第12話

文字数 4,382文字

       12

 駅構内にあるコーヒーショップを出たあとの別れぎわ、立花有紀は、なにかわかったら必ず知らせてほしいといった。私は依頼人の許可があれば、と条件つきで承諾をした。彼女は常磐線に乗るため右に行き、私は山手線に乗るため左に行った。
 東京駅で昼飯をすませたあと総武線快速に乗った。乗ってすぐに眼を閉じた。千葉駅までの所要時間四十四分のうち、半分は眠っていた。
 千葉駅に着いてすぐにバス乗り場に直行した。そこで時刻表を確認した。バスの所要時間は二十分と聞いていた。まだ多少余裕があった。すぐ近くの〈そごう〉まで行き、書店で時間をつぶした。
 少し早いが書店を出てバス乗り場に向かった。もう一度時間を確認して千葉中央バスに乗った。
 大森台中央病院前で降りた。途中道路工事があって混雑していたため三十分かかった。時計をみると約束の時間の十分前だった。
 四階建ての病院は、かなりの歴史を感じさせた。玄関を入ると、混雑する診療時間をすぎているためか、院内は閑散としていた。それでも待合室には、会計を待つ人なのか、検査を待つ人なのか、わからないが、十人ほどが長椅子に座っていた。
 外科の受付窓口はすぐにわかった。窓口には看護師が座っていた。私は移植コーディネーターの名前を出し、約束があることを伝えた。移植コーディネーターからはそこで呼び出しをしてほしいといわれていた。窓口の看護師はうなずくと、背後にある長椅子を指差した。
 五分後に、長椅子に座っている私の眼の前に立った看護師は、篠田美咲と名乗った。私は慌てて立ち上がり、名前を名乗った。彼女はA4サイズのバインダーを手に持ち、口元に笑みを浮かべていた。私は会計窓口の前の通路を二十メートルほど進んださきの、売店手前にある会議室とおぼしき部屋に通された。
 小さな会議室だった。部屋の中央には、ふたつ並んだ折りたたみ長テーブルと、パイプ椅子が六脚あった。私は名刺を差し出し、突然の電話を詫びた。篠田美咲は名刺を受け取ると、名刺を持って真ん中のパイプ椅子に座った。私は向かい側に座った。
 篠田美咲は三十台前半。大柄でうりざね顔だった。彼女は、レシピエントコーディネーターと名乗った。その意味を聞くと、彼女は答えてくれた。それによると、移植コーディネーターには、役割によって〈レシピエントコーディネーター〉と〈ドナーコーディネーター〉にわかれており、レシピエントコーディネーターは、臓器の移植を待つレシピエントやその家族のケアをおこなう院内移植コーディネーターのことで、移植手術を行なう病院に所属する移植医や看護師がその役割を担っているという。いっぽうドナーコーディネーターは、〈日本臓器移植ネットワーク〉に所属するコーディネーターとそこから委託された都道府県コーディネーターからなり、ドナーからの臓器提供の調整や臓器移植に関する啓蒙活動をおこなっているという。
「疑問はもうよろしいかしら」
 篠田美咲は優しくそういうと微笑んだ。私は手術後に麻酔からさめたあと優しい言葉に生きていることを実感する患者のように、満面の笑みを返した。
「狩野理事長さんからお話はうかがっています。南雲直人さんのことでお聞きになりたいとのことですが」
「失礼ですが、そのとき狩野理事長さんからなにか説明はありましたか」
「いいえ、詳しい説明はありませんでした。あなたがいらっしゃるので、南雲直人さんのことをお話しくださいとのことでした」
「そうですか。依頼人と調査内容は申し上げられませんが、ある調査の過程で南雲直人さんのことを知る必要が出てきました。どうかご協力ください」
「その調査って、もしかしたら事件性のあるものなんでしょうか」
 篠田美咲はちょっと眉をひそめた。
「いえいえ、決してそんなことはありません。ご心配なく」
「そうですか。わかりました。しかし、お話しできることとできないことがあります。それでよろしかったら協力はいたします」
「ありがとうございます」
 私はバッグから手帳を出して空白ページを開いた。
「まず事実確認ですが、狩野理事長さんから紹介のあった当院を知った片桐道子さんと南雲直人さんが、三月十八日に来院して腎臓移植についての面談をされた。これで間違いないですね」
「はい。間違いないです」
 篠田美咲はバインダーに綴じられている書類をみながら答えた。
「面談では、腎臓移植についての説明やレシピエントとドナーの意思の確認をおこなったと聞いておりますが、それでよろしいですね」
「間違いないです。こちらからは移植医師と私が参加しました。腎臓移植の説明には、移植をするメリットとデメリットも合わせて説明をしました。それ以外では、親族の確認があります。片桐さんの場合は、叔母甥の関係ですね。これは免許証などの本人確認書類とレシピエントとドナーの関係性がわかる内容の戸籍謄本などによって確認しました。それから現在の症状と既往歴の確認があります。これは主治医からの紹介状と、本人からの聞き取りで確認しました」
「南雲直人さんに意思の確認をおこなったとき、彼の反応はどうでした」
「特にドナーには念入りに尋ねます。つまり、本当に自分の意思でドナーとなることを決断したのかを尋ねます。ドナーは善意に基づく自発的な提供が大前提ですので。それでいくと、南雲直人さんはまったく問題がありませんでした。非常に積極的でした。いますぐにでも手術をおこないたいという意気込みでした」
