第7話

文字数 3,381文字

 翌日の捜査会議で鴨川水面が主張していたアリバイは出動した救急隊員と彼女が動画を撮影していたという公園の防犯カメラ映像によって 呆気なく証明されてしまった。鴨川水面を逮捕で事件はスピード解決と楽観的に考えていた是枝課長の機嫌は傍に近寄らなくても悪い、とわかった。細いフレームの眼鏡の奥の眼が自身の不機嫌さを隠そうとしていない。モールス信号を送っているかのように指先をデスクの天板に打っていた。

 「アリバイを偽装しているということは考えられないのか?」
 「アリバイを偽装しようとしている人間が自分しか持っていない鍵を使って事件現場を密室にする意味がわかりませんね。」
 水無瀬が是枝の不機嫌など臆する事なく言う。
 「しかし彼女は犯行現場からお金を盗んだのだろう?」
 「仕事をした一か月分の対価を貰っただけと言っています。現に春日井の財布は手付かずのままでしたし、店の金庫にはまだ幾らかの現金は残っていました。雇い主である被害者が死んでしまったら 給与が未払いになることを懸念しての行動だと思います。もちろん褒められたことではありませんけれどね。」
 「金額にして一万五千円を盗ったと言っていました。」
 神座は追加で情報を上げる。
 「別れ話がもつれていた、という話じゃないか。」
 「もつれさせていたのは被害者の方で 鴨川はどちらかといえばさっぱりとしたものでした。来月にはアメリカに留学する予定でしたし、日本を離れて物理的に距離をおけば今の関係を解消できると思っていたみたいです。」
 「振込だった給料をわざわざ手渡しにしたことによって被害者は彼女をおびき出そうと考えていたみたいです。」
 さらに神座は言う。
 「何のためにだ?」
 何よりも効率を考える是枝には信じられない行為なのだろう。便利を放棄して省けた手間をわざわざ戻すのは彼にとって愚の骨頂なのだ。
 「よりを戻すために説得を試みようとしていたのではないか、と。」
 神座は言う。
 「そうやってよりを戻せた試しが世の中には無いんだよ。」
 まるで自分の経験談を語るように是枝は首を振った。そういうものなのだろうか、神座は考える。自分ならばどうだろうか、元交際相手に熱心にもう一度やり直そうと言われたら………、揺らぐかもしれないが是枝の言う通りかもしれない。

 「ポイントはやはり鍵だと思いますね。」
 水無瀬が飴を口に含みながら言った。
 「例えば鴨川水面以外の別人が犯人だとして被害者の鍵を使ってドアを施錠した後に被害者のポケットに鍵を戻すことは可能か?」
 「何のためにですか?」
 是枝の質問に対して水無瀬は小馬鹿にしたように言った。
 「わざわざそんな手間のかかることをしないですぐに逃げればいいだけでしょう? 鍵を掛けて立ち去らなければいけない理由なんてない。」
 「発見を遅らせたかったから、という理由では? 犯行現場はバーでいずれ来店した客に死体が見つけられることは明白です。鍵を掛けておけば臨時休業かと勝手に思って客は帰っていくし その間に安全な場所に逃げてしまうことが出来るのでは?」
 黙っていた小野が口を開いた。
 「そうだよ、それだよ。鍵を掛ける理由あるじゃないか。」
 援軍を得た是枝は手を叩いた。
 「そこまで考える人間が店にあった果物ナイフを凶器に使うでしょうか?」
 神座は思ったことを口にする。水無瀬が口元を緩めたのが見えた。
 「それに扉を挟んで向こう側が見えない状況下で使った鍵を被害者のポケットや、手提げ金庫に戻すというのは無理があると思います。」
 神座は店内の様子を思い出しながら言った。

 店内を入ってすぐ左側に背の高いカウンタテーブルが店の奥まで続いていて そのカウンタの上には洋酒やリキュールの瓶、それに春日井の趣味で集めたアンティークの小物が置かれていた。春日井はそのカウンタの中に倒れていて店を少し覗いただけでは死角に入っているために見つけることは困難であり、手提げ金庫もカウンタの内側の足元に置かれていた。天井に近い位置からジップラインのごとく鍵を滑空させれば被害者の傍に落とすことは可能かもしれないけれど 上着のポケットや手提げ金庫に戻すというのは不可能だろう、と思う。唯一の可能性のジップライン方式だって肝心の扉に鍵を通せるだけの隙間が無ければ不可能だ。そんな隙間があるとは思えなかった。

