第6話

文字数 3,086文字

 飾り気のない小さな部屋だ。対峙して座る鴨川水面の背後の壁の高い位置には格子の嵌められた明り取りの窓の向こうはすでに陽が落ちていて薄暗い。室内を照らす蛍光灯の白さが少し目に痛かった。

 調書を作成するために氏名、住所、電話番号などの定型文のやり取りをする。すでに答えているはずの質問に鴨川は面倒くさそうな表情を一瞬だけ浮かべたが素直に応じた。
 「今日、あの店を訪れた理由をもう一度、聞かせてもらっても良いですか?」
 普段、取り調べを担当するのは別の刑事で彼女が大役を務めるのは異例のことだった。おそらく女性同士なら心を開くだろうという浅い考えと職場における男女差別をなくしていこうとする上からのお達しのせいなのだろう、神座は慣れない役目に緊張しながらも言葉を選んで彼女に話しかけた。

 「最後の給料を貰いに行くのと鍵の返却の為。」
 過去の自分の発言を思い出すように鴨川は答える。取り調べの際、同じ質問に対して別の答え方をしたときに警察が難癖をつけてねちねちと質問を繰り返すという前情報が彼女の中にあったのだろうな、神座は考える。
 「鍵を返却するという理由はわかります、けれど給料を貰いに行くというのが少しわかりません。基本的に振込なのでは?」
 一昔前ならいざ知らず手渡しで給料を支給する職場が今時あることに驚きだった。
 「先月まではそうだったんですけどね………。」
 鴨川は短く溜息をついた。
 「今月だけですか?」
 「今月っていってもまあこれが最後の給料でしたから別にまあ………、一回くらいなら。」
 「変更になった理由を聞きましたか?」
 「さあ………。」
 鴨川は頭を右に少し傾けた。

 「嫌がらせ、とか?」
 黙って聞いていた水無瀬が神座の斜め後ろから口を挟む。
 「嫌がらせ?」
 神座は振り返る。給料を手渡すのが嫌がらせ、とはどういう意味だろう、正面の鴨川を向き直った時に彼女は下唇を少し噛んで視線を逸らした。
 「嫌がらせ、なんですか?」
 「ああ、もう………。」
 鴨川は右手で頭を掻いた。綺麗にセットされていた毛髪が乱れる。
 「わたしが辞めることを店長は良く思っていなかったんですよ。」
 「さっき聞いた時には円満退社って言っていましたよね?」
 「言いました。でも、そう言わないと疑われるでしょう? だってわたし、店長の死体を見つけちゃったんですから。辞める時にちょっと揉めました、なんて言ったら犯人扱い確定じゃないですか。」
 「ということはアメリカに留学するという話もウソですか?」
 「それは本当。」
 「どうして嫌がらせを受けたんですか?」
 「例えば春日井道雄と交際していた、とか?」
 水無瀬が言うと観念したように鴨川が頷いた。
 「一年ほど前に付き合って別れたのが一か月前くらい。」
 「別れてからも一緒に仕事を?」
 神座は聞く。
 「春日井に頼まれたから仕方がなく。求人をするにしても新人がなかなか入ってこないから、忙しい時だけで良い、と言われたんだけれど………。」
 「実際に求人を掛けていなかった?」
 水無瀬が言った。

