第35話

文字数 1,593文字

 鵠沼綾乃逮捕から数日後、神座小麦はナナシの住むパンドラへ面会に訪れた。水無瀬から聞くところによれば 外出許可は上司の承認を得なければいけないが面会に行くのは自由ということらしい。事件の顛末の報告を兼ねてはいるが 誰か経由で入手した神座の連絡先にナナシから引っ切り無しに手土産を持って遊びに来い、という連絡が入るためだった。どうやら彼女の暇つぶしに自分は生贄に捧げられたらしい。メッセージアプリに添付されていたリクエストのスイーツを片手に神座はエレベータへと乗り込む。すでに警備員には顔を憶えられていて 乗り込む際に ご苦労様です、と声を掛けられたが きっと彼らも神座が遊び相手に他薦された事を知っていたのだろう。そんなことを考えながら降下していった。

 「見てよ、小麦。」
 通されたリビングルーム、くるぶしまで完全に沈み込む絨毯の上、アンティーク調のスクエアテーブルの上に リングライトにセットされたスマホがあった。動画背信者が撮影の際に使うような機材だな、と神座は思う。
 「もしかして動画配信でも始めるつもりじゃないでしょうね?」
 神座は手土産を手渡して尋ねる。
 「まさか、わたし、一応、死刑囚だからね。そんなことは出来ないよ。出来る立場でもしようとは思わないけれど。」
 「じゃあ、どうしてこんなものを?」
 「小麦を演者として動画配信をしようと思っているんだよね。」
 とてつもなく恐ろしい事をまるで滅多に人が足を踏み入れない朝もやの山間、そこから生まれ出る湧き水のようにさらりとナナシは言う。

 「絶対嫌です。」
 神座は拒否した。動画配信者やSNS発信者の中には他者からの心無いコメントに傷つき、心を病んだ者も多い。きっと自分も同じタイプの人間だ。人間はなぜか匿名であればあるほど攻撃的な性格になるらしい。悪意あるコメントに対して耐性の無い自分にはきっと表舞台は向いていない。それが分かっているから動画もSNSも閲覧するだけなのだ。
 「顔を出さない系の配信者もいるよ。」
 「嫌です。」
 「でも、そういうのって露出度が高い服を着ていたりするんだよね………。」
 ナナシの視線が神座の胸の辺りに向けられているのがわかった。
 「セクハラですよ、それ。」
 見られたわけでもないのに自然に胸を隠していた。
 「私、公務員ですから副業は禁止されています。」
 神座は正論を持ち出した。公務員であることに今ほど感謝したことはない。
 「バレなきゃセーフでしょ。顔も声も出さなかったらバレる可能性は極めて低い。」
 「極めて低いだけで無いわけじゃないですよね? 佐竹摩央じゃあるまいし だいたい刑務所から何を発信するつもりなんですか?」
 「興味はあるんだ?」
 ナナシはにやりと笑った。
 「ありませんよ。」
 神座は視線を逸らす。

 鵠沼綾乃の事務所から戻った翌日、ナナシはすぐに佐竹摩央の面会に向かった。そこで鵠沼が佐竹を切ろうとしていることを伝えた上で 刑務所内から囚人として動画を配信することを提案した。もちろん前代未聞の提案で 簡単に認められることではない。しかし特別死刑囚であるナナシは事件解決のための褒美をそれに充てると言い。佐竹の配信が行われる運びとなった。もちろんそれが認められた経緯を佐竹は知らない。彼女は自分が特別扱いされた事に気を良くし 刑務所からの配信というまだ誰も成し遂げていない前人未到の快挙に気を良くしたようで非常に協力的だった。もちろん現在では佐竹摩央の特別配信は削除されているが 探せばあの広い電脳の海のどこかには存在していて閲覧することは可能だろう。佐竹摩央という名前も一時的にトレンド入りしていた。それを伝えれば佐竹は喜ぶのだろうけれど 彼女に対してそこまでしてあげる義理はないな、と神座は思った。


                                      【了】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み