第4話

文字数 10,622文字

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 片桐道子の指定は午前九時だった。訪問する時間にしては早い時間だった。嫌なことはさっさとすませてしまいたい、という彼女の気持ちの表れかどうかはわからないが、いわれた私のほうは特に異存はなかった。年寄りにとって、早い時間は一向に苦にはならなかった。
 私が電話をしたのはきのうの夜の九時だった。その時間にしたのは、相手が確実に家にいると思ったのと、かつ夜分に電話をするには失礼にならないぎりぎりの時間と思ったからだ。私は名前と身分を名乗り、訪問したい旨を伝えた。彼女は私がかけてくることを知っていた。戸川凛子は約束を守ってくれていた。
 電話での片桐道子は淡々と落ち着いた話しかたをした。ただ、その話しかたから感じた印象は、積極的な歓迎というよりも、紹介者の戸川凛子への義理立てという消極的な歓迎であった。いずれにしても、私にとって訪問は外すことができない決まりごとであり、片桐道子の感情に左右されることはなかった。
 JR船橋駅の北口を出て七分ほど歩くと、左手に天沼弁天池公園がみえた。公園をみながらさらに四分ほど歩くと教えられたとおりの家があった。
 古くて大きな家だった。ブロック塀も木製の門扉も、色あせていた。木の表札は黒ずみ、うっかりすると見落としてしまいそうだった。だが全体からくる印象は悪くなかった。まさに年季の入った堂々としたたたずまい、といった感じがした。塀越しからみえるキンモクセイやマキの木は、きちんと手入れがされていた。
 時計をみると、約束の時間だった。壊れていないことを願ってインターフォンを押した。不安のまましばらく待つと、玄関ドアが開き、中年の女性が顔を出した。
 彼女は長袖の白のブラウスに濃紺のロングスカート姿だった。年齢は五十代半ば。髪はショートだった。なんとなく小太りをイメージしていたが、違った。むしろ痩せているほうだった。背は私より少し低かった。私は名前を名乗り、名刺を渡した。名刺を受け取った彼女は、名刺を一瞥したあと、ややかすれた声で片桐道子と名乗った。
 リビングに通された。二十畳以上はありそうな広いリビングだった。正面にダークブラウンの壁面収納キャビネットがあり、その中央に大型のテレビがおさまっていた。私はすすめられるままに、年季が入って袖が黒光りしているふたり掛けの革張りソファーに座った。
 片桐道子はソファーには座らず、その足でキッチンに行った。私のところからキッチンはよくみえた。彼女は冷蔵庫を開け、お茶のペットボトルを出し、ふたつのコップに注いだ。
 リビングに戻ってきた片桐道子は、やたら重そうなブラックマーブルの大理石テーブルの上に、私と自分の前にコップを置き、さらに携帯を自分のコップの横に置き、ひとり掛けのソファーに座った。
「このあと外出の予定があったものですから、こんな早い時間でお願いしてしまいました。申し訳ありませんでした」
 片桐道子が頭を下げた。
「とんでもない。私のほうこそご無理をいいました」
 私も同じように頭を下げた。
「戸川先生は本当に探偵さんにお願いしたんですね」
 さきほど渡した私の名刺を今度はゆっくりと確認するようにみたあと、テーブルの上に置き、片桐道子はそういった。戸川凛子への非難めいた口調ではなかったのが、せめてもの救いだった。
「彼女はあなたに、探偵に調査を依頼することの承諾を事前に取らなかったのでしょうか」
 私はバッグから手帳を取り出してからそう聞いた。
「そういうお話はたしかにうかがいました。直人の住所と電話番号を知りたいとおっしゃったので、メモ用紙に書いてお渡ししました。写真も貸してほしいとおっしゃったのでお貸ししました。でも半信半疑でした。きのう戸川先生からお電話があって、あなたがいらっしゃることをうかがったときは正直いって驚きました」
「間違っていましたら謝りますが、今度の調査に関して、あなたはあまり乗り気ではないとお聞きしましたが」
「いきさつはお話ししたと、戸川先生がおっしゃっていたので、詳しい説明は省きますけど、私はこのたびの直人の失踪はそんな大袈裟なものではないと思っています。そのうち落ち着けば姿をみせると思っています。そう、なんていいますか……」
