第32話

文字数 4,252文字

       32

 赤いポストの脇に立っていると、右から音もなく赤のプリウスが近づき、眼の前で止まった。運転席には戸川凛子がいた。私を認めると、助手席を指差した。私はドアを開け、助手席にすべり込んだ。車はすぐに発進した。
「きのうはごめんなさいね」
 戸川凛子は優しい声を出した。今日は濃紺のスーツだった。シックで悪くなかった。
「こちらこそお忙しいところすみません」
「なにか重要なお話のようね。めずらしく佐分利さんは興奮した声を出していたわ」
 悠然と微笑む戸川凛子の横顔をみた。車は桜田通りを皇居に向かって走っている。運転は相変わらず慎重だ。
「報告はふたつあります。ひとつ目は、総裁選に関することです。ふたつ目は、今度の調査に関することです。といっても、ふたつ目のほうは、直接的というよりも間接的なことです」
「では総裁選のほうからうかがうわ」
「きのうの夜に秋本から電話がありました」
「秋本晃?」
 一瞬だが戸川凛子は驚いた顔をこちらに向けた。
「ええ、例の秋本晃です。彼は私を知っていました。電話でしたが、接触してきたのははじめてでした」
 すでに車は左折して内堀通りに入っていた。正面に国会議事堂がみえている。
「彼はなんて?」
「秋本は、自分はもう総裁選に興味がないといいました」
「興味がない……どういうこと」
「こんなクソみたいな生活からはおさらばしたい。失礼。彼の言葉です。だからとびきりおいしい情報を教える、と秋本は私にいったんです」
「とびきりおいしい情報……それで?」
「秋本は自分は当て馬だといったんです」
「当て馬?」
「秋本は思い切り派手に動いて野島陣営を攪乱させる役目らしいです」
「意味がわからないわ」
「つまり、相手陣営の知られてはならない情報や弱みをみつける本命は別にいるということです。そいつはつまり、スキャンダルを裏でさがす役割を負っているということです」
「本命は別にいる……それはだれなの」
「関森正人幹事長代理の秘書で吉見という人物はご存じですか」
「吉見秘書? ええ、知っているわ……まさか」
「彼は相当のギャンブル好きで、かなり借金があるようです。そこを藤井陣営は眼をつけたと秋本は話してくれました」
「嘘でしょう」
「吉見秘書は野島陣営の票読みや内部情報、もちろんあなたの情報も藤井側に伝えているんです。そして、表向きは秋本だが、裏では吉見があなたの行動をウオッチしているということです」
「スパイは彼だというの」
「そういうことらしいです」
 右側に桜田濠がみえる。左には国立劇場がある。戸川凛子は無言で車を走らせ、やがて〈麹町警察署前〉の交差点を右折した。車は右折を繰り返していまきた道を戻りはじめた。
「……驚きだわ。でも本当かしら、その情報は」
 やっと出た言葉は呟きに近かった。
「かなり信憑性があると思います。電話の感触で私はそう思いました。秋本がわざわざ嘘をいう理由がないからです」
「でも、秋本はなぜいう気になったのかしら。そもそも佐分利さんに話した秋本の狙いはなに? あ、それが、いまの生活からおさらばしたいという理由なの」
「そうらしいですな。だれかに話をしてすっきりしたかった。そしていまの境遇から抜け出たかった。そういいました。そのだれかが私だったというわけです」
「まだあるんじゃないかしら。たとえばこういうのはどう。あなたを選んだのは、私とパイプがある佐分利さんに話せば、間違いなく私に伝わる。そのために情報をリークした。考えすぎかしら」
「あるいはそうかも知れませんね」
「しかし、佐分利さん、いまの情報は本当かも知れないわ。たしかにそういわれると、思いあたることがあるもの」
「総裁選に関するお話は以上です。これで私は肩の荷が下りました」
「ありがとう。いまの情報はさっそく精査するわ。余田徹代議士の裏切りよりも重要な情報よ」
 私の出番はここまでだ。この情報を戸川凛子がどう扱うのかは知らないし、知りたくもない。
「ねえ、佐分利さん、わからないことがあるわ。秋本はあなたの電話番号をどうして知ったのかしら」
「前にお話ししたフリーライターの園部直樹から聞いたようです」
「秋本の情報を教えるかわりに総裁選の情報の提供を要求してきた人物ね」
「そうです」
「ということは、今度も秋本との間でなにかの取引があったんじゃないかしら」
 やはり戸川凛子は鋭い。
「そこまでは知りません」
 ある副大臣の色恋沙汰のネタを鼻さきにぶら下げられて園部が喋ってしまったことは、さすがにいえなかった。
 憲政記念館をすぎて庭園のところを左折した。背中越しに国会議事堂がみえる。車は減速し、脇に寄せて止まった。
「ではふたつ目のお話をうかがうわ」
 戸川凛子はハンドルから手を離すと、こちらに顔を向けた。私もいくぶん体を運転席側に向けると、うなずいた。
「前に秋本らしき男が、涼平君をさがしているようだ、とお話ししたと思いますが、それはやはり秋本でした」
「やはりそうだったのね」
「電話でその事実も聞きました。私が知ったのは、涼平君のアパートを訪ねた秋本を小田英明の妹がみていたからなんです。妹は秋本の名前まではわからなかったので、本人に聞くまでははっきりしませんでした」
