第104話 信源氏
文字数 5,776文字
陽成帝侍従で元服したばかりの皇子、
だが相手の
「いいですねえ!お互い酔った上の戯れの相撲節会の真似事ではないですか」
と大声で叫んだのだ。
在原業平。
大后さまの男妾で伊勢斎王様と密通したあげく子を儲けた汚らわしき男。
漢学の才が無い癖に小賢しい和歌を書き散らかしながら皇家の妻や娘に次々と手を出して政争の負け組である己が人生に復讐しつづける事でしか自分を満たせない情けない男。
殿上人の恥め。皇家に捨てられたのがそんなに悔しいか?
御簾の向こうからお越しになるのは主の陽成帝かはたまたその母で
気配を感じた定視は素早く業平の両頬に強烈な平手打ちをくれてようやく相手から離れて立ち上がり、乱れる息を整えてから
「座興とはいえ御椅子を壊すなど、許されぬ行いをしてしまいました…」
と遅れて起き上がり身だしなみを整えた業平と並んで平伏し、御簾の向こうの人影に謝罪すると、
「よい、定省」
と今年12歳の陽成帝の幼いお声がかかり定視は心から安堵した。
もしこれが大后の高子さまだったら自分は宮中から追放されていたかもしれない。
何しろ自分から業平中将を相撲に誘い、体格差をいいことに一方的に痛め付けたのだから…
それは宴に呼ばれた周りの貴族たちと示し合わせてやった、不祥事ばかり起こしている業平への報復だった。
御簾を上げさせて陽成帝は御椅子の損壊状況をご覧になり、「元々華奢な造りだから致し方ない。修理すればいいだけの事だ」とこともなげに仰った。
さらに陽成帝は
(在原なんて所詮野に捨てた石。石の行いにいちいち腹を立てるな)
と母の愛人である男に一瞥をくれてから定省の耳元に囁き、その場で騒ぎを収めて下さった。
あの騒ぎから一年も経たぬ内に業平が死に、陽成帝のお父上清和上皇も崩御なさり、
その三年後に陽成帝が宮中で侍従を撲殺した。として廃帝にされ、
定省の父の時康親王が光孝天皇として即位した時、時の関白、
太政大臣藤原基経が使者を引き連れ、定省の邸に来訪したのは源氏になって三年後。
ちょうど可愛がっている黒猫に乳粥を与えている時だった。
「朝議の結果、源定省朝臣に皇族に戻っていただく事と相成りました」
といつもは傲然としている基経がこの時ばかりは畏まっているのが定省には可笑しくてたまらなかった。
仁和3年(887年)8月25日。
この源定省こそが後の第58代宇多天皇。
一旦臣籍降下されたただ人から返り咲いた唯一の天皇なのである。
こうして朕が即位出来たのも天皇の嫡流である「源氏」だからだ。
業平よ。
あの時の相撲では決着が付かなかったが、人生ではお前に勝ったぞ!
内裏に引っ越して間もない宇多帝は父から下賜された唐渡りの黒猫を抱き上げ、誇らしげに「朕は勝ったぞ、墨麻呂よ」と語り掛けた。
嵯峨天皇の曾孫、宇多天皇と平城天皇の孫、在原業平の起こした騒ぎは後の歴史物語「大鏡」に書き記されている。
その66年前の弘仁5年(814年)5月8日。
「朕、詔す。我が皇子信に『源』の姓を与える」
嵯峨帝は広井弟名娘、明鏡との間に生まれた今年四歳の信皇子に、
の姓を賜り異母弟の
私はこの日をどんなに待ちわびていていただろうか…
と信はじめ他二人の皇子たちの後見人を買って出た中納言、藤原葛野麻呂は三人の皇子が御車から降りてその中に一人だけやっと伸びた髪を
生き別れた我が娘、明鏡に酷似しているのを確認すると「信さまでございますか?」と優しく声を掛け、初対面の保護者を前にぎこちなくうなずいた信を葛野麻呂はためらいもなく抱き上げ、
「ご安心なさいませ、この葛野麻呂あなた様方を人生賭けてお守りいたしまするぞ」と言ってから頬ずりした。
我が娘明鏡よ。故あって娘と名乗れぬお前が身が千切れる思いをしてまで手離した我が子をこうして実の祖父である我に託してくれたこと、感謝している。
見ているか?明慶。いま私たちの孫が戻って来たぞ!
と最も愛した亡き恋人に向かって葛野麻呂は叫びたかったが、それは口が裂けても言えぬこと。
「さあさ、この
天皇のお子の後見人を務めるのは貴族として名誉なこと。と年寄りたちは言うが、要は子が生まれすぎた天皇が経費削減の為に姓を与えて皇族から外し、周りの貴族に養育を押しつけているだけじゃないか!