「ちょっとパニックになっただけだと」
「そうです。そのとおりです。ですから、そんなに深刻に考えてはいませんの」
「深刻ではない?」
「深刻の意味合いが違うんです。そのつまり……」
「生死にかかわるほどではないと」
「そう。そうです」
「もし、あなたがこの調査をお望みでないのなら、断ることは可能です。いかがなさいますか」
「いいえ、それはあまりにも戸川先生に失礼です。戸川先生のご厚意に甘えさせていただきます」
「あなたのお気持ちはわかりました。私も依頼を受けた以上は全力で取り組みます。よろしいですね」
「はい。よろしくお願いします」
 片桐道子が頭を下げた。
「では、詳しくお聞きします。最初の質問です。直人君はまとまったお金を持っていますか」
「……どういうことでしょうか」
「彼は長旅をするぐらいのお金を持っているのかどうか、ということです」
「そういう意味ですか……さあ、どうなんでしょうか。バイトはしていると思いますけど、そんなに余裕はないと思います」
「直人君と連絡が取れなくなって二週間以上が経っています。こんなに長い間身を隠すところはそうそうないと思いますが、その見当はつきますか」
「まったく思いつきません」
「つかぬことをお聞きしますが、ご自宅以外に不動産をお持ちでしょうか」
「はい?」
「たとえば別荘のようなセカンドハウスですが」
「ありませんわ。もし持っていればそこに直人がいるとお考えなのね」
「ええ、そうです」
「残念ですが……」
「話は変わりますが、直人君はいま大学の……」
「四年生です」
「すると就職は?」
「建設会社に内定しています」
「彼は早くにご両親を亡くしたとお聞きしましたが」
「そうです。直人が中学のときです。交通事故でした。その事故でいっぺんに両親を亡くしたんです。ちなみに、直人の母親は私の妹です」
「それであなたが援助をすることになったんですね」
「唯一の身寄りは私だけでしたので。もっとも主人も大いに賛成してくれました」
「失礼ですが、ご主人は?」
「亡くなりました。五年前です」
「ご病気で?」
「心筋梗塞でした」
 片桐道子が伏し目がちになり、少し首を傾げた。
「そうですか。立ち入ったことをお聞きしまして失礼しました……それで直人君ですが、つまり彼は、あなたに恩義を感じてドナーになるというぎりぎりの選択をした。だがそれがかえって重荷になり、だんだんと追い詰められていなくなった。しかしそれは一時的なもので、落ち着けば姿を現す。そういうことですね」
「私はそう思っています。私のためを思って決意したんだろうと思いますけど、やはり心は揺れ動いていると思います。健康な体にメスを入れるということは、大変なことだと思います。特に直人のようにまだ若い者にとっては」
 片桐道子の表情が硬くなった。膝の上に置いてある両手に力が入ったのがわかった。
 片桐道子はぎりぎり踏みとどまっている。そんな感じがした。深刻に考えてはいないといっていたが、本当は不安で押しつぶされようとしているところを、あえて楽観的に振る舞うことで、かろうじて心の均衡を保っているように思える。だから口に出すと本当にそうなってしまうから口にできない。そうではないのか。
「直人君と連絡が取れなくなったときのことをおうかがいします。彼と連絡が取れなくなったのは、今月の一日だそうですね」
「そうです。その日の朝、私の携帯に直人からメールが入りました」
「そのメールですが、差し支えなければみせていただくことはできますか」
「そう思って用意しました」
 そういうと彼女は、テーブルの上に置いた携帯を手に取り、メールの画面を開いてみせてくれた。

《しばらく留守にします。さがさないでください。心配はいりません》

「これだけですか」
「ええ、そうです」
「このメールをみて、どう思いました」
「最初はなんだろうと思いました。なにかの冗談かと思いました。でも直人はそんなことができる子ではありません。そうこうしているうちに急に心配になりました。さがさないでほしい、という内容は穏やかではありませんでしょう」
「いま直人君の性格のことをいわれましたが、戸川代議士は直人君のことをまっすぐな性格で真面目な好青年とおっしゃっていました。叔母さんからみた彼の性格を教えてください」
