10 逃避 両者の景色

文字数 2,972文字

 和子はカサンドラを車に乗せて北千住の駅前方面へ向かっていた。
「ミーちゃんは車に慣れてるのね? うちのジョルノは車に乗せたらもう大騒ぎなのよ? 大型犬だからもう大変」
(パラス聞こえてる? 今、お母さんの車で移動中なんだけど?)
『聞こえていますよカサンドラ。その車はミュケナイのセキュリティが現在追跡を行っています』
(え? 大丈夫なの? カーチェイスになったりしない?)
『それは分かりません。訓練された上級者が追跡していますので』
(何よそれ。この出演者は訓練されています的な?)
 カサンドラの音声は首輪を中継してパラスの部屋に届いている。カサンドラは猫の発声すらしてないのだが、事態の流れを察して無意識に小声で通信を行っていた。
 自宅を出発してから十五分ほど走行し、和子はコンビニエンスストアの駐車場に車を止めた。するとすぐにフードを被ったパーカー姿の男が後部座席の窓をノックした。
「どうぞ。乗って下さい」
 和子がノックされたドアのウインドウを開けてそう言うと、男は周囲を見渡してから車内へ身体を滑り込ませた。
「駅前で下ろして頂けますか?」
 男は静かにそう言うとフードを下ろした。スキンヘッドに薄い眉、顔はデッサンに用いる石膏像のようだった、そしてそれはひと目で外国人であることを印象づけた。
「データは受信しました。これは約束の航空機チケットです。ロシア政府からの書簡も同封されていますので現地に着いたら大使館へ」
 和子はバックミラーを見ながら男が差し出した封筒を片手で受け取る。
(ちょっとちょっとパラス! なんかヒットマンみたいな男が増えたんだけど!?
『コンビニ付近の防犯カメラから取得した画像を解析中ですが顔画像の取得が不鮮明です。なお危機的状況の判断はカサンドラにお任せします』
(ちょ、なにそれ!)
『ミュケナイの追跡車両は一台。現在後方80メートルです。カサンドラの状況判断をもとに私はあなたの生命維持を最優先に分析を継続します』
(つ、追跡してる先生の会社の人たちも、わたしを優先してくれるんだよね?)
『彼らはアポローの指示で動いています。その内容を私は知らされていません』
(やっぱりカーチェイスになっちゃうよーっ!)
 助手席でそわそわするカサンドラの頭を撫でると、和子はカーラジオのボリュームを下げて後部座席の男へと話しかけた。
「これで全て終わりなのよね?」
「はい。さきほど受信したミュケナイのID情報が取引の最後です」
「そう……あの人は怒るでしょうね」
「夫ですか?」
「ええ。あの人にとって私は良き妻であり子の母だった。それがこんな形になれば当然でしょう?」
「貴女は家庭に疲れたと言っていましたね。何度も」
「自分でもよく分からないわ——家庭に夢を描き過ぎていたのかもしれない。研究の仕事をしていたときも同じことを思っていたはずなのに。でも現実はどっちも同じことの繰り返し……」
「私は依頼された仕事に貴女を利用しただけです。私の仕事はこれで終了。それは貴女もです。それだけです」
(うわあ。この人も訓練された系の人だよパラス。言ってることがプロの職人っぽい)
『追跡車両は現在後方20メートルです。カサンドラが懸念するカーチェイスですが、状況は既にカーチェイスであると判断します』
「——ここから抜け出したかったのは私。ほんと、あなたの言うようにこれはそれだけの結果。私ね? あっちで落ち着いたら息子を呼ぼうかと思っているのよ? うちの子、働くのを嫌がって嫌がって……あっちの農園ならそんな息子でも大丈夫そうよね?」
「ええ。あなたの持つバイオテクノロジー分野の実績があれば生活に困ることもないでしょう。この国のように労働にこだわる社会規律もありません」
 男はスクロールしていく駅前の光景を窓越しに眺めていた。駅前に続くきたろーどと呼ばれる通りは午前十時を過ぎ、開店準備に忙しく外に出ている従業員や子供連れの母親らが街の日常を風景にしていた。
 和子はバックミラーに映る男が笑みを見せたことに不気味さを感じたが、無意識にその答えを求めて問いかけた。
「どうして笑うのかしら?」
「いえ、私から見る貴女たち家族は理想だからです。それは街も同じです。子供も老いた者もこうして日常を過ごしている。思い描き求めるものというのはどうして現状を良しとしないのか? そこに私は苦く笑ったのです」
「そうなのね……こっちに身を固めたらどう? 現状不満を抱えた者同士がすれ違うということで」
「それができないことが私の現状不満なのかもしれません。そこには抗えない恐怖が常にあります。私は貴女のように強くないですから」
「今日はずいぶんおしゃべりなのね? 私はそれでもあなたに感謝しているわ。ありがとう」
「私が感謝できるのは貴女がリバーサンド社の古いパスワードを所持していたこと、それだけです」
『おやおやカサンドラ? やはり息子さんはどこかの国で王になるのかもしれませんね』
(それにしたって選択が斜め上過ぎるでしょ! このお母さんってばヒットマンに情報売って外国に逃げようとしてるのよ?)
『隣の客はよく柿食う客、でしょうか?』
(それを言うなら隣の芝生は青いよっ!)
「おや? 猫ですか?」
 男は助手席で死角になっていたカサンドラの気配に気が付くと身を乗り出した。
「ええ。昨日からうちに迷い込んだの。ミーちゃんっていうのよ?」
 男と目を合わせたカサンドラはすぐにその男が首輪のLEDランプに視線を移し、それからサイドミラーを凝視したことに危機感を抱いた。
「つけられている。飛ばしてくれ」
 男は前方を指差して和子に指示を投げる。それからすぐに後部座席に戻るとフードを被って身を低くした。
「と、飛ばすって言っても駅前なのよ!? 信号待ち多いからすぐに追い付かれるわ!」
「いや、もう追い付かれている」
 男はスマホを掲げてリアウインドウ越しにカメラを使って状況を把握した。カサンドラも助手席からバックミラーを見上げたが後方の車両は大衆車ばかりで追跡車の特定はできなかった。
「左側の歩道に車を突っ込ませろ。俺はそこに紛れて逃げる」
「そんな! 私はどうなるの!? 待って! 嫌っ! やめてっ!」
 上半身を運転席側へと乗り出し、男はハンドルを掴むと和子の静止を振り切り渾身の力で左に舵をきった。和子はブレーキを踏んだものの車体は制御を失って歩道を乗り上げ、そのまま商店の外壁に激突した。同時に和子はエアバッグに突っ込み、男はハンドルを握りしめたまま衝突の衝撃に耐えると左後部座席から転げ落ちるように車外へ脱出した。
『衝突音を検知しました! カサンドラ? 生きてますか?』
(わ、わたしは大丈夫ー。猫の身体ってしゅごいー)
 カサンドラは助手席からダッシュボードに激突して身体を車内に弾ませた。反射的に体制を変化させて難を逃れたのは猫の本能だったのかもしれない。
 車が激突した駅前通りの歩道にはすぐに人だかりか湧いた。男は車両と衝突した外壁の隙間に身を隠しながら素早く歩道に身を進め、フードを被り直すと何事も無かったかのように現場を後にした。
——しばらく歩くと男は一度だけ立ち止まって後ろを振り返った。そして、再び前を向いたときにその目に映る景色を埋めたのは、美しい翼の模様が刻まれたナイフの刃だった。
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登場人物紹介

