第26話

文字数 9,440文字

 美樹本アトムが憑依された瞬間の動画を観るには場所を移動することが必要になって三人は 事件現場である美樹本アトムの自宅に検証を兼ねて彼の自宅へと向かった。
 「こんなに儲かるのならわたしも動画配信を真剣に考えようかなって思うよ。」
 同じくらい豪華なタワーマンションに住んでいるナナシの発言には説得力が一切感じられない。
 「一緒にしてみない? 死刑囚と刑事のコラボ動画って絶対バズるよ?」
 「多分、それ炎上って意味ですよね?」
 「炎上マーケティングは今や基本だと思うけれど。」
 視聴者の反感を買い、コメント欄で罵詈雑言を浴びせられ、さらに反論というガソリンを投下して話題を広げさせる手法は知っている。けれどそれに耐えられるくらいの精神力が無ければまず巧くいかないだろう。

 美樹本アトムはまだ病院の集中治療室で意識が戻っていない為、彼の自宅に入るにあたり恋人の宮國伊勢が立ち会うことになった。病院からわざわざ戻ってきてくれているらしい。
 チャイムを鳴らすと不安そうな顔の宮國が玄関から顔を出した。
 「お忙しいところ申し訳ありません。こちらでもう少し美樹本さんの事件の事を調べたくて無理を言ってしまいました。」
 神座は言う。
 宮國の視線がナナシに向けられているのが分かった。刑事と一緒にいるいかにも未成年っぽいこの少女は誰なのだろうと訝しんでいるようだった。
 「こちらは時々、難事件にご協力いただいている犯罪コンサルタントの………。」
 流石にナナシと紹介するわけにもいかない。しかし紹介しようにも彼女の名前を神座はまだ教えてもらっていなかった。
 「ジュ・マ・ペル ベル=プランタン。」
 ナナシはフランス語でベル=プランタンと名乗ると人懐こい笑顔で右手を差し出した。誘われるようにして宮國は右手を差し出す。
 「とても綺麗な爪だね。」
 流暢なフランス語で話したかと思うと突然、日本語でそう話しかけられて宮國は明らかに戸惑っているようだった。彼女の瞳が左右に動く。

 「どれくらいの頻度でサロンに通っているの?」
 「月に一度くらいです………。」
 宮國は答えるとすっと手を隠すように背中に回した。
 「手入れが出来ていないからあまり見ないでください、恥ずかしいです。」
 「そっかなぁ、めちゃくちゃ良いと思うけれど。どこの店かあとで教えてもらって良い?わたし、まだネイルサロンって行ったことがないんだよね。」
 「ええ、はい………。それは別に大丈夫ですけど………。」
 事件とは全く関係の無い事を話してくるナナシに宮國はどこか及び腰になっているように神座には見えた。彼女の気持ちはよくわかる。初対面にも関わらず至近距離に詰めてくるナナシのような存在は稀だ。
 「ところで美樹本さんのご容体は?」
 神座は質問する。
 険しい顔で宮國は頭を左右に振った。
 「こちらであの時の映像を見ようという事になりました。」
 水無瀬が言う。
 「警察の方が色々と調べた後だから大丈夫だとは思いますけど………。」

