第32話
文字数 13,562文字
鵠沼弁護士事務所のガラスで仕切られた会議室に鵠沼綾乃がドアを開けて入ってくるとまず睨みつけるように神座の左隣に座るナナシを見た。時間にすると五秒くらいだろうか、気の抜いた表情で壁に掛かる絵画を見ていたナナシに途端に興味を失ったのか、鵠沼は口元に笑みを浮かべる。
「すみません、お忙しいところお時間を頂きまして。」
神座は椅子から立ち上がると頭を下げた。
「いえ、仕事は片付いたところですからお気遣いなく。それに警察の捜査に協力するのは一般市民として当然の義務です。」
鵠沼は神座に着座するように手を差し出した。
「こちらの方は?」
「はじめまして。わたし、ベル=プランタンですぅ。」
「ベル=プランタン………さん。」
「犯罪捜査のスペシャリストで非公式ではありますが今回の事件の捜査に協力頂くことになりました。」
神座は説明をする。
「警察が捜査権も無い人間に、ですか?」
「今回のケースが非常に稀で前例がないので無理を言って捜査に参加させてもらっているんですよぉ。だって凄くないですか? 他人に憑依出来る超能力者が犯人なんですよ? おそらく頭の固い組織のお偉方では上手く対応することは無理だろうし、犯罪の形態も日に日に変化していくわけだから こういうのってやっぱりわたし達のような若い犯罪研究者が捜査にあたるべきなんです。そんな事を直訴したら こうして参加させてもらえることになったってわけです。なんでも言ってみるもんですね。超ラッキーですよぅ。」
言い終えるとナナシはブイサインを右手で作ってイェイと言った。
「でもぶっちゃけ、超能力者が殺人犯っていうのは今まで例が無かったですもんね。どうやって解決までこぎつけていいのやら お手上げなんですよ。」
「前例はありませんよね。」
鵠沼は自分が褒められたわけでもないのに機嫌よく言った。
「そうそう魔王にも会ったんですよぉ。」
「面会に行かれたの?」
鵠沼は驚いたように言う。
「ええ。超能力を見せて欲しいとお願いしたら怒られました。」
ナナシは肩を軽く竦めた。
「エンタテイメントと同じ扱いされたのが気に食わなかったんでしょうかね? 鵠沼さんはどう思います?」
「まあプライドの高い一面はありますね。そこが彼女の長所でもあり短所でもある。」
「煽り耐性が低いんでしょうかねぇ?」
「そういう事でしょうね。」
「人間って矛盾を抱えた生き物って言いますもんねぇ。他人を攻撃するのはよくても自分が攻撃されるのは嫌っていう人間は多いですからねぇ。」
「SNSの中でもそういう例は散見していますね。匿名だと思って言いたい放題ですが開示請求されればIPアドレスからすぐに身元は割れます。そういう例が多いというのに まだまだそういう事例は後を絶たない。相手が泣き寝入りをすると思っているのか、不特定多数であることで自分は多分平気だろう、と甘い考えでいるのか どちらにせよ、私に言わせればおめでたい頭の持ち主です。ただそのおめでたい頭の持ち主がクライアントになる可能性もあるのですから 私としては飯のタネには困らない。」
「でも本当に超能力ってあるんですかねぇ?」
「ありますよ、佐竹が起こした奇跡の数々を見てきた私が言うのだから間違いありません。ご覧になられていませんか? ミキアの件。」
「もちろん観ましたよ。」
「あれが全てですよ。ミキアは躰の自由を奪われ、そしてタバスコの入ったグラスを煽った。水を飲め、と指定したのにタバスコを選んで飲む説明がつきません。」
「面白さを優先する動画配信者ならそちらを選ぶ可能性もあると思うんですよぉ。」
「タバスコを飲んで辛い、と叫ぶだけのリアクションなんて一昔前の笑いですね。」
「ミキアの最初で最後のリアクション芸だったのかもですねぇ。」
「信じたくない気持ちもわからなくはありませんよ。でもね、佐竹摩央には超能力があるんです。貴女が信じようと信じまいとね。」
「そういえば わたしが面会に行って怒らせたものだから二人目の標的であるタレントが襲われましたね。」
「そのニュースならネットで観ました。」
「どう思いましたか?」
「どう、とは?」
鵠沼は首を傾げる。
「ああ、つまりターゲットだった樹里さんが命拾いをしたことですか? そうですね、オフレコにしていただけるのなら………、複雑な心境ですよ。なにせ私は魔王の信者ですからね。失敗例があるのなら今後、彼女が行うビジネスにおいてマイナスプロモーションをしたことになる。魔王としてはセンセーショナルな方法を取ったつもりだったけれど それが今回は裏目に出てしまったのでしょう。改良の余地がある、という勉強になったと思います。」
「人間は失敗から学ぶものですものねぇ。鵠沼さんの考え方は素晴らしいと思います。」
ナナシは頷く。
「でもわたしが言いたいのはそういう事じゃないんですよ。」
「ではどういう意味かしら?」
「簡単です。どうして魔王は二の矢、三の矢と用意していなかったのかってことです。いや、用意というのはちょっとニュアンスが違いますね。今回、同じ事務所のタレントに憑依して襲わせたみたいですけど それが失敗しても 別の人間に憑依しなおして襲えば事が足りたのではないか、ということなんですよぉ。だって傍にはタレント事務所の人間がいたわけでしょう? そっちに憑依した方が距離も近いし、目的達成は容易だったのに わざわざ警備員の変装までして 騒ぎで誘導して近づいている。これってまあ劇的といえば劇的なのでしょうけれど 面倒くさくありませんか?」
「まあだからショウ的な要素を入れた結果じゃないのですかね。」
「騒ぎに便乗した警備員によって殺される、のと 一緒に謝罪会見を受けていた事務所の人間に突然殺される、どちらでも社会に与えるインパクトは強烈だと思うのに あえて難しい方を選択した。魔王ってあまり知恵が足らないんですかねぇ? あ、こんな事を言うとどこかで聞かれていて わたしが次に殺されてしまいますか?」
ナナシはわざとらしくガラス張りの会議室の中を見回して言った。
「ちなみに今、わたしの目の前にいるのは鵠沼さんですか? 魔王ですか?」
「正真正銘の鵠沼綾乃です。ご安心を。一応、私と彼女の間でそういう契約になっています。私にはけして憑依しない、と。」
「そうですか、そうですよね、仲間だと思っていた人間に勝手に憑依されて好き勝手されたら嫌ですもんね。でもそれって魔王を信用するという性善説に基づかないと成り立たない約束ですよね。それでどう思いますか、魔王って頭悪いと思います?」
「けして頭は悪くないと思いますよ。彼女の行動は全て計算されていると思います。そうでなければ動画配信者なんて出来ないでしょう?」
「殺人ライブまではパッとしない人でしたけれどね。」
「そうですね。何がきっかけかわかりません。」
「今では時の人ですものねぇ。たぶん検索ワードの圧倒的上位に魔王はなっているんでしょうね。それでどう思いますか? なんで次から次へと憑依を繰り返して目的を達成しなかったのか、という理由。ビジネスパートナとしてのお考えがあれば聞いてみたいんですよ。そもそも鵠沼さんは魔王について全部知っているんですか?」
「もちろんです。彼女が全てを正直に話しているという前提はありますけれどね。」
「わたし、魔王は連続した憑依は出来ない、と考えていますが この考えは正解ですか? それとも不正解?」
「正解ですね。」
鵠沼は両目だけ笑って言った。
「魔王のあの力は転移先から次、次というわけにはいかないようで一旦、自身の躰に戻す必要があるそうです。」
「わあ、正解しましたよぉ。」
ナナシは無邪気に手を叩きながら神座にも喜んでみせた。猫かぶりの彼女の芝居に付き合いながら神座は やはり、とだけ真顔で呟くに留める。
「まあそう答えないといけないですよねぇ。」
ナナシは相手に聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりと呟く。
「何か言われました?」
「いえ、独り言ですぅ。」
ナナシは両手を振る。
「ちなみに憑依されて樹里を襲ったタレントですけど 今、警察で取調べを受けているらしいですよ。」