わざわざ天皇の直流である、という意味の「
という息子の気持ちなぞとうにお見通しの葛野麻呂は常皇子をを抱っこしたまま常嗣を見据え、
「いずれも帝の御寵愛の深いお子らを賜ったのは有難き幸せ、と思わねばならぬぞ常嗣。十年後に元服なさった時、お血筋からいって藤原より早く出世なさる方々だ」
父に窘められて常嗣は、は!とこの時は託された三人の幼子の前で居住いを正した。
が、わざと藤原より格上の氏族の一派、源氏を作ってこの先長きに渡って藤原を牽制し続けるという嵯峨帝の深謀遠慮など、この若くて短慮なところのある貴公子は考えもしなかった…
政務がひと段落すると嵯峨帝は後宮にお戻りになり、この日は真っ先に正妻の高津内親王の部屋にそっとお入りになられた。
「
と部屋の隅で赤子と添い寝する高津に話し掛けると高津はにっこりと笑って「さっきからお目覚めでございますよ」と半身起こして長い髪をかき上げる。
床の中で父帝のほうをきょろり、と見て寝返りをしようとするのは昨年生まれた皇女、
結婚して10年以上になるこの異母兄弟夫婦にやっと授かった子は高津に似て色が白く顔立ちが美しく、今嵯峨帝は正妻との間に生まれた業子に一番夢中になっておられた。
抱き上げると生後8か月の業子はにっ、と笑って父帝の頬を遠慮なくぶつがそれでも笑って受け止めてしまう程の可愛さである。
「そのままでよいから」と既に二人目の子をを身籠っている高津の体を気遣った。
こうして足繁く通って下さるのは嬉しいのですけれど…と高津は膨らんだお腹も構わず床の上で端座し、
「今日だけは源氏の母たちに会ってあげて下さい」
と哀切な声で夫にお願いをした。
「私も母になったればこそ解ります、明鏡たちの子を手離した辛さが…だから」
「妃の意見、もっともである」
業子を乳母に託した嵯峨帝はそのまま高津に背を向け、妃の部屋を後にした。
常の母、弘の母、と順に妻たちを慰めた嵯峨帝は最後に信の母、明鏡が仕えている橘嘉智子の部屋に入った。
父帝のお越しに正子と正良が「父上!」と嬉しそうに駆け出そうとするのを嘉智子が無言で制した。
わざと後ろを向いた嘉智子の視線の先には明鏡がいて、信と別れた朝から何度も部屋の掃除と道具の手入れを繰り返し、
「明鏡」
「さっき片付けをしていたら筆を見つけてしまいました」
明鏡はぼんやりした声で新しい筆を手に取って眺めている。
「信さまはそろそろ手習いを始めるお年ですから準備していたのに…私ったら持たせるのを忘れるなんてうっかり者ですわね」
「明鏡」
「今流行りの狸毛筆を持たせようかとも思ったのですが、固くて幼子は手を痛めてしまうから兎毛の筆にしたのに私ったら…」
嵯峨帝は何も言わず明鏡を強く抱き寄せた。
明鏡は帝の衣が濡れる無礼も構わず夫の胸に強く顔を押し付けて堰を切ったように嗚咽した。
夫に甘えたのは宮中に入ってこれが初めてだった…とかなり後になって明鏡は思い返したものである。
遡る事この年の正月。
平城上皇の第三皇子、
立会人は大僧正、永忠と高岳の後見人である空海。この日ばかりは息子の晴れ姿を見ようと母の伊勢継子が寺内に入る事を特別に許された。
それにしても、皇族男子の元服というまことに晴れがましい儀式が僧侶立会いのもと寺内で行われ、
祝ってくれるのは兄である我と尼姿のお母上だけとはなんとも寂しいものである。
それもこれも、自分たち兄弟は先の政変の敗者側の皇子であり、父平城上皇でさえも高岳の晴れ姿を見る事は許されない。
という酷薄な現実を阿保親王は廃太子にされた弟の元服式で思い知らされるのであった。
「せっかくの正月なのになぜ空海は辛気臭い顔をしておるのだ?」
ささやかな祝いの席で空海一人だけがずっと涙ぐんでいるのを高岳が指摘すると同行の弟子、杲燐が「勘弁したって下さい、阿闍梨はここに来る前にご自分の弟君の剃髪をなさったのですから」
とつとめて柔らかい口調で説明した。
仔細はこうである。
父、佐伯善通が「都の兄たちに養育してもらいたい」と送り込んだのが愛妾ハヤメとの間に生まれた9才の童子、佐伯真雅。
最初は次男で書博士の酒麻呂に養育されていたのだが弟、真魚こと空海の出世ぶりと父善通からの「真雅の母が病になったから僧侶にさせたい」という文で、
真魚の弟子にした方がこの子の将来のためではないか?
