第20話

文字数 9,085文字

 翌日の十六時、美樹本アトムの自宅チャイムが鳴る。ロックを解除してから数分後に鵠沼綾乃がたった一人で美樹本アトム宅へと現れた。黒のパンツスーツにスマホと財布を入れたら後は何も持ち歩けなさそうなハンドバッグを右肩に掛け 神座と水無瀬を一瞥すると口許を緩ませて軽く会釈をする。彼女の許可を得てから念のために所持品検査を行った。財布、スマホ、加熱式煙草とパウチされた透明の袋にナッツ類が数粒入っていた。尋ねると鵠沼は「間食用なの。」と余裕の笑みで答えた。

 「今日は忙しい中、無理を言ってこちらへ来ていただきありがとうございます。」
 美樹本はゆっくりと頭を下げた。
 「いえ、私もトップ動画配信者のお宅を伺うことなど滅多にないので思い切って申し出を受けさせて頂いたんですよ。」
 美樹本アトムの差し出した右手を握り返すこともなく彼女は内覧でもするようにリビングルームを自由に歩く。黒い革張りのソファの上に無造作に置かれたミキアがこれまで動画内で公開してきたハイブランド製品をじっくりと眺めていく。
 「世の女性が見たら 嫌味に思えるくらいの陳列ですね………。」
 振り返って鵠沼は微笑んだ。

 「そういうコメントはよくあります。使わないのだったら無駄遣いを自慢しているだけじゃないかってね。貴方が買ったせいで買えない人もいたのにっていう的外れなものも中にはありますけど 一応、レビュも兼ねた動画ですから そこはご勘弁って最初の頃は返信もしていたのですけど なにぶんと多すぎて今は控えています。」
 ミキアは苦笑しながら言った。
 「撮影の準備は出来ているので 鵠沼先生さえよかったらいつでもカメラを回すことは出来ます。メイクとか直されますか?」
 「いえ、このままで結構。ありのままの私を見ていただくのがポリシィですから。」
 鵠沼ははっきりとわかるように瞬きを一度だけしてみせた。
 「それにああいう極端に目を大きくするような加工画像って嫌いなのよ。全く意味が解らない。あれ可愛いかしら? それとも少しバケモノのように見せておいて 実物とのギャップをわざと演出しているの?」
 「さあ 俺には何ともわかりません。まあただ友達を紹介してもらうときにああいう画像ばかりで実際に会うと絶句するときもありますけどね。」
 ミキアは苦笑しながら撮影機器の再確認を行う。
 「画角もOKですよ。」
 小野刑事がモニタを確認して言った。美樹本アトムの警護をするようになって基本的に手が空いた時には積極的に動画撮影を手伝っている、と岩崎刑事から神座は聞く。

 「じゃ、対談動画始めましょうか。」
 ミキアが大きく手を叩いた。
 テーブルを挟んで二人が向かい合うようにして座った。テーブルの上にはミキアが用意したペットボトルのミネラルウォーターだけが置かれてあった。二人を撮影するカメラは全部で四台あって その内の三台はミキアの所持品、もう一つは全体を俯瞰で取るために水無瀬が岩崎刑事に命じた一台だった。
 いつもは番組の冒頭で ミキアがチャンネル名と今回の動画のテーマを一人語りする場面があるのだが いきなり対談を始めることが意外に思えた。それを察してか、小野が隣で囁くように言った。
 「編集でどこでも差し込めるんですよ。」
 横目で小野を見ると勝ち誇ったような自慢げな顔をしていたのでつま先で彼の左膝裏を蹴る。転びそうになるのを堪えて小野が抗議の眼を向けてきた。
 「今回はなんと夢の対談企画を急遽、行うことになりました。イェイ。」
 場を盛り上げるようにミキアは拍手を連打する。
 「気になるゲストは なんと、なんと、なんと、魔王の配下、鵠沼綾乃弁護士だッ。今日はよろしくお願いしまぁす。」
 「鵠沼です。皆さま、どうぞよろしくお願いします。」
 カメラに向かって鵠沼綾乃はゆっくりと頭を下げた。
 「あ、あと誤解のないように言っておきますが 私、別に魔王の配下ではありませんのでその点だけは訂正しておきます。ミキアさんも以後発言にはお気をつけください。場合によっては名誉棄損で訴えさせて頂くことにもなり兼ねませんので。」
 「なかなか手厳しい先制パンチを食らってしまいました。こうやって命を狙われる側と狙う側の人間が顔を合わせるというのはなかなか奇妙な感じですけど どうしてこの対談を受けてくれたのですか?」
 「ここでもまた誤解を生みそうなので先に訂正しておきますが そもそも私がミキアの命を狙っているわけではないのです。ミキアの命を狙う、と言っているのは皆さんもご存じの佐竹摩央こと魔王なのです。立場的に私は彼女の顧問弁護士であって今回、彼女の会員制サロンの運営を任されただけであって本人の感覚ではあくまでも中立です。その証拠に今日、持ってきたバッグには何も入っていなかったでしょう?」
 鵠沼が入室した際にボディチェックは行っている。彼女の言う通り、凶器類の所持は認められず 彼女の所持品は財布とスマホ、あとはキーケースだけだった。化粧ポーチすら所持していなかった。