 事件の起きたリビングルームに通される。モニタへの接続は水無瀬が手際よくしてくれた。
 捜査会議後にも何度も見た映像だった。目新しい発見のようなものをなかったので神座は映像を食い入るように視るナナシの横顔をじっと見ていた。最初から最後まで一通りの流れを視てから ナナシはもう一度、同じ映像を見続けた。
 「この人は誰?」
 「鵠沼綾乃、佐竹摩央の顧問弁護士です。」
 「お金が好きって顔しているね。」
 「わかるんですか?」
 「勘だけれどね、当たった?」
 「自他ともに認める拝金主義者だよ、彼女は。」
 水無瀬が答えた。
 「このゲームの考案者はどっち?」
 「鵠沼弁護士ですよ。美樹本は乗っかっただけです。タバスコを選んだのは彼なりのエンタテイメント性でしょうね。」
 「いや、わたしが聞いているのは 鵠沼か、佐竹かってこと。打ち合わせをしないとタイミングよく乗り移ることなんて出来ないでしょ?」
 「言われてみれば………。」
 確かにタイミングが良すぎるな、と指摘されて思う。佐竹と鵠沼の間で時間を決めていたということだろうか、流石にここぞ、というタイミングで連絡を入れることは出来ないだろう。神座はナナシを見た。彼女ならば外部からの連絡を受けることも出来るのだろうか?佐竹ももしかして特別………、否、それは無い。特別扱いされるのであれば刑務所に収監されないだろう。ナナシと同じように人目のつかない場所に隠されるはずだ。表現が正しいのかはわからないけれど佐竹は一般服役囚であるはずだ。
 「伊勢はどう思った?」
 ナナシが話を宮國に振った。
 「え………?」
 まさか自分に質問が及ぶとは思わずに宮國は驚いていた。
 「恋人が目の前で躰を乗っ取られるのを目撃していたわけでしょ? どう思った?」
 「驚きました………。」
 一旦、呼吸を整えてから宮國は答える。
 「まさか本当にそんなことが出来るなんて思いませんでした。」
 「だよね。」
 ナナシはにこりとほほ笑んだ。

 「他人に憑依されたことも それを目撃したこともわからないからさ。データは不足しているんだけれど ああいう風にがくがく震えるんだね。参考になるなぁ。」
 「自分の意思と外部から侵入する存在とのせめぎ合いの結果、ああいう風になるんでしょうか………。」
 神座は言う。
 「ウィルスとか入ってきてパソコンがあんな風に震え出したら オカルトだよね。」
 ナナシは笑う。
 確かに着信バイブレーションですら驚くときがある。真夜中にパソコンがそんな風に震えたらホラーだろうな、と神座は思った。
 「見る限りでは中毒症状だったけど 毒物の特定は出来たの? 何に入っていたと思う? 水? タバスコ? ヨーグルト飲料? でもその前に口にした食べ物に含まれていたという可能性は?」 
 「今のところはまだ結果はあがってきていません。」
 「佐竹が好きなタイミングで憑依出来るのであればさ、気づかない内に憑依して毒物を飲んでおくことも出来るんじゃない?」
 「そんな都合よくいくものか?」
 「カプセルタイプの錠剤を使えばまあ効果を遅らすことは出来ると思うけど。」
 「ミキアへの殺害予告が出てから彼の口にするものに関してはすべて俺たちが買い出しを行っている。」
 「相手が超能力者ならそんな努力は信用できないよ。」
 「超能力者相手ならな。」
 水無瀬は頷いた。
 「目の前でミキアが憑依したところを目撃したから魔王は狙った人物しか憑依しないと我々が思い込んでしまっていることもあり得る話ですか?」
 「誰にでも出来るならそうだよね。ただ上手いのは憑依出来ると言っているだけでその詳細を明らかにしていない事。詐欺師と同じ手口。突っ込まれると後付け設定でボロが出るから漠然とした説明しかしない。」
 「知りたいのは具体的にどういう事ですか?」
 もう一度、佐竹に会って話を聞く必要があるのかもしれない、神座は思う。ただ彼女が素直に手札を見せるとは思えなかった。

 「別にそういう後付け設定には興味が無いよ。なんでも言いたい放題でしょ? わたし達、犯罪者が胸襟を開くと思う? 手札なんてぎりぎりまで隠しておくのが定石だもの。」
 ナナシは口元も隠さずに大きな欠伸をした。
 「伊勢はギャンブルとかする?」
 ナナシは話題を別の方向に振って宮國を戸惑わせた。彼女が車だとしたらスピンをしてガードレールに衝突してしまっているのかもしれない。
 「いえ………、しません。」
 「一度も?」
 「一度もです………。」
 「友達とどちらが奢るとかを賭けてじゃんけんしたりとかも?」
 「その程度なら………。」
 「じゃあさ、わたしともその程度の賭けをしない?」
 「どういう賭け………でしょうか?」
 「ミキアがあの時、口にした飲み物から毒物が検出されるかどうか。」
 ナナシはそう言うとじっと彼女を見つめていた。
 「アトム君は 毒を飲んだからああなったんじゃないんですか?」
 「じゃあ わたしは毒物が検出されない方に賭けておくよ。」
 ナナシは言う。
 賭けにならない、と神座は思った。自分が宮國と同じ立場でも彼女と同じ意見になるだろう。だがしかし、まだ恋人が生死の境を彷徨っているというのに不謹慎な話題を持ち出してどういうつもりなのだろう、やはりそれこそ ナナシが死刑囚たる所以なのだろうか。