「戸川先生がそんなことを……嬉しいですね。ええ、戸川先生がおっしゃったとおりです。叔母の私がいうのもおかしいですが、直人はバカがつくぐらい正直な子です。むしろ融通が利かないぐらいです」
「なるほど。融通が利かないぐらいですか……このメールの内容を控えさせていただいてもよろしいですか」
 片桐道子がうなずいたので手帳に控えた。
「しかしこのメールですが、本当に本人が発信したのかどうかわかりませんな」
「どういうことでしょう」
「これは失礼。忘れてください」
 事件性のことが一瞬頭をよぎった。だがいまはそれを口にすべきではないだろう。
「そのあとに彼に連絡を取ろうとしたんですね」
「そうです。心配になったので電話をしました。でも電話はつながりませんでした」
「電源が切られているんですね」
「そういうメッセージが流れたのでそうだと思います」
「でも前日までは連絡が取れていたんですね」
「はい」
「そのあと何度連絡してもつながらないんですね」
「そうなんです。それでアパートまで行ってみました」
「彼はいまアパート暮らしなんですね」
「ええ、そうです。大学に入ってこの家を出ました。私にあまり迷惑をかけられないといって。いまはバイトをして生活費を稼いでいます」
「アパートに行った日はいつです」
「六月の四日と五日に行きました」
「なんでも大家さんから鍵を借りたとか」
「ああ、それは五日です。前日はアパートの前まで行きましたけど、直人がいないので引き返しました」
 私はここではじめてお茶のコップに手を伸ばした。
「それで部屋に入ったときの様子はどうでした」
「様子ですか……」
「ようするに、荒らされた形跡があるとか、その、なんていうか、部屋がいつもと違うとか……」
「さあ、気がつきませんでした。実は、五日は直人の友達の女性も一緒にアパートへ行ったんです」
「ほう……女友達ですか。その女友達は直人君の恋人ですか」
「恋人といえるかどうかはわかりませんが、直人の大学の後輩でふたりは仲がいいみたいです。なんでもクラブが一緒だとか。一度だけここにも連れてきたことがあるんです」
「その友達のお名前は?」
「立花有紀さんというかたです」
「そのお嬢さんのところに直人君がいるとは思いませんでしたか」
「彼女は実家にいらっしゃると聞いていたので、それはないと思いました」
「なるほど。それで?」
「私が、大家さんから鍵を借りて部屋に入ったほうがいいのかどうか迷っているときに、立花有紀さんから朝に電話があったんです。彼女も直人と連絡がつかなくなって心配してここに電話をしてきたんです。そこで私が大家さんに頼むべきかどうか迷っているといったら、頼んだほうがいいといって、それなら一緒に行くといってくれたんです」
「それが五日の朝ですね」
「そうです」
「彼女はそのアパートには行ったことがあるんでしょうか」
「一度だけあるといっていました。私は直人がアパートを借りたときに一回だけ行っただけでしたので、部屋のなかが普段とどう違うのかわかりませんでしたが、立花さんがいうには、特に変わったところはないといっていました」
「普段どおりだったということですか」
「そうらしいです。部屋のなかは思ったよりも整頓されてきれいでした」
「そうそう、新聞はどうです。たまっているとか」
「佐分利さん、近頃の若者は新聞を購読しませんよ。インターネットがありますからね」
「……そうでしたね」
 たしかにそうだ。思わず苦笑いが出た。紙の新聞をみないと一日がはじまった気がしないのは、中年以降の証明ということらしい。
「佐分利さん、お茶のおかわりはいかがです」
「いや結構です」
 いつのまにか私のコップは空になっていた。どうやら私の言わずもがなの質問で、場が少し和んでくれたようだ。
「アパートに行ったあとですが、どこかさがしましたか」
「私は直人が行きそうなところはほとんど知らないので、途方に暮れましたが、立花有紀さんがほうぼうさがしてくれました」
「だが手掛かりはなし?」
「はい」
 片桐道子が伏し目がちになり、また少し首を傾げた。どうやら癖のようだ。
「ちなみに、立花有紀さんはどんな感じの娘さんですか」
