第18話

文字数 9,192文字

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 渋谷で早めの昼飯をすませ、事務所に向かった。
 奈緒子と伊藤綾子は外出していた。原田洋子が電話番をしていた。私がデスクの椅子に座ると同時に、原田洋子が一枚の名刺を持ってこちらにきた。
「佐分利さん、お客さんでしたよ。たったいま出て行ったところです。行き違いですね。電話をいただきたい、とのことでした」
 名刺をみた。名前は、園部直樹とあった。会社名はなく、肩書きはフリーライターとなっていた。フリーライターと聞くと例の秋本晃を思い出すが、園部直樹という名前は覚えがない。
「なんの用事だろう。なにかいっていたかい」
「いいえ、特には。知らない人ですか」
「知らないな」
「フリーライターとあるから、なにかの取材かも知れませんね。ちょっとくせのある人でした。佐分利さんはどこに行ったんだ、としつこく聞かれました」
「ふーん、とにかく連絡してみるか」
 私は携帯を取り出し、名刺にある携帯の電話番号を押した。
 電話を切った三分後に、フリーライターを名乗る男が息を切らして事務所に戻ってきた。デスクの前のソファーに座るなり、もう少しで地下鉄に乗るところでした、といってハンカチで額の汗をぬぐった。
 眼の前に座っている男は、四十代後半かあるいは五十代前半か。地なのか黒い顔に額の皺。そして無精ひげとぼさぼさの髪。らくだ色のポロシャツの上には、薄茶色の古ぼけたジャケット。その胸ポケットには、ボールペンが黒と赤それぞれ一本ずつ差してある。ズボンは空色。折り目はなし。右の膝に小さな煙草の焦げ跡。ズボンのベルトが腹に食い込んでいて苦しそうだ。
「梅雨だというのに暑いですな」
 そういいながら男はまたハンカチで額の汗をぬぐった。
「週末には台風がくるらしいじゃないですか。台風が去ると一気に夏ですかな」
 そういいながら男は、私が渡した名刺をしきりに眺めている。ちょうどそのとき原田洋子がお茶を持ってきた。コップをテーブルの上に置いて立ち去るときに、私に向かってニヤリと笑った。似たもの同士と思われたら心外だ。
「エアコンは効いているんですかな。ちょっと失礼して上着は脱がせていただきます」
 脱いだジャケットを隣の空いているソファーに置いた。
「ご用はなんですかな」
「ああ、これは失礼。申し遅れましたが、園部直樹といいます。もっぱら週刊誌に記事を書いているフリーライターです。今日はどうしても確認させていただきたいことがありましてね。ご迷惑とは思いましたがお邪魔しました」
 園部直樹は軽く頭を下げた。次に、ポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。だが、テーブルの上に灰皿がないことに気づくと、慌てて煙草を胸ポケットに戻した。よくみると、彼の右手の親指と人差し指は、ヤニで黄色くなっていた。
「申し訳ないが、ここの事務所内は禁煙になっていましてね。吸うと大変なことになってしまう。隣の女性たちから水をかけられます」
「やや、これは失礼しました。しかし、最近はどこの会社も禁煙ですな。喫煙族はだんだん肩身が狭くなりますよ。むかしは、面倒くさいからといって、口の両端に一本ずつくわえて交互にふかしている豪傑がいたけど、いまはそんな豪傑はとんとみかけませんな」
 園部直樹は、冗談とも本気ともつかないことをいって、ははは、と大きな声で笑った。私は黙っていた。けむに巻く作戦かも知れないが、へたに調子を合わせると、どこまでも図に乗りそうに思えたからだ。
「佐分利さんは探偵をやっておられるんですね」
 私が乗ってこないのをみると、園部直樹は急に真顔になり、軽く咳払いをひとつしてからそう聞いた。私は黙ってうなずいた。
「いやね、私も仕事柄、二三の探偵社を知っておりますが、法律事務所と同居しているのはめずらしいですな。なにかいわれでも」
「まあ、いろいろと」
 答えにはなっていないが、詳しい事情を説明する義理はない。
「そうですか。しかし、あなたが探偵だとは意外でした。てっきり同業者かと思いましたよ。同じにおいがしました」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、判断に苦しむが、あえてさらりと流すことにした。しかし、つかみどころのない男だった。もう前置きは結構だ。
