第5話
文字数 5,641文字
車両のスライド式ドアを開けると驚いた顔をして鴨川水面が神座と水無瀬を見た。真っ黒いボブヘアに真っ赤な口紅が印象的でイルカの形をしたイヤリングが左右の耳にぶら下がっていた。黒の上下の服装は腰にコルセットのような太いベルトが巻かれていて タイトなスカートからすらりと伸びた足には網目の大きいストッキングを履き 光沢のあるエナメルのパンプス、組んだ足のそのつま先をぶらぶらと動かしていて 彼女が苛立っているようだと神座は思った。
「いつ帰れます?」
溜息交じりに鴨川は目が合った神座に聞く。
「さっきからずっと同じ話ばかりさせられていて いい加減、飽き飽きしているんですけれど………。」
彼女はそう言うと左手首に巻いた腕時計の時間を確認していた。
「すみません、いろいろと二度手間にならないようになるべくたくさんお話を聞かせてもらいたくて そうですね、あと一時間か二時間くらいでお帰り頂けるとは思います。」
神座は丁寧に答えた。
うんざりしたのか、鴨川は溜息をつく。
「今からは私たちが代わりにお話をさせてもらいます。」
「ちょっと待って………、また今から喋らなくちゃいけないの?」
彼女は二度手間に悲鳴のような声をあげた。
「はい。そういうことになります。」
神座は悪びれずに言った。死体を発見しました、あとはよろしくお願いします、で帰れるのなら警察など機能していないことになるだろう。
「俺は貴女から話を聞いていないので。」
水無瀬が不愛想に言った。
「情報共有って言葉は知らないんですか?」
鴨川は呆れているようだった。効率を優先しているタイプの人間にはこのやり方は信じられないだろう、しかし、この執拗な聞き取りこそが自分たち警察の仕事なのだと神座は思う。関係者にどう思われようとも、自分たちが優先すべきは効率でも第一印象でもなく事件解決だ。その大義名分が無ければ自分は今の仕事などすぐに辞めてしまっているだろう。
「言葉も意味も知っていますよ。でもね、貴女、人生で人間の死体を見たことって何回あります? ああもちろん葬儀とかは別ですよ。覚悟をして見る死体と不幸にも見てしまう死体とは心のダメージが全然違いますからね。気づかないうちにパニックになってしまっている事って多いんですよ。だから落ち着きを取り戻すまで何度も何度も俺たちは話を聞かせてもらうわけです。話している内に鮮明になる記憶もありますからね。」
「そういうものなんですか………?」
鴨川は水無瀬ではなく神座に聞いた。
「はい。私もそう思います。」
神座は諭すような口調で答える。
「お疲れのところ申し訳ありませんね。喉、乾いていませんか? よかったらお水かお茶でも買ってきますけど?」
水無瀬は両手を一度だけ打って言う。
「いえ、大丈夫です。」
鴨川は申し出を断った。
「では幾つか質問をさせてください。お名前は鴨川水面さんで間違いありませんね?」
「そうです。」
「年齢は二十六歳でしたっけ?」
「はい。」
「店内で亡くなっていた春日井さんとのご関係は?」
「春日井さんの店で働いていました。もう辞めてしまいましたけれど。」
「先週の土曜日でしたっけ?」
「そうです。あ、でもけしてトラブルがあって辞めたとかじゃないですよ。」
鴨川は両手を振って否定した。
「円満退社です。来月からアメリカへ一年間行く予定なので。」
「留学ですか?」
「まあそういうところです。」
鴨川の回答に神座は引っ掛かりを感じた。留学と言い切れない理由でもあるのだろうか、と妙に勘繰ってしまう。
「辞めた店を今日、訪れたのはどうして?」
「給料を貰う約束と鍵を預かったままだったのでその返却に。」
小さくて硬質そうなバックからキーホルダーも何もついていない鍵を取り出して鴨川は水無瀬に見せた。
「春日井さんとは何時に約束を?」