「おとなしい感じのお嬢さんですね。派手なところがなく控えめな素敵なお嬢さんです」
 なかなか好印象のようだ。しかし立花有紀が直人の失踪に一枚噛んでいるのか、いないのか、それは会ってみないとわからない。私は質問を続けた。
「次にお聞きしたいのは、狩野照子さんとのご関係です」
「日本腎臓移植推進協会の理事長さん?」
「ええ、そうです」
「……すでにお聞きになっていると思いますが、私は糖尿病性腎症から腎不全になり、四年前から透析を受けています。以前から腎臓移植は知っていましたが、真剣に考えたのは最近なんです。それも直人からの情報からなんです。透析を受けるにあたって、私の主治医である腎臓内科のお医者さんからは、移植のお話はたしかにありました。でも、そのときは主人の病気もあって深くは考えませんでした。私には縁のないものだと思っていました。ですから、私は当然のように透析を受け入れ、一生付き合う覚悟でした。あれは去年の十月のはじめでした。直人が腎臓移植というものを知ったと連絡をくれたのは。なんでも、無料のジャズコンサートをたまたま知り、出かけたそうです。それは狩野照子さんの協会が主催する腎臓移植セミナーを兼ねたコンサートだったそうです。それは協会の啓蒙活動の一環だったのでしょう。コンサートが終わったあとに開催されたセミナーで腎臓移植を知ってからの直人は、その後も協会のセミナーに参加したり、狩野照子さんの本を読んだり、それはもう熱心でした。途中から私も直人に誘われて参加しました。そのころの直人は狩野照子さんと個人的にお話をするようになっていました。どうやらそのころに、狩野照子さんに相談してドナーを決意したようです。そして私に自分の決意を話してくれました。私はすぐには返事ができませんでした。迷いました。透析から解放されるという喜びの感情と、直人に負担をかけてはいけないという自分を律する感情が、入り乱れました。そんな私をみて、直人は狩野照子さんに一度会ってほしいといいました。会ったのは二月の中旬でした。そこで狩野照子さんからは腎臓移植のことを詳しくお聞きしました。それからまもなくです。私が腎臓移植を決意したのは」
「なるほど。そういうことでしたか……」
 片桐道子が立ち上がり、やはりお茶のおかわりを持ってくるといって、ふたつのコップを持ってキッチンに立った。私はそろそろ辞去する時間になったことを時計をみて知った。質問を急ぐことにした。
 片桐道子がお茶を入れたふたつのコップを持って戻ってきた。
「でもね、佐分利さん、私と直人が決意しても、すぐに腎臓移植ができるというわけではないんです」
 ソファーに座った片桐道子がそういった。
「といいますと?」
「まず腎臓移植ができる病院をさがさなければならないんです」
「そこからですか」
「腎臓移植を実施している病院は全国で百四十か所なんです。というか、それしかないんです」
「少ないですな」
「ええ、県によっては一か所というところもあります」
「さがすのは大変だ」
「それはすぐに解決しました。狩野照子さんが病院を紹介してくれたんです。彼女は本当に親身になって相談に乗ってくれました」
「それはどこです」
「千葉にある四か所のなかのひとつで大森台中央病院というところです」
「そこは近いのでしょうか」
「車で五十分ぐらいでしょうか」
「それほど大変とはいえないですな」
「狩野照子さんのおかげです」
「それからどうされました」
「予約をしてふたりで大森台中央病院に面談に行きました」
「それはいつ?」
「三月の十八日です」
「その面談というのは具体的になにをするのでしょう」
「医師と移植コーディネーターから移植についての説明や私と直人の意思の確認です。あとは親族であるかの確認もありました。そのために私たちは戸籍謄本を用意しました」
 戸川凛子の話を思い出した。私は手帳にそのときに書いたメモをみた。それには、レシピエントとドナーは、六親等以内の血族と三親等以内の姻族に限るとあった。
「意思の確認というのは、本当にやる気があるのかの確認ですね」
「そうです。そのほかに、私のほうは腎臓内科の主治医からの紹介状を持って行きました。あとは現在の症状の確認と既往歴を聞かれました。最後にドナーとなる直人が本当に自分の意思でドナーを決断したのかの確認でした」
