3 検証 そしてアポロンの矢
文字数 2,383文字
「お待ちしておりました。お一人でしょうか?」
「ええ。私だけです」
受付の女性は手元の端末で確認を取り、ICチップ付きのゲストカードをアポローへ手渡した。
「あちら左手奥の会議室です。
「ありがとう。迷惑をかけます」
アポローはそう言って正面入口で待ち構えている報道陣へ顔を向けた。受付の女性はそんなアポローに笑顔を返し、会議室へ向かうよう促した。
「——お待ちしておりましたアポローさん。どうぞ、こちらへ」
会議室でアポローを迎えたのは初老の男性だった。細身だが声色には力強さがあり、整った白髪とシルバーフレームの眼鏡は紳士的な気品を漂わせていた。
「ご無沙汰しておりました中村さん。少し、お痩せになったのでは?」
「いえいえ、どうも最近、食が細くなりましてね。まあ歳ですよ。さ、アポローさん、どうぞ座って下さい」
アポローが応接ソファーに腰を下ろすと、中村も向かい合って座った。
創業六十年を迎えるリバーサンド社は、国内製薬企業の中では中堅企業として知られ、主には研究開発と人材の育成を柱に、これまで多くの若手起業家を育成してきた。そんな企業のトップである
アポローが持つ人当たりの良い空気もまた、中村にとっては懐かしい時代の同僚や仲間との思い出を刺激的に彷彿とさせ、それはミュケナイ社とリバーサンド社、二つの企業の良好な関係の絆にもなっていた。
「今回の訴訟の件……でしたね? アポローさん」
「ええ。私は今回の件について信頼関係が崩れることを何より懸念しています。リバーサンド社が、どのような背景で訴訟に臨んだのか、その点についてお話を伺いたいと思っています」
先程アポローを案内した受付の女性がテーブルへお茶を置くと、中村はそれに口をつけてから眉をしかめた。
「商品研究の盗用、そこに背景はありませんよアポローさん。業界は確かに、たまたま似たような製品であれば見過ごす暗黙の了解がありますが、今回の件はその範疇を超えております」
「中村さん、しかしながら盗用とされるデータは、過去に当社が途中放棄したものです。そちらの新商品から当社が盗用を行ったとするのであれば、時系列に矛盾があるのでは無いでしょうか?」
「今日、アポローさんにお見せしようと用意したのですが……まず、こちらを見て頂きたい」
中村はそう言ってタブレット端末をアポローへ差し出した。
「拝見します」
アポローはしばらく端末の画面上を操作し、自身の眼鏡を外してテーブルへ置くと首をかしげた。
「なるほど……これを見るに、こちらのデータが放棄となる以前に、つまり先にリバーサンド社が同様の研究成果を持っていた。と?」
「その通りです。もちろんこの話は公にしていません。社の法務も裁判までは公開しないとしています。ここだけの情報提供ですので、よしなに」
「一つお聞きしたいのですが中村さん、ここの最後に記載されているデータ詳細は、そちらの独自成果なのでしょうか?」
テーブルに置いた眼鏡をのけて、アポローはそこにタブレットを置いてから質問を投げかけた。中村もまた眼鏡を外して目を細める。
「アポローさんも若いのに老眼でしょうか? 私も最近、こういった端末の画面を見るのがわずらわしくて……ええ、その通りです。これは当社独自の研究成果です」
「失礼を承知でお聞きしますが、これは当時国内で確認されていない研究分野です。リバーサンド社は当時、海外と非公開の提携や研究など、されていましたか?」
「さすがですねアポローさん。その通りです。しかしながら出資提携と守秘義務がありますので、それはお答えすることができません」
「中村さん、このデータは確かにミュケナイが放棄した研究データと一致しています。しかもそちらの研究当時、当社はこの研究を手をつけてもいません。先にそちらが成果を持っているとなると私の疑問は消失します。そちらが訴訟を行うことにも正当性があります」
「そこですよアポローさん。あなたが知らないとなれば考えられるのは第三者、それも当時のミュケナイの中の人間が盗用したと考えるのが定石ではないでしょうか?」
「ええ。確かに」
中村は茶を一口飲み、思案するアポローを見つめる。
「我々の業界というのは今やデータが全てですアポローさん。誰かが不正にデータを売買するのも常にリスクでしょう。お互い、問題の解決には軋みもあるでしょうが、この一つのトゲを乗り越えて、また一緒に進みましょう」
アポローは眼鏡をかけなおし、中村の言葉に笑顔で答えて握手を交わした。
「ああ、そうそう。忘れるところでした、先週、会議で北海道に行ったときに……」
「北海道?」
「ええ、そうですアポローさん、覚えていますか? もう何年も前に、会議を抜け出して一緒に
中村は楽しげに、どこか懐かしむようにつぶやき、脇に置かれたバッグから小箱を取り出した。
「これを、アポローさんに渡すよう言付かりまして」
「私に? どちらからでしょうか?」
「モイライです」
「あの企業から? 中身を確認しても?」
「ええどうぞ。何やら、あなたが興味のあるものと言ってましたが」
ジュエリーケースのような紫色の小箱をアポローが開くと、そこには三角形の、金色の金属が一つだけ留められていた。
「これは……実験器具か、何かの部品ですかね? アポローさん」
中村は眼鏡を上げ、目を細めて小箱の中を覗き込んだ。アポローは表情を変えることなくそれを見つめたまま、答えを伝える。
「矢の先端ですよ中村さん、これは、アポロンの矢と呼ばれていたものです」