「十六時です。」
「十六時………。」
水無瀬が呟くように復唱した。
佐竹摩央が目の前で倒れたのもそのくらいの時間だった。犯行証明書のこともあって神座は自分の表情が強張っていることを自覚していた。
「お店が十七時からオープンなんで仕込みとかする前に来て欲しいと言われていたんです。まあ、約束の時間にはちょっと遅れましたけれど。」
「遅刻したんですか?」
「ダメですか? 仕事ではない私用なので少しの遅刻くらいは認められても良いと思いますけど? それにきちんと連絡はしましたし。」
「それ何時ごろですか? スマホからなら正確な時間ってわかりますよね?」
水無瀬は言う。
「確認します。」
鴨川はそう言うとスマホを取り出して時間を見た。
「十六時四十分です。」
彼女の答を聞いて水無瀬が何かを言いたそうに神座を見た。たぶん四十分を少しと主張する彼女の時間感覚に呆れているのだろうと察した。
「春日井さんは電話に出ました?」
「いえ、通話じゃなくてトークで送りましたから………、でも既読はついていないですね。」
「その時にはもう返信出来る状況ではなかったんでしょうね。」
水無瀬は言う。
「春日井さんへの連絡はどちらから?」
「自宅です。」
「自宅はどこですか?」
鴨川は自宅の場所を答える。ここから二駅ほど離れた町だった。電車と歩きで二十分くらいの距離だろうか、神座は考える。
「今日、こちらへはどうやって?」
「働いていた時から自転車です。仕事が終わったら終電なんてとっくに過ぎていますから。」
「ここに到着した時間は?」
「十六時五十分には着いたと思います。」
「自転車で到着した後からの行動を説明してもらえますか?」
「エレベータで四階まであがって店に入ろうとしたらドアに鍵が掛かっていました。だから店長に電話を掛けたんです。そうしたら店の中から着信音が聞こえて あ、店長は中にいるんだなって思いました。それでドアをノックしたんですけど 返事が無くて それで鍵を持っていたんで それを使って店に入ったら 店長が………。」
「亡くなっていた?」
水無瀬の言葉に鴨川は頷いて答えた。
「カウンタの中で………、仰向けになって………。」
事件現場となったシエル店内は神座も水無瀬も見てきた。ドアを入ってすぐにカウンタ席が六席あって 奥の右側にテーブル席と大人数でも座れるソファ席があった。店内は青味掛かった照明で 全体的に薄暗く感じるのは内装が黒で統一されているからだが ソファ席の背後の壁だけは白かった。天井からプロジェクタがぶら下がっていたので そこに映像を投影するようになっていたようだ。春日井道雄はカウンタの中の床の上に仰向けて倒れていた。凶器となった果物ナイフは店に置かれていたものらしい。カクテルに添えるフルーツなどをカットするときに使用していたもののようだった。腹部に三カ所の傷があり、凶器は突き立てるように春日井の遺体に刺さったままになっていた。彼が着ていた白いシャツは流した血で真っ赤に染まっていて 両手も傷口を押さえたのか真っ赤に染まっていた。春日井のスマホはカウンタの上に置かれており、店内には物色したような痕跡は残っておらずレジ内のお金も手付かずのままだった。
「カウンタの中に入りましたか?」
水無瀬の質問に鴨川は短く首肯してから首を左右に素早く振った。
「カウンタは高さもあるしリキュールの瓶も置いていたりするので覗けないんです。だから回り込みました。」
「倒れている春日井さんを見てどう思いました?」
「ナイフが刺さっていたし、血もいっぱいでていたので死んでいると思いました。こういう時って近づかない方が良いと聞いたことがあったのですぐに警察に………。」
「賢明な判断だと思います。」
神座は言う。
「どれくらいで警察はここに来ましたか?」