 「ええ、それは俺も確認させていただきました。みんな、鵠沼先生は安全だよ。」
 ミキアはカメラに向かって手を振る。
 「では改めてお聞きします。今日はどうして対談を受けて頂いたのでしょうか?」
 「答は単純明快です。興味があったからに尽きます。その一言だけ。」
 「つまりミキアという男がどういう人間であるか、ということですか? それってプロポーズ的な意味が籠っていますか?」
 「プロポーズをしたら受けて頂けるのですか?」
 鵠沼は赤い唇を歪めて微笑んだ。お金が大好きと公言して憚らない彼女の性格を考えるとおそらく彼女が見ているのはミキアの資産だろう。
 「すみません、一応、俺、今、結婚を前提にお付き合いを始めた彼女がいるんでプロポーズは流石に出来ないし、受けられませんよ。」
 「これは初耳ですね。ミキアには彼女がいるんですね。」
 「ええ、結婚を前提にお付き合いしている人がいますよ。別に隠しているわけじゃないですけど まあ向こうが顔出しはNGなので知らない人が多いだけって話です。」
 「ミキアほどの成功者になるとやはり異性からは引く手数多なのでは?」
 「引く手数多ではありませんよ。ほぼほぼ自宅から出ることのない仕事ですから基本的に出会いがない。数少ないチャンスをものにしようと必死で頑張ったんですから。」
 「その割には女性側から遊んで棄てられたみたいな噂をよく耳にしますね。」
 「あぁ………。」
 ミキアが一瞬、言葉に詰まるのがわかった。
 「確かに以前、お付き合いした人が週刊誌にそういう話を売った、というのはよく聞きます。でも、遊びだったっていう気持ちはこれっぽっちもありませんよ。」
 「そうですか………?」
 鵠沼は納得いかない素振りを見せる。
 「なんか対談だっていうのに俺の事ばかり話していますよね………。一応、視聴者は魔王側の代弁者としての先生の発言を聞きたいと思っているので ちょっと軌道修正をしませんか?」
 ミキアが提案する。必死さを誤魔化しながらこれ以上、異性問題を突っ込まれたくないという彼の心情が手に取るようにわかった。

 「もちろん構いませんよ。」
 鵠沼は用意されたペットボトルに手を伸ばす。
 「お水、いただきますね。」
 キャップを捻って一口飲む。
 「でもミキアは自分がどうして殺害予告を受けるのか、分からないから今回の対談を申し出たのではないのですか?」
 「ええ、それは も、もちろんそうです。」
 ミキアが頷いた。
 「今回、対談を私が受けた理由をお聞きしたかったのですよね? そして私が魔王の代弁者であるという認識もきちんとある。でははっきりと申し上げましょう。ミキア、貴方が魔王から命を狙われる理由を。」
 国語の授業中、教科書を読むように命じられた生徒のように一切の感情を込めずに彼女は淡々と言った。
 「ある女性からの依頼です。」
 「誰だろう? 教えてもらえますか?」
 ミキアは腕を組みながらかつての交際相手を思い出す作業に入った。
 「いえ、教えることはできませんね。」
 「どうして ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃないですか。」
 「弁護士、いえ、弁護士だけではなく あらゆる仕事には業務上知り得た情報は第三者に話せないことになっているわけです。守秘義務という言葉に聞き覚えありますか?」
 「でも依頼を受けたのは先生ではなくて魔王なんですよね? そういうのは守秘義務にはあたらないのではないですか?」
 「厳密に言えばそうです。ですがよく考えてみてください。殺人の依頼を行った人間がその名前を明かしたくない、というのは当然の心理ではありませんか?」
 「殺人罪に問われたくないから明かして欲しくないってことですね………。」
 「そういうことです。」
 佐竹は微笑み、そして頷いた。
 「誰が依頼したのか知りたいのなら自分で一人ずつ元交際相手に連絡をして確認をとればいいじゃないですか? それもまたミキア流の一つのショーになるのでは?」
 鵠沼の提案にミキアは黙り込む。自分のスキャンダルをネタに動画を撮るのは一つの手なのだろうけれど リスクは大きいことにミキアは躊躇しているのだと神座は思った。
 「わかりました。」
 ミキアは咳払いを一つする。
 「誰が魔王に依頼したのか確認する動画は相手のこともあるのでまた許可が取れたら動画としてアップするとして 今は対談を続けたいと思います。」
 「私からも質問をよろしいかしら?」
 大げさに鵠沼は左手を上げた。
 「どうぞ。」
 「今、ミキアには殺害予告が出ていますよね?」
 「他人事のように言いますね。」
 ミキアは苦笑する。
 「実際、どう思いましたか?」
 「どう思うというのは本当に殺されるのではないか、というような不安があるってことですか?」
 「ええ。ミキアは五本の指に数えられるくらい有名な動画配信者でしょう? そういう有名な方が魔王の力についてどのようにお考えなのか聞いてみたいと思ったんです。そういう力ってあると思いますか?」
 「そうですね………。」
 ミキアは逡巡しているようだった。どういう回答が最適なのか言葉を模索しているようにも見える。

