第41話

文字数 4,062文字

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 自宅に帰ってキッチンで水を飲んだ。そのあとリビングのソファーに座り、息を整えたあとバッグからパソコンを取り出した。十三インチのノートパソコンだった。
 電源を入れた。パスワードを入力する画面が出た。迷ったが、秋本晃をローマ字で入力した。はじかれた。次に成田晃をローマ字で入力した。はじかれた。姓と名をわけて入れてみた。はじかれた。考えつく限りの文字を入れてみたが、すべてはじかれた。途方にくれた。
 気分を変えるためキッチンに行って水を飲んだ。小便がしたくなったのでトイレに寄り、リビングに戻った。
 深呼吸をした。そのとき思い出した。河野光男から聞いた秋本の伝言だ。emiと入れてみた。はじかれた。次に、takagiemiと入れてみた。ログインできた。思わず叫びそうになった。同時に緊張で手が震えた。
 探偵、どうやらたどり着いたようだな。
 秋本の声が聞こえた気がした。
 デスクトップに背景が隠れるほどたくさんのアイコンが貼り付けられていた。眼をこらして左から順番にひとつひとつ確認した。
 真ん中あたりにその文書ファイルはあった。それは上下に並んでふたつあった。上のファイル名は〈臓器ビジネス(本文)〉であった。下のファイル名は〈臓器ビジネス(覚書)〉であった。まず〈本文〉のほうを開いた。
 文章の冒頭にタイトルがあった。タイトルは〈さまよえる臓器〉とあった。横にサブタイトルもあった。それには〈海外臓器ビジネス・腎臓売買の光と闇〉とあった。
 長い文章だった。知識のない者にもわかるように、平易に、それでいて押しつけがましくなく、それはつまり、週刊誌を意識したものだった。さまよえる臓器と銘打っているが、内容は腎臓に絞って書かれていた。まずは、国民病といわれる腎臓病や糖尿病のメカニズムからはじまって、その流れはそれらの現状の問題点と展望へとつながっていた。そのあとは、自然の流れとして、行きつくさきの透析や腎臓移植の詳しい説明とそれらの問題点に切り込んでいた。特筆すべきは、透析患者数と腎臓移植実施数がかけ離れていく現実そのものと、国民医療費の高騰と腎臓移植に対する行政の対応遅れとが、密接に関係していると指摘している点であった。それはつまり、腎臓移植そのものの理解を深める啓蒙活動と、修復腎移植を先進医療として認めることを柱に、さらに腎臓移植そのものが手軽で簡単にできる新しいシステムの構築と推進を、行政が積極的に取り組むべき課題と、うたっている点であった。それはまさに、戸川凛子の主張に相通じる内容だった。だが、半分以上を占めるのは、サブタイトルにあるとおり、海外の臓器ビジネスの実態とそれへの問題提起だった。眼を引いたのは、秋本が臓器ビジネスに手を染めている者たちへの糾弾は当然だが、やむにやまれずに当事者となった患者への偽りのない優しいまなざしだった。それは、臓器ビジネスの犯罪者と、みてみぬふりを決め込んでいる行政を闇とすると、患者にとってはそれは犯罪をも包み込む一縷の光であるという複雑な構図への、秋本なりの問題提起だった。臓器は闇にもなり得るが光にもなり得る構図。それは、まさしく、さまよえる臓器であった。
 身じろぎもせずに一気に読んだ。読み終わって肩に力が入っていることに気づき、深呼吸と同時に力を抜いた。
 喉が渇いていた。キッチンに行き、コーヒーを淹れた。コーヒーをたっぷり入れたマグカップを持ってリビングに戻り、ひとくち飲むと気分がいくらか静まった。コーヒーを半分飲んだところで、今度は〈覚書〉のほうを開いた。こちらは〈本文〉から臓器ビジネスの要点だけを抜き出した内容となっていて、〈本文〉に比べてかなり少ない容量となっていた。今度はコーヒーを飲みながらゆっくりと読んだ。
 読み終わって気づいた。ふたつの文章には大きな違いがあった。〈本文〉には名前や団体名は実名ではなく、伏字で現しているが、〈覚書〉のほうは実名であった。こちらは下書き用だと解釈した。小田英明に盗み取られたのは〈覚書〉のほうだろうと思った。
 マグカップを缶ビールに持ち替えた。ほどよく冷えたビールが胃におさまると、なんだか笑いたくなった。あんたはすごいよ。秋本に乾杯したい気分だった。
 ほかのファイルも気になったので、まだみていないアイコンを眺めた。すると、気になる文書ファイルをみつけた。〈Tの記録〉という名がついていた。もしやと思った。缶ビールをテーブルの上に置き、開いた。
 思ったとおりだった。Tすなわち戸川凛子の行動記録だった。日時と彼女の行動が克明に記録されていた。これをみて、当て馬とはいえ、秋本は自分の与えられた任務を忠実にこなしていたことがわかった。ためしに六月二十日の欄をみてみた。衆議院議員会館前からTの車をつけるとある。さらに記述が続く。午後二時に財務省前で年配の男を拾い、九段下まで行ったがそのまま戻り、途中憲政記念館をすぎたあたりでS代議士とも会う。とあった。年配の男とは私のことだ。S代議士は関森正人代議士のことだ。おもしろい記述もある。年配の男はだれだ? 素性を調べる必要がある。と下段に秋本のコメントが書かれている。ご丁寧にコメントの背景が赤で色づけされていた。