「怖かったし、動揺していたのでわかりません………。でも割とすぐだったと思います。」
「貴女が来たときに店の鍵は閉まっていたそうですね?」
「はい。」
「間違いはない?」
「間違えませんよ………。鍵を返すために持っていてよかったな、って思ったから。」
「お店の鍵は何本あるんですか? 春日井さんが一本、返却しようとしていた貴女が一本だから二本はあるわけですよね?」
「あと一本、予備の鍵が店の金庫に入っていると思います。」
鴨川の証言は正しかった。鑑識が調べたところ店内にあった手提げタイプの金庫の中から両替用の小銭の棒金と鍵が一本見つかっている。神座は頷く。
「春日井さんってどんな人でしたか?」
「どんな人………。」
鴨川はそこで少しの間だけ返答に窮しているようだった。
「質問を端的に変えます。誰かから恨まれている、とかそういう事はありませんでしたか?」
「いや………、さあどうかな………。」
「どんな些細なことでもいいですよ。」
言い難そうな鴨川に神座は助け船を出す。
「誰かと口げんかになったとか、嫌なことがあったというのを聞いたことありませんか?」
水無瀬は質問を続ける。
「そりゃあたまに酷く酔っ払ったお客さんと言い争うようなことはあったと思いますけど殺されるほど恨まれることはないと思います。基本的に店長は良い人だったと思うし。」
「貴女はどうですか?」
「わたし?」
突如として疑いの目を向けられた鴨川の目は左右に泳いでいた。
「わたしが店長を殺したって言うんですか?」
「そこまでは言っていません。貴女とは口喧嘩みたいなことはなかったですか、って聞いているだけですよ。」
水無瀬は涼やかに言う。
「先ほどは円満に仕事を辞めると言っていましたけれど本当にそうですか?」
「すみません、疑ってかかるのが仕事でして。だいたい皆さんにこんな感じです。」
神座は形だけの謝意を伝えた。
「辞めるのは留学をするからです。それ以外に理由はありません。」
鴨川が不快感を隠さずに答えた。
「子供のころ、親に忍者屋敷に連れていってもらったことがあるんですよ。」
水無瀬が唐突に思い出を語りだした。鴨川が困惑しているのがわかった、傍で聞いていた神座自身も同じように困惑していた。
「忍者屋敷って行ったことあります?」
「ありません。」
「いざってときに備えてね、建物の中には隠れる場所や外に逃げ出せる隠し通路とかあるんですよ。それだけで子供心にわくわくしてね、楽しかったことを憶えています。自分が大人になって家を建てるならそういう家を作ろうと考えたこともあります。」
「それが何か関係あるんですか?」
「春日井さんも僕と同じことを考えていたらお店に抜け穴とか作っているんじゃないかなって考えたんです。ご存じないですか? お店の中に外に繋がる抜け穴とかの存在。」
「非常口なら廊下の突き当りですけど。お店の中にはありませんよ。テナントとして入っているのにそんな抜け穴とか勝手に作れないでしょう?」
「確かに持ちビルなら可能性はあるでしょうけれど 流石に無理ですよね。」
水無瀬は乾いたように笑った。
「そうだとしたら状況は少し鴨川さん、貴女に不利なことになります。」
くだらない事を言っていた水無瀬が真顔になった。
「不利なこと………?」
鴨川は眉をひそめた。
「鑑識の報告では春日井さんの鞄の中から店の鍵が見つかったそうです。今、分かっている鍵の存在は三本、そのうち一本は春日井さんが所持していて、もう一本は店の手提げ金庫の中にあった。三本中、二本が店内にあって 残りの一本は鴨川さん、貴女が所持している。そして亡くなっている春日井さんを発見した時、貴女は店の鍵は閉まっていた、と話していた。春日井さんが誰かに殺されたのだとすると 犯人は鍵を使って店の施錠をして立ち去ったことになるわけです。そんなことが出来るのは鍵を持っている人物に他ならないわけで今のところ鴨川さん、貴女だけが現場である店に鍵を掛けることが出来る唯一の人物となる。場所を変えてもう少し詳しい話を聞かせてもらわなければいけませんね。」