 「あればいいな、とは思います。もちろん魔王のような物騒な力はいりませんけれど ガキの頃ってそういう妄想をしていたことありますからね。厨二病ってやつです、大人になると黒歴史として語られることが多いですけど。自分には特別な使命があって今はまだ仮初の姿だ、とか妄想したことはありますからね。大人になってそれを言うっていうのは ちょっと恥ずかしい気はしますけれど。」
 「つまり今は信じていない?」
 「はい。信じるに足る根拠がありませんよね。実際にいるのなら絶対に世の中に現れているはずですもん。でも、お目にかかったことがない。それはもう超能力なんてものは無いという証明になっているんじゃないですか?」
 「なるほど。」
 二度、大きく瞼を瞬かせて鵠沼は頷いた。
 「一つご提案があるのですけど。聞いて下さいます?」
 「提案ですか?」
 「ええ。こうやって向かい合って話すだけでは視聴者も満足をしないと思うんです。ミキアだってよく動画内でゲームをしたりしているのでしょう? あれをしてみたいのです。」
 「どういうゲームでしょうか?」
 「コップを二つと飲み物。それとレモンがあれば最高なのですけどご準備いただけますか?」
 鵠沼綾乃の申し出に神座は緊張しながら成り行きを見守る。
 「飲み物は水でも構わないんですか?」
 ミキアが聞く。
 「ええ、もちろん。レモンがなければタバスコとかでも構いませんよ。飲み物はそうですね、そちらのお水を使いましょう。まだキャップは開けていませんよね?」
 「ええ、俺のはまだ一口も飲んでいません。清潔なままですよ。」
 「いえ飲むのはミキアだけなので口をつけていてもかまわないのですが 刑事さんたちに余計な心配を掛けるのはよくありませんからね。」
 鵠沼綾乃は挑発するようにこちらを見て微笑んだ。

 ミキアがアイランドキッチンへと向かう。その間、彼らを撮影するカメラからはミキアだけ姿を消した。岩崎刑事が撮影するカメラだけがキッチンで指定されたものを探すミキアを撮影していた。
 「タバスコあります。」
 ミキアが通る声で鵠沼に報告した。
 「コップは中身がわかるように透明なものがいいのですけれど?」
 鵠沼はキッチンの方へ向かって言う。
 「この間、バカラのグラスを買ったところです。」
 キャビネットからグラスを二つ取り出して 岩崎刑事のカメラに向かってグラスを合わせて音を鳴らした。
 「じゃあそれを使いましょう。」
 ミキアは楽しそうに率先して自分で銀のトレイにグラスを二つ、そしてタバスコを載せて用意を始める。鼻歌まで歌っているようだった。
 「何が始まるんですか?」
 ふいに背後から声を掛けられて神座は驚き、声の主を振り返った。まるで幽霊のように音もなく宮國伊勢がそこに立っていた。
 「宮國さん、いつの間に?」
 「少し前に。」
 来客を告げるチャイムは鳴らなかった、神座はどうやって彼女がここに現れたのか疑問に思った。まさか本当に幽霊のように現れたわけではないだろう。
 「合鍵、預かっているんです。」
 神座の心を見透かすように宮國伊勢はカードホルダーを見せた。最近、人気のキャラクタが描かれたカードホルダーだった。美樹本アトムの趣味だろうか、それとも預かった彼女が用意したものだろうか、余計なことを考える。
 「どうしてアトム君がグラスとタバスコを?」
 「ゲームをするみたいですよ………。」
 「ゲーム?」
 「私もよくわかっていないんですけれど そうみたいです。」
 一度、進行を遮ってでもチェックするべきだろうか、神座は悩み、水無瀬を見た。彼もまた同じことを考えているのか難しい表情を浮かべていた。