 「そうそうミキアとの交際期間ってどれくらい?」
 「え?」
 またナナシが話題のステアリングを急に切った。
 「まだ半年も経っていないと思います。」
 「好き?」
 「好きじゃなきゃ一緒にいません。この質問に意味があるんですか?」
 「深い意味はないよ、ただの世間話。それとも意味のある質問以外は受け付けないタイプ?」
 「そういうわけじゃありませんけど………。」
 「TPOだと思います。」
 神座が助け船を出す。
 宮國は頷いた。
 「恋人が死にかけている状況で馴れ初めは語りたくない? 思い出が溢れてきちゃうから? 涙が零れる?」
 ナナシはそう言うと右手を伸ばして宮國の頬に触れた。
 「大丈夫。涙は出ていないよ。」
 ナナシは触れた指先を確認して言った。
 抑えていた涙が宮國の瞳からすっと左、右と一筋の涙が流れ出た。
 神座はポケットティッシュを取り出して宮國に渡した。
 「他人の感情を弄ぶのは楽しいですか?」
 「伊勢は撮影の時はいつもミキアの傍にいるの?」
 神座からの非難などお構いなしにナナシは宮國に質問を続ける。
 「いえ。」
 宮國は目頭をティッシュで押えて短く返事をした。
 「でもあの時は一緒にいたよね? なんで?」
 「アトム君が心配だったからです………、それ以外にありますか?」
 「鵠沼弁護士は魔王サイドの人間ですから心配になる気持ちはわかります。」
 「でも、別にその鵠沼がミキアを狙っていたわけではないでしょ? 心配する必要はなくない?」 
 「何があるかわからないじゃないですか。」
 「小麦たちも傍にいて? それとも伊勢がミキアの傍にいると事件を未然に防ぐことが出来た? 出来ていないよね? 実際にミキアは今、病院で死にかけているもの。だったら心配しても無駄じゃない?」
 「むしろ伊勢が来たからミキアはあんなことになったんじゃないの?」
 「アトム君があんなことになったのは私のせいだって言いたいんですか?」
 宮國はナナシを睨みつけた。
 「犯罪コンサルタントってみんなこういう人ばかりなんですか?」
 その非難の矛先が味方をしていたはずの神座や水無瀬に向けられる。
 いえ、その人が少し変わり者なだけです、とは流石に言えず、ただすみません、と小さく謝るだけだった。