「そろそろ本題に入りませんか」
「これは失礼……こういうときに煙草が吸えると助かるんですがね。間がね。微妙な間が大事なんですわ」
 園部直樹はそういうと、苦笑いを浮かべた。
「先日、戸川凛子代議士の車に乗っておられましたね」
 突然表情と口調が変わった。私の胸中を読み取ろうとするかのように視線は私に突き刺さったままだ。それは予期せぬ言葉だった。私は園部直樹の意図をはかりかねていた。黙って次の言葉を待った。
「単刀直入にお聞きします。佐分利さんは戸川代議士からなにを頼まれたんです」
 予期せぬ言葉がまた出た。私は混乱していた。
「と聞いても話すわけがないか。そうですよね、ははは」
 やはりつかみどころのない男だ。豪快に笑い声を出すが、眼は笑っていなかった。
「あなたの出現は想定外でした。いやあ驚きました。やはり政局がらみでしょうね」
「なんのことやら」
「おや、おとぼけですか。実は、あなたが戸川代議士の車に乗るところから降りるところまでずっとみていたんです」
「ということは?」
「戸川代議士の車のうしろをタクシーで追いかけていたんです」
 園部直樹はニタリと笑った。
「途中で関森正人幹事長代理ともお会いになりましたね」
「さあ、どうだったか」
「バッチリみていましたよ。あんな大物と会うなんてなかなか隅に置けないですな」
 園部直樹はまたニタリと笑った。
「車を降りたあとはこの事務所に戻られましたよね」
「つけたのか」
「ええ、尾行させていただきました」
「なんで?」
「そりゃ気になりますからね。それから帰宅されたときもあなたのあとをついて行きました。なんだかあなたのお株を取って申し訳ないですな」
「すると家までずっと一緒なのか」
「ええ、なかなか結構なお家にお住まいで」
「油断も隙もないな」
「えへへ、お互いに因果な商売ですわ」
 ぜんぜん気がつかなかった。これでは探偵失格だ。
「それでいろいろと調べさせてもらいました」
「私のことを?」
「ええ」
「気分が悪いな」
「いやあ申し訳ない。でもあなたが思うほど怪しい者ではありませんよ。といっても充分に怪しいですかね。ははは」
 園部直樹は大きな声で笑った。
「それで戸川代議士とはどんなお話を?」
 一転して真顔に変わった。
「知りませんな」
「なかなか口が堅い。いや、頼もしいですな」
 私を上目遣いでみた。食えないオヤジだ。
「いや、これは失礼。悪気はありません……こうなったら腹を割って話します。できればあなたもそうしていただけると嬉しいんですけどね……実は、そもそも私が追っていたのは、秋本晃という男なんです」
 ついに聞き慣れた名前が出た。秋本晃という人物は、戸川凛子がいうようにかなりの有名人のようだ。
「ご存じですか」
「え? なに?」
「秋本晃という男ですよ」
「知るわけがない」
 つい力が入った。園部直樹はまたもや私を上目遣いでみた。
「この男は私と同じフリーライターです……話を続けてもよろしいですか」
 私はついうなずいてしまった。
「この秋本晃という男は、なかなかえげつない記事を書く男でしてね」
 あんたはどうなんだ、ともう少しで口に出すところだった。
「この男ですが、最近はもっぱら風俗の下ネタと芸能人のゴシップ専門です。それで、なんていうか、私とは水と油というか、とにかく私とは相性が悪いんですよ。むかしのことですが、特ダネをかすめ取られたことがありましてね。まあ、そんなことはどうでもいいんですが……」
 園部の背中が丸まり、上体がやや前のめりになってきた。そしてそのまま胸ポケットの煙草に手をやったが、慌てて引っ込めた。
「そもそも私は、保守党の次期総裁選を追っていたんです。佐分利さんはご存じですか、次期総裁選について」
「幹事長の野島秋声と官房長官の藤井康次の一騎打ちなんでしょう」
「あれ、ご存知でしたか。では、すでに水面下では熾烈な争いをしていることも」
 私はゆっくりとうなずいた。
「仕事柄いろいろな事情に精通していなければいけないわけです」
 所長から聞いてたまたま知っていただけだが、そんなことはおくびにも出さずに、物知り顔で腕を組んだ。
「それならば話は早い。そうなんです。いま両陣営とも相手のあらさがしで必死です」
 戸川凛子によると、野島秋声と藤井康次は手打ちをして、これからは正々堂々と戦うことにした、と話していた。この事実を園部はつかんでいないのか。それともこの事実はやはり有名無実なのか。