 「ではミキア、そのグラスの片方に水を、もう片方にタバスコを注いでもらえますか?」
 鵠沼は楽しそうに指示を出した。
 言われたままミキアが右側のグラスに自分用に置いていたミネラルウォーターを注ぎ、タバスコをもう片方のグラスの上で小刻みに振った。オレンジ色に近い液体がぽたぽたとグラスに落ちていくのをその場にいた全員が見守るだけの時間が流れた。タバスコ瓶を振るミキアの横で盛り上げようとしているのか鵠沼綾乃がリズムよく手を叩く。やがてタバスコはグラスの三分の一まで注がれた。
 「その程度で大丈夫だと思います。」
 鵠沼が満足気に頷く。
 「さ、鵠沼先生の言う通りグラスに お水とタバスコが注がれました。」
 実況するようにミキアがそれぞれのグラスをカメラに向けた。
 「それでこの後、どうしますか?」
 「どちらか一方を選んで飲んでください、と言ったらミキアはどちらを選びますか?」
 鵠沼綾乃はグラスに触れることなく それぞれを指差す。
 「それってめちゃくちゃ難しくないですか?」
 ミキアは笑う。
 彼の言葉の意味が神座には解らなかった。何も難しい問題ではない。ミネラルウォーターの入ったグラスを手に取るのが 誰が考えても正解だ。タバスコは嫌いではないが飲み物ではない。あくまでもスパイスだ。胡椒や塩よりは飲みやすいだろうが飲み物ではない。
 「そうですね、あなた方にとっては難しい選択なのでしょうね。」
 「これが先生の考えたゲームですか? 俺ら配信者を悩ませる瞬間を見せるところが?」
 「違いますよ。これはあくまでもデモンストレーションです。ただ私も質問の仕方を間違えたようです。言い直しますね。」
 鵠沼は間を置いた。まるでエンタテイメントを理解しているかのような間の置き方だ。
 「ミキア。タバスコは毒だと思ってください。そして今からあなたはその毒を回避しなければ命はない。」
 毒という言葉に水無瀬が鋭く反応する。
 ミキアがこちらに向けて黙ったまま掌を向けた。動かないでそのまま、という彼の意志が伝わった。
 「タバスコを選ばなければいい話でしょう? 簡単ですよ、これがゲームなんですか?」
 「ええ。選ばずにいられますか? 視聴者のみなさん、あくまでもタバスコなので勘違いしないでくださいね。」
 鵠沼はカメラに向けて甘ったるい声で言う。
 「いやいやいやいや。」
 ミキアが手を伸ばしかけた時だった。彼の腕は間違いなくミネラルウォーターに向かって伸び始めていた。
 「う………。」
 ミキアが小さく呻く。伸ばした手をそのままにして動きを停止したかと思うと今度は小刻みに縦に揺れた。彼の周りだけまるで地震が発生しているかのような身震いだった。椅子の背もたれに大きく躰を預ける。弾みで椅子ごと背中から倒れる。
 起き上がったミキアは周囲をくるりと見まわして不敵に笑う。

 佐竹だ………、神座は直感的に何が起きたのか理解した。佐竹摩央が美樹本アトムの中にいる。
 「佐竹です、水無瀬さん。」
 神座が言うよりも早くミキアはタバスコの入ったグラスを手に取ると躊躇わずに一気に呷った。そして自分を撮影している四台のカメラすべてに手を振ると 脱力したように彼は床へとへたり込んだ。
 直後に彼が悶え始める。
 「うわ、からっ、うわ、うわ、うわ、あ、あ、あ、あ、あ、み、みず、みずを下さい。」
 ミキアは独り言をまくし立てると用意してあった水を口に含んでキッチンへと向かい吐き出した。何度も何度も口を漱ぐ。
 「最悪や、うわ、なんで? 何があったんですか?」
 収まらない辛味に顏をしかめながらミキアは言う。水の入ったグラスを手にしようとした自分がなぜタバスコを飲んだのか理解出来ていないようだった。
 いたずらが成功した子供のように鵠沼綾乃は微笑んだ。
 「今、一時的に魔王があなたの躰に憑依したんですよ。」
 鵠沼は軽く肩を竦めた。
 「え? 嘘でしょう?」
 ミキアが驚きの声をあげた。
 「どうですか? これでも魔王の力は偽物だとあなた達は言えますか?」
 彼女はカメラに向かってではなくカメラ越しに神座や水無瀬を挑発するように言った。
 「ごめん。また口の中が辛いわ。お水、もう一本取ってくれへん?」
 ミキアが宮國伊勢に言った。
 「牛乳の方が効果はあると聞いたことがあります。もしくは飲むタイプのヨーグルト。」
 神座は自身の経験談から進言する。
 「それなら冷蔵庫にあるんで。」
 ミキアが言うと宮國がキッチンへと向かった。神座も彼女を手伝うためにその場を離れた。 
 「さっきのどう思いますか?」
 キッチンに足を踏み入れるなり宮國が声を潜めて聞いてくる。
 「信じられない………、というのが正直なところです。」
 「でもわざわざつらい思いをするのに飲みますか? 私は飲みません。」
 「私もそうですね………、飲まないと思います。」
 あの状況でも飲むとするのならそれはテレビタレントかミキアたちのような動画配信者だけだろう。それをわかっているから神座は今、目の前で起きたことが信じられなかった。
 「アトム君の性格なら飲むんでしょうね………。」
 「でも、飲むメリットがありません。」
 「そうですよね、私もそう思いました。言ってしまえばアトム君の敵になるわけですよね?その人に花を持たせるのは違う気がします。」
 「同感です。」
 神座は答えた。 