水無瀬が言った。
「そんな………、違います。わたしは店長を殺してなんていません。」
自分の置かれている立場を理解出来た鴨川は自身の無実を叫んだ。
無駄だとは思いつつも容疑者は誰もが必ずそう言う。
一人でも味方が出来ればそこから状況が一転すると思っているんだよ、あいつらは。
神座がまだ配属されて間もない頃、同じような言葉を叫んだ男がいた。虫も殺せないような か細い体躯の今時の青年で時折、涙を見せて無実を訴える彼に神座は他に犯人がいるのではないかと信じていたが 結局、犯人はその男でとつとつと自身が犯人である証拠の数々を水無瀬に突きつけられて最後には犯行を自供し、検察へと身柄を引き渡された。課長の是枝に散々、叱責されて落ち込んでいる時に煙草を吸いに現れた水無瀬に言われた言葉。
それを神座は思い出していた。しかし心の片隅にずっと佐竹摩央のことが引っ掛かっていた。春日井道雄のポケットの中に入っていた佐竹のサインが入った犯行証明書の説明がつかない。偶然、鴨川が自分の犯行を佐竹に擦り付けようとしたのだろうか、上手く行き過ぎている話だと思うが………、神座は質問をぶつけてみようと思った。
「鴨川さん、魔王って知っていますか?」
神座の問いを鴨川が間の抜けた表情で聞いていた。魔王という単語で佐竹のことを連想するかと思っていただけに彼女の反応は些か拍子抜けだった。
「ゲームのラスボスですか?」
「佐竹摩央と言う名に聞き覚えは?」
「誰ですか? 有名な人?」
嘘をついているようには思えなかった。
「とりあえず任意ですが署の方までご同行願えますか?」
水無瀬は棒の付いたキャンディを鴨川に一本差し出して言った。まるでお菓子で幼い子を誘う誘拐犯のようだった。大人がキャンディで引っ掛かるとは思えないけれど、神座の予想に反して覚悟を決めたように鴨川が頷いた。
「いつ帰れます?」
溜息交じりに鴨川は目が合った神座に聞く。
「さっきからずっと同じ話ばかりさせられていて いい加減、飽き飽きしているんですけれど………。」
彼女はそう言うと左手首に巻いた腕時計の時間を確認していた。
「すみません、いろいろと二度手間にならないようになるべくたくさんお話を聞かせてもらいたくて そうですね、あと一時間か二時間くらいでお帰り頂けるとは思います。」
神座は丁寧に答えた。
うんざりしたのか、鴨川は溜息をつく。
「今からは私たちが代わりにお話をさせてもらいます。」
「ちょっと待って………、また今から喋らなくちゃいけないの?」
彼女は二度手間に悲鳴のような声をあげた。
「はい。そういうことになります。」
神座は悪びれずに言った。死体を発見しました、あとはよろしくお願いします、で帰れるのなら警察など機能していないことになるだろう。
「俺は貴女から話を聞いていないので。」
水無瀬が不愛想に言った。
「情報共有って言葉は知らないんですか?」
鴨川は呆れているようだった。効率を優先しているタイプの人間にはこのやり方は信じられないだろう、しかし、この執拗な聞き取りこそが自分たち警察の仕事なのだと神座は思う。関係者にどう思われようとも、自分たちが優先すべきは効率でも第一印象でもなく事件解決だ。その大義名分が無ければ自分は今の仕事などすぐに辞めてしまっているだろう。
「言葉も意味も知っていますよ。でもね、貴女、人生で人間の死体を見たことって何回あります? ああもちろん葬儀とかは別ですよ。覚悟をして見る死体と不幸にも見てしまう死体とは心のダメージが全然違いますからね。気づかないうちにパニックになってしまっている事って多いんですよ。だから落ち着きを取り戻すまで何度も何度も俺たちは話を聞かせてもらうわけです。話している内に鮮明になる記憶もありますからね。」
