第6話

文字数 2,681文字

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 考えていたよりも遠かった。若者ならもっと早いだろうが、私の足で大井町駅から歩いて二十分弱といったところだ。それも迷わずにきた場合だ。途中何度か道に迷ったため、アパートに着いたときには、考えていた予定の時間を三十分もすぎていた。住所は、品川区大井四丁目。アパートの名前は、大井第五アパート。直人が住むアパートだ。
 一階と二階合わせて六世帯のアパートだった。間取りは1DKといったところか。道路に面した外側に階段がついている。駐車場などない。離れたところからみたときは、なんだか古びたアパートだと思ったが、間近でみてみると、やはりかなり古い。築年数は四十年ぐらいか。いやもっと古いか。壁は黒ずみ、ひび割れを補修したあとが随所にみえる。
 一階の道路側に面した部屋の前に立った。玄関ドア横に洗濯機が置いてある。背中は隣の住宅の塀が間近に迫っている。玄関ドアに小さな名前プレートが貼ってあった。全体に汚れていてみえづらかったが、なんとか南雲と読めた。幸先がいい。一回目でさがしあてた。玄関ドア横の面格子がはまったキッチンの窓ガラスに明かりはみえない。もっとも外はまだ明るいからそれだけで留守とは判断できない。私は玄関側から離れて裏にまわった。
 隣家が間近に迫っていた。隣家の玄関横の駐車場に置いてあるワンボックスカーが邪魔になってよくみえない。私は背伸びをして直人の部屋にあたる窓をみてみた。窓がある場所には、黒ずんで建て付けが悪そうな木の雨戸が閉まっていた。私はもう一度玄関側にまわった。
 玄関ドアにはどこをさがしても呼び鈴はなかった。しかたがないので、最初は弱く五回叩いた。反応はなかった。今度は強く十回叩いた。やはり反応はなかった。ドアノブをまわしてみたが鍵がかかっていた。そのとき横で声が聞こえた。驚いて横を向くと、若い男が立っていた。一瞬直人かと思ったが、写真でみた顔と違っていた。
「南雲さんならいませんよ」
 若い男が申し訳なさそうにいった。
「あなたは?」
「隣に住んでいる者です」
 半ズボンとサンダル履きの若い男は、手にビニール袋を提げている。ビニール袋の隙間を上からのぞくと、コンビニ弁当とお茶のペットボトルがみえた。
「南雲さんはずっとお留守ですか」
「そうみたいですね。半月以上顔をみていませんね」
 若い男は自分の部屋に入って行こうとした。質問を続けて注意をこちらに向けた。
「その間、一度も部屋に帰ってきてはいないのかな。たとえば、物音がしたとか、声がしたとか」
「さあ、気がつきませんでしたね」
「困ったなあ。頼みごとがあったんだけどなあ」
 善人そうな顔を作り、情けない声を出した。若い男は興味を引いたのか、こちらを向いた。
「その間、だれか訪ねてこなかったかな」
「きましたよ。中年の女性と若い女性が」
 片桐道子と立花有紀だ。
「それはいつ?」
「今月の……いつだったかな……はじめぐらいだったかな」
「彼女たちがきたのは一度だけだった?」
「僕が知っているのは一度だけです。その日は彼女たちは部屋に入ったようでしたね。物音がしたのでわかりました。そのあと僕のところにもきました。南雲さんのことを聞かれたから覚えているんです」
「その彼女たち以外で訪ねてきた人はいたかい」
「知っている限りはいませんね」
「ところで、南雲さんは大学生なんだが、あなたもそうなの」
「ええ、そうです」
「南雲さんとは親しかったの」
「大学が違うので親しくはしていなかったですね。挨拶をする程度です」
「なるほど。どうもありがとう。そうそう、彼は日頃どうだったかな。問題になるような行動とか、物音とか、そういうことはなかったかな」
「静かでしたよ。たまに友達がきていたようだけど、騒ぐことはなかったですよ。あ、でも……」
「でも、なに?」
「あれはたしか……先月だったかな。部屋のなかでなにか言い争いのような大きな声がしました」
「喧嘩?」
「聞こえたのは声だけでした。物音はしません。でもなにか険悪な感じだったのを覚えています」
「話の内容はわからないかな」
「そこまではわかりませんね。でも、なんとなくお金で揉めていたような気がします」
「お金ねえ……払え、払わない、みたいな感じかな」
「はっきりしたことはわかりませんが、そんな感じでした」
「当然相手は男だよね」
「男の声でした」
「相手は若い感じ?」
「声の感じは彼と同じぐらいかな」
「言い争いはふたりだけ?」
「たぶん」
「言い争いは長く続いたの」
「そうですね。三十分ぐらいだったかな」
「そのあとは?」
「出かけたんじゃないかな」
「ふたりで?」
「たぶん」
「それは五月のいつごろかな。正確な日にちは覚えていないかな」
「たしか……僕がバイトの面接に行った日だから……そうです。二十日です。五月の二十日です」
 二十日というと直人が失踪する十日前だ。やはりこの言い争いは無視できない。
「言い争いは夜だった?」
「七時ごろでしたね。テレビで七時のニュースがはじまったころでした」
「もし南雲さんの姿をみかけたり、物音が聞こえたりしたら、連絡をほしいんだが、お願いできますか」
「ええ、いいですよ」
 若い男が承諾したので私は手帳の余白を破いて自分の携帯の電話番号を書き、それを渡した。若い男は紙をポケットに入れた。
「どうもありがとう」
 私は若い男に礼をいって玄関を離れた。横目でそっとみると、彼は鼻歌を歌いながら自分の部屋に入って行った。
 近くにコンビニや飲食店はない。不審がられずに張り込みをする場所もない。私は直人のアパートをさがしているときに、たまたま近くでみかけた小さな公園を思い出した。
 小さな公園にはブランコとベンチがあった。いまはだれもいない。私はベンチに座り、バッグから新聞を出して広げた。私は暗くなってからもう一度アパートに行ってみようと思っていた。
 三十分がすぎた。気がつくと、まわりはかなり暗くなっていた。新聞を読むにはもう無理だ。私は新聞をバッグにしまい、立ち上がった。
 また直人の部屋の前に立った。キッチンの窓に明かりはなかった。玄関ドアに耳を近づけた。なかは気味が悪いほどひっそりとしていた。目立たぬように息を殺してひたすら身を隠している小さな動物の姿にだぶった。どうやら私は疲れたようだ。背中の汗がシャツに張り付く。私は息を殺しそっとアパートから離れた。もしかしたら今日の夜は、今年はじめての熱帯夜かも知れない。
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