「そこでですね、藤井陣営の最前線で動いているのが、草野篤彦という代議士です。佐分利さんは草野代議士をご存知ですか」
「いや、知らないな」
 どこかで聞いたことのある名前だ。でも思い出せない。
「おや、ご存じない……居酒屋を手広く展開している若き実業家ですが、鳴り物入りで政界に転身した例の先生ですよ。最近はちょくちょくとマスコミを賑わせていますね」
 そういわれて思い出した。
「グラビアアイドルと浮気をしたと噂になったあのニヤけた先生か」
「そうです。あのお騒がせな御仁です。ちなみに、野島陣営の最前線で動いているのが、あなたもよくご存じの関森正人幹事長代理と戸川凛子代議士です」
 園部はまたもやニタリと笑った。
「それで秋本晃の話に戻りますが、私が両陣営の記事を集めるため、それぞれの陣営の政治家をウオッチしていると、ある男の存在に気がついたんです。それが秋本なんです。秋本が変な動きをしていたんです。当然私は秋本をマークしました」
「秋本の登場はいつごろなんだ」
「二か月ぐらい前ですよ」
「秋本の変な動きというのは?」
 園部がニタリと笑った。なんとなく園部のペースにはまっているような気がする。
「秋本が戸川凛子代議士の身辺に張り付いているんです。そしてある政治家と頻繁に会っているんです。それである政治家というのが、草野篤彦なんです。ね、気になるでしょう」
「それらが結びついていると、そういうんだな」
 秋本晃が戸川凛子をマークしていることはとうに知っているが、私はとぼけて聞いた。
「ええ、関係おおありです」
 園部は、唇を舌でなめるとニタリと笑った。
「私が知っている限り、戸川代議士の身辺をうろついたあと、あとで決まって草野に会うんです。まるで調査した内容を報告しているようじゃありませんか。ね、非常に気になるでしょう」
「するとあの日も秋本は戸川代議士に張り付いていた。そしてあんたは秋本をマークしていた。ということは当然彼女の車のうしろには秋本もいた」
「ええ、そうなんです。あの日はたまたま秋本をマークしていたんです。いやあ興奮しましたよ。あなたが登場したことによってね。いつもなら退屈な尾行が、あの日は楽しい尾行になりました。先頭は、戸川代議士の車、そして秋本が乗ったタクシー、そしてしんがりは私が乗ったタクシーです。ぞろぞろとまるで金魚のフンですよ」
「おいおい、ということは秋本も私の家まできたのか」
「安心してください。やつはあなたが虎ノ門で車を降りたあと、彼女の車のほうを選びました」
「あんたもそっちを選べばよかったのに」
「いやいや、私は佐分利さんのほうが気になりました。やはり私の選択は正解でした」
 園部は私のほうを意味ありげにみた。
「ひとつ聞いてもいいかな」
「ええいいですよ。私はいつだってオープンです」
「秋本晃が藤井陣営の手先だというのはわかった。ではあんたはどっち側なんだ」
「私は完全にフリーですよ。私の興味は保守党の次期総裁選の内幕です」
「その口ぶりだと相当なネタをつかんでいるようだな」
「まあ、いろいろと。これでもジャーナリストの端くれですからね」
 園部は思い切り鼻の穴を膨らませた。そして胸ポケットに手をやり、また慌てて引っ込めた。
「ところで、佐分利さん、秋本のような、いってみれば汚れ仕事ばかり請け負う一匹狼を、政治家が利用するとしたら、なにが考えられます」
 園部が急に声をひそめて身を乗り出してきた。反射的に私は少しのけ反った。
「さっきあんたがいっていたように、あらさがしか」
「政治家は汚れ仕事はできない。その点、秋本ならできる。多少荒っぽいことだって、やつならやりますよ。金になることならね」
 あんたはどうなんだ。もう少しで口に出すところだった。
「ところで、秋本がなぜ戸川代議士をマークしているのか、その理由はご存じですか」
「知るわけがない」
 嘘だろうという顔をしている。嫌なやつだ。
「では戸川凛子代議士にある噂があるんですが、それもご存じない」
「ないね」
 なんとなく口元が笑っている。まったく嫌なやつだ。
「スキャンダルです。野島幹事長と特別な関係にあるという噂です」
「ほう、そうなのか」
「興味はないですか」
「あいにくとゴシップは興味がないんでね」
 嘘だ。本当は嫌いではない。
「それをさぐっているんですよ。草野代議士と秋本のコンビは。もし決定的な証拠をつかんで週刊誌にでも売り込めば、総裁選はがぜん有利になりますからね……本当は佐分利さんは先刻ご承知なんでしょう」