 さらにみた。五月十六日の欄に眼がいった。狩野照子からの紹介で秋本が成田晃の名前で戸川凛子に取材をした日だ。
 Tと会い医療保険問題を取材。本文はこれだけだが下段のコメント欄にやや長い秋本の感想が記述されている。
 まさかマークしている張本人のTに会うことになるとは思わなかった。正体がばれるかも知れないとわかっていたが取材をしたいという気持ちが勝った。断られることも承知で取材の申し込みをすると、意外にも承諾してくれた。Kの紹介も大きいと思うが、取材の目的にあげた現状の医療保険問題というテーマがよかったのかも知れない。
 感想はこんな記述ではじまっている。さらに次の記述が続く。
 Tは思ったよりも有能だ。そして理路整然として知識も豊富だ。Tは約束の時間をオーバーするほど熱く語ってくれた。
 そのときの光景が眼に浮かぶようだ。秋本はメインである海外臓器売買の記事のサブ記事として、現状の医療保険問題に絞った取材をしている。そのあとの記述によってそれがわかる。
 あくまでもメインは海外臓器売買だが、Tには現状の医療保険問題に絞った取材をおこなった。結果的にそれがTの口をなめらかにしたようだ。しかし、記事はいつどこに発表するのか、としつこく聞かれた。なんとかそれはかわしたが、発表のときは必ず事前に連絡を入れることを約束させられた。思わず冷や汗が出た。
 おそらく秋本は特集記事を発表するつもりだといったのだろう。戸川凛子から話を聞きやすくするためなのか、感情の高揚がそういわせたのか、それはわからない。最後に気になるコメントが書いてある。
 最後にTは近々生体腎移植をする知り合いの話を持ち出した。なんでも叔母と甥らしい。美談として特集記事に花を添えてはどうかという。その気になれば詳しく話をしてくれるらしい。検討すると答えた。
 片桐道子と南雲直人のことだ。これを読んで強烈な違和感を覚えた。なぜ戸川凛子は秋本にふたりのことを話したのか。なぜふたりの話を記事にとすすめたのか。彼女はふたりに迷惑がかかるのを一番恐れていたのではないのか。
 なぜなんだ……疑問は膨らんだ。
 あっと声が出た。顔がかっと熱くなった。戸川凛子のいままでの発言と秋本のコメントがひとつの結論へと導いてくれた。なぜ彼女は秋本に会いたがっていたのか。彼女の狙いは相手陣営の情報などではなかったのだ。いままでみえていた状況ががらりと変わった。頭を冷やすためキッチンに行って水を飲んだ。リビングに戻ってソファーに座ったが、否定する考えは浮かばなかった。
 わかってみると単純な構図だ。ライフワークである医療保険問題をなんとしても世に知らしめたい戸川凛子は、特集記事を発表するという秋本を敵と知りつつ利用したいと考えたのだ。だが秋本は一向に連絡をしてくる気配はない。だからといって自分から相手陣営の手先に接触する危険は冒したくない。彼女は焦った。そんな矢先に直人が失踪した。これを利用しようと考えた……そのさきの展開はおのずとみえてくる。
 探偵を登場させるのだ。戸川凛子の狙いはふたつだ。ひとつは特集記事に花を添える美談が壊れるのを嫌ったのだ。そのためなんとしてでも直人をさがしだし移植を完成させる必要があった。もうひとつは特集記事を秋本に発表させるのだ。秋本は必ず探偵に接触してくる。そこで探偵を間に挟んで秋本と接触し、もう一度特集記事のことを思い出させるのだ。
 いま思えば、秋本と会ったことがあるのかと聞いたとき、驚いた顔ではなかった。だれに聞いたのかとも聞かれなかった。まだある。成田晃は秋本晃だと電話で教えたとき、戸川凛子の驚きはわざとらしい感じがした。
 ただし、私の考えが成り立つためには前提がある。まず戸川凛子は成田晃と秋本晃が同一人であると知っていなくてはならない。さらに知ったのは私に調査を依頼する前でなければならない。前提に無理があるとは思えない。まわりをうろつく秋本をあのときの成田晃だと認識することは充分にあり得る。だがあくまでも憶測だ。確かめようがない憶測だ。
 まさか特集記事の発表の見返りに野島派の情報を流す……。
 いやいや、いくら権謀術策の世界に身を置くとはいえ、そこまでは……。
 直人の失踪調査の依頼は、彼女の優しさからくるお節介だと信じたい……。
 解答のない堂々巡りのむなしさに気がついた。苦笑いだけが残った。苦いだけのビールを飲み干し、パソコンを閉じた。それから三十分考えた。結論は出た。臓器ビジネスの文章ファイルは園部に託そうと思った。秋本も納得してくれるはずだ。
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