「秋本はなぜ涼平君のアパートに行ったのかしら」
「それは、もともと秋本は小田英明をさがしていたからなんです。その理由は本人がいわないので不明です。ちなみに、秋本と小田英明は前からの知り合いなんです。なんでも、小田英明が暴走族を解散したあとに、秋本が彼を取材した縁で知り合ったようです。それからも風俗の取材でふたりは会っていたようです。小田英明と涼平君の仲を知っている秋本は、小田英明の消息を知っているかも知れない涼平君を訪ねたんですね」
「ちょっと待って。小田英明を殺した犯人はまだつかまっていないわよね」
「ええ、まだです」
「秋本が涼平君のアパートを訪ねたのは、小田英明が殺される前だったかしら、それともあとだったかしら」
「殺される前日です」
「秋本がその犯人ということはないの」
「彼はシロですね」
「言い切れるの?」
「根拠はないですが、小田英明をさがすために動いている姿と、小田英明を殺した姿が、重ならないんです」
「しっくりこないというわけね」
「そうなんです。一応犯人の心あたりはないかと、秋本に尋ねましたが、ないという返事でした。だがなんとなくですが、心あたりがあるような感じは受けました。私の気のせいかも知れませんが」
「秋本がなにかを知っている……どうも彼が鍵を握っているようね」
「そのとおりです」
 戸川凛子が前を向いて息をゆっくりと吐き出した。ちょっと疲れているような横顔だった。
「それはそうと、秋本は涼平君のアパートをどこで知ったのかしら」
 戸川凛子はまたこちらに顔を向けた。
「秋本は小田英明と涼平君と三人で飲みに行ったことがあって、そこで秋本は涼平君のアパートを知ったようです。ついでにいうと、涼平君がつかまらないので、阿比留伸介氏にも秋本は電話をして涼平君の居場所を尋ねています」
「秋本は阿比留伸介氏に電話をしているの?」
 戸川凛子は大きな声を出した。
「阿比留伸介氏のことも、涼平君から聞かされて知ったようです。秋本は名前を名乗らずに涼平君の居所を尋ね、知らないとわかるとすぐに電話を切ったそうです」
「やはり彼が鍵を握っているような気がしてきたわ。でも、秋本は小田英明になんの用事があったのかしら」
「そこなんですよ。そこまでして小田英明の行方を知りたがっていたのはなぜなのか……肝腎なことは話してくれませんでした」
「そう……」
「私からの話は以上です」
「私からの伝言はどうなの。伝えてくれたかしら」
「そうでした。肝腎な話を忘れていました。そのことならちゃんと伝えましたよ」
「それで秋本はなんて?」
「考えておく、といっていました」
「そう……」
 戸川凛子が思案顔になった。
「ねえ、佐分利さん、秋本ともう一度お話しする機会があるかしら」
「さあ、どうでしょう。彼はずいぶん用心深い男でして、きのうの電話も公衆電話でした。自分の携帯の電話番号を知られたくなかったんでしょうね」
「ずいぶん慎重ね」
「身についているんでしょうな。むかしは裏社会のレポートでは定評があったということです。だからヤクザ社会との付き合いは深いはずです。そんなところからも、慎重になるクセがついているのではないでしょうか」
「もしまた電話がかかってきたら、吉見秘書のことをもう少し詳しく聞いてほしいの。もしかしたら吉見秘書がリークした内容を知っているかも知れないでしょう」
「わかりました……」
「それと、私からの伝言なんだけど、今度は私が会いたがっているようだ、と伝えてほしいの」
 会ってもいいから会いたがっているに変わった。なぜそこまでして会いたいのか。私は疑問を感じたままうなずいた。
「お願いね。今日は貴重な情報をありがとう」
「はあ……」
「どうしたの。様子が変ね」
 迷っていた。思い切って聞こうか聞くまいか迷っていた。
「どうしたのよ。ほかになにかあるのかしら。なにかいいたそうにしているようだけど」
 やはり聞くことにした。後悔はしたくなかった。
「思い切ってあなたにお聞きします」
「なにかしら」
「実は、ある噂を聞きました。あなたと秋本が五月の中旬ごろに会っていたという噂です」
「私が秋本と?」
「ええ、そうです」
「その噂は嘘よ。私は秋本と会ったことはないわ」
「そうですか」
「佐分利さんに嘘をついてもしようがないわ」
 戸川凛子は私の表情をみている。
「佐分利さんは信用してくださらないの」
 さぐるような視線だ。
「もちろん信用しますよ」
 いわされた。これだから美人は嫌いだ。
「そう。嬉しいわ」
「失礼しました。お気に障りましたら謝ります」
「いいのよ」
 戸川凛子が車を発進させた。
「今日はどうもありがとう」
 戸川凛子は前を向いたまま軽く頭を下げた。
「お役に立てて嬉しいですよ」
 私がそういうと、戸川凛子は悠然と微笑んだ。
 戸川凛子は虎ノ門交差点まで送ってくれた。車を降りて、新橋方面に向かう赤のプリウスを見送った私は、途中でお茶のペットボトルを買い、事務所に向かった。
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