「可哀そうに。彼女もある意味で巻き込まれた被害者なのですけれどね。」
「鵠沼さんなら助けてあげられるんじゃないですか?」
ナナシは聞く。
「そうですね、私なら助けてあげられるでしょう。」
「とか言いながら初めからそういうつもりだったんじゃないですか?」
「どういう意味かしら?」
鵠沼綾乃の目つきが変わったのが神座にははっきりと見えた。
「こんな話を聞いたことがありませんか? ある生徒が問題行動を起こすんです。でもその生徒は普段優等生でそういう類の問題行動を起こすようなタイプではなくて 教師も親もその生徒に理由を当然、問い質すんです。すると観念したようにその生徒は白状する。佐竹君にやれ、って言われたってね。ちょっと名前は忘れてしまったのでここでは佐竹君にしていますけど 本来は別の名前ですからね、鵠沼だったような気もしますけど………。」
「鵠沼は嘘ですね。」
鵠沼は笑わずに言った。
「じゃあ佐竹君にしておきます。」
ナナシは続ける。
「優等生がその佐竹という人物に唆された、と聞いて教師も親も一応は納得するわけですが 肝心のその佐竹という人物の正体が掴めないんですよ。優等生の話では友人の知り合いらしいのですが どこの誰なのかもわからない。もちろん問題行動を起こしたのは優等生なので彼には相応の罰が待っていましたが そこから不思議なことが立て続けに起こるわけです。教室のガラスが割られたり、ボヤ騒ぎがあったり、で目撃者である生徒たちに話を聞くと皆が皆、口をそろえて佐竹君が犯人だというわけです。勘の良い鵠沼さんならここまで聞けばどういう事かわかりますよね?」
「佐竹という人物は架空の存在で犯人は別にいる。その犯人、もしくは犯人を庇うために周りが作り上げた存在ってところね。」
「構造が似ていると思いません?」
ナナシが問う。
鵠沼は質問を咀嚼するかのように何度か頷いた。
「そうかしら? 貴女が言ったのは存在しない人物のせいにしてしまう、という話でしょう? でも魔王は実際に存在していて 魔王自身がそれを認めている。似て非なる話だと私は思います。一連の事件はすべて魔王が起こしたこと。これは間違いない事実ですよ。」
「頑なに信じているんですねぇ。実は言い忘れていたんですけど 魔王と話すのは今日が最初じゃないんですよぉ。」
ナナシの発言に鵠沼の右眉がぴくりと動いた。
「昨日、ミキアの自宅を訪れた際にですね。伊勢に憑依した彼女とちょっとだけ会話をしたんです。で、今日、改めて彼女の居住にお邪魔したんですけど 魔王、わたしを見て何て言ったと思います?」
「さあ、想像もつかないかな。」
「はじめまして、って言ったんです。前日に少しとはいえお話をした相手に対して はじめまして、って言いますかねぇ? 不思議ですよねぇ………。でね、わたしその時に確信したんですよぉ。あ、こいつ超能力者なんかじゃねぇなって。」
ナナシは愉快そうに言った。
「一種のジョークだったのでは? この姿で会うのははじめまして、のような自虐めいた言い回し 映画とかではよくあるでしょう? あれだと思いますよ。」
「いや、そうは見えませんでしたね。小麦にわたしが誰かを尋ねているくらいでしたから。」
「じゃあ 本当にはじめましてだったのかもしれないわね。」
「伊勢に憑依して会っているのに? わたし、意外と一度会ったらなかなか忘れられないくらい可愛いのになぁ。」
ナナシの独り言に鵠沼が苦笑した。
「どうしてなのかぁ………、って考えてみたんですよぉ。考えて考えてよぉく考えてみたら簡単なことでした。」
ナナシはちらちらと鵠沼の顔色を窺う。
「拝聴します。お続けになって。」
「それでは。」
ナナシは咳払いを一つした。
「昨日、わたしが会った魔王は魔王ではなかったんですよ。そう考えれば疑問をすーっと解消されたというわけです。」
「魔王が魔王ではない? つまり別人?」
「はい。あれは魔王などではなくて伊勢本人だった、というわけです。」
「宮國さんが佐竹に憑依された芝居をしていた?」
「そういう事です。それなら今日、魔王がわたしにはじめまして、と言った理由も納得いきますよね。はじめて会う相手にはじめまして、と言う。英語の教科書の一ページ目に出てきそうな文章ですよねぇ。」
「宮國さんはなぜお芝居をしたのかしら?」
鵠沼は右頬に手を当てながら呟いた。
「それは簡単です。状況的に伊勢がミキアにとって毒にも等しいナッツ類を飲ませたことをわたしが彼女に指摘したからです。このままでは自分がミキア殺しの犯人として逮捕されてしまう、そんな風に考えて 殺害予告を出していた魔王に罪を着せようとしたのでしょう。」
「自らの罪を逃れるため?」
「そういう事ですねぇ。」
「馬鹿なことをしたものですね。」
鵠沼は溜息をついた。
「馬鹿なことですか?」
神座は尋ねる。
「ええ。そうですよ、これを馬鹿な事と言わずして何を馬鹿と言いますか? 彼女が殺した相手はすでに殺害予告を受けている相手ですよ? 放っておいても魔王が力を使って殺してくれるんです。自ら手を汚すことなどなかった。」
「本当に超能力の存在を信じているのなら伊勢も動かなかったでしょうねぇ。」
ナナシが言う。
鵠沼は力なく首を左右に振った。
「でも彼女は動かざるを得なかった。どうしてか? ミキア殺害を誰かに横取りされたくなかった? そんな大義は伊勢には無かったでしょうね。 ではどうして伊勢はミキアを殺したのか? これも答えは簡単でした。魔王が殺してくれない、ということを知っていたからですよぉ。つまり魔王にはあの場でミキアを殺すことなど出来なかった、つまり彼女の超能力は真っ赤なニセモノだと知っていたからこそ伊勢は自分の手でミキアを殺害せざるを得なかった、というわけですねぇ。」
「何を言うかと思えば………。」
鵠沼は苦笑いを浮かべる。
「超能力はありますよ。それが証拠に宮國さんにはミキアを殺害する動機が見当たらないはずです。彼女はミキアの恋人なのでしょう? どうしてミキアを殺さねばならないのですか? それこそ彼女が魔王に憑依されていた証拠なのでは?」
「裁判では動機もまた刑罰を決める上で重要な要因ですものねぇ。」
ナナシは何度か頷く。
「ミキアと伊勢は恋人同士だった。彼らを知る者の話によればミキアは伊勢にベタ惚れだったし、ミキアは伊勢と付き合うために今まで手に入れてきた女性の連絡先を全部消している。彼が彼女を裏切ることはなかった。婚姻関係にあるのなら莫大な遺産ということも考えられるけれど 二人はまだ婚約までしていなかった。だから彼女がミキアを殺すような理由はわからない、ということでしたね。その証言を信じるのなら 伊勢にミキアを殺害する動機は見当たらない。」
「ではやはり宮國さんはミキアが亡くなったあの時、魔王によって憑依されていたのですよ。それしかありえません。」
「いえ、動機はないけれど 理由はあったんですよ。」
「動機も理由も同じでは?」
鵠沼は小馬鹿にした笑いを浮かべる。
「じゃあ言い換えるよ。権利と義務に。」
へらへらと喋っていたナナシの顔が真顔になる。
鵠沼は何も言わなかった。
「鵠沼は何も言わないのでこのままわたしが話を続けるね。伊勢がミキアを殺害した理由は自らの権利を主張するためだよ。別に政治的な話をしているわけではないからね。世の中には色々な義務があるよね。有名なところでは納税の義務、教育の義務、勤労の義務かな。これは国に対して国民が行う義務だけど 伊勢はある人物との契約上、自分の義務を果たさねばいけなかった。その義務がミキアの殺害だというわけ。」
「殺人が義務だなんて物騒な話ですね。それにそのある人物というのも気になりますね。」
「またまたぁ。もう分かっている癖に惚ける のはダメですよぉ。」
舌を鳴らしながらナナシは人差し指をメトロノームのように左右に一定のリズムで動かした。