 「そ、向こうにしてみたら新人さえ入ってこなければ ずっとわたしが辞められないでいるわけだし 理由をつけて一緒にいたかっただけなんでしょうね。」
 「別れた理由は?」
 「束縛の強さにわたしがうんざりしたから。実際、わたしダンスで留学したかったから始めたバイトだったし、お金が貯まったら辞めるのは元々の予定だったのに。行くな、とかずっと言われてね………。嫌になっちゃった。で、このままだとわたしの夢が叶えられないな、と思ったから強硬手段。留学手続きをさっさとしてしまって既成事実を作ってから辞めたってわけ。そうしたら最後の給料は振込じゃなくて手渡しにするって………。」
 「で指定された時間に店に行ったら春日井が死んでいた?」
 「そういうこと。こっちとしては超迷惑なんだけれど。」
 「最後の給料を手渡しにしたのは最後まで貴女を説得したかったからか、もしくは………。」
 「もしくは? 何?」
 冷めた視線を送る水無瀬に鴨川は尋ねる。
 「貴女を監禁、もしくは殺そうとしていた可能性もある。」
 「それはわたしも考えた。ちょっと異常だったからね。自宅に手錠とか持っているよ、あいつ。そういう趣味あるんだ。」
 「鑑識課の話では貴女に用意しているはずの給与らしきお金はどこにもなかった、と。」
 「確定だね………。春日井は異常者。」
 「もしくは用意されていたのに現場から消えた、という可能性もある。」
 いつの間にか水無瀬が神座のすぐ隣まで移動してきていた。両手をデスクについて覗き込むように顔を鴨川に近づける。
 「何? 何?」
 じっと見つめられた鴨川水面は照れるというよりは明らかに動揺して視線を泳がせていた。
 「持ち物って検査させてもらっても良いですか?」
 「持ち物検査?」
 「両替でも良いですよ。」
 「え?」
 「財布の中のお札を数枚、うちで用意したお札と変えてもらうだけで良い。ちなみに目的は指紋です。この意味わかりますか?」
 鴨川が小さな手で拳を握るのが見えた。
 誰も一言も発さない沈黙の時間が続いた。
 神座も根気強く鴨川が口を開くのを待った。

 「わかりました………。」
 根負けをした鴨川は俯いて小さな声で言う。五分ほど時間が掛かった。
 「言います。お店の金庫からお金を持ち出したのはわたしです。」
 「それを見咎められて被害者を殺した?」
 「それは違います。」
 鴨川は叫ぶように言った。
 「わたしが店に来たときにはもう春日井は死んでいたんです。それは本当です。」
 「残念ながら それを信用するに足る証拠がない。」
 水無瀬は冷たく言い放った。
 「店の金庫からお金をくすねていた貴女は店の鍵を持っていて唯一、施錠出来る人間でもある。これで殺していない、信用してくれ、とは虫が良すぎますよ。」
 「そんな………。」
 絶望感に包まれた顔をして鴨川は頭を抱えた。
 「少なくとも貴女が殺していない証拠、例えば死亡推定時刻のアリバイなどがあれば話は少し変わってくるでしょうけれどね。一時間から四時間の間という幅がありますけど 店に来るまでの間、どこで何をしていたのか証明出来ますか?」
 「できます。」
 「ではお聞きします。春日井さんが殺害されたとされる時間帯、貴女はどこにいたのですか? 教えてください。」
 「ダンスの動画を撮影していました。」
 鴨川が自信に満ちた顔で答えた。
 神座と水無瀬はお互いに顏を見合わせる。
 「動画の撮影が今日のお昼間に撮影されたことを証明できますか? 事前に撮影しておくことも可能ですよね?」
 水無瀬が言う。
 「公園で撮影していたんですけど 散歩中だったおじいさんが倒れたので救急車を呼びました。たぶんそういうのって記録とか残っているんですよね?」
 「はい。残っています。」
 「病院にも付き添いましたから それも調べてください。」
 水無瀬は壁の方を向いて頭を掻いていた。鴨川に指示されなくても裏取りはするつもりだったが おそらく彼女のアリバイは完璧なのだろうな、と神座は思った。だからこそ水無瀬は難しい顔をしていたのだろう。鴨川水面にアリバイがある、ということが証明されればバーの扉に鍵が掛かっていた問題が再浮上することになる。それはつまり簡単に解決すると思われていた事件が複雑化して目の前に現れたことを意味する。
 本当に佐竹摩央が春日井道雄を殺したのではないか、という考えにじわりじわりと伸びていく蔦のように自分が絡められていくような気がして神座は気が滅入っていた。
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