 一人暮らしにしてはかなり容量のある冷蔵庫、扉が観音開きになるタイプで右側、左側と順に宮國が開く。左の扉の裏側に飲むヨーグルトが未開封で置かれていた。それを手に取ってカウンタに一度置く。水切りカゴにあったグラスを一つ手に取って神座はそれを宮國に手渡した。目の前でヨーグルトを開封しようとしたが長い爪が邪魔をして上手に開けることが出来なかった。代わりに神座がパックを開封し、グラスにも注ぐ。
 「じゃあやっぱり魔王の力が本当なのかしら?」
 すぐ隣で宮國が呟くように言った。
 ありえない、とすぐには否定出来ないでいる。自分でも今、目の前で起きたことが信じられない。水無瀬たちはどう考えているのだろう。
 トレイが見当たらなかった為、グラスは宮國が手に持って運んだ。
 神座は冷蔵庫に飲み物を戻す。ずっとさっきのあの光景を思い返していた。
 本当に超能力はあった………、そんな思いに捕らわれそうになるのを否定する。
 違う、絶対にそうじゃない。
 誰かが手を叩いているのが聞こえた。
 視線を向けると鵠沼綾乃が手を叩いて愉快そうに笑っていた。どうやら佐竹摩央の力を証明出来たことがよほど嬉しいようだった。
 「ほらね、魔王に不可能はないのですよ。」
 勝ち誇ったように彼女は言う。
 「本当なんですか?」
 水無瀬がミキアに尋ねる。
 しかしまだ辛味が残っているのか彼は返事をしなかった。
 ミキアがカメラから外れて彼女からグラスを受け取っていた。頓着していないのか、受け取ったその場で彼はグラスの中身の半分を煽る。

 「まだ辛い………。」
 さらに残りの半分を飲み干す。グラスを宮國に受け渡して彼は再びカメラの前へ歩きだす。二歩目を踏み出した時だった。喉の辺りをミキアが右手でおさえた。小さな呻き、痙攣が立て続けにおきて しゃがみ込むようにその場に崩れたかと思うと床の上に仰向けに倒れた。顔が赤くなり唇の端に白い泡が出来ていた。左右の足を交互に動かすが力が入らないのと靴下を履いている為かフローリングの上で滑って その動きは絶命しかけている虫のようにも見えた。
 水無瀬が真っ先に駆け出す。
 誰かの悲鳴が聞こえた。
 鵠沼は動こうとせずにただ事の成り行きを見守っているようだった。
 「救急車!」
 水無瀬が叫ぶ。
 その声でやっと神座は呪縛から解けたように動いた。震える指先でスマホを操作する。情けない………、目の前で苦しむ人がいるのにすぐに反応出来なかった自分に憤りを覚える。
 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。救急車の手配をして電話を切った。
 「毒………。」
 自然とその考えが口に出た。ミキアは毒を飲まされたのではないか、と。グラスを持ったままの宮國を振り返る。彼女の手には彼が飲み干したヨーグルトのグラスがあった。
 否、違う………、あれは自分が入れたものだ。パック自体、未開封のもので怪しさなどなかった。じゃあどうしてミキアは倒れた? ぐるぐると疑問が浮かんでは回る。
 サイレンの音が近づいてくるのがわかった。それは魔王の高笑いのようにも神座には聞こえた。
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