「伊勢にはどうしても殺したい相手がいた。それが今日、会見の場で襲われた樹里。友達を自殺に追い込んだ許しがたい相手だったけれど どんな理由があるにせよ、相手を殺してしまえば当然自らは罪に問われてしまう。許せない相手を殺すことに抵抗はないけれど 殺したことによって そいつのせいで自分のこの先の何年間が失われることになるのは耐え難い。誰だってそう思うでしょ、世の多くの人間が罪を犯さないのはその天秤が上手く機能しているからだし、もちろん実行も容易くはない。伊勢の相手は新人とはいえこれから売り出し中のタレントでそうそうそんな機会も巡ってはこない。これでは自分の復讐がいつ完遂出来るかわからない。それに時間経過とともに相手を憎む気持ちが薄れてくる可能性だってあるわけで焦りがあった。ある人物はそんな伊勢の弱みにつけこんでこう持ち掛けたわけ。ミキアを殺してくれたら樹里を殺してあげるよ、って。さっき鵠沼は言ったよね? 伊勢にはミキアを殺す理由が無い、って。違うよ、鵠沼。伊勢がミキアを殺す理由はね、自分がミキアを殺すことによって 別の人物に自分の復讐を代行してもらう為。つまりお互いのターゲットを取り換えた交換殺人なんだよ。そもそも伊勢はミキアを殺す為だけに恋人関係になったのだから彼を殺すことに躊躇いなんて何もない。自分のやるべきことの為に近づいただけ。交換殺人なら標的に怪しまれることもなく近づいて殺人を実行することも出来るし、そして何より魔王という隠れ蓑が充分な効果を発揮するんだよ。だってそうでしょ? 殺害する相手を交換しなかったら いくら魔王が超能力を使えると主張していたとしても まず実行犯が疑われるのは目に見えているわけじゃん? しかし相手を取り換えることによって 動機が不明になり、犯行を主張している魔王への疑念が自然と生まれてくるわけ。でもでも、塀の中の人間がそれは自分による仕業だ、と騒ぎ立てたところで誰も耳を傾けない。何事にも どんな世界でも実績は必要になってくるわけだよ。スポーツとか映画とか、小説とかもそうだよね、それだけで評価爆上がり、観客動員数増大、重版出来。だから春日井という男が目をつけられた。借金があって、この先の人生、どう足掻いても良くなる傾向がなく、あとは自らに掛けた生命保険でしか一矢報いることしかできない人間。死にたいけれどただの自殺では保険金は下りない。自らを殺してくれる相手を探していた彼は魔王にとって都合の良い駒だった。もちろん塀の中の魔王が春日井を殺すことは出来ない。でも、自殺を殺人に見せかけることは出来る、きっとそんな事を吹き込んだんだろうね。そして手渡されたのが魔王直筆の犯行証明書だよ。死ぬタイミングなど綿密な打ち合わせは何度か行われたんだろうね。大事なのはタイミング。魔王が警察に対してアクションを起こした後。犯行証明書を持つだけで ただの自殺が殺人事件に格上げされる。もちろんその一件だけでは実績としては弱い。もう一人くらい実績になる事件が欲しい。それが都築という男。魔王の信者だったからきっと自殺へと導くのは容易かったんだろうね。なんて言ったんだろうなぁ、世界を変える礎となれ、とか言ったのかなぁ? 二人の男の死に魔王の存在を匂わせたことで愚かな警察の人間は見事魔王の術中に嵌まってしまった、というわけですよね。」
ナナシは目を細めて鵠沼を見つめた。
「私に言われても何のことだか………。ただ作り話としては面白いですね。」
鵠沼は言う。
「想像だけではどうとでも話を作ることは出来ます。しかし私の記憶が正しければ宮國さんにミキアを殺すことは不可能だったような気がしますね。」
「その映像ならわたしも観たよ。あれをアップ出来ないことをミキアはきっと悔しがっているんじゃない? 自分の死に際をアップ出来る人間なんてそんなに多くはいないもの。」
「確かに承認欲求の塊である彼らにとっては最高のネタなのでしょうね。でも死んでしまったらその恩恵も受けられない。まあコンプライアンス的にアウトでしょうけれど。」
鵠沼は軽く肩を竦めた。
「そうそう伊勢に殺せるか、どうかでしたね。」
「ええ。死因は特定出来たのでしたっけ?」
「はい。アレルギー中毒でした。」
神座は答える。
「もともとナッツ類にアレルギーを持っていたところにヨーグルト飲料からアーモンドの成分が検出されました。」
「食べ物は怖いと聞きますもんね。私は幸いにもありませんけれど。」
鵠沼は微笑んだ。
「ヨーグルト飲料をコップに注いだのは神座刑事だったと記憶しています。」
「はい。私が注ぎました。」
「購入してきたのも神座刑事ではありませんでしたか?」
「鵠沼先生のご指摘の通りです。あれは私が朝、皆の朝食を購入する際に美樹本氏に依頼されて購入したものです。」
神座ははっきりと答えた。
「神座刑事が購入してきて、それを神座刑事が注いで提供したとなるとミキアにアレルギー物質であるアーモンドを口にさせたのは神座刑事ということになるのでは?」
「確かにグラスに注いだのは私ですが 運んだのは宮國さんです。それは映像にも記録されています。」
「運んだといってもキッチンからリビングまでの僅かの距離ですよね? そんな短い時間でアーモンドを砕いて仕込めますか? 甚だ疑問ですね………。」
「その場で砕く必要はないですよぉ。予め用意しておけばいいんですから。」
ナナシは言う。
「まあそうね、でも粒も残らないほど砕くとなると持ち歩くのは大変そう。ファスナ付の小袋にでも入れたのかしら? でも、変ね………、そんな小袋を彼女は所持していましたっけ?持ち物検査、しましたよね?」
「はい、そんなものはどこにもありませんでした。」
「仮に彼女がアーモンドを砕いて持っていたとしましょうよ。しかも小袋に入れていたとします。グラスを手にしている状況で小袋のファスナを開いてグラスに混入させるってことあの場の誰にも気づかれることなくできますかね? 私は出来ないと思う。確実に成功させる為にはグラスを一度、置く必要がある。それに粉末は液体の上に浮きますよね? いくら慌てていたとしてもミキアは飲む前に気づくと思いますよ?」
鵠沼の言葉にナナシは吹き出した。意外な彼女の反応に対して鵠沼が嫌そうな顔を一瞬だけ浮かべた。
「そう言ってくるのだろうな、って思いました。」
ナナシは言う。
「わざと触れないようにしているのがバレバレですよぉ。」
「バレバレ? 何のことかしら?」
「細かく砕いて粉末状にすれば持ち歩きには不便だし、かといって持ち運びを優先して大きめに砕いたら今度は飲み物に入れた時にバレる。でも世の中にはエッセンスっていう便利なものがあるじゃないですか。アーモンドエッセンス、あれなら液体だから飲み物に入れてちょっとかき混ぜるだけで混入することは可能ですねぇ。そうそうあの日、鵠沼は小袋に入れたナッツ類をおやつとして持っていたんだっけ? あれってミスディレクションだよね?」
「ミスディレクションだなんて………、本当に間食用に持ち歩いているだけですよ。疑い出したらきりがなくなりますよ………、しかしアーモンドエッセンスね………。でも肝心の持ち歩きにはもっと不便ですね、あれって所謂、液体でしょう?一応、神座刑事に確認しておきますか? アーモンドエッセンスを入れていた容器を宮國さんが所持していたかどうかを。」
「確認するまでもありませんよぉ。持ち物検査では引っ掛かっていませんからねぇ。」
ナナシの言う通りだ。宮國伊勢はそれらしき物を所持していなかった。当然、鵠沼綾乃も同じだった。
「身体検査は行いましたがそれらしき物は見つかっていません。」
「ほら。じゃあやっぱり宮國さんには不可能ですよ。」
「それがそうでもないんですよねぇ。所持品検査も身体検査もパスする方法を使えばミキアにアーモンドエッセンスを飲ませること出来ますからね。」
「寝言は寝て言うから寝言なのよ?」
鵠沼は馬鹿にしたように言った。
「寝ているつもりはありませんよ。どうやったか今から説明しますので。」
ナナシは両手の指を見せびらかすようにひらひらと動かした。
「まあ簡単に言うと隠し持っていたんですよ。」
「隠し持っていた、というのは大胆な発想ですね………。どこに持っていたというのでしょうか? 興味ありますね。」
「ここです。一応、さっきからアピールしているつもりなんですけれどねぇ。」