「なるほど。その面談は問題なく終了したんですね」
「ええ、問題はありませんでした。次に日をあらためてふたりで検査に行きました。検査というのは、組織適合性検査のことです」
「それはどういう検査なんです」
「私も詳しいことはわかりませんが、説明によると、赤血球のABO型検査と白血球のHLA検査とリンパ球クロスマッチ検査をするということです。つまり、拒絶反応をできるだけ少なくするためにレシピエントとドナーの相性をみるということのようです」
「それは移植が可能かどうかのチェックなんですか」
「可能か不可能かというよりも、どの程度適合性があるかのチェックだと思います。私の理解では、間違っているかも知れませんが、術後の経過観察の判断材料ではないかと思います」
「ということは、相性が悪いからといって移植が不可能になるわけではないと」
「そのようですね。当然、血がつながっているほうが相性がよくて、拒絶反応の面からいっても最善だと思いますけど、いまは優れた免疫抑制剤の開発により、相性が悪い場合でも特に問題はなく移植ができるようになったということです。ですからいまは夫婦間腎移植は増加していて、割合は約四十パーセントらしいですよ。それにいまは血液型が違っても移植ができると聞いています」
「医学の進歩はすごいですな。いやあ勉強になります」
「私はもっぱら移植コーディネーターと直人からの受け売りですから」
「ところで、その検査ですが……痛い思いをするものなんでしょうか」
 組織適合性検査などと聞くと、なにをされるのか心配になる。
「採血だけですよ。もっとも注射が苦手の人はつらいでしょうね。多めに採られますからね」
 片桐道子が苦笑いしていた。採血だけならまだ我慢ができる。とにかく痛いのはごめんだ。
「その検査はいつでした」
「四月一日です。二週間後の四月十五日に検査の結果をふたりで聞きに行きました。私たちは問題なしという結果でした」
「そのときの直人君の反応はどうでした」
「喜んでいました」
「彼の言動から、プレッシャーを受けているようなことは感じられましたか」
「特に感じませんでした」
「次のステップはたしか検査入院ですね」
 戸川凛子から聞いて手帳に書いた内容をみながらそう聞いた。
「そうです」
「そうすると、次のステップである検査入院を間近に控えた六月一日に直人君と連絡がつかなくなったということは、組織適合性検査の結果から一か月半が経っている計算になります。その間になにかあったんでしょうね」
「ええ、そうなりますね」
「その一か月半の間、直人君とお会いしましたか」
「いいえ、会ってはいません。連絡はもっぱら電話かメールでした」
「そのときになにか変化を感じたことは」
「ありません。いつもの直人でした。でも……そういえば」
「なんです?」
「私の思いすごしかも知れませんが、いま思い起こせば、五月の終わりごろ、少し元気がなかったような、そんな気がしてきました。電話での声の調子がです。でも大袈裟なものではありませんよ。少し気になる程度のことです」
 鉛筆を持つ手に少し力が入った。手帳にメモって丸で囲んだ。
「次のステップである検査入院の日と検査内容を教えてください」
「六月八日にまず私が入院する予定でした。八日間かけて全身の検査をおこない、問題なければ次に直人が六日間かけてやはり全身の検査をおこなう予定でした。検査内容は、私に移植手術に耐えられる体力があること。そして直人が健康で腎臓機能に問題がないこと。特に双方に悪性腫瘍や感染症などの病気がないこと。などです。そこで双方に問題がなければいよいよ移植手術になります」
「すると、いまは検査入院を待ってもらっていることになりますね」
「そうです。病院に事情をお話しして、いったんキャンセルにしました」
「直人君のことを正直に話したんですか」
「ちょっとナーバスになっているんで落ち着くまで待ってください、といいました。入院直前にキャンセルしたので平謝りです。そういうかたもなかにはいらっしゃいます、といっていただいたので少し安心しました」
 片桐道子がさりげなく時計をみた。そろそろタイムオーバーのようだ。
「予定があるところ申し訳ありません。あとふたつほど質問があります。それとひとつのお願いがあります」