 「気になった事を質問させてくれ。」
 水無瀬が場の空気を変えようとナナシに質問をする。
 「毒が検出されない、というのはどういう意味だ。」
 「そのままの意味。毒など出てきません、って意味。」
 「しかし実際に美樹本は何かしらの毒物を摂取させられて運ばれている。その説明がつかないだろう? あれが演技ってことか?」
 「演技だとしたらミキアはすぐにでも動画配信者を止めて俳優になるべきだね。他は知らないけれど服毒死の演技だけだったらアカデミー賞服毒部門ノミネートものだよ。そんな部門が今後設置されたら強く推薦するよ。」
 「演技でもなく、毒を飲んだわけでもないとしたら持病ですか?」
 神座は呟くように言った。
 「ミキアに持病はありましたか?」
 「聞いたことはありません。」
 宮國は首を振った。
 たとえ持病があったとしてもあのタイミングで発作が起きる偶然があるのだろうか、それとも発作をコントロールすることが出来て好きなタイミングで起こすような事が魔王には可能だというのか、神座は考える。
 「食物アレルギー。」
 水無瀬が思いだしたように言った。
 ナナシが指を鳴らして正解にたどり着いた彼を賞賛した。
 「ミキアが食物アレルギーなんですか?」
 「ああ、ナッツアレルギーだ。」
 水無瀬が答える。どうして水無瀬がそんな個人情報を知っていたのだろう、神座には謎だった。
 「知っていましたか?」
 神座は宮國に尋ねる。
 「はい。動画でも言っていたことがありましたし、ミキアのファンなら多分、誰でも知っていることだと思います。」
 「ちょっと前にお土産といってチョコレートバーを貰ったことがあっただろう?」
 「ありましたね。まだデスクにあると思いますけど。確かミキアの黒歴史とかって先輩は言っていませんでしたっけ?」
 「うん。あのチョコバーでミキアは一時期炎上したからな。」
 「そうなんですか?」
 宮國の反応を見る。彼女は小さく頷いた。
 「正直にアレルギーで食べることが出来ません、と言えばよかったのに 何の説明もなくこんなものが食えるか、みたいに悪態をついたのがいけなかった。本人的には過剰演出のつもりだったんだろうけれど 視聴者の反感を買ってしまったってわけさ。彼の唯一の汚点だ。」
 「あのチョコバーにそんな歴史があったんですね………。」
 神座は納得する。
 「その騒ぎを収束するために後日、美樹本は動画内で自分にはナッツアレルギーがあることを ご丁寧に検査結果を見せた上で謝罪をして炎上は無事に収束したけれどな。」
 「じゃあミキアは気づかない内にナッツを口にしてしまっていた可能性があるということですか?」
 「そういう可能性もあるってことをベルは指摘しただけでまだそうと決まったわけじゃないけれどな。誰かにとっては何気ない食べ物でも アレルギーを持っている人間にとっては劇薬と同じになるんだ。」
 「特に食べ物のアレルギーは危険だというからね。」
 ナナシが言う。
 「ほんのちょっとのつもりでも致死量に相当するから。特にミキアはそれを動画で公開してしまったわけでしょう? それってめちゃくちゃ危険な行為だよ。シューティングゲームのエリアボスのように弱点を晒しているようなもんだからね。」
 「もしかしたらあのチョコバーって個人で買ったものではなくて アンチに嫌がらせで送られてきたものかもしれないな。」
 水無瀬は言う。
 だとしたら悪質だと神座は思った。
 「弱味なんて他人に対して晒すものじゃないんだよね。ここ狙ってくださいってプラカード掲げているようなもんじゃない?」
 ナナシはリビングにしゃがみ込んで言った。アリの行列を観察するかのようにじっと床の一点を見つめていた。
 「どうしたんですか?」
 神座は声を掛ける。
 「ううん、なんでもない。」
 ナナシは立ち上がると首を大げさに横に振った。
 「ミキアがナッツアレルギー持ちだということを伊勢は知っていた?」
 「はい。その動画も視たことがあったし、本人からも直接聞いたことがあります。知らずに一度、ナッツを掛けたサラダを作ったことがあって その時に。」
 宮國は申し訳なさそうに言った。
 「キスは? ミキアが倒れる前に、キスはした?」
 「はい?」
 質問の意図が分からず神座は声を出した。宮國もこの質問にどう答えていいものか助けを求めるように視線を投げてくる。

 「何を勘違いしているのか想像はつくけれどね。」
 ナナシは肩を竦めた。
 「伊勢がナッツ類を使ったソースとか、クリームが唇や口腔内に残っている状態でキスをすればそれだけでアレルギー反応って起きるんだよ。」
 「ああ、だからなんですね………。」
 神座は恥ずかしさを誤魔化すように大きな声で納得してみせた。
 「していません。昨日は撮影中にここに来ましたから。」
 宮國は答えた。
 「そうですよ、私、宮國さんに話しかけられましたから。朝から彼女の姿はありませんでした。それは私たちが証明できます。」
 彼女とミキアが二人きりになる時間はなかった。動画撮影中は画角に入ることを嫌って宮國が近づくことはなかったし、昨日、唯一、二人が接近したのはタバスコを飲んだミキアにヨーグルト飲料を渡したときだけだ。それも映像にはきちんと収められている。
 「ミキアに渡したヨーグルトを入れたのは小麦? 伊勢?」
 「私です、グラスは水切り籠から ヨーグルトは朝の買い出しの時に私が買ってきたもので未開封でした。」
 「運んだのはどっち?」
 ナナシは人差し指で商品を選ぶかのように神座と宮國の二人を指差した。
 「私です。アトム君に渡しました。」
 「そうだったね、わたしの思い違いじゃなかった。」
 ナナシは笑みを浮かべた。