ナナシは指先をずっとひらひらと動かしていた。
「指?」
「はい。正確には指先、もっと言うのなら付け爪の裏側ですけど。事務職をしているという割には伊勢の指先は業務上、支障をきたすようなほど長い爪でしたね。確かにネイルサロンには通っていたみたいですけど あんなに長い付け爪を依頼してきたのはここ何日か前だそうですよ。丁度、魔王の動画が配信された直後だそうです。伊勢は付け爪の裏側にアーモンドエッセンスを仕込んだカプセル剤を張り付けていたというわけです。そうすればほらグラスを片手に持ちながら指先を浸すだけでカプセル剤の中のアーモンドエッセンスを飲み物の中に混入することが出来る。」
「そんなにうまくいくのかしら?」
鵠沼は懐疑的に呟いた。
「事前に針で小さな孔を空けておけばもっと成功確率は上がると思いますよぉ。それならばカプセルが溶けるのを待つ必要はありませんからねぇ。」
ナナシが話し終えると鵠沼は長い溜息をついた。
「お話はよくわかりました、ベル=プランタン。貴女が魔王の事を信用していないことも。宮國さんに犯行が可能だったかもしれない、ということも。でも、それは全部、貴女の想像の話であって何一つ証拠はありませんね。罪のないただ魔王に利用されただけの無実の人を冤罪においやるだけのただの誹謗中傷だと私は思います。」
「犯行証明書。」
「はい?」
ナナシの呟きに鵠沼は首を傾げた。
「あれ、ちょっとやり過ぎちゃいましたねぇ。まあ魔王の仕業というのを演出するためには仕方のないことだけれど直筆はやり過ぎだったと思いますよぉ。」
「直筆だからこその犯行証明書では? あれが誰でも作成できる文書作成ソフトを使っての文面では意味がない。直筆こそその場に魔王がいたという存在証明になりうるもの。もう一度確認しますけれど鑑定されたのよね? 確かに佐竹摩央の筆跡だった、と神座刑事も証言されていましたよね? それのどこに疑問があるのでしょう? 私には無いと思います。」
「筆跡鑑定は証拠として認められているから そこは問題ないよ。わたしも別にそこに疑いの余地を持っていない。わたしが言っているのはね、他人に憑依して書き残しておいた犯行証明書にどうして魔王の指紋が残っていたのか、っていう点なんですよ。都築や春日井に憑依したんだよね? それって他人の躰を使ったってことでしょ? だったらその犯行証明書から検出されるのは彼らの指紋だけで魔王の指紋があるのはおかしいよね、って言っているの。いつ魔王は自分の手で犯行証明書に触れた? 触れる機会があった? それはもう犯行証明書自体が事前に魔王によって書かれた時と考えるのが普通だよね? じゃあ現場に犯行証明書が残っていたから魔王が他人に憑依してその人物を殺しました、っていう主張自体が嘘ってことになるでしょ。それはつまり魔王には憑依する超能力など無い、つまり犯行証明書になるはずだったものが 超能力インチキ証明書に格上げされたって事なんだよ。超能力が無いってことが証明されたことによって 伊勢が憑依された事実などなく あの子自身によってミキアは毒殺されたってことが明らかになった。これでも冤罪って言うのかどうかを 現役弁護士の見解 聞いてみたいなぁ。」
ナナシは邪悪な笑みを浮かべながら言った。
鵠沼綾乃が忌々し気な表情を浮かべながら声を発さずに唇だけを動かす。
「あのバカ。」
鵠沼の唇の動きを読んだナナシが言う。
鵠沼が舌打ちをした。
「念のためにもう一度、聞くけれど魔王に超能力ってある? ない?」
ナナシは顔を覗き込むように見つめていた。
「わかりました………、認めます。魔王こと佐竹摩央に超能力はありません………。」
暫くの沈黙を貫いた後、長時間素潜りをしていたのかと思うくらい鵠沼綾乃は息を吐く。
彼女の敗北宣言ともとれる言葉を聞いて神座は腰に回した右手を小さく握る。
「すべては佐竹が計画したことです。逮捕後も自分の存在を忘れ去られないように刑務所に服役しながらも自分名義で何か世間が驚くことが出来ないだろうか、そんな事を接見中に相談されました。もちろん私は不可能だと言いました。そんなことが出来るわけがない、と。しかし………。」
「長いなぁ言い訳が。」
ナナシが鵠沼の言葉を遮って言った。
「今、確実にあんたは自分だけ助かろうとして三人を切ろうとしているよね? わたしね、魔王の正体は佐竹ではなくて貴女だと思っているよ。」
「私が魔王?」
鵠沼は自らを指差して苦笑を浮かべた。
「惚けなくてもいいよ。ただの動画背信者で バズるのが目的で人を一人しか殺したことのないあの女にこんな筋書きを書けるはずがない。ううん、筋書きは書けるかもしれないけれど 協力者などいないし、連絡手段のないあいつにそんな芸当が出来るわけがないよ。誰かが裏で手を回さない限りはね………。それが貴女。佐竹と違い、自由に塀の外と中を行き来出来て 社会的信用ある立場を持ち、口の回る貴女なら 都築や春日井を自殺に導くことも 伊勢や譜久島に交換殺人を持ち掛けることも出来る。」
「それはただの憶測であり、なんら証拠がないものね。裁判においては憶測での話などなんら重要視はされない。せめて私が魔王である、という決定的な証拠を突きつけて欲しかった、そう思います。まあそんなものは存在しないのですけれど。」
「宮國さんや譜久島さんは鵠沼先生の関与を証言すると思います。」
神座は堪らずに言った。
「二人はそんなことを話しているのかしら?」
「それは………。」
実際のところ取調べを受けている宮國伊勢も 数時間前に連行された譜久島歩も堅く口を閉ざし黙秘を貫いているらしい。二人の拠り所は魔王によって憑依された、という保険だがその保険すら今、瓦解してしまった状況を伝えれば彼女たちも心変わりをして口を開くはずだ、と神座は思っている。しかし、なぜそれでも鵠沼綾乃はここまで強気でいられるのだろう。
「話していないのでしょう? 話せるわけがないもの、だってそんな事実はないのだから。良いですか? 私こと鵠沼綾乃は一切、この一連の事件に関わってはおりません。確かに佐竹摩央という人物を祭り上げて コミュニティサイトの運営を任され、魔王による社会的粛清を計画していましたが それはあくまでも社会的な抹殺であり、実際に他人の命を奪うことではありません。ただインパクトを求めて殺人という過激な言葉を使用した点においては少々、やり過ぎだったとは今は反省していますけれどね。」
「関与を否定されるんですか?」
「勿論です。やってもいないことを はい、そうです、やりました、なんて言えるわけがない。こう見えても私、弁護士なんですよ? 私に出来ることをいえば魔王という存在を信じさせたがために道を踏み外してしまった二人の弁護を買って出てあげることくらいでしょうね。意外と他人思いなんですよ、私。」
鵠沼は微笑む。
「良いですか? 状況証拠、物的証拠がそろってやっと司法は人を裁けるの。私を犯人に祭り上げたいのなら皆が納得する証拠を持ってきてごらんなさい。証拠も無しに犯人扱いされるのはとても迷惑です。場合によっては名誉棄損で訴えさせてもらいますからね、あしからず。」
鵠沼は椅子から静かに立ち上がる。
「今日はもうこれでよろしいかしら? 事件についての疑問がやっと腑に落ちました。貴重なお話をどうもありがとう。そろそろ帰宅して休みたいと思っています。」
彼女が出口を右手で示した。
神座は黙ったまま立ち上がる。胃をまるで見えない手か何かで握りつぶされているような敗北感だった。佐竹摩央の超能力の有無については無いということを認めさせたが 鵠沼自身の犯罪への関与は証拠が不充分過ぎた。宮國や譜久島が鵠沼の関与を証言してくれれば彼女を殺人教唆の罪で逮捕出来るはずだが おそらくこんなケースもあることを想定して打ち合わせがされていたのだろう。公判で鵠沼が二人を弁護するというところまで折り込み済みだとすれば二人が彼女の関与に関して口を割ることはない。道が断たれたような気分だった。
「またね、鵠沼。」
ナナシは強がるわけでもなく 呑気に左手を彼女に振って会議室を出た。
