第14話

文字数 4,663文字

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 アラームを止めてからまた眠ってしまった。次に起きたとき、時計をみたら、いつもの起床時間よりも一時間がすぎていた。めったにないことだった。写真でみたとおりの南雲直人が現れて、とうとうみつかってしまいましたね、と彼が笑い、やっとみつけたよ、と私が笑った夢をみた。寝坊はその夢のせいではない。なに、ちょっとした疲れだ。顔を洗っているときに、鏡に映った自分の顔をみて、そう思った。そのときは考えもしなかったが、着替えて新聞を郵便受けに取りに行ったとき、今日は半休にしよう、と決めた。
 トーストと牛乳で簡単に朝食をすませたあと、コーヒーを淹れ、マグカップに注いでリビングに移った。いつものようにテレビをつけ、音を聞きながら新聞を広げた。いつもは家でざっと拾い読みをして、事務所で丹念に読み返すのだが、今日は隅から隅まで丹念に読んだ。残念だが、あまり愉快な話題はなかった。
 テレビのワイドショーにも飽きた。テレビを消し、読みかけの小説を手に取った。一気には読まない。楽しみは取っておく。
 私の流儀に従って小説を閉じ、今度は猫の額ほどの庭に降り、前から気になっていた雑草を抜き、花に水をやった。梅雨だというのに今日も三十度を超えそうだ。
 庭の手入れはそこそこに、家に入って洗面所で顔と手を洗った。その足でキッチンに行き、冷蔵庫に入れてあったペットボトルの水を飲んだ。冷蔵庫の扉を閉めようとして、なかの缶ビールに眼がいった。一本ぐらいいいかなと思ったが、さすがにそれはやめた。
 もう一度テレビをつけた。料理番組をやっていた。なかなか興味のあるテーマだった。急いでレシピをメモってテレビを消した。そろそろ出かけてもいい時間になっていた。孤独死を心配する奈緒子からの電話がこないうちに、身支度をして家を出た。直人のバイトさきだったイタリアレストランに行くと決めていた。

