第11話

文字数 5,984文字

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 朝起きたら喉が痛かった。体もだるかった。熱は感じなかったが念のために測った。平熱だった。たんなる疲れだと思った。
 食欲がなかったので水を一杯だけ飲んだ。着替えもせずにリビングのソファーに座り、新聞を広げつつテレビをつけた。天気予報をやっていた。今日の最高気温は三十度で晴れ。きのうは三十二度だった。考えると、子供のときに比べていまは確実に暑くなっている気がする。温暖化は確実に進行しているようだ。それにつり合って人類の寿命は短くなっていくのだろう。
 立花有紀と会う時間は午前十一時だった。まだ余裕はある。事務所に寄っても充分に間に合うはずだ。台風という言葉が聞こえた。テレビに注意を向けると、気象予報士が話していた。この週末は台風が日本列島を縦断するらしい。非常に強い台風らしい。特に大雨に注意といっている。新聞を読み終わったのでテレビを消した。さて、朝飯をどうするか、と考えた。やはりなにか腹に入れておいたほうがいいようだ。キッチンに行き、冷蔵庫を開けた。卵が眼についた。さて、この卵をどうするか、と考えた。雑炊が頭に浮かんだ。これなら胃にも体にも優しいはずだ。
 卵とネギをたっぷり入れた雑炊を作った。面倒なので鍋のままスプーンを持ってリビングのソファーに戻った。全部は無理かなと思ったが、気がついたら平らげていた。そのあと、冷蔵庫に入れてあった栄養ドリンクを一本飲んだ。雑炊が効いたのか、栄養ドリンクが効いたのか、それはわからないが、少し元気が出てきた。そろそろ時間だ。私は、よし、と声を出して、着替えをするために寝室に向かった。

 立花有紀が待ち合わせ場所に指定したのは、上野駅構内の入谷改札だった。上野駅が家から近いのか、それともバイトさきから近いのか、それはわからない。
 事務所に顔を出してすぐに出た。その足で虎ノ門駅に行き、地下鉄銀座線に乗った。十五分ほどで上野に着いた。改札を抜けて、急な階段を上がって外に出た。左手に交番があった。右手のエスカレーターに乗り、三階にくると、入谷改札があった。横に大きなパンダの像があった。改札の手前で時計をみると、ちょうど五分前だった。券売機でJRの切符を買い、改札を通って駅構内に入った。あたりを見回したが、それらしき女性はいなかった。私は張り込みのカモフラージュ用にいつも持ち歩いている雑誌の〈アエラ〉をバッグから出し、目立つように胸の前で抱えた。
 彼女が電話で話してくれた目印は、黄色のバッグとA4茶封筒だった。私が伝えたのは、アエラを手に持っている年寄りだった。目立った特徴のない風貌を伝えても、そんなジジイは掃いて捨てるほどいるから、アエラを目印にと伝えた。
 三分前になった。飲食店が並んでいる方向からくるだろうと、そちらにじっと眼をこらした。やがて、それらしい女性が飲食店の方向からこちらに歩いてきた。肩に黄色のバッグをかけ、胸の前には茶封筒を抱いていた。近くにきて、あたりを見回し、私をみつけてまっすぐ向かってきた。
 お互いに名前を確認して、同時に会釈をした。彼女は、想像していたとおりのジジイだったからか、なるほどというような表情をして白い歯をみせた。
 中肉中背で服装は白のポロシャツにグレーのスカート。一見して静かでおとなしそうな感じがする娘さんだった。化粧っけはなく、髪も黒だ。言葉を変えれば、都会ずれしていない平凡な娘さんという感じだ。銀縁の眼鏡がいっそうそう感じさせた。片桐道子がいっていた、派手なところがなく控えめなお嬢さん、という形容はあたっている。私の印象は悪くない。なにかほっとするような安心感がある。私は駅構内にあるコーヒーショップに誘った。
 店内は意外と混んでいた。幸いに奥の丸テーブルがひとつ空いていたので、さきに立花有紀を座らせ、私は注文したコーヒーをカウンターで受け取り、代金を払って彼女のところに戻った。
 座るとすぐに名刺を渡して、突然の電話を詫びた。立花有紀は軽く頭を下げた。
「先輩のことを調査しているんですか」
 私の名刺から眼を離さずに立花有紀が聞いてきた。
「そうです。電話でもいいましたが、あなたのことは彼の叔母さんの片桐道子さんからお聞きしました。どうかご協力ください」
「私も心配なんです。ですからなんでも協力します。道子さんにもそうお伝えください」
 どうやら依頼人は片桐道子だと思っているようだ。事情を説明するのも面倒なので、それで通すことにした。
「最初にお聞きしたい。彼が腎臓移植のドナーになろうとしていることは知っていましたか」
「はい。先輩から聞きました」
「聞いたのはいつ?」
「三月のなかごろでした」
 片桐道子が直人に説得されて腎臓移植を決意したのが、三月のはじめだから、そのあとに立花有紀に話したことになる。辻褄は合う。