下弦の月が二人を嘲笑うかのような鵠沼の瞳に見えて神座は思いきりアクセルを踏む。湾岸線をひたすら西へと走らせる。オレンジ色のライトが酷く惨めに思える夜だった。
「すみません、お忙しいところお時間を頂きまして。」
神座は椅子から立ち上がると頭を下げた。
「いえ、仕事は片付いたところですからお気遣いなく。それに警察の捜査に協力するのは一般市民として当然の義務です。」
鵠沼は神座に着座するように手を差し出した。
「こちらの方は?」
「はじめまして。わたし、ベル=プランタンですぅ。」
「ベル=プランタン………さん。」
「犯罪捜査のスペシャリストで非公式ではありますが今回の事件の捜査に協力頂くことになりました。」
神座は説明をする。
「警察が捜査権も無い人間に、ですか?」
「今回のケースが非常に稀で前例がないので無理を言って捜査に参加させてもらっているんですよぉ。だって凄くないですか? 他人に憑依出来る超能力者が犯人なんですよ? おそらく頭の固い組織のお偉方では上手く対応することは無理だろうし、犯罪の形態も日に日に変化していくわけだから こういうのってやっぱりわたし達のような若い犯罪研究者が捜査にあたるべきなんです。そんな事を直訴したら こうして参加させてもらえることになったってわけです。なんでも言ってみるもんですね。超ラッキーですよぅ。」
言い終えるとナナシはブイサインを右手で作ってイェイと言った。
「でもぶっちゃけ、超能力者が殺人犯っていうのは今まで例が無かったですもんね。どうやって解決までこぎつけていいのやら お手上げなんですよ。」
「前例はありませんよね。」
鵠沼は自分が褒められたわけでもないのに機嫌よく言った。
「そうそう魔王にも会ったんですよぉ。」
「面会に行かれたの?」
鵠沼は驚いたように言う。
「ええ。超能力を見せて欲しいとお願いしたら怒られました。」
ナナシは肩を軽く竦めた。
「エンタテイメントと同じ扱いされたのが気に食わなかったんでしょうかね? 鵠沼さんはどう思います?」
「まあプライドの高い一面はありますね。そこが彼女の長所でもあり短所でもある。」
「煽り耐性が低いんでしょうかねぇ?」
「そういう事でしょうね。」
「人間って矛盾を抱えた生き物って言いますもんねぇ。他人を攻撃するのはよくても自分が攻撃されるのは嫌っていう人間は多いですからねぇ。」
「SNSの中でもそういう例は散見していますね。匿名だと思って言いたい放題ですが開示請求されればIPアドレスからすぐに身元は割れます。そういう例が多いというのに まだまだそういう事例は後を絶たない。相手が泣き寝入りをすると思っているのか、不特定多数であることで自分は多分平気だろう、と甘い考えでいるのか どちらにせよ、私に言わせればおめでたい頭の持ち主です。ただそのおめでたい頭の持ち主がクライアントになる可能性もあるのですから 私としては飯のタネには困らない。」
「でも本当に超能力ってあるんですかねぇ?」
「ありますよ、佐竹が起こした奇跡の数々を見てきた私が言うのだから間違いありません。ご覧になられていませんか? ミキアの件。」
「もちろん観ましたよ。」
「あれが全てですよ。ミキアは躰の自由を奪われ、そしてタバスコの入ったグラスを煽った。水を飲め、と指定したのにタバスコを選んで飲む説明がつきません。」
「面白さを優先する動画配信者ならそちらを選ぶ可能性もあると思うんですよぉ。」
「タバスコを飲んで辛い、と叫ぶだけのリアクションなんて一昔前の笑いですね。」
「ミキアの最初で最後のリアクション芸だったのかもですねぇ。」
「信じたくない気持ちもわからなくはありませんよ。でもね、佐竹摩央には超能力があるんです。貴女が信じようと信じまいとね。」
「そういえば わたしが面会に行って怒らせたものだから二人目の標的であるタレントが襲われましたね。」
「そのニュースならネットで観ました。」
「どう思いましたか?」
「どう、とは?」
鵠沼は首を傾げる。
「ああ、つまりターゲットだった樹里さんが命拾いをしたことですか? そうですね、オフレコにしていただけるのなら………、複雑な心境ですよ。なにせ私は魔王の信者ですからね。失敗例があるのなら今後、彼女が行うビジネスにおいてマイナスプロモーションをしたことになる。魔王としてはセンセーショナルな方法を取ったつもりだったけれど それが今回は裏目に出てしまったのでしょう。改良の余地がある、という勉強になったと思います。」
「人間は失敗から学ぶものですものねぇ。鵠沼さんの考え方は素晴らしいと思います。」
ナナシは頷く。
「でもわたしが言いたいのはそういう事じゃないんですよ。」
「ではどういう意味かしら?」
「簡単です。どうして魔王は二の矢、三の矢と用意していなかったのかってことです。いや、用意というのはちょっとニュアンスが違いますね。今回、同じ事務所のタレントに憑依して襲わせたみたいですけど それが失敗しても 別の人間に憑依しなおして襲えば事が足りたのではないか、ということなんですよぉ。だって傍にはタレント事務所の人間がいたわけでしょう? そっちに憑依した方が距離も近いし、目的達成は容易だったのに わざわざ警備員の変装までして 騒ぎで誘導して近づいている。これってまあ劇的といえば劇的なのでしょうけれど 面倒くさくありませんか?」
「まあだからショウ的な要素を入れた結果じゃないのですかね。」
「騒ぎに便乗した警備員によって殺される、のと 一緒に謝罪会見を受けていた事務所の人間に突然殺される、どちらでも社会に与えるインパクトは強烈だと思うのに あえて難しい方を選択した。魔王ってあまり知恵が足らないんですかねぇ? あ、こんな事を言うとどこかで聞かれていて わたしが次に殺されてしまいますか?」
ナナシはわざとらしくガラス張りの会議室の中を見回して言った。
「ちなみに今、わたしの目の前にいるのは鵠沼さんですか? 魔王ですか?」
「正真正銘の鵠沼綾乃です。ご安心を。一応、私と彼女の間でそういう契約になっています。私にはけして憑依しない、と。」
「そうですか、そうですよね、仲間だと思っていた人間に勝手に憑依されて好き勝手されたら嫌ですもんね。でもそれって魔王を信用するという性善説に基づかないと成り立たない約束ですよね。それでどう思いますか、魔王って頭悪いと思います?」
「けして頭は悪くないと思いますよ。彼女の行動は全て計算されていると思います。そうでなければ動画配信者なんて出来ないでしょう?」
「殺人ライブまではパッとしない人でしたけれどね。」
「そうですね。何がきっかけかわかりません。」
「今では時の人ですものねぇ。たぶん検索ワードの圧倒的上位に魔王はなっているんでしょうね。それでどう思いますか? なんで次から次へと憑依を繰り返して目的を達成しなかったのか、という理由。ビジネスパートナとしてのお考えがあれば聞いてみたいんですよ。そもそも鵠沼さんは魔王について全部知っているんですか?」
「もちろんです。彼女が全てを正直に話しているという前提はありますけれどね。」
「わたし、魔王は連続した憑依は出来ない、と考えていますが この考えは正解ですか? それとも不正解?」
「正解ですね。」
鵠沼は両目だけ笑って言った。
「魔王のあの力は転移先から次、次というわけにはいかないようで一旦、自身の躰に戻す必要があるそうです。」
「わあ、正解しましたよぉ。」
ナナシは無邪気に手を叩きながら神座にも喜んでみせた。猫かぶりの彼女の芝居に付き合いながら神座は やはり、とだけ真顔で呟くに留める。
「まあそう答えないといけないですよねぇ。」
ナナシは相手に聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりと呟く。
「何か言われました?」
「いえ、独り言ですぅ。」
ナナシは両手を振る。
「ちなみに憑依されて樹里を襲ったタレントですけど 今、警察で取調べを受けているらしいですよ。」
「可哀そうに。彼女もある意味で巻き込まれた被害者なのですけれどね。」
「鵠沼さんなら助けてあげられるんじゃないですか?」
ナナシは聞く。