 「じゃあ、犯人は伊勢で決まりだね。水無瀬、彼女を逮捕してくれる?」
 「ちょっと待ってください。なんで宮國さんが犯人なんですか? 意味がわかりません。」
 神座は宮國を庇うように立った。
 「ミキアにとっての毒であるナッツ類を飲ませることが出来たのが伊勢だけだからだよ。」
 「ナッツアレルギーであることは動画を観たことがあるファンなら誰でも知っていることじゃないですか。あの場には鵠沼弁護士もいました。そうだ、彼女は間食用にナッツを所持していましたよ? あれを使ったんじゃないんですか?」
 「鵠沼って弁護士は上手にミキアに飲み物を飲ませてはいたけれど彼が触れたものには一切触っていなかったよ。鵠沼には無理。」
 「だからって宮國さんにだって無理でしょう?」
 「どうして? どうして伊勢には無理なの?」
 「だってミキアは宮國さんの交際相手ですよ? 交際相手にそんな酷い事をしますか?」
 ナナシが蔑むように神座を見た。彼女は深い溜息をつく。
 「恋人だから殺さない、夫婦だから殺さない、家族だから殺さない、なんてお花畑的な発想はやめた方が良い。その理屈でいけばこの世界から自殺という自らを殺す行為はとっくに消えてしまっている。人はね、殺すの。一線を越えた時にはもう自分から距離が遠いだろうが近いだろうが関係もなく。」
 「宮國さん、場所を変えてもう少し詳しく話を聞かせてもらえますか?」
 ナナシの言いなりになった水無瀬が言う。
 「水無瀬さん、ちょっと待ってください。」
 神座は立ちふさがる。
 「なんで言いなりなんですか? 彼女を、宮國さんを聴取する理由を教えてください。納得いく説明をお願いします。」
 「小麦が納得すればいいのね?」
 ナナシが言う。
 「そうです。その場にいただけで証拠もなく ただ消去法だけで犯人扱いするのは納得がいきません。」
 「理由は簡単だよ、あのね………。」