「そのとき、どう思いました」
「正直すごいことだと思いました。私だったら考えてしまいます。そのときに腎臓移植のことをいろいろと教えてくれました」
「熱く語ったんだね」
「そうです」
「ではいまの彼の状態は想像もできない?」
「はい。まったく」
「そこで彼が失踪した理由についてなんだが、なにか心あたりはありますか」
「失踪……」
「失踪という言葉は抵抗ありますか」
「ええ、少し」
「では、頭を冷やすために身を隠した、とでもいいましょうか。でもこれだと長い。では、長い不在、にしましょうか」
「私は一時的な不在だと思います」
「片桐道子さんと同じ考えですな」
「ええ、理由については道子さんとお話ししました。私も道子さんと同じ考えです。心配ですけど、最悪なことは考えていません。最悪というのは、このまま現れないということです。先輩は、少し冷静になりたいんだと思います。ですから、そのうちにひょっこりと現れると思います。そのほかの理由はと聞かれてもよくわかりません。すみません。お役に立てそうもないです」
「あなたが謝ることはありませんよ」
 コーヒーをひとくち飲んだ。味は可もなく不可もなし。まだ手をつけていない立花有紀にもすすめた。
「彼は六月一日以降連絡がつかなくなるんだが、その日の朝、叔母さんにメールを送っている。そのメールのことは知っていますか」
「そのメールなら道子さんからみせていただきました」
「それをみたとき、どんな感じを受けたかな」
「もっと具体的に説明したいけどうまく言い表せない。そんな感じを受けました」
「なるほど。そんな受け取りかたもあるんだ……ところで、叔母さんはメールをもらってから連絡がつかないとおっしゃっているが、あなたもそうですか」
「そうです。何回か電話やメールをしているんですけど、応答がありません」
 立花有紀もコーヒーをひとくち飲んだ。そのあと、手に持っているハンカチを口元にあてた。
「六月一日以前に彼に会ったのはいつです」
「その一週間ほど前に大学で会いました」
「そのときの様子はどうだったかな」
「その日はクラブ活動があったんですけど、先輩は体の具合が悪いといって欠席して帰りました。そんなことは一度もなかったので驚きました」
「元気がなかった?」
「はい。なんだかとっても疲れたような表情でした」
「ではあまり話はしなかったんだ」
「はい。していないです。でも夜にメールしたときに、大丈夫と返信があったので安心しました」
「ところでなんのクラブ?」
「演劇研究会です」
「ではその仲間なんだね」
「はい。先輩は副部長です」
「部員数は何人?」
「三十人です」
「すると、直人君のいわゆる不在は、三週間ほどになるが、当然そのクラブの部員全員が知るところとなっているんだね」
「微妙です」
「微妙というと」
「連絡がつかないことを知っているのは、私と部長の手塚先輩です。南雲先輩と連絡がつかなくなってから四回ほどクラブの集まりがありましたけど、そのときに手塚先輩が、南雲は家の都合でしばらく集まりには出られないと部員に話したので、みんなは納得していると思います」
「手塚先輩というのは」
「南雲先輩の友人です」
「手塚なんていうのかな」
「手塚健一さんです」
「手塚先輩はどういう経緯で直人君のことを知ったのかな」
「手塚先輩も南雲先輩と連絡がつかないといって心配していたらしいです。そんなときに、私は道子さんと連絡を取って事情がわかったので手塚先輩に話しました。話したのは手塚先輩だけです。もちろん話すことについては道子さんに承諾をいただきました」
「手塚先輩はドナーの件は知っているんだろうか」
「私と一緒に南雲先輩から聞きました」
「もし手塚先輩の電話番号がわかるなら教えてほしいんだが」
 立花有紀が読み上げる番号を手帳に控えた。
「ありがとう。ところで、あなたのまわりでドナーの件を知っているのは、あなたと手塚先輩とあとはだれかな」
 コーヒーカップを持った手が胸のあたりで止まった。
「さあ、どうでしょう。よくわかりません」
 コーヒーカップをテーブルの上に置き、立花有紀が首を傾げた。
「彼が不在になってから、あなたはほうぼうさがしてくれたそうですね」
「手塚先輩と一緒にほうぼうさがしました。クラブの仲間と行っていたコーヒーショップや居酒屋に行きました。それから南雲先輩がバイトしていたところも行きました。いずれも連絡が途絶えた以降にみかけたかどうか尋ねましたが無駄でした。所詮素人ですからそれが限界でした」
「そのバイトさきはいまどうしているんだろう」
「それが、店の人がいうには、突然辞めるといったそうです」
「それはいつ?」
「道子さんにメールを送った前日です」
「すると五月三十一日だね」