「そうですね、私なら助けてあげられるでしょう。」
「とか言いながら初めからそういうつもりだったんじゃないですか?」
「どういう意味かしら?」
鵠沼綾乃の目つきが変わったのが神座にははっきりと見えた。
「こんな話を聞いたことがありませんか? ある生徒が問題行動を起こすんです。でもその生徒は普段優等生でそういう類の問題行動を起こすようなタイプではなくて 教師も親もその生徒に理由を当然、問い質すんです。すると観念したようにその生徒は白状する。佐竹君にやれ、って言われたってね。ちょっと名前は忘れてしまったのでここでは佐竹君にしていますけど 本来は別の名前ですからね、鵠沼だったような気もしますけど………。」
「鵠沼は嘘ですね。」
鵠沼は笑わずに言った。
「じゃあ佐竹君にしておきます。」
ナナシは続ける。
「優等生がその佐竹という人物に唆された、と聞いて教師も親も一応は納得するわけですが 肝心のその佐竹という人物の正体が掴めないんですよ。優等生の話では友人の知り合いらしいのですが どこの誰なのかもわからない。もちろん問題行動を起こしたのは優等生なので彼には相応の罰が待っていましたが そこから不思議なことが立て続けに起こるわけです。教室のガラスが割られたり、ボヤ騒ぎがあったり、で目撃者である生徒たちに話を聞くと皆が皆、口をそろえて佐竹君が犯人だというわけです。勘の良い鵠沼さんならここまで聞けばどういう事かわかりますよね?」
「佐竹という人物は架空の存在で犯人は別にいる。その犯人、もしくは犯人を庇うために周りが作り上げた存在ってところね。」
「構造が似ていると思いません?」
ナナシが問う。
鵠沼は質問を咀嚼するかのように何度か頷いた。
「そうかしら? 貴女が言ったのは存在しない人物のせいにしてしまう、という話でしょう? でも魔王は実際に存在していて 魔王自身がそれを認めている。似て非なる話だと私は思います。一連の事件はすべて魔王が起こしたこと。これは間違いない事実ですよ。」
「頑なに信じているんですねぇ。実は言い忘れていたんですけど 魔王と話すのは今日が最初じゃないんですよぉ。」
ナナシの発言に鵠沼の右眉がぴくりと動いた。
「昨日、ミキアの自宅を訪れた際にですね。伊勢に憑依した彼女とちょっとだけ会話をしたんです。で、今日、改めて彼女の居住にお邪魔したんですけど 魔王、わたしを見て何て言ったと思います?」
「さあ、想像もつかないかな。」
「はじめまして、って言ったんです。前日に少しとはいえお話をした相手に対して はじめまして、って言いますかねぇ? 不思議ですよねぇ………。でね、わたしその時に確信したんですよぉ。あ、こいつ超能力者なんかじゃねぇなって。」
ナナシは愉快そうに言った。
「一種のジョークだったのでは? この姿で会うのははじめまして、のような自虐めいた言い回し 映画とかではよくあるでしょう? あれだと思いますよ。」
「いや、そうは見えませんでしたね。小麦にわたしが誰かを尋ねているくらいでしたから。」
「じゃあ 本当にはじめましてだったのかもしれないわね。」
「伊勢に憑依して会っているのに? わたし、意外と一度会ったらなかなか忘れられないくらい可愛いのになぁ。」
ナナシの独り言に鵠沼が苦笑した。
「どうしてなのかぁ………、って考えてみたんですよぉ。考えて考えてよぉく考えてみたら簡単なことでした。」
ナナシはちらちらと鵠沼の顔色を窺う。
「拝聴します。お続けになって。」
「それでは。」
ナナシは咳払いを一つした。
「昨日、わたしが会った魔王は魔王ではなかったんですよ。そう考えれば疑問をすーっと解消されたというわけです。」
「魔王が魔王ではない? つまり別人?」
「はい。あれは魔王などではなくて伊勢本人だった、というわけです。」
「宮國さんが佐竹に憑依された芝居をしていた?」
「そういう事です。それなら今日、魔王がわたしにはじめまして、と言った理由も納得いきますよね。はじめて会う相手にはじめまして、と言う。英語の教科書の一ページ目に出てきそうな文章ですよねぇ。」
「宮國さんはなぜお芝居をしたのかしら?」
鵠沼は右頬に手を当てながら呟いた。
「それは簡単です。状況的に伊勢がミキアにとって毒にも等しいナッツ類を飲ませたことをわたしが彼女に指摘したからです。このままでは自分がミキア殺しの犯人として逮捕されてしまう、そんな風に考えて 殺害予告を出していた魔王に罪を着せようとしたのでしょう。」
「自らの罪を逃れるため?」
「そういう事ですねぇ。」
「馬鹿なことをしたものですね。」
鵠沼は溜息をついた。
「馬鹿なことですか?」
神座は尋ねる。
「ええ。そうですよ、これを馬鹿な事と言わずして何を馬鹿と言いますか? 彼女が殺した相手はすでに殺害予告を受けている相手ですよ? 放っておいても魔王が力を使って殺してくれるんです。自ら手を汚すことなどなかった。」
「本当に超能力の存在を信じているのなら伊勢も動かなかったでしょうねぇ。」
ナナシが言う。
鵠沼は力なく首を左右に振った。
「でも彼女は動かざるを得なかった。どうしてか? ミキア殺害を誰かに横取りされたくなかった? そんな大義は伊勢には無かったでしょうね。 ではどうして伊勢はミキアを殺したのか? これも答えは簡単でした。魔王が殺してくれない、ということを知っていたからですよぉ。つまり魔王にはあの場でミキアを殺すことなど出来なかった、つまり彼女の超能力は真っ赤なニセモノだと知っていたからこそ伊勢は自分の手でミキアを殺害せざるを得なかった、というわけですねぇ。」
「何を言うかと思えば………。」
鵠沼は苦笑いを浮かべる。
「超能力はありますよ。それが証拠に宮國さんにはミキアを殺害する動機が見当たらないはずです。彼女はミキアの恋人なのでしょう? どうしてミキアを殺さねばならないのですか? それこそ彼女が魔王に憑依されていた証拠なのでは?」
「裁判では動機もまた刑罰を決める上で重要な要因ですものねぇ。」
ナナシは何度か頷く。
「ミキアと伊勢は恋人同士だった。彼らを知る者の話によればミキアは伊勢にベタ惚れだったし、ミキアは伊勢と付き合うために今まで手に入れてきた女性の連絡先を全部消している。彼が彼女を裏切ることはなかった。婚姻関係にあるのなら莫大な遺産ということも考えられるけれど 二人はまだ婚約までしていなかった。だから彼女がミキアを殺すような理由はわからない、ということでしたね。その証言を信じるのなら 伊勢にミキアを殺害する動機は見当たらない。」
「ではやはり宮國さんはミキアが亡くなったあの時、魔王によって憑依されていたのですよ。それしかありえません。」
「いえ、動機はないけれど 理由はあったんですよ。」
「動機も理由も同じでは?」
鵠沼は小馬鹿にした笑いを浮かべる。
「じゃあ言い換えるよ。権利と義務に。」
へらへらと喋っていたナナシの顔が真顔になる。
鵠沼は何も言わなかった。
「鵠沼は何も言わないのでこのままわたしが話を続けるね。伊勢がミキアを殺害した理由は自らの権利を主張するためだよ。別に政治的な話をしているわけではないからね。世の中には色々な義務があるよね。有名なところでは納税の義務、教育の義務、勤労の義務かな。これは国に対して国民が行う義務だけど 伊勢はある人物との契約上、自分の義務を果たさねばいけなかった。その義務がミキアの殺害だというわけ。」
「殺人が義務だなんて物騒な話ですね。それにそのある人物というのも気になりますね。」
「またまたぁ。もう分かっている癖に惚ける のはダメですよぉ。」
舌を鳴らしながらナナシは人差し指をメトロノームのように左右に一定のリズムで動かした。