「知らないね」
「戸川代議士と会われたのはそれに関係したことなんでしょう」
「さあね」
「思った以上に口が堅いですな。でもね、佐分利さん、私を味方につけると役に立ちますよ。こうみえてもフットワークの軽さが売りです。それで、関森正人幹事長代理はなんていってきたんです」
 さすがにジャーナリストだ。誘導は巧みだ。
「おや、だんまりですか」
「答える義務はないね」
「それは探偵の仕事ですか」
「さあ」
「守秘義務というやつですな」
「さあ」
「あ、もしかしたら藤井康次のあらさがし」
「それは違う」
 思わず喋ってしまった。園部が露骨に嬉しそうな顔をした。
「でも、それはないなあ。こういってはなんですが、その手の依頼だったら、もっとアクが強くて金で動くような人物を選ぶでしょうね」
「それは喜んでいいことなのか」
「もちろんです」
「それはそうと、あんたがさっきいっていた戸川代議士のスキャンダルだが、それは信憑性があるのか」
「あれ、ゴシップは興味がないんでしょう」
「興味はないが、感心はある」
「うん?……まあ、いいでしょう。それで信憑性ですが、本当のところはわかりません。でも火のない所に煙は立たぬというから、あるいはね」
「そんなあやふやな噂で藤井陣営は動いたりするのか」
「とにかくいまはあらさがしで必死なんですよ。ちょっとでもそれらしい情報があれば飛びつきますよ」
「そんなものなのか」
「永田町はなんでもありですよ。たとえば、新聞とか週刊誌の記者や政治評論家を使って情報を集める。インターネットを使ったサービスから情報を集める。あるいは政治家や秘書からのリークや親しい警察関係者や官僚からのリーク。そして相手陣営にスパイを送り込む。そういう世界です」
 戸川凛子は、永田町のことを魑魅魍魎が跋扈する世界といった。それはあながち誇張ではないのかも知れない。
「とにかく、佐分利さんはそういう世界に足を踏み入れたということです」
「それは考えすぎだ」
「考えすぎならいいんですけどね……それで問題は、秋本が佐分利さんの存在に気がついたということですよ。どういうことかわかりますか」
「いや、わからないな」
「秋本なら間違いなく佐分利さんに接触してくるということですよ。もしかしたらすでに接触してきたんじゃありませんか」
「それはない」
 園部は疑り深い眼でみた。本当のことなので私は動揺することはなかった。
「ではこれから接触してきますよ」
「私には関係ない」
「まあ、いいでしょう」
「話はもう終わりにしよう。それで今日やってきたあんたの本当の目的はなんだ」
「これからもギブアンドテイク。持ちつ持たれつ。その提案です」
「私にどんなメリットがあるんだ」
「佐分利さんは戸川代議士とコネクションがあるでしょう。それを利用しない手はない。つまり、秋本晃は戸川代議士の身辺を嗅ぎ回っている。逆にいえば戸川代議士は秋本の情報をほしいはず。その情報を私が佐分利さんに教えてあげるんです。有益な情報をね。そうすると、自動的に戸川代議士に流れる。そうなると佐分利さんの株が上がるというわけです」
「あんたのメリットは」
「あくまでも私のメインは総裁選です。ですが、その中心人物の脇を固める人物の動向も気になります。そのひとりが戸川凛子代議士です。もしかしたら、脇役の動向が総裁選を左右する事態になるかも知れない。ですから、彼女の情報が知りたい。そういうことです」
「もしかりに、彼女のスキャンダルが本当にあって、それをあんたがつかんだとしたら、それを記事にするつもりはあるのかね」
「そうですな……まあ、ケースバイケースということにしときます。ただし、佐分利さんと敵対するようなことはありませんよ。今後も良好な関係でいたいですからね」
 とてもそうにはみえない。
「私はね、佐分利さん、あなたは私にとってラッキーボーイなんですよ」
「私が? まさか」
「ちょっとトウが立っていますけどね。いや、失礼……私は、佐分利さんが戸川代議士から非常に重要な依頼を受けたとみているんです。ということは、あなたは戸川代議士に信頼されていて、野島陣営に相当食い込んでいると考えています。違いますか」
「バカな。買いかぶりだよ」
 園部は私をみて満足した笑いを浮かべた。私はその笑いをみて逆に冷静になった。
「まあ、あんたの提案は考えておくよ」
「せいぜい前向きにお願いしますよ。いやあ今日はきてよかったですよ。やはり佐分利さんに眼をつけて正解でした」