「あと十五分ぐらいでしたらかまいませんわ。それでお願いというのはなんでしょう」
「もしよろしかったら立花有紀さんの電話番号を教えてください」
「わかりました。ちょっとお待ちください」
 片桐道子はそういうと、身軽に立ち上がってリビングの隣の和室に入っていった。
 すぐに戻ってきた片桐道子は一枚のメモ用紙を持っていた。ソファーに座った彼女から私は受け取り、手帳に挟んだ。
「あとは質問でしたわね。ではどうぞ」
 私は礼をいって残りの質問を頭のなかで素早く整理して口を開いた。
「直人君の行方がわからないということが、戸川代議士に伝わった経緯を教えてください」
「組織適合性検査の結果が出た翌日に、お礼かたがた検査の結果と今後の予定をお伝えするために、狩野さんに電話をしたんです。そのことがあって、狩野さんは検査入院のことを覚えてくれていたんです。検査入院の前日でした。狩野さんから電話をいただいたんです。なにも心配ないから元気に行ってらっしゃい、という励ましの電話でした。私はもう正直にお話しするしかありませんでしたので、直人のことを話しました。狩野さんはずいぶん驚き、そして心配してくれました。私を慰めてもくれました。あとで知ったのですが、それから三日後ぐらいに、協会のセミナーがあって、そのゲストで呼ばれた戸川先生に狩野さんが事情をお話しされたようです。次の日、狩野さんから聞きましたといって、突然戸川先生が私の自宅に訪ねてこられたんです。驚きましたが、正直にお話をしました」
「そういう経緯だったんですね。よくわかりました。これが最後の質問です。直人君は今度のこと以外に、なにかトラブルを抱えていたというようなことはお聞きになっていませんか」
「さあ……たぶんないと思います。少なくとも私は聞いておりません」
「お時間を取っていただき、ありがとうございました。大変参考になりました」
 私は時計を確認したあと、手帳をバッグにしまった。そのあと、聞いておかなければならないことがもうひとつあるのを思い出した。
「すみません。これが本当に最後の質問です」
 腰を浮かした片桐道子がまた座り直した。
「失礼ですが、あなたは直人君以外に近しい身寄りのかたはいらっしゃらないのでしょうか」
 片桐道子の表情が曇った。どうやら嫌な質問をしたようだ。
「……息子がひとりおります」
 少しして小さな声で答えてくれた。
「ほう、息子さんが」
「直人よりふたつ上の二十四歳です。ほとんど家に寄りつきません。いまはいったいなにをしているのか……」
 片桐道子が下を向いた。
 ドナーは息子さんではなくなぜ直人君なんですか? 私はこの言葉を飲み込んだ。気にならないといえば嘘になる。ただ、素行の悪い息子や娘のいる家庭はごまんとある。ただそれだけのことかも知れない。ようするに、家庭の事情はそれぞれだということだろう。
「失礼ですが、息子さんのお名前は?」
「涼平といいます」
 片桐道子がテーブルの上に指で名前を書いてくれた。
「念のために住所と電話番号を教えていただけますか」
「連絡を取るおつもりですか」
 ちょっと眉をひそめた。
「できればそうしたいと思います」
「涼平はなにも知らないと思います」
「念のためです」
 私が手帳を差し出すと、ちょっと躊躇したが、それでも余白に住所と携帯の電話番号を書いてくれた。
 私は礼をいって立ち上がった。片桐道子は下から私を見上げた。彼女は無言で思い詰めたような表情だった。その眼はなにかを訴えかけていた。私はもう一度座った。
「佐分利さん、直人がなにか事件に巻き込まれていないか心配ですが、もちろんそんなことはないと固く信じていますが、もしそうでないのなら、そっとしておいてほしいのです……ごめんなさい……いまいったことは忘れてください。心配してくださっている戸川先生に怒られますものね……そのかわり、もしさがし出せたときは、ドナーのことは無理をしないで、私は大丈夫だから、と私がいっていたと伝えてください。お願いします」
 片桐道子が両手をきちんと膝の上に置き、深々と頭を下げた。私は黙ってうなずいた。
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