第18話

文字数 2,944文字

 是枝課長から電話があって至急、本部に戻るように神座は指示される。どうやら捜査本部に来客があるらしい。誰なのか、その正体を教えてもらえないまま指示に従って二人は一旦、捜査本部のある県警へと戻った。

 二階の捜査一課のあるフロアの片隅に フレームレスの眼鏡にタイトな黒のスーツを身にまとった作り笑顔の男性が所在なさげに神座たちの到着を待っていた。是枝から男性の名刺を手渡される。へいわ生命の村瀬昇司と書かれていた。警察署にも保険営業が度々、営業で訪れることは多い。危険な現場との隣り合わせである自分たちは彼らにとって生け簀の中の魚のようなものだ。実際に神座もしつこいくらいに生命保険を勧められて辟易したことがあった。

 「お邪魔しております。お忙しいところ申し訳ありません。」
 村瀬は二人を前にすると礼儀正しくお辞儀を深々と行った。
 「実は今回、春日井様のことでお伺いしたいことがありましてお時間を頂くことになりました。是枝様にお聞きすると水無瀬刑事が詳しいとのことで 待たして頂いたというわけになります。」
 「お気になさらず。」
 水無瀬が答えて 傍にあったソファへと移動する。
 「事件性についてですか?」
 座るなり水無瀬は相手の本題を見抜いて言った。
 春日井道雄は家族を受取人にして生命保険に加入していたそうだ。他殺と自殺では契約内容に差が出てくるからだろう、神座は思った。
 「はい。春日井様は弊社の生命保険をご契約されておりますが 契約時期が二ヵ月前なのです。」
 「なるほど生命保険は自殺の場合、ある程度の時間が経たなければ支払いがされないのでしたね。」
 「はい。契約時から三年経たなければ保険の支払いはされません。」
 村瀬ははっきりとした口調で言った。
 「ずばりお聞きしますが 春日井様の死因は自殺で間違いないのですよね? その点で今、受取人と話がこじれておりまして こちらとしても少々、困っております。」
 「事件現場の状況、解剖所見から 春日井道雄は自殺である、と考えられると思いますよ。」
 水無瀬は言った。
 「そうですか、それを聞いて安心しました。」
 村瀬は右手を胸にあててほっと息を漏らした。
 「ただ………。」
 「ただ? ちょっと待ってください。自殺でない可能性もあるんですか?」
 「他言は無用にお願いします。」
 水無瀬が視線で圧力を飛ばした。その迫力に気圧されてか村瀬は音を立てながら唾を飲み込んだ。
 「わかりました。」
 「春日井道雄の事件に関与をしていると主張している人物がいるのです。そのせいで少し捜査は難航しています。」
 「他殺の線もあるということですか?」
 「微レ存ですけれどね。」
 「ビレゾン?」
 村瀬は明らかに戸惑っていた。
 神座は苦笑しつつ 窘めるように水無瀬を軽く睨んだ。誰がすでに誰も使わなくなった言葉、いわゆる死語を理解できるというのだろう。墓泥棒のように死語をたまに掘り返しては自慢げに見せびらかして周囲を困惑させることが稀にあった。

 「英語か何かですか?」
 村瀬は神座に救いを求めた。曖昧に笑みだけを浮かべておく。
 「春日井には離婚歴がありましたね。」
 水無瀬は戸惑ったままの村瀬に尋ねた。
 「保険金の受取人は 別れた妻ですか?」
 「守秘義務があるので あくまでも独り言と思っていただきたいのですが そうです、春日井道雄様の別れられた奥様が受取人となっています。」
 村瀬は目を合わせずに独り言を演出して言った。
 「何か気になることでも?」
 「春日井が経営するバーの店内で亡くなったことは当然、元家族である妻にも報告は言っています。ただ状況が状況なだけに詳しい話は家族であってもしていないはずなのですけれどね………、どうして他殺だと思ったのでしょうね。それが気になりました。」
 「もしかして春日井様の奥様が事件に関わっていると?」
 村瀬は芝居を忘れて驚いた顔で水無瀬を見た。
 「そこまでは言っていませんよ。それに家族にしてみたら自殺で処理されるのと他殺で処理されるのではメリットが大きく違いますからね。他殺であると印象付けた方が得だと考えただけかもしれません。」
 水無瀬は天井を見たまま言った。薄くニコチンで黄色く汚れた天井だった。

 「どちらにせよ、判断はもう少し待った方が良いと思います。」
 「もちろんです。」
 村瀬は眼鏡のずれを指先で修正した。
 「しかし残念です。」
 呟くように彼は言った。
 「まだまだこれから現役で働ける年齢だったというのに人生というのは本当にわかりませんね………。」
 「そういえば生命保険加入の経緯を我々はお聞きしていませんでしたね。どこでお知り合いになられたんですか?」
 「紹介です。春日井様のお店の常連の方が私の最初の契約者様でしてね。そのご縁で紹介をしていただきました。離職率の高いこの仕事を今の今までやって来られたのは 鵠沼様のお陰でもあるんですよ。」
 村瀬は屈託ない笑顔を見せて言った。
 「鵠沼?」
 神座は驚き、思わず声を上げた。
 「鵠沼というのは鵠沼綾乃弁護士ですか?」
 「ええ、刑事さんたちもご存じでしたか? まあ一時期はテレビのコメンテータなどもされるくらい有名な方でしたからね。そうなんですよ、飛び込みの営業に伺ったのが鵠沼様の事務所でした。右も左もわからないド新人が今思えば大胆なことをした、と思いますよ。」
 「鵠沼先生はシエルの常連だったんですか?」
 「ええ、私も先生と一緒に飲みに行かせてもらったこともあります。隠れ家的な良いお店よ、とハイボールを片手に話してくれた鵠沼先生の笑顔が素敵でしたね。」
 鵠沼綾乃と春日井道雄は顔見知りだった………、想定外の人間関係が村瀬の口から飛び出してきて神座は自分の鼓動が早くなるのを感じた。水無瀬は右手で下唇を触りながら思案しているようだった。

 佐竹摩央の顧問弁護士が 佐竹が殺したと主張する事件の被害者と繋がっている、これは絶対に偶然ではない。春日井道雄の死が自殺ではなく他殺という現実味を帯びてきたのではないか、そんな根拠のない妄想に取りつかれる。

 しかし………、鵠沼に春日井道雄殺害は可能だろうか? 春日井は施錠された店内で亡くなっていた。いわゆる密室だ。そして鍵は店の金庫と亡くなった春日井、そして鴨川水面の二人しか持っていなかった。鵠沼に現場を密室にすることは出来ない。いや本当にそうだろうか? 簡単に諦める自分を自分で諫める。春日井の所持していた一本と店内の手提げ金庫の中にあった一本は持ち出すことは出来ないにしても 鴨川水面が所持していた鍵があれば出入りは簡単なのではないだろうか? 春日井道雄の死亡推定時刻、鴨川水面にはアリバイが確認されていた。だが鍵はどうだろうか? 彼女が肌身離さずに持っていたことは確認できていない。ましてや手のひらで隠せるくらいの大きさしかない鍵だ。受け渡しなど簡単に出来る。本人同士でなくても郵送という手段でだって渡すことは出来るだろう。
 春日井道雄死亡推定時における鵠沼綾乃のアリバイは未確認だ。もしかしたら突破口はそこかもしれない。確認する必要はありそうだ、神座は鵠沼弁護士事務所までの最短ルートを頭の中でシミュレーションした。
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