 話を聞くのに立ち話だけというのもどうかと思い、あまり食欲がなかったが、メニューの一番上にあった〈インゲンとポテトのバジルソース〉を注文した。はじめて食べるスパゲッティだった。やってきたスパゲッティは、平べったい麺で緑色のクリームがかかっていた。期待していた分、落胆が大きかった。なんとか食べきったあとに、店長と話をした。残念だが勘定に見合う情報はなにもなかった。ただ、あんな辞めかたにしては、直人の評判は悪くなかった。
 御茶ノ水駅近くのイタリアンレストランを出たときに携帯が鳴った。かけてきたのは原田洋子だった。私に来客だという。名前を聞くと、手塚健一だという。私はすぐに帰るといって携帯を切り、事務所に向かった。
 私の姿を認めると、手塚健一はソファーから立ち上がった。
「お邪魔しています」
 彼は会釈をしたあと白い歯をみせた。日焼けした顔と腕がポロシャツの白を際立たせていた。
「いらっしゃい」
 そういうと私は彼に座るようにすすめ、自分も前のソファーに座った。テーブルの上には冷たいお茶が入ったコップが置かれていた。
「待たせてしまったようだね」
「アポなしできた僕が悪いんです」
 そういうと手塚健一はまた白い歯をみせた。
「それで話す気になったかい」
 え? というような顔をした。
「きのう会ったときになんだかまだ話があるような感じだったからね」
 複雑な表情をみせた。油断がならないジジイだな、という表情が半分で、意外とやるジジイだな、という表情が半分だった。
「佐分利さんと会ったあとに有紀に電話をしました。佐分利さんは信用してもいい、と有紀はいっていました。すみません。生意気いって」
「さすがに彼女は見る目があるね」
 私の冗談に最初は気がつかなかった手塚健一だったが、わかったあとは笑い顔になった。
「冗談はさておき、それで話す気になったんだね。君は正直だ。それになにより用心深い。すすめないが君は探偵に向いているよ」
「はあ、どうも」
 手塚健一が苦笑いを浮かべた。
「それで直人君のことだね」
 私がそう聞くと、手塚健一がうなずいた。ちょうどそのとき原田洋子がお茶が入ったコップを持ってきた。彼女がコップをテーブルの上に置いて立ち去ったあとに、手塚健一は口を開いた。
「ただし、これからお話しする内容は、どこまで関係があるかわかりません。そのつもりで聞いてください」
「わかった」
 手塚健一がお茶をガブリと飲んだ。私もつられてひとくち飲んだ。
「五月十五日の昼すぎでした。東京駅八重洲口のコーヒーショップで南雲をみかけたんです。連れがいました。あとで南雲に聞いたら、連れは阿比留工業の専務だと教えてくれました。南雲が阿比留工業に就職が内定していることはご存じですか」
「知っているよ。立花有紀さんが教えてくれた」
「では叔父さんがいた会社だということは」
「それも聞いた」
「そうですか。それで、その日なんですが、僕は〈八重洲ブックセンター〉に演劇関係の本を買いに行ったんです。その帰りにコーヒーショップに寄ったんです。ちょっとひと休みしたかっただけで、たまたまなんです。そうしたら、偶然南雲と連れがいたんです。連れは途中で帰りました。それをみて僕は南雲の席に移動したんです。南雲は僕が店に入ってきたのを知らなくて、声をかけたら吃驚していました。そこでしばらく話をしたんですけど、たまたま就職の話になったんです。南雲は阿比留工業から内定をもらっていると話してくれました。こっちはまだ面接も受けていない時期だったので、吃驚でしたが、叔父さんのことを聞いて納得しました。そのあと、南雲がちょっと気になることを話したんです。南雲が暗い顔で、もしかしたら内定を辞退するかも知れないといったんです。会社に迷惑をかけることになるかも知れないから、といいました。理由を聞きました。そんな気がするだけだ、といってすぐに話題を変えました。なんだか怯えているような感じでした」
「怯えている?」
「強いていえば、トラブルの予感に怯えている、といった感じでした」
「トラブルの予感に怯えている……」
「僕がそう感じただけです。間違っているかも知れません」
「君は演劇研究会の部長だったね」
「そうです」
「だったら、感性は鋭いかも知れない」
 私はお茶をガブリと飲んだ。手塚健一もつられたのかひとくち飲んだ。
「確認するよ。その日にちだが、間違いない?」
「五月十五日です。僕は買った本の奥付に日付を書くようにしているんです。きのう確認したので間違いないです」
「連れはひとりだけだった?」
「そうです」
「ふたりが話していた時間はどのくらいだった?」
「僕が入ったときはすでにふたりはいて、そのあと三十分ぐらいして連れは帰りました」
「話し声は聞こえた?」
「僕が座った席は間近じゃなかったので聞こえませんでした。それに、ふたりは顔を近づけてヒソヒソと話をしているような雰囲気でした」
「すると、笑い顔で和気あいあいという感じではなかったんだね」
「ずっとみていたわけではないので詳しくはわかりませんが、僕がみたときは笑い顔はなかったですね。だからといって険悪な感じでもなかったですね。どちらかというと、ふたりともむずかしい顔で深刻な話をしている、といった雰囲気でした。あくまでも僕の感じですけど」
「いや、君はなかなか鋭いよ。やはりすすめないが探偵に向いているね。もちろん冗談だよ」
「はあ」
 手塚健一が苦笑いを浮かべた。
「話というのはそれだけなんですが、役に立ちますか」
「もちろん。非常に参考になったよ。どうもありがとう」
 いくぶん肩の荷を下ろした顔で手塚健一が帰って行った。私は残ったお茶を飲み干し、デスクに戻った。やらなければならないことを考える必要があった。私は手帳を広げ、阿比留工業の専務と記入した。名前はわからない。ただこれは調べればわかる。会う手段はわからない。こいつは厄介だ。やみくもに電話をしてもつないではくれないだろう。それと、運よく会えることになった場合でも、釘を刺された手前、戸川凛子に話を通す必要がある。私は十五分考えた結果、戸川凛子に電話をすることにした。〈見る前に飛べ〉私のモットーだ。
 途中で切ろうと思ったぐらい待たされてから戸川凛子が出た。
「佐分利ですが、ちょっとよろしいでしょうか」
 出たとこ勝負だと思っていた。ただ、シナリオはいくつか考えていた。
「なんですの」
 戸川凛子の声は落ち着いていた。
「ゼネコンの阿比留工業はご存じでしょうか」
「ええ、知っています……」
 訝る様子が伝わってきた。
「事情があって阿比留工業の専務と会う段取りを考えています。その手段はまだ模索中ですが、運よく会えることになったときのために、あなたには前もってお伝えしておいたほうがいいと判断して電話をしました」
 切られたと思った。それほど沈黙が続いた。やっと出た戸川凛子の声は意外に冷静だった。
「それはいまお願いしている調査の一環でしょうか」
「そうです」
「事情をお話しいただけると嬉しいわ」
 最初に考えていたとおりのシナリオになった。私は、片桐道子の夫と阿比留工業とのつながりからはじまって、直人と専務がコーヒーショップで密談していたことまでを、あえて密談という言葉を強調して話した。戸川凛子は口を挟まずに聞いてくれた。私は最後に、「というわけですのでご了承ください」と念を押した。
「……私が駄目だといったらどうします」
 声はとげとげしいものではなかった。むしろおもしろがっているような感じを受けた。
「それは考えていませんでした」
「なるほど。選択の余地はないということなのね」
「申し訳ありません」
「それはどうしても必要なことなんですの」
「そうです」
「……わかりました。おまかせします。それから、阿比留工業の専務は、阿比留伸介氏です」
「ご存じなんですか」
「パーティーの会場で一度お会いしました。実は、野島幹事長の後援会会長は阿比留工業の社長の阿比留健太郎氏なんです。阿比留伸介氏はそのご子息です」
 世のなかは狭い。そう実感した。ツキがあると思うときがあるが、いまはまさにそうだった。
「それから、初対面で会うのはむずかしいでしょう。私が間に入るので少し時間をください」
「承知しました」
「そうそう、この前お話をしたフリーライターの秋本晃は接触してきたかしら」
「いいえ、まだです」
「そう。もしかしたら接触はないかも知れないわ」
「どういうことです」
「今日、そうまさに、さきほどですが、野島幹事長と藤井官房長官が話をつけました。お互いにあらさがしはやめようと。つまり正々堂々と戦おうということです」
「信用できるんですか」
「永田町は魑魅魍魎が跋扈する世界ですから、正直なところわかりませんわ」
「いずれにしても、秋本晃が接触してきたら、あなたからいわれたことはちゃんと伝えます」
「お願いね」
 電話を切って私は大きく息を吐き出した。
 三十分後、携帯が鳴った。じりじりして待っていた私は、慌てて通話ボタンを押した。
「お会いになるそうです。ただし今日の午後四時です。それも時間は三十分です。それでもよろしいかしら」
「結構です」
「会社においでいただきたい、とのことです」
「わかりました。ありがとうございます」
 私は携帯を持ったまま頭を下げていた。
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