 ナナシが説明しようと仕掛けた時、宮國の躰が派手に痙攣を始めた。いや痙攣というよりは まるでパンクロックの演奏に合わせて踊り狂う熱狂的なファンのような動きだ。そして大きく弾んだかと思うとそのまま床へと倒れ込む。
 駆け寄って伸ばした手を宮國が払いのける。
 「ふふふ。ばれちゃった?」
 ゆっくりと立ち上がって宮國伊勢の外見をしたものが不敵に笑いながら言った。
 「宮國さん………?」
 「そ、ミキアにアーモンド入りヨーグルトを飲ませたのは私なんだよ、小麦ちゃん。」
 「佐竹………摩央………。」
 「油断したでしょう? まさかミキアではなくその恋人に憑依するなんて思わなかったんじゃない?」
 その可能性は充分に考えられていた。でも、タバスコをミキアが飲んだ時に狙った相手にしか憑依しないと油断して宮國はノーマークでいた。彼女に図星を刺されて神座は返答も出来ずにただ奥歯を噛むだけだった。
 「君が魔王?」
 ナナシが宮國の姿をした佐竹摩央に話しかける。
 「初めましてマドモアゼル・プランタン。そうです、私が魔王です。驚きですよ、まさかトリックを見破られるなんてね。」
 「トリックって程の事でもないでしょ。警察以外の人間で飲み物に触れたのはミキアか、伊勢の二人だけだったし、ミキア本人が被害を受けただから残っているのは伊勢だけだもの。それをトリックだなんてやる気ある、って感じかな。」
 「まあ良いですよ。私としては目的を果たせたのだから。あとは病院にいるミキアが死んでしまうことを願うだけだし。」
 彼女は肩を竦めた。
 「可哀そうにこの子は自分がしてもいない罪を着せられて何年間かは刑務所で暮らすのでしょうね………。せめて罪が軽くなることだけを祈っておくとするわ。」
 宮國伊勢の姿をした誰かが他人事のように自分を指差して言った。
 「鵠沼先生が何とかしてくれるかもしれないけれど。」
 「ねえ、ちょっと観察させてもらっても良い?」
 ナナシは全く躊躇することもなく佐竹だと思われる宮國伊勢に近づいた。じっと顔を見つめ、右手を取り 指先、掌と医師が患部を診察するように見た。
 「君が憑依している間、憑依されている側の意識はどこにあるの?」
 「興味があるのね? どうもありがとう。」
 宮國の声で佐竹は言った。
 「眠ってもらっています。今、支配権は私にあるから。」
 「そう。ところで一日、何回くらい他人に憑依出来るの? 憑依出来る時間は? 少なくとも二回は可能だよね、昨日、ミキアと伊勢、二人に憑依したのだから。」
 「三回が限度かしら?」
 「時間は?」
 「十分から十五分くらい。」
 「憑依した人間が死んだ場合、君はどうなるの? 例えばわたしが今、君の胸を隠し持っているナイフで一突きしたら? 君が死ぬ? それとも伊勢が死ぬ? 二人とも死ぬ?」
 そう言うとナナシは右手を大きく振り上げた。
 宮國のものなのか、佐竹のものなのかわからない短い悲鳴が上がる。
 「やめなさい!」
 神座はナナシの右手を慌てて掴む。そうだ、彼女は死刑囚であり、人殺しなのだ。どうしてそんな単純なことを忘れていたのだろう。殺人を犯すことに彼女はきっと躊躇いもない。しかしいつナイフなど隠し持っていたのだろう、とりあえずそれを取り上げなければ 彼女が握っている右手を広げるとそこにはナイフなど影も形も無かった。

 「随分なご挨拶ね………。ベル=プランタン。」
 乱れた呼吸を整えながら宮國は言う。
 「とりあえず今日はもう帰るとします。私にはまだやるべきことがあるからね。」
 そう言うとまた宮國伊勢の躰は膝から床へ崩れ落ちた。
 「救急車、手配します。」
 神座は呟くように言うと119番コールをした。
 「水無瀬、水無瀬。」
 ナナシが手招きをして彼を呼ぶと耳打ちをする。何かを告げられた水無瀬は静かに頷いた。
 「どういうつもりですか?」
 神座はナナシに聞く。
 「小麦は何を怒っているの?」
 不思議そうな顔で彼女は言った。
 「伊勢に急に襲い掛かったこと?」
 「そうです。」
 「迫真の演技だったでしょ?」
 「演技って………。」
 あの時感じた殺気は本物だった、と神座は思う。だから彼女も悲鳴をあげたのだ。本能的に殺されると感じて。

 「ちょっと驚かしてみたかっただけ。まあ、でも収穫があったから良し、としようよ。」
 「収穫?」
 「そ、収穫。でもまだ内緒。とりあえず魔王の本当の姿に会ってみたいなぁ。もちろん面会とか出来るんだよね? あと鵠沼にも会いたい。」
 鵠沼綾乃になら会うことも可能だけれど 佐竹にはどうなのだろうか、死刑囚が服役囚に面会するなど前代未聞ではないだろうか、それよりも許可は下りるのか、神座は水無瀬を見た。
 「手配しておく。」
 水無瀬は事も無げに返答した。直後に彼のスマホが鳴った。
 「わかった。」
 電話の相手に短く答えてスマホを切る。
 「美樹本アトムの容態が急変して亡くなったそうだ。」
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