを許可した。
まる二日放置されていたハーレーにアポローはまず食事を与えた。木野薫の入院中は由紀子が自動給餌器の補給や週末の散歩を行っていたが、既に小屋の横の給餌器は空になっており、ハーレーは寂しそうに帰らぬ主の帰りを待っていた。
これまで木野の自宅兼医院を幾度となく訪れて触れ合っていたアポローの顔を見たハーレーは全身で喜びを表現し、あっという間に食事をたいらげ、アポローと共に由紀子の足取りを追って都内を奔走した。
「おいおい、これはダメだって」
スマホを取り出したアポローを見ると、ハーレーは嬉しそうにそれを咥えて引き離そうとする。
「あ~しゃしゃしゃっ、いい子だ。こいつで許してくれ、な?」
わんこのおやつ、とパッケージにデザインされた袋をアポローが手に取るとハーレーはスマホから口を離してそれに飛びついた。
涎でべっとりのスマホを袖で拭うと、アポローはしばらく画面を見つめた。
「……」
ニュースサイトでは由紀子の姿が画像と共に報道されていた。コメント欄では足取りに繋がる情報もなく、ミュケナイ製薬への陰謀論や由紀子本人への誹謗中傷めいた投稿ばかりが目についた。
「こんなもんか……人は……」
八月の東京の日差しはアポローの身体に絶えず汗を促し、それは自身の感情に伴って更に焦りの熱を帯びていた。
ベンチに背を預けて太陽を眩しげに見据えると、アポローはしばらく目を閉じて風景に溶け込んだ。心地よい噴水の音はその身体に少しばかりの清涼をもたらし、都会のノイズはそこに途切れることのない現実の糸を繋いでいった。
おやつをたいらげたハーレーは少し遠くで犬と遊ぶ若いカップルを見つめ、アポローもその視線を同じくした。そして身体を起こすとハーレーの頭を両手でわしゃわしゃっと掴んだ。
「由紀子ちゃんの側にいてあげてほしい。お願いだ」
アポローはハーレーの顔を正面から見て語りかけると、自らの額の汗を拭いながら自社のタワービルへと向かった。
***
同時刻、由紀子は横浜港発の豪華客船の船室内、そのベッドの上で佐々木敦と時間を共にしていた。
「もう、元気過ぎだからっ! 先生ってば」
「そう言わないで由紀子ちゃんっ……おじさんなんてのはね、若い子と一緒にいるってだけで元気出るんだから」
佐々木は息を荒げながらそう言って由紀子の横にだらしなく転がった。
「ほらあ、もう苦しそうじゃない……お水取ってくるね?」
ベッドから素っ裸で冷蔵庫に向かう由紀子は、クシュンと一度くしゃみをした。
「おやおや風邪かい? ほら早くこっちに来てベッドに入りなさい?」
「プールにいた時間が流すぎてっ。ぐっしゅ。先生が外がいいっていうからっ。もうっ」
ペットボトルを佐々木へ渡し、由紀子はベッドで毛布にくるまった。佐々木はそれをぐいっと飲んでから由紀子の身体を抱き寄せる。
TV画面ではセントラル記念病院の事件が報道されており、コメンテーターがそれぞれに視点を述べていた。
「わたしたちって、完全に共犯だよね……」
「そうだね由紀子ちゃん。でも心配はいらないから安心して? この船が向かう国は容疑者の引き渡し協定が無いからね。先生のお友達が家もお店も準備してくれる。お父さんは残念だけど、残してくれたお金は何十倍もの価値になるからね」
由紀子はTV画面で報道陣に囲まれるアポローを見つめ、佐々木へ身体を預けた。
「アポロー先生 もう会えないな……静子さんや、お店のみんなも……」
「アポロー先生の治験データだってね? お父さんの保険金よりずっと価値があるんだよ? もしかしたらどこかの国が買ってくれるかもしれない。そうなったらきっと一生、先生と由紀子ちゃんを守ってくれる。そうだろ?」
「わたし、疲れちゃったから。もう佐々木先生だけでいい……」
佐々木の胸元に頭を寄せて由紀子はつぶやく。メイクを落としたその表情は、少しだけおっとりした印象を受ける二十歳の女の子のそれだった。
「大丈夫だよ由紀子ちゃん? 先生がずっと一緒にいてあげるからねっ!」
佐々木は突然、再び由紀子の上に覆いかぶさった。
「ちょっと! どれだけ元気なの? って、もうっ!」
失踪した二人の名を告げるTVの音声、それをかき消す男女の吐息と声だけが、洋上の一室を背徳的に支配していった。
***
オロチの屋上からマイクロドローン十基が上空へと舞い上がると、それはすぐに目視不可能になった。
「展開確認しました。全て問題ありません。グラビティサーチの補正終了後、ミュケナイメインフレーム、メガロンのバックアップを使用して高高度重力制御を開始します」
無人の部屋ではパラスがの音声だけが響く。
「重力震度固定。船舶内トレースと海洋変動をスタビライズ。惑星運動補正を維持します」
天井の大型モニター四台には十基のドローンからの空中映像と、数隻の客船内をサーチしたモノクロ映像が不鮮明なCGで表示されていた。
「空を飛ぶのはやっぱり好きです。あ! あそこに見えるのはトレンドで話題の夢の国じゃないです?」
パラスはドローン二基の制御を航行船舶から外し、サーチをテーマパークへと絞った。
「わあ。これはまさにこの星ならではの施設ですね……討伐イベントなどは開催しているのでしょうか?」
五千フィートを超える高高度のドローンカメラをテーマパークのあちこちへ向け、やがてその焦点はパーク内のショッピングモールへと固定された。
「ショップも賑わっていますね。ネットレビューではお高めアイテムばかりとされていますが……おや! オンラインストアもあるのですね!? さっそくアクセスして見てみましょう!」