 「だったら何か? 超能力でも使ったというのか?」
 是枝は拗ねたように言った。半ば投げやりとも言えるような意見だったが彼が本当にそう考えているわけではないことは分かる。しかし、佐竹摩央のことを話すには良い機会だと神座は思った。
 「昼間に佐竹摩央と面会をしてきました。」
 神座の発言に是枝だけではなく周りの先輩刑事からも失笑が漏れた。
 「それは水無瀬からも聞いているよ。佐竹が自分の犯行を仄めかしたっていう話だろう?」
 「はい。実際に目の前で数分間倒れた後に 男性を刺した、と。」
 「でも春日井を殺したとは言っていないんだろう? ただ具体性に欠ける話を持ち出しただけだ。占い師と同じ手口だよ。」
 「確かにそうかもしれません。」
 半信半疑のまま神座は答える。まさか自分は佐竹摩央の超能力を信じてもいいかもしれません、とは口が裂けても言えなかった。

 「いいか、神座。」
 是枝課長は咳払いを一つした。
 「わざわざ自分の犯行ですって名乗り出てくれるのは有難い話だけれどな、そんな夢物語を信じるんじゃないよ………。そんなこと人間に出来るわけがないだろ。」
 「被害者のポケットにあった佐竹のサイン入りの犯行証明書はどう考えればいいんですか?」
 神座は疑問をぶつける。
 「おおかた偽物だろ。」
 是枝は手のひらを邪険に振った。この話はこれでお仕舞にしろ、という合図にも見えた。
 「そんな偽物を残しておく意味がわかりません。」
 「意味があろうがなかろうがその佐竹本人は塀の中にいて自由を奪われている状況なんだよ。それとも何か? 佐竹は自分の意志で好き勝手に刑務所を出たり入ったりして殺人を行っているって言いたいのか? そんな事を出来る奴どこにもいないよ。」
 是枝課長は抑圧的に言った。上司は幽霊も未確認飛行物体も超能力も信じない現実主義者だ。それを頭が堅いとはけして批難など出来ない。子供のころは信じていたものも年齢を重ねるにつれて それが別の人間の悪ふざけだと知ることが多い。欺瞞に満ちた世の中が純粋な心を曇らせていく。目にしたもの、手に触れたものしか信じられなくなる。そうやって何重にも殻を纏い大人は自分を守っていく。最大の防衛は何も信じないこと、他人を。そして時には自分自身さえも。

 「課長。」
 水無瀬が右手を小さく挙げた。
 「俺も佐竹が犯人だとは思ってもいませんが 亡くなった春日井のポケットに佐竹直筆サイン入りの証明書が残っていたことは気になります。筆跡鑑定に回していますが もし佐竹本人が書いたものだとしたら念のために関連を調べてみてもいいのでは?」
 「お前まで………。」
 是枝は呆れたように言う。
 「わかった………。それで気が済むのなら調べればいい。ただ佐竹摩央はこの件に関してまったく関係が無いと この先のランチを全て賭けても良いがね。」
 「本当ですか? 助かります。」
 水無瀬は指折り数えて何かの計算を始めた。
 「おい、真に受けるんじゃない。賭け事などご法度だろう。」
 是枝は鼻から息を抜いた。
 「水無瀬、神座は調べるだけ調べたらさっさと聞き込みに回れ。他は不審人物の目撃情報と周辺の防犯カメラのチェック。必ず何か持ち帰れ、以上。」
 是枝はそう言うと会議室をさっさと出て行った。
 「ありがとうございます。」
 神座は水無瀬に礼を言う。彼の助け船が無ければ自分の意見など一笑に付されて隅に追いやられていただろう。
 水無瀬は右手を上げて反応する。
 「とりあえず気は進まないが 佐竹の化けの皮を剥がしに行く。」
 「はい。」
 佐竹摩央が犯行への関与を仄めかしているし、実際に彼女のサインが書かれた犯行証明書が現場から見つかり、まさに昨日に彼女が言った通り連日、佐竹に会いに行く羽目になり神座は気が重かった。勝ち誇ったような彼女の顔を想像してげんなりする。それでもこれは仕事、と自分に言い聞かせて神座は車を発進させた。
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