と思った酒麻呂が高雄山寺に連れて来て空海に預けて三年。
最初は…
「母上との夫婦仲はどうなっとるんや!?父上の身勝手な都合で弟を簡単に坊さんにさせるもんかい!」
と子供じみた反抗をしていた空海だが、業を煮やした真雅自身が「いい加減早う我を出家させて下さいませ!」と26年上の兄に強くせがんで出家剃髪の儀式を執り行ったその足で東大寺に来た、と言うのだ。
「あの真雅がようやく出家か…めでたい」
と高岳がかつて宮中で一緒に遊んだ真雅の出家を喜んだのに対して空海はというと…
「まだ柔らかくて細い髪の毛でした。この手で幼い弟の剃髪をしたと思うと」
と言ってまた泣き出すので高岳はすかさず「坊さんにあるまじき執着ではないか、しっかりしろ!空海」
と自分の後見人を叱咤した。
「これはなんと頼もしき親王さまか!」
周りの期待を集める高岳親王がこの日は誇らしかったが持って生まれた闊達さは負け組の皇族としてはどうか…と阿保は危惧した。
まあいい、こうして命助かり成人の祝いが出来るのは叔父である嵯峨帝がいい治世をなさっているという証拠だ。
と祝いの酒を口に含んですぐに心配を打ち消した。
こうして
高岳親王元服。
真雅出家。
最初の源氏、嵯峨源氏の臣籍降下。
と次世代が人生の始まりを迎えたこの年の夏、葛城山の麓の集落で男の赤子が誕生した。
「生まれましたよ、元気な
と産婆に言われるまで産屋の外で待たされていた父親の名は
都での任期を終えて里に帰った素軽はその夜に許嫁であるタツミの娘と結婚し、舅のタツミの跡を継いで若輩ながらも遠行者から六代伝わる山の一族を束ねて来た。
産屋に入る事を許された素軽は湯浴みを済ませ産着を着せられた我が子と初めて対面し、「小さくて赤くてくしゃくしゃだな」と見たままの感想を述べてから「よく頑張ったな、スセリ」と長い銀髪を枕元に垂らして横たわる妻を労った。
「んもう…可愛い。とか他に言いようはないのですか?」
前の頭タツミとトウメの一人娘であるスセリはむっとして産褥で文句を言ったがそれでも我が子に初乳を与える時の顔は満足げであった。
このスセリ、先祖代々隠されて来た名を持つ古い一族の姫である。という事をタツミから聞かされたのは婚儀の夜。
という天皇家以前のこの国の王家の名を
邇芸速日命は物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神であり、複数の豪族を束ねて巨大な一国を中つ国に形成していたが、初代神武天皇との戦に敗れ臣従させられた。
「と、まあ俺の六代先祖の遠行者さまの母方の物部氏から伝わる血が俺にもお前にも、スセリにも流れている。我々がニギハヤヒ王家の子孫である事は頭領しか知ってはいけない決まりだ…」
「それでは血を繋げるのが我々の務めなんですか?何のために」
「来るべき時のためにさ」
にいっと笑ったタツミの顔が獲物の隙を窺う獣のように見えたのは決して気のせいではない。と素軽は思ったのだった。
「それにしても、父上も母上も今頃は何処にいらっしゃるんでしょうねえ…」
赤子を抱くスセリはふいに遠い目をして婚儀の翌朝、娘夫婦に全てを譲って行き先も告げずに旅立った両親、タツミとトウメに思いを馳せた。
「さあなあ、でもあのお二人なら何処へ行っても大丈夫だよ」
殺しても死なない位お強いんだものな。と余計な忌み言葉を我が子の前では言わない素軽であった。
その頃、
四十がらみの逞しい男と銀髪の渤海人の血をひく女人。という目立つ組み合わせの夫婦が宗像の頭領に挨拶を済ませて筑紫から出立しようとした時、
見たこともない位大きな黒い
「タツミ見て!なんて大きな烏」
妻の呼びかけにタツミは空を見上げ、日輪を横切る烏を見ると…
これは果たして瑞兆なのかどうか。と笑顔をひらめかせると妻の手を取り、
「あの烏の跡を追うか」
と告げた。
今上帝神野とその末裔たちよ。おまえらが民の真の敬意を受け続ける為に、必死の努力をしろよ。
俺たち山の民はこの先ずっと見続けているぜ…
昔、隠された名を持つ夫婦が日輪を横切る烏の導きの
第四章「秘密」終わり
「凌雲」へと続く