「はい。突然だったので店長は困るといって引き止めたそうですが、先輩はひたすら謝って結局は店長も折れたそうです」
「そのときの理由はなんだったんだろう」
「一身上の都合としかいわなかったそうです」
「有無をいわせず、というやつだね」
「店長も真面目な先輩が豹変したといって驚いていました」
「そこはどんな店なの」
「イタリアンレストランです」
 店の名前と場所を聞いて手帳に控えた。
「そういえばあなたは片桐道子さんと一緒に彼のアパートに行ったんだよね」
「行きました」
「部屋のなかをみたとき、なにか違うなと思わなかった。たとえば、荒らされたような痕跡があるとか、あるものがなくなっているとか。違和感でもいいんだがね」
「以前に南雲先輩のアパートに行ったのは、クラブの仲間と一緒のときの一回だけです。それもずいぶん前なので、部屋のなかの様子はあまり覚えていないです。でも特に違和感はなかったです」
「部屋のなかは整頓されてきれいだったそうだね」
「ええ、私の部屋よりきれいでした」
 立花有紀が控えめに笑った。
 気がつくと、混雑していた店内は私たちともうひと組だけになっていた。私は声を落とした。
「直人君は悩みごとをほかの人に相談するようなタイプなんだろうか」
「さあ、どうでしょうか。はっきりとはわかりませんが、少なくともお喋りな人ではないです」
「あなたはどうです。彼から悩みごとの相談を受けたことはないですか」
「私はないですね。もしかしたら手塚先輩はあるかも知れません」
「失礼なことをお聞きするが、あなたは彼とはかなり親しいんだろうか」
「恋人という意味ですか」
「ええ、まあ」
「それでしたら違います」
 断定をしたが、ちょっと唇をかんだ。
「では、彼には恋人はいるんだろうか」
「さあ、わかりません……それって重要なんでしょうか」
「三週間という長い不在を考えると、どこかに身を隠す場所が必要になるでしょう。考えられるとしたら恋人のところじゃないのかな」
「知っていたらそこを訪ねます」
 ちょっと怒ったような口調だった。
「それはそうだね。ではほかに身を隠す場所の見当はつかないかな」
「残念ですがわからないです」
「たとえば、別荘を持っているような金持ちの知り合いはどうだろう。いると聞いたことはないかな」
「ないですね。もしかしたら、そこに身を隠しているということですか」
「たとえばの話だけどね」
「いや、聞いたことはないですね」
「では質問を変えましょう。あなたからみた直人君の性格を教えてくれるかな」
 立花有紀がちょっと考えるしぐさをした。
「……真面目か、普通か、不真面目か、というと、真面目を半分ほどいったところです。でも堅物ということではないです」
「真面目を半分ほどいったところねえ……おもしろい表現だね。私が片桐道子さんやほかの人たちから聞いたところでは、まっすぐで、真面目で、バカがつくぐらい正直で融通が利かない、というものだった。だがおしなべて好印象なんだな。でもね、今回の彼の行動がどうもそれと結びつかない。メールでひとこと断ったとはいえ、言葉は悪いがあまりにも無責任だ。私はね、いま強烈に違和感を覚えているんだよ」
 戸川凛子がいった違和感と同じ違和感だろうか、と思いながらそういった。
「私もそういう違和感はたしかにあります。でも無責任だとは思いません。完璧な人間はいないと思います」
 立花有紀はちょっとムキになっていった。
「なるほどね。まあ、いいでしょう」
 時計をみた。立花有紀もつられて時計をみた。会ってからそろそろ四十分になる。篠田美咲との約束は午後三時だ。昼飯の時間も考慮に入れなければならない。
「ご協力どうもありがとう。これが最後の質問です」
「はい」
 立花有紀がちょっと居住まいを正した。
「彼は建設会社に就職が内定していると片桐道子さんから聞きましたが、あなたは知っていましたか」
「知っています。南雲先輩から聞きました。ゼネコンです。先輩の叔父さん、つまり道子さんのご主人が以前に勤めていた会社なんだそうです」
「へえーそうなの。なんていう会社?」
「阿比留工業という会社です」
 そこなら知っている。準大手のゼネコンだ。
「いいところに決まったんだね」
「なんでも叔父さんはそこの会社の役員だったらしいです」
「ほう、そうなんだ。するとコネ入社なのかね」
「先輩もそうだといって笑っていました」
「就職が内定しているとしたらなおさら心配だね。あなたは一時的な不在といったが、本当にそうなってほしいね」
「そうなります。私は信じています。悪いイメージは先輩に似合いません」
 声に力があった。私をまっすぐにみる眼にも力があった。
「明日にでも頭をかきながら姿を現すかも知れないよ」
 私がそういうと、立花有紀は力強くうなずいた。
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