アポロー

 かつてアポロンと呼ばれた神々の一人

 生命の設計者として蓄積情報を収集するため再び地球に訪れた

 事故で命を落とした人間の身体を借り、名をアポローとして製薬会社を創業

 アキバのメイド居酒屋三階を居場所とし、随伴者であるパラスと共に人の営みを続けている


 身長180cm やや細身 日米ハーフの三十路男性

 日本のアニメや漫画文化を好み、その独創性に共感している

 少年のような表情を見せながらも他者に対して不思議な独特の空気を持ち、時にそれは人と神々の交錯へと自身を巻き込んでいく 

パラス

 カオス、ガイア……その起源は他の神々と同じく、一つの光から多様に分裂した存在

 アポローの随伴者として目的遂行をサポートしている

 ハイテクシステムに身を宿し、自身はフクロウのマークをアバターとして扱っている


 かつて神であったトリトンの庇護下から脱し、ミネルヴァ(アテナ)の妹としてオリュンポスファミリーから愛された

 世間知らず、かつ奔放な性格を見せるものの、彼女自身はアポローを強く敬愛している

カサンドラ

 アポローとパラスが自室を置くメイド居酒屋に、ある日ふらりと現れた茶虎の猫

 不在となった前任者の占いブースを引き継ぎ、類まれな能力を発揮することに


 中身は二十歳の女の子

 占い百発百中のカサンドラとして人気の看板猫なのだが……

榊原静子

 アキバのメイド居酒屋【メイド海賊オロチ】の店主

 江戸っ子気質な性格は常連客から人気があり、料理の腕も評価が高い

 古くから街の顔として知られた一家の一人娘であり、彼女自身もまた人脈は広い

 ひょんなきっかけからアポローを店の三階に住まわせることになり、現在は食事を提供しながら付き合いを続けている


 年齢非公開 アポローよりは年上 吊り目がチャームポイントでスタイルが良い(客評価)

 和服を好み、自身はメイド服を着たことが無い、絶対に着ないと声明している

 いささか古風な性格だが実はお嬢様育ち。いわゆるメカ音痴で、最近はスマホに頭を悩ませている 

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