7 榊原静子 街と人と
文字数 2,831文字
「おやおや榊原さん、これはどうしましたか」
十二畳ほどの小さなオフィス。入り口ドア近くにはパーティーションで仕切られた四席のカウンターがあり、奥の窓際の事務机ではスーツ姿の小太り中年男性が静子に笑顔を向けていた。
「しばらくです
静子はそう言って深く頭を下げた。
「いやいや、そんなかしこまらんでください。ほんなら、こっちで」
小さなテーブルに案内された静子は相澤と向かい合って座った。テーブルの上には不動産ローンを謳ったチラシが詰まれており、部屋全体もそうなのだが清掃が行き届いているとは思えなかった。仕事柄、静子は室内の汚れに不快感を強く抱いた。
「お久しぶりですな榊原さん。何やら大変みたいですな。店の女の子が医者と失踪してるとか?」
「ええ。お恥ずかしい限りです。TVで、ご覧になったでしょう?」
「いやっははっ。僕はまた、出入りでもあったんかと思いまして。貴女はマスコミのあしらいなんて苦にもならんでしょう?」
「今日、突然お伺いしたのは、その件と別の話なんです」
さっきからチラチラと胸元にいやらしい視線を感じる静子は、わざと神妙な声と表情を相澤へ投げて会話を急いだ。
「渋谷の、ある不動産について詐欺に巻き込まれている可能性がありまして……少し情報を頂けたらと」
「ほう。どこです?」
静子は不動産サイトから印刷した物件情報をテーブルへ差し出す。
「クリエイト666、ああ、うちの近くですわ。これはこの辺りの仲介業者ならどこでも入居募集してますな。築が古いですがほら、近くに役所があるでっしゃろ? 特に飲食なら立地が良いんですわ」
「立地が良いのに募集が継続しているのですか?」
「おや? 榊原さんなら見て解りまへんか? 賃料が相場無視でバカ高い。それとほら、オーナーの会社がよくわからんトコですわな」
相澤はテーブル横の棚から賃貸情報誌を取り出して静子へ開いた。そこに載っている同物件のオーナーは静子が見た不動産サイトの情報とは異なるものだった。
「これ、どっちも僕が知ってる中でも聞いたことの無いオーナーなんで、おそらくは架空なんじゃないですかねえ?」
「そうですか……この物件でカフェの開店を進めていたんです。ところがある日から仲介役の人と連絡が取れなくなりまして……」
「はっ! なんとも榊原さんらしくないじゃないですか。渋谷といえ榊原の看板を知らない不動産屋なんぞ居ないはずでっしゃろ? まあ、最近じゃ半グレみたいなのが縄張り取ってますから、時代の流れなんでしょうかねえ」
「その仲介者という女性の店は物件の二つ隣でフローラルというお店なんですが、相澤さん、ご存知でしょうか?」
静子は相澤のトークを一切スルーして、あくまで急ぎ困っている姿勢で早口に質問を続けた。
「フローラルならうちの連中もよく使ってますわ。 あそこの大将は女性じゃなくて男性で、すぐ横のコインパーキングのオーナーもやっとりますな?」
「ありがとうございます! 私っ、恥ずかしいやら腹立たしいやら」
静子はそう言いながら席を立ち、テーブルへ現金の入った封筒を置いた。
「いやいや、これは受け取れませんよ榊原さん。お納め下さい」
「こちらこそとんでもありませんっ。連絡もなしに訪問した上、手前勝手な質問ばかりをして」
「そんな事はありませんて、他ならない榊原さんなら、いつでも……」
相澤はそう言いながら静子のジャケットの内ポケットへ封筒を押し込んだ。ドサマギでその手が胸を押し付けるのを不快に感じたが、静子は深く頭を下げ、その場を後にした。
***
クリエイト666は相澤の言う通りに徒歩数分の場所だった。二階建ての物件で、正面シャッターは閉まっている。
静子は横窓のサッシの状況を確認してからシャッターの鍵穴を眺めた。由紀子がアポローに話した内容と一致するかは分からないが、物件には現在も人の出入りがある痕跡が伺えた。
そこから二件隣にフローラルと一目で分かる店の看板が目につく。店の前では食欲をそそる香りが漂っており、入口から見える店内ではコーヒー豆の販売を行っていることが分かる。
「すいません。店主の方はどちらでしょうか?」
静子は店の店員へ直球で問いかけた。
「店長ですか? 少しお待ち下さいね」
細長い店内には四席の丸テーブルが三つあり、十席ほどのカウンターから奥はキッチンになっていた。店員がそこへ行くと、店主らしき男性はすぐにやってきた。
「いらっしゃいませ、店長の
身長一六八センチの静子と同目線の織田は笑顔で静子へ応じた。五十代くらいだろうか、引き締まった首元と、エプロンの上からでも一目瞭然で主張する筋肉質な身体は、冷房の効いた店内でも熱気を放っているかのようだった。
「申し訳ありません、私、佐々木佳子さんの友達でして、こちらに携帯を忘れたので見てきて欲しいと頼まれまして……」
「ああ。佐々木さんのっ、確か前にも財布忘れて……お~い、携帯の忘れ物ないか~?」
織田がレジの店員に声をかけると、すぐさま小さなトレイを持って静子へと提示した。
「この中にありますか?」
トレイの上にはハンカチが数枚と、どこかのポイントカードなどが山になっていた。
「う~ん。携帯は無いなあ~」
「無いですね……」
静子は不器用に演技めいた素振りを見せ、織田へ残念そうにつぶやく。
「無いならしょうがないです。私、そこのクリエイト666に近々カフェを開店する予定なので、ご縁がありましたら今後ともよろしくお願いします」
「えっ!? あそこに店を出せるんですか?」
驚いた表情の織田へ静子は頭を下げてから笑顔で向き直った。
「出せますよ? なにか、あったのですか?」
「いやほらっ、あそこ、オーナーが幽霊物件じゃないですか? もちろん開店は嬉しいことですが……役所のランチ客流れちゃうと、うちのライバルですねえ」
「オーナーが幽霊の物件ですか? 私はクリエイト天王寺という不動産と契約を進めていますが?」
「はい? その会社もう無いですよ? 大丈夫ですか? その契約って?」
「はあ……鍵も頂いてますし、今日もこれからから内装の準備をするのですけど……」
クリエイト天王寺は静子が不動産サイトで確認したオーナー企業の社名。もちろん織田へ言っている開店の話しは嘘だ。
「そ、そうなんですかあ。いやいや、オープン決まったら連絡して下さい。是非お祝いしたいので」
織田はそう言うとレジの横から店のチラシを持ってきて差し出した。静子はそれを受け取ってから礼を述べ、足早に店を後にした。
「信用ならない奴の繋がりは、また信用ならない。嫌な世の中……」
静子は近くの雑貨店へ向かいながらそうつぶやいた。