 園部直樹はそういうと、抜け目のない表情をみせた。私はそれを無視して腰を浮かせた。話はもう終わりだという意思表示だった。だが、園部は意味ありげな笑いを浮かべ、口を開いた。
「友好関係にある佐分利さんだから話をするんですけどね……」
 声につられて私はまた腰を下ろしてしまった。
「なにが?」
「不思議なんですよ」
「だからなんだ」
「いやね、秋本の動きがですよ。派手すぎるんですな。これでは相手にバレバレです。これはどういうことなんでしょうかね」
「私に聞いているのか」
「ええ」
「そんなこと知るわけがないだろう」
 園部がまた意味ありげな笑いを浮かべた。しかし、園部がいったことは引っかかる。いままでの話を聞くと、秋本晃という男はド素人とは思えない。そんな男の行動としては、いかにも間抜けだ。これはどう考えればいいのか……。
「それともうひとつあります。秋本が戸川代議士と会っていたという噂があるんです」
「なに?」
「たんなる噂かも知れません」
「会っていたというのはいつのことだ」
「それがはっきりしませんが、五月の中旬らしいです」
 戸川凛子から秋本の話を聞いたのは三日前だ。そのとき、戸川凛子は秋本と会ったことがないといった。それは嘘だったのか。
「その噂は広まっているのか」
「いや、広まってはいないですね。それを話してくれたのは親しい記者ひとりです。ほかの記者に聞いてもだれも知りませんでした。ですから、この話は信憑性にいまひとつ欠けます」
 話半分にしておいたほうがよさそうだ。しかし、その噂が本当であるならば、どういうことになる。まさか戸川凛子はスパイか?
「そろそろ失礼しますが、今日私がきて話したことは、どうかご内分にお願いします。私もあなたのことをほかで話はしません。もちろん今後も佐分利さんの仕事の邪魔はしません。ですから私と手を組みましょうよ。もちろん、悪いようにはしません。これでも仁義は重んじる男です」
 いいたいことをすべていったからなのか、園部は晴れ晴れとした顔で勢いよく立ち上がり、気持ちの悪い笑い顔を残し、事務所を出て行った。
 やれやれ。私はソファーに座ったまま思わず呟いた。なんだか消化不良を起こしたような不快感だけが残っていた。
 しばらくして奈緒子と伊藤綾子が帰ってきた。私は近くのコーヒーショップまで出向き、コーヒーをテイクアウトして事務所に戻り、それを手に新聞を広げた。
 そろそろ帰宅時間だ。だがしばらくは事務所にいるつもりだ。電話がくるほうに賭けていた。小田愛子からの電話だ。携帯はすぐに手に取れるように眼の前にある。突然携帯が鳴った。読みはあたった。だが小田愛子ではなかった。意外な人物からの電話だった。阿比留伸介からだった。
「三十分ほど前ですが、変な電話がありました」
 阿比留伸介は唐突に切り出した。
「変な電話?」
「中年の男の声で、片桐涼平君の居所を知らないか、という内容でした。私があなたはどなたですか、と尋ねると、もう一度居所はと聞かれたので、知らないと答えると、そこで電話が切れました」
「ふーん、興味のある電話ですね。かけてきた男に見当はつきますか」
「知らない声でした」
「かけてきた電話番号はどうです」
「公衆電話からでした」
「あなたの携帯にかかってきたんですか」
「いや、会社にかかってきました。そのあと気になるので涼平君に電話をしたんですが、つながりません。佐分利さん、涼平君になにかあったんでしょうか」
「連絡が取れないというのは事実です。アパートにもいません」
「どういうことです」
「私もさがしています。でも心配はいらないと思いますよ」
「本当ですか」
「できればお会いしたいのですが、どうでしょう」
「そうですね……これから会合があるので今日は無理だから、明日ではどうです」
「結構です」
「少し早いが九時でどうです」
「わかりました」
 私が承諾して電話は終わった。
 三分後、また携帯が鳴った。今度は待ち人からの電話だった。小田愛子からだった。
「いま涼平さんのアパートの前です。涼平さんはいません」
 小田愛子の声は沈んでいた。私は彼女が約束を守ってくれたことの礼をいってから、これから会えないだろうかといった。彼女は大事なことを話していない。そう思っていた。彼女は返事を渋っていたが、もう一度頼むと、渋々承諾した。場所は渋谷で時間は四十分後になった。
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