第21話

文字数 2,444文字

       21

 阿比留工業社屋を出てから渋谷に向かった。
 スワン探偵事務所は今日も大半が出払っていた。いずれにしても商売繁盛で結構なことだ。
 ガラス張りのパーティションで区切られた所長室に入って行くと、所長はデスクの椅子に座って新聞を読んでいた。
「めずらしいじゃないか。自分からくるなんて」
 たしかにそうだ。スワンからまわされてくる仕事の確認以外でくることなど、めったになかった。
「今日は朝から八重洲に行った。その帰りにこちらにきた」
「ほう」
 所長が新聞を畳み、老眼鏡を外した。
「たまにはご機嫌うかがいでくることもあるさ、といいたいところだが、頼みがある」
「金ならないぞ」
 お決まりのセリフだ。私は無視して会議椅子に座った。所長もデスクから私の前の椅子に移ってきた。
「手が空いたからきたわけではなさそうだな」
「残念だが違う。実はいまの案件がらみで頼みがある」
「もしかすると、この前土屋記者に尋ねた一件がらみか」
「まあそうだ。実はきのうだが、園部直樹というフリーライターが事務所にきた」
「ふーん、それで」
「その園部直樹という人物の評判を聞きたい。ついでに、この前所長から話に出たフリーライターの秋本晃のことをもう少し詳しく聞きたい」
 小田愛子がいう週刊誌の男と、阿比留伸介に電話をした男が、秋本晃ではないのか。その考えが頭から離れない。根拠はない。ただの思いつきだ。ただ秋本晃をもっと知っておく必要があるような気がした。
「秋本が接触してきたか?」
「いや接触はないが情報として知りたい」
 所長がポケットから飴をひとつ取り出し、口に放り込んだ。どうだといってポケットからもうひとつ飴を取り出して私に差し出したが、断った。
「フリーライターの……なんていったっけ?」
「園部直樹」
「その園部直樹だが、詳細を聞かせてくれ」
「先日、いまの案件がらみで依頼主の戸川凛子と会った。会ったのは戸川凛子が運転する車のなかだ。その戸川凛子をつけていたのが、所長が話してくれた例の秋本晃だ。その秋本をつけていたのが園部直樹だ」
「うん? ちょっと待ってくれ。秋本と園部はやはり車か」
「タクシーだ」
「わかった。それで」
「そこで園部は私の存在に気がついた。そして私を調べて事務所にたどり着いた。園部は、お互いに情報の交換をしようという提案を私に持ってきた。詳細とまではいえないが、以上だ。申し訳ないがいまはそれしかいえない」
「わかった。話せる部分だけでいい。それで、園部直樹と秋本晃の関係はどうなんだ」
「競争相手かな。水と油らしい」
「サブやんのところにきた園部の印象についてはどうなんだ」
「見た目はぼやっとした男だが、なかなかのやり手という印象だ」
「秋本の目的は、土屋記者がいうように戸川代議士の醜聞さがしなんだな」
「そうだと思う」
「園部は秋本を追っていたんだな」
「そうだ。もともと園部は保守党の次期総裁選を追っていた。その過程で秋本の動きに気づき、秋本を追うようになったんだ。これも園部の言葉を信じると、だが」
「それで、園部が提案してきた情報の交換というのは、なんとなんの情報だ。おっと、これはいえないか」
「秋本の情報を教えるかわりに、戸川代議士の情報をほしいという提案だ」
「そういうことか。わかった。二三日くれ。俺なりに調べてみる」
「急がないから手が空いたときに頼む」
「わかっているって。野暮なことはいうな」
「すまん。恩に着るよ。それから、ついでにといっては悪いが、総裁選と保守党代議士の草野篤彦のこともわかったら頼む」
「草野篤彦……どこかで聞いたことがある名前だな」
「時の人だよ。グラビアアイドルと噂になったあの先生だ」
「ああ、思い出した。居酒屋を手広く展開している実業家で最近政界入りした男だな」
「そうだ。秋本を手先で使っているのが、この草野らしい」
「わかった。なんとか調べてみるよ。わかったらサブやんの携帯に連絡する」
「ありがとう。よろしく頼む」
 自分のデスクに戻る所長に軽く片手を上げて所長室を出た。事務所内は、さきほどよりは調査員が多少増えていた。見知った顔がチラホラいる。目礼を交わしてスワン事務所を出た。

 虎ノ門に着いた。小田英明に電話するのは、妹の愛子の忠告に従って午後三時と決めていた。まだ時間はある。昼飯にするつもりで蕎麦屋に入った。
 もり蕎麦を食べたあと蕎麦湯を飲んだ。そのとき、聞いたことがある名前が突然聞こえた。蕎麦猪口を持っている手が口の前で止まった。たしかに小田英明と聞こえた。店内にあるテレビからだ。ニュースをやっていた。耳をこらした。
 殺された、と聞こえた。心臓が早鐘を打った。耳に神経を集中した。だがすぐに別のニュースに変わった。店のおばさんに断ってリモコンで別のチャンネルに切り替え、ニュースをさがした。ちょうど小田英明のニュースをやっているチャンネルにあたった。

《本日午前六時ごろ、品川区北品川の北丸公園で、小田英明さん、二十八歳の刺殺遺体を、犬の散歩をしていた主婦がみつけ警察に通報した。警察は怨恨と物取りの線で現在捜査中です》

 小田英明が死んだ。同姓同名の別人でなければ、これから電話をしようとしていた小田英明が死んだ。ニュースによれば他殺だ。片桐涼平の名前がすぐに浮かんだ。涼平が犯人だろうか。胃がキュッと痛んだ。詳細を知りたいが、ニュースはもう別に移っていた。無意識にリモコンでチャンネルを変えたが、ニュースはもうやっていない。小田愛子に電話をしてみようか。そう思った。すぐに思い直した。いまはそれどころではないはずだ。
 勘定を払って蕎麦屋を出た。天気が急変していた。いまにも雨が降りそうだ。風も強くなっていた。週末は台風が日本列島を縦断すると気象予報士がいっていたが、どうやら台風が近づいているのだろう。雨が降り出さないうちに事務所に向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み