「そういうものなんですか………?」
鴨川は水無瀬ではなく神座に聞いた。
「はい。私もそう思います。」
神座は諭すような口調で答える。
「お疲れのところ申し訳ありませんね。喉、乾いていませんか? よかったらお水かお茶でも買ってきますけど?」
水無瀬は両手を一度だけ打って言う。
「いえ、大丈夫です。」
鴨川は申し出を断った。
「では幾つか質問をさせてください。お名前は鴨川水面さんで間違いありませんね?」
「そうです。」
「年齢は二十六歳でしたっけ?」
「はい。」
「店内で亡くなっていた春日井さんとのご関係は?」
「春日井さんの店で働いていました。もう辞めてしまいましたけれど。」
「先週の土曜日でしたっけ?」
「そうです。あ、でもけしてトラブルがあって辞めたとかじゃないですよ。」
鴨川は両手を振って否定した。
「円満退社です。来月からアメリカへ一年間行く予定なので。」
「留学ですか?」
「まあそういうところです。」
鴨川の回答に神座は引っ掛かりを感じた。留学と言い切れない理由でもあるのだろうか、と妙に勘繰ってしまう。
「辞めた店を今日、訪れたのはどうして?」
「給料を貰う約束と鍵を預かったままだったのでその返却に。」
小さくて硬質そうなバックからキーホルダーも何もついていない鍵を取り出して鴨川は水無瀬に見せた。
「春日井さんとは何時に約束を?」
「十六時です。」
「十六時………。」
水無瀬が呟くように復唱した。
佐竹摩央が目の前で倒れたのもそのくらいの時間だった。犯行証明書のこともあって神座は自分の表情が強張っていることを自覚していた。
「お店が十七時からオープンなんで仕込みとかする前に来て欲しいと言われていたんです。まあ、約束の時間にはちょっと遅れましたけれど。」
「遅刻したんですか?」
「ダメですか? 仕事ではない私用なので少しの遅刻くらいは認められても良いと思いますけど? それにきちんと連絡はしましたし。」
「それ何時ごろですか? スマホからなら正確な時間ってわかりますよね?」
水無瀬は言う。
「確認します。」
鴨川はそう言うとスマホを取り出して時間を見た。
「十六時四十分です。」
彼女の答を聞いて水無瀬が何かを言いたそうに神座を見た。たぶん四十分を少しと主張する彼女の時間感覚に呆れているのだろうと察した。
「春日井さんは電話に出ました?」
「いえ、通話じゃなくてトークで送りましたから………、でも既読はついていないですね。」
「その時にはもう返信出来る状況ではなかったんでしょうね。」
水無瀬は言う。
「春日井さんへの連絡はどちらから?」
「自宅です。」
「自宅はどこですか?」
鴨川は自宅の場所を答える。ここから二駅ほど離れた町だった。電車と歩きで二十分くらいの距離だろうか、神座は考える。
「今日、こちらへはどうやって?」
「働いていた時から自転車です。仕事が終わったら終電なんてとっくに過ぎていますから。」
「ここに到着した時間は?」
「十六時五十分には着いたと思います。」
「自転車で到着した後からの行動を説明してもらえますか?」
「エレベータで四階まであがって店に入ろうとしたらドアに鍵が掛かっていました。だから店長に電話を掛けたんです。そうしたら店の中から着信音が聞こえて あ、店長は中にいるんだなって思いました。それでドアをノックしたんですけど 返事が無くて それで鍵を持っていたんで それを使って店に入ったら 店長が………。」
「亡くなっていた?」
水無瀬の言葉に鴨川は頷いて答えた。
「カウンタの中で………、仰向けになって………。」