 篠田美咲は書類をみることなく答えた。強く印象に残っていたのかも知れない。
「そのときの彼の印象はどうでしたか。あなたが思ったとおりのことで結構です」
「印象ですか……そうですね。いま思い出すと、真面目な青年という印象があります。話している内容も理路整然としているし、それに腎臓移植のことをよく勉強していることがわかりました」
「充分に考えての行動だと思いましたか」
「ええ、思いました」
 篠田美咲が即答した。
「そのあと、四月一日に組織適合性検査を受けたんですね」
「そうです。面談のあとに、おふたりの承諾を得たうえで検査の予約をしました」
 篠田美咲は書類をみながら答えた。
「その検査というのは、拒絶反応をできるだけ少なくするためにレシピエントとドナーの相性をみるためのものと聞いていますが」
「そのとおりです。詳しい説明が必要ですか」
「できれば」
「移植された臓器は他人のものですから異物として体が反応し、攻撃します。これを拒絶反応といいます。この拒絶反応の度合いをチェックします。まず赤血球のABO型をみます。レシピエントとドナーの血液型が違っていても移植は可能ですが、前処置が必要になるので、その検査です。次に白血球のHLAの型を調べます。拒絶反応はHLAが合っているほうが少ないとされます。そして移植された臓器も順調に機能します。ただし、HLAの抗原の適合は必須の条件ではないです。免疫抑制剤が進歩した現在では、HLA抗原が適合していなくても移植は可能です。ちなみに、HLAの合う人は、兄弟姉妹間では四分の一。他人では約一万人にひとりです。最後に、リンパ球クロスマッチ検査です。ドナーのTリンパ球に対する抗体がレシピエントの血液中に存在しているかどうか、みます。陽性の場合は激しい拒絶反応が起こります。陽性となる原因としては、妊娠出産や輸血などがあげられます。以前は移植はできないとされていましたが、免疫抑制剤が進歩した現在では、前処置により移植が可能な場合もあります。このように組織適合性検査はレシピエントとドナーの適合性をみる検査のことをいいます」
「はあ、なるほど……」
「専門的すぎたかしら」
「いや、よくわかりました。ようするにこの検査は重要であるということですね」
「必要なんです。最近の免疫抑制剤の発達で拒絶反応は抑えることができるようになりましたが、適合しているかどうかをあらかじめ調べておくことが移植後に問題を起こさないためには必要となるのです」
「それで検査結果を伝えたのが四月十五日ですね」
「そうなりますね。片桐さんたちは問題なしでした」
「そのときの南雲直人さんの反応はいかがでした」
「喜んでいましたよ。移植医師から検査結果を伝えたあとに、おふたりには意思の確認を再度おこないましたが、変更はなかったので、次のステップである検査入院の予約をおこないました。そのときの南雲直人さんは、すでに次のステップに眼を向けていましたね」
「検査入院の予定は六月八日ですね」
 篠田美咲は書類に眼を落とした。
「そうです。正確には片桐道子さんがその日に入院します。そこで八日間かけて全身の検査をおこないます。問題がなければ次に南雲直人さんが入院します。そして六日間かけてやはり全身の検査をおこないます。検査内容ですが、レシピエントは移植手術に耐えられる体力があるか、ドナーは腎臓機能に問題がないか、特に重要なのは双方に悪性腫瘍や感染症などの病気がないか、などです。そこで双方に問題がなければいよいよ移植手術ということになります」
「しかし、六月の六日に片桐道子さんからキャンセルが入った。そうですね」
「延期したいので、いったんキャンセルしてほしいということでした」
 篠田美咲は小さなため息をついた。
「片桐道子さんはどんなことをいってきましたか」
「なんでも、ドナーの南雲直人さんがナーバスになっているので落ち着くまで待ってほしい、というような理由をおっしゃっていました」
「なぜ彼が、というような感じでしたか」
「そうですね。強固な意思を感じましたからね……意外でした。片桐道子さんはひたすら謝っておいででした。私は、なかにはそういうかたもいらっしゃるので気にしないでください、ということしかいえませんでした」
「キャンセルになって残念と思いましたか」
「それはやはりありました。いまは先行的腎移植といって透析前に移植をおこなうケースも増えてきていますが、まだ透析患者さんが移植をおこなうケースのほうが圧倒的に多いんです。その透析患者さんから移植後に喜びの声を聞くと、本当によかったなと思います。この仕事をやっててよかったなと思う瞬間でもあるんです。ですから、片桐さんにもその喜びを味わっていただきたかった。でもまだやらないと決まったわけではないので、私は待っています」
 篠田美咲の言葉は力強かった。常に前を向いている仕事なのだろうと思った。患者に頼られている限り、うしろを向いている暇などないのだろうとも思った。私は彼女に、長居したことの詫びと、協力してくれたことへの礼をいって立ち上がった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み