「伊勢にはどうしても殺したい相手がいた。それが今日、会見の場で襲われた樹里。友達を自殺に追い込んだ許しがたい相手だったけれど どんな理由があるにせよ、相手を殺してしまえば当然自らは罪に問われてしまう。許せない相手を殺すことに抵抗はないけれど 殺したことによって そいつのせいで自分のこの先の何年間が失われることになるのは耐え難い。誰だってそう思うでしょ、世の多くの人間が罪を犯さないのはその天秤が上手く機能しているからだし、もちろん実行も容易くはない。伊勢の相手は新人とはいえこれから売り出し中のタレントでそうそうそんな機会も巡ってはこない。これでは自分の復讐がいつ完遂出来るかわからない。それに時間経過とともに相手を憎む気持ちが薄れてくる可能性だってあるわけで焦りがあった。ある人物はそんな伊勢の弱みにつけこんでこう持ち掛けたわけ。ミキアを殺してくれたら樹里を殺してあげるよ、って。さっき鵠沼は言ったよね? 伊勢にはミキアを殺す理由が無い、って。違うよ、鵠沼。伊勢がミキアを殺す理由はね、自分がミキアを殺すことによって 別の人物に自分の復讐を代行してもらう為。つまりお互いのターゲットを取り換えた交換殺人なんだよ。そもそも伊勢はミキアを殺す為だけに恋人関係になったのだから彼を殺すことに躊躇いなんて何もない。自分のやるべきことの為に近づいただけ。交換殺人なら標的に怪しまれることもなく近づいて殺人を実行することも出来るし、そして何より魔王という隠れ蓑が充分な効果を発揮するんだよ。だってそうでしょ? 殺害する相手を交換しなかったら いくら魔王が超能力を使えると主張していたとしても まず実行犯が疑われるのは目に見えているわけじゃん? しかし相手を取り換えることによって 動機が不明になり、犯行を主張している魔王への疑念が自然と生まれてくるわけ。でもでも、塀の中の人間がそれは自分による仕業だ、と騒ぎ立てたところで誰も耳を傾けない。何事にも どんな世界でも実績は必要になってくるわけだよ。スポーツとか映画とか、小説とかもそうだよね、それだけで評価爆上がり、観客動員数増大、重版出来。だから春日井という男が目をつけられた。借金があって、この先の人生、どう足掻いても良くなる傾向がなく、あとは自らに掛けた生命保険でしか一矢報いることしかできない人間。死にたいけれどただの自殺では保険金は下りない。自らを殺してくれる相手を探していた彼は魔王にとって都合の良い駒だった。もちろん塀の中の魔王が春日井を殺すことは出来ない。でも、自殺を殺人に見せかけることは出来る、きっとそんな事を吹き込んだんだろうね。そして手渡されたのが魔王直筆の犯行証明書だよ。死ぬタイミングなど綿密な打ち合わせは何度か行われたんだろうね。大事なのはタイミング。魔王が警察に対してアクションを起こした後。犯行証明書を持つだけで ただの自殺が殺人事件に格上げされる。もちろんその一件だけでは実績としては弱い。もう一人くらい実績になる事件が欲しい。それが都築という男。魔王の信者だったからきっと自殺へと導くのは容易かったんだろうね。なんて言ったんだろうなぁ、世界を変える礎となれ、とか言ったのかなぁ? 二人の男の死に魔王の存在を匂わせたことで愚かな警察の人間は見事魔王の術中に嵌まってしまった、というわけですよね。」
ナナシは目を細めて鵠沼を見つめた。
「私に言われても何のことだか………。ただ作り話としては面白いですね。」
鵠沼は言う。
「想像だけではどうとでも話を作ることは出来ます。しかし私の記憶が正しければ宮國さんにミキアを殺すことは不可能だったような気がしますね。」
「その映像ならわたしも観たよ。あれをアップ出来ないことをミキアはきっと悔しがっているんじゃない? 自分の死に際をアップ出来る人間なんてそんなに多くはいないもの。」
「確かに承認欲求の塊である彼らにとっては最高のネタなのでしょうね。でも死んでしまったらその恩恵も受けられない。まあコンプライアンス的にアウトでしょうけれど。」
鵠沼は軽く肩を竦めた。
「そうそう伊勢に殺せるか、どうかでしたね。」
「ええ。死因は特定出来たのでしたっけ?」
「はい。アレルギー中毒でした。」
神座は答える。
「もともとナッツ類にアレルギーを持っていたところにヨーグルト飲料からアーモンドの成分が検出されました。」
「食べ物は怖いと聞きますもんね。私は幸いにもありませんけれど。」
鵠沼は微笑んだ。
「ヨーグルト飲料をコップに注いだのは神座刑事だったと記憶しています。」
「はい。私が注ぎました。」
「購入してきたのも神座刑事ではありませんでしたか?」
「鵠沼先生のご指摘の通りです。あれは私が朝、皆の朝食を購入する際に美樹本氏に依頼されて購入したものです。」
神座ははっきりと答えた。
「神座刑事が購入してきて、それを神座刑事が注いで提供したとなるとミキアにアレルギー物質であるアーモンドを口にさせたのは神座刑事ということになるのでは?」
「確かにグラスに注いだのは私ですが 運んだのは宮國さんです。それは映像にも記録されています。」
「運んだといってもキッチンからリビングまでの僅かの距離ですよね? そんな短い時間でアーモンドを砕いて仕込めますか? 甚だ疑問ですね………。」
「その場で砕く必要はないですよぉ。予め用意しておけばいいんですから。」
ナナシは言う。
「まあそうね、でも粒も残らないほど砕くとなると持ち歩くのは大変そう。ファスナ付の小袋にでも入れたのかしら? でも、変ね………、そんな小袋を彼女は所持していましたっけ?持ち物検査、しましたよね?」
「はい、そんなものはどこにもありませんでした。」
「仮に彼女がアーモンドを砕いて持っていたとしましょうよ。しかも小袋に入れていたとします。グラスを手にしている状況で小袋のファスナを開いてグラスに混入させるってことあの場の誰にも気づかれることなくできますかね? 私は出来ないと思う。確実に成功させる為にはグラスを一度、置く必要がある。それに粉末は液体の上に浮きますよね? いくら慌てていたとしてもミキアは飲む前に気づくと思いますよ?」
鵠沼の言葉にナナシは吹き出した。意外な彼女の反応に対して鵠沼が嫌そうな顔を一瞬だけ浮かべた。
「そう言ってくるのだろうな、って思いました。」
ナナシは言う。
「わざと触れないようにしているのがバレバレですよぉ。」
「バレバレ? 何のことかしら?」
「細かく砕いて粉末状にすれば持ち歩きには不便だし、かといって持ち運びを優先して大きめに砕いたら今度は飲み物に入れた時にバレる。でも世の中にはエッセンスっていう便利なものがあるじゃないですか。アーモンドエッセンス、あれなら液体だから飲み物に入れてちょっとかき混ぜるだけで混入することは可能ですねぇ。そうそうあの日、鵠沼は小袋に入れたナッツ類をおやつとして持っていたんだっけ? あれってミスディレクションだよね?」
「ミスディレクションだなんて………、本当に間食用に持ち歩いているだけですよ。疑い出したらきりがなくなりますよ………、しかしアーモンドエッセンスね………。でも肝心の持ち歩きにはもっと不便ですね、あれって所謂、液体でしょう?一応、神座刑事に確認しておきますか? アーモンドエッセンスを入れていた容器を宮國さんが所持していたかどうかを。」
「確認するまでもありませんよぉ。持ち物検査では引っ掛かっていませんからねぇ。」
ナナシの言う通りだ。宮國伊勢はそれらしき物を所持していなかった。当然、鵠沼綾乃も同じだった。
「身体検査は行いましたがそれらしき物は見つかっていません。」
「ほら。じゃあやっぱり宮國さんには不可能ですよ。」
「それがそうでもないんですよねぇ。所持品検査も身体検査もパスする方法を使えばミキアにアーモンドエッセンスを飲ませること出来ますからね。」
「寝言は寝て言うから寝言なのよ?」
鵠沼は馬鹿にしたように言った。
「寝ているつもりはありませんよ。どうやったか今から説明しますので。」
ナナシは両手の指を見せびらかすようにひらひらと動かした。
「まあ簡単に言うと隠し持っていたんですよ。」
「隠し持っていた、というのは大胆な発想ですね………。どこに持っていたというのでしょうか? 興味ありますね。」
「ここです。一応、さっきからアピールしているつもりなんですけれどねぇ。」
ナナシは指先をずっとひらひらと動かしていた。
「指?」