事件現場となったシエル店内は神座も水無瀬も見てきた。ドアを入ってすぐにカウンタ席が六席あって 奥の右側にテーブル席と大人数でも座れるソファ席があった。店内は青味掛かった照明で 全体的に薄暗く感じるのは内装が黒で統一されているからだが ソファ席の背後の壁だけは白かった。天井からプロジェクタがぶら下がっていたので そこに映像を投影するようになっていたようだ。春日井道雄はカウンタの中の床の上に仰向けて倒れていた。凶器となった果物ナイフは店に置かれていたものらしい。カクテルに添えるフルーツなどをカットするときに使用していたもののようだった。腹部に三カ所の傷があり、凶器は突き立てるように春日井の遺体に刺さったままになっていた。彼が着ていた白いシャツは流した血で真っ赤に染まっていて 両手も傷口を押さえたのか真っ赤に染まっていた。春日井のスマホはカウンタの上に置かれており、店内には物色したような痕跡は残っておらずレジ内のお金も手付かずのままだった。
「カウンタの中に入りましたか?」
水無瀬の質問に鴨川は短く首肯してから首を左右に素早く振った。
「カウンタは高さもあるしリキュールの瓶も置いていたりするので覗けないんです。だから回り込みました。」
「倒れている春日井さんを見てどう思いました?」
「ナイフが刺さっていたし、血もいっぱいでていたので死んでいると思いました。こういう時って近づかない方が良いと聞いたことがあったのですぐに警察に………。」
「賢明な判断だと思います。」
神座は言う。
「どれくらいで警察はここに来ましたか?」
「怖かったし、動揺していたのでわかりません………。でも割とすぐだったと思います。」
「貴女が来たときに店の鍵は閉まっていたそうですね?」
「はい。」
「間違いはない?」
「間違えませんよ………。鍵を返すために持っていてよかったな、って思ったから。」
「お店の鍵は何本あるんですか? 春日井さんが一本、返却しようとしていた貴女が一本だから二本はあるわけですよね?」
「あと一本、予備の鍵が店の金庫に入っていると思います。」
鴨川の証言は正しかった。鑑識が調べたところ店内にあった手提げタイプの金庫の中から両替用の小銭の棒金と鍵が一本見つかっている。神座は頷く。
「春日井さんってどんな人でしたか?」
「どんな人………。」
鴨川はそこで少しの間だけ返答に窮しているようだった。
「質問を端的に変えます。誰かから恨まれている、とかそういう事はありませんでしたか?」
「いや………、さあどうかな………。」
「どんな些細なことでもいいですよ。」
言い難そうな鴨川に神座は助け船を出す。
「誰かと口げんかになったとか、嫌なことがあったというのを聞いたことありませんか?」
水無瀬は質問を続ける。
「そりゃあたまに酷く酔っ払ったお客さんと言い争うようなことはあったと思いますけど殺されるほど恨まれることはないと思います。基本的に店長は良い人だったと思うし。」
「貴女はどうですか?」
「わたし?」
突如として疑いの目を向けられた鴨川の目は左右に泳いでいた。
「わたしが店長を殺したって言うんですか?」
「そこまでは言っていません。貴女とは口喧嘩みたいなことはなかったですか、って聞いているだけですよ。」
水無瀬は涼やかに言う。
「先ほどは円満に仕事を辞めると言っていましたけれど本当にそうですか?」
「すみません、疑ってかかるのが仕事でして。だいたい皆さんにこんな感じです。」
神座は形だけの謝意を伝えた。
「辞めるのは留学をするからです。それ以外に理由はありません。」
鴨川が不快感を隠さずに答えた。
「子供のころ、親に忍者屋敷に連れていってもらったことがあるんですよ。」
水無瀬が唐突に思い出を語りだした。鴨川が困惑しているのがわかった、傍で聞いていた神座自身も同じように困惑していた。
「忍者屋敷って行ったことあります?」
「ありません。」
「いざってときに備えてね、建物の中には隠れる場所や外に逃げ出せる隠し通路とかあるんですよ。それだけで子供心にわくわくしてね、楽しかったことを憶えています。自分が大人になって家を建てるならそういう家を作ろうと考えたこともあります。」
「それが何か関係あるんですか?」
「春日井さんも僕と同じことを考えていたらお店に抜け穴とか作っているんじゃないかなって考えたんです。ご存じないですか? お店の中に外に繋がる抜け穴とかの存在。」
「非常口なら廊下の突き当りですけど。お店の中にはありませんよ。テナントとして入っているのにそんな抜け穴とか勝手に作れないでしょう?」
「確かに持ちビルなら可能性はあるでしょうけれど 流石に無理ですよね。」
水無瀬は乾いたように笑った。
「そうだとしたら状況は少し鴨川さん、貴女に不利なことになります。」
くだらない事を言っていた水無瀬が真顔になった。
「不利なこと………?」
鴨川は眉をひそめた。
「鑑識の報告では春日井さんの鞄の中から店の鍵が見つかったそうです。今、分かっている鍵の存在は三本、そのうち一本は春日井さんが所持していて、もう一本は店の手提げ金庫の中にあった。三本中、二本が店内にあって 残りの一本は鴨川さん、貴女が所持している。そして亡くなっている春日井さんを発見した時、貴女は店の鍵は閉まっていた、と話していた。春日井さんが誰かに殺されたのだとすると 犯人は鍵を使って店の施錠をして立ち去ったことになるわけです。そんなことが出来るのは鍵を持っている人物に他ならないわけで今のところ鴨川さん、貴女だけが現場である店に鍵を掛けることが出来る唯一の人物となる。場所を変えてもう少し詳しい話を聞かせてもらわなければいけませんね。」
水無瀬が言った。
「そんな………、違います。わたしは店長を殺してなんていません。」
自分の置かれている立場を理解出来た鴨川は自身の無実を叫んだ。
無駄だとは思いつつも容疑者は誰もが必ずそう言う。
一人でも味方が出来ればそこから状況が一転すると思っているんだよ、あいつらは。
神座がまだ配属されて間もない頃、同じような言葉を叫んだ男がいた。虫も殺せないような か細い体躯の今時の青年で時折、涙を見せて無実を訴える彼に神座は他に犯人がいるのではないかと信じていたが 結局、犯人はその男でとつとつと自身が犯人である証拠の数々を水無瀬に突きつけられて最後には犯行を自供し、検察へと身柄を引き渡された。課長の是枝に散々、叱責されて落ち込んでいる時に煙草を吸いに現れた水無瀬に言われた言葉。
それを神座は思い出していた。しかし心の片隅にずっと佐竹摩央のことが引っ掛かっていた。春日井道雄のポケットの中に入っていた佐竹のサインが入った犯行証明書の説明がつかない。偶然、鴨川が自分の犯行を佐竹に擦り付けようとしたのだろうか、上手く行き過ぎている話だと思うが………、神座は質問をぶつけてみようと思った。
「鴨川さん、魔王って知っていますか?」
神座の問いを鴨川が間の抜けた表情で聞いていた。魔王という単語で佐竹のことを連想するかと思っていただけに彼女の反応は些か拍子抜けだった。
「ゲームのラスボスですか?」
「佐竹摩央と言う名に聞き覚えは?」
「誰ですか? 有名な人?」
嘘をついているようには思えなかった。
「とりあえず任意ですが署の方までご同行願えますか?」
水無瀬は棒の付いたキャンディを鴨川に一本差し出して言った。まるでお菓子で幼い子を誘う誘拐犯のようだった。大人がキャンディで引っ掛かるとは思えないけれど、神座の予想に反して覚悟を決めたように鴨川が頷いた。
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