「はい。正確には指先、もっと言うのなら付け爪の裏側ですけど。事務職をしているという割には伊勢の指先は業務上、支障をきたすようなほど長い爪でしたね。確かにネイルサロンには通っていたみたいですけど あんなに長い付け爪を依頼してきたのはここ何日か前だそうですよ。丁度、魔王の動画が配信された直後だそうです。伊勢は付け爪の裏側にアーモンドエッセンスを仕込んだカプセル剤を張り付けていたというわけです。そうすればほらグラスを片手に持ちながら指先を浸すだけでカプセル剤の中のアーモンドエッセンスを飲み物の中に混入することが出来る。」
「そんなにうまくいくのかしら?」
鵠沼は懐疑的に呟いた。
「事前に針で小さな孔を空けておけばもっと成功確率は上がると思いますよぉ。それならばカプセルが溶けるのを待つ必要はありませんからねぇ。」
ナナシが話し終えると鵠沼は長い溜息をついた。
「お話はよくわかりました、ベル=プランタン。貴女が魔王の事を信用していないことも。宮國さんに犯行が可能だったかもしれない、ということも。でも、それは全部、貴女の想像の話であって何一つ証拠はありませんね。罪のないただ魔王に利用されただけの無実の人を冤罪においやるだけのただの誹謗中傷だと私は思います。」
「犯行証明書。」
「はい?」
ナナシの呟きに鵠沼は首を傾げた。
「あれ、ちょっとやり過ぎちゃいましたねぇ。まあ魔王の仕業というのを演出するためには仕方のないことだけれど直筆はやり過ぎだったと思いますよぉ。」
「直筆だからこその犯行証明書では? あれが誰でも作成できる文書作成ソフトを使っての文面では意味がない。直筆こそその場に魔王がいたという存在証明になりうるもの。もう一度確認しますけれど鑑定されたのよね? 確かに佐竹摩央の筆跡だった、と神座刑事も証言されていましたよね? それのどこに疑問があるのでしょう? 私には無いと思います。」
「筆跡鑑定は証拠として認められているから そこは問題ないよ。わたしも別にそこに疑いの余地を持っていない。わたしが言っているのはね、他人に憑依して書き残しておいた犯行証明書にどうして魔王の指紋が残っていたのか、っていう点なんですよ。都築や春日井に憑依したんだよね? それって他人の躰を使ったってことでしょ? だったらその犯行証明書から検出されるのは彼らの指紋だけで魔王の指紋があるのはおかしいよね、って言っているの。いつ魔王は自分の手で犯行証明書に触れた? 触れる機会があった? それはもう犯行証明書自体が事前に魔王によって書かれた時と考えるのが普通だよね? じゃあ現場に犯行証明書が残っていたから魔王が他人に憑依してその人物を殺しました、っていう主張自体が嘘ってことになるでしょ。それはつまり魔王には憑依する超能力など無い、つまり犯行証明書になるはずだったものが 超能力インチキ証明書に格上げされたって事なんだよ。超能力が無いってことが証明されたことによって 伊勢が憑依された事実などなく あの子自身によってミキアは毒殺されたってことが明らかになった。これでも冤罪って言うのかどうかを 現役弁護士の見解 聞いてみたいなぁ。」
ナナシは邪悪な笑みを浮かべながら言った。
鵠沼綾乃が忌々し気な表情を浮かべながら声を発さずに唇だけを動かす。
「あのバカ。」
鵠沼の唇の動きを読んだナナシが言う。
鵠沼が舌打ちをした。
「念のためにもう一度、聞くけれど魔王に超能力ってある? ない?」
ナナシは顔を覗き込むように見つめていた。
「わかりました………、認めます。魔王こと佐竹摩央に超能力はありません………。」
暫くの沈黙を貫いた後、長時間素潜りをしていたのかと思うくらい鵠沼綾乃は息を吐く。
彼女の敗北宣言ともとれる言葉を聞いて神座は腰に回した右手を小さく握る。
「すべては佐竹が計画したことです。逮捕後も自分の存在を忘れ去られないように刑務所に服役しながらも自分名義で何か世間が驚くことが出来ないだろうか、そんな事を接見中に相談されました。もちろん私は不可能だと言いました。そんなことが出来るわけがない、と。しかし………。」
「長いなぁ言い訳が。」
ナナシが鵠沼の言葉を遮って言った。
「今、確実にあんたは自分だけ助かろうとして三人を切ろうとしているよね? わたしね、魔王の正体は佐竹ではなくて貴女だと思っているよ。」
「私が魔王?」
鵠沼は自らを指差して苦笑を浮かべた。
「惚けなくてもいいよ。ただの動画背信者で バズるのが目的で人を一人しか殺したことのないあの女にこんな筋書きを書けるはずがない。ううん、筋書きは書けるかもしれないけれど 協力者などいないし、連絡手段のないあいつにそんな芸当が出来るわけがないよ。誰かが裏で手を回さない限りはね………。それが貴女。佐竹と違い、自由に塀の外と中を行き来出来て 社会的信用ある立場を持ち、口の回る貴女なら 都築や春日井を自殺に導くことも 伊勢や譜久島に交換殺人を持ち掛けることも出来る。」
「それはただの憶測であり、なんら証拠がないものね。裁判においては憶測での話などなんら重要視はされない。せめて私が魔王である、という決定的な証拠を突きつけて欲しかった、そう思います。まあそんなものは存在しないのですけれど。」
「宮國さんや譜久島さんは鵠沼先生の関与を証言すると思います。」
神座は堪らずに言った。
「二人はそんなことを話しているのかしら?」
「それは………。」
実際のところ取調べを受けている宮國伊勢も 数時間前に連行された譜久島歩も堅く口を閉ざし黙秘を貫いているらしい。二人の拠り所は魔王によって憑依された、という保険だがその保険すら今、瓦解してしまった状況を伝えれば彼女たちも心変わりをして口を開くはずだ、と神座は思っている。しかし、なぜそれでも鵠沼綾乃はここまで強気でいられるのだろう。
「話していないのでしょう? 話せるわけがないもの、だってそんな事実はないのだから。良いですか? 私こと鵠沼綾乃は一切、この一連の事件に関わってはおりません。確かに佐竹摩央という人物を祭り上げて コミュニティサイトの運営を任され、魔王による社会的粛清を計画していましたが それはあくまでも社会的な抹殺であり、実際に他人の命を奪うことではありません。ただインパクトを求めて殺人という過激な言葉を使用した点においては少々、やり過ぎだったとは今は反省していますけれどね。」
「関与を否定されるんですか?」
「勿論です。やってもいないことを はい、そうです、やりました、なんて言えるわけがない。こう見えても私、弁護士なんですよ? 私に出来ることをいえば魔王という存在を信じさせたがために道を踏み外してしまった二人の弁護を買って出てあげることくらいでしょうね。意外と他人思いなんですよ、私。」
鵠沼は微笑む。
「良いですか? 状況証拠、物的証拠がそろってやっと司法は人を裁けるの。私を犯人に祭り上げたいのなら皆が納得する証拠を持ってきてごらんなさい。証拠も無しに犯人扱いされるのはとても迷惑です。場合によっては名誉棄損で訴えさせてもらいますからね、あしからず。」
鵠沼は椅子から静かに立ち上がる。
「今日はもうこれでよろしいかしら? 事件についての疑問がやっと腑に落ちました。貴重なお話をどうもありがとう。そろそろ帰宅して休みたいと思っています。」
彼女が出口を右手で示した。
神座は黙ったまま立ち上がる。胃をまるで見えない手か何かで握りつぶされているような敗北感だった。佐竹摩央の超能力の有無については無いということを認めさせたが 鵠沼自身の犯罪への関与は証拠が不充分過ぎた。宮國や譜久島が鵠沼の関与を証言してくれれば彼女を殺人教唆の罪で逮捕出来るはずだが おそらくこんなケースもあることを想定して打ち合わせがされていたのだろう。公判で鵠沼が二人を弁護するというところまで折り込み済みだとすれば二人が彼女の関与に関して口を割ることはない。道が断たれたような気分だった。
「またね、鵠沼。」
ナナシは強がるわけでもなく 呑気に左手を彼女に振って会議室を出た。
下弦の月が二人を嘲笑うかのような鵠沼の瞳に見えて神座は思いきりアクセルを踏む。湾岸線をひたすら西へと走らせる。オレンジ色のライトが酷く惨めに思える夜だった。
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