第31話

文字数 6,670文字

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 自宅近くのスーパーマーケットに寄り、豆腐とポテトサラダとコロッケを買った。卵をみたら安かったのでついでに買った。最近はビールとつまみだけで夕飯をすませてしまっていることがある。今日は残っているニラと卵の炒めものも添えれば、少しは夕飯らしくなるだろうと思った。
 冷蔵庫に買ってきたものを入れてから、携帯と新聞をバッグから出してリビングのテーブルの上に置いた。バッグは空いているソファーに置いた。いつもの定位置だ。
 冷や奴とポテトサラダ、そしてニラと卵の炒めもので夕飯はすませた。次に食器を洗い、風呂を沸かした。風呂を待つ間、テレビをつけ、ニュースをみた。眼を引くニュースはなかった。
 風呂を出たあと、冷蔵庫から缶ビールを出してリビングのソファーに座った。プルトップを開け、ひとくちぐいと飲む。喉がクウと鳴った。つまみはチーズにした。
 ふたくち目を飲もうとしたとき、かすかにベルの音が聞こえた。慌ててテーブルの上の携帯を手に取った。だが鳴っているのは携帯ではなかった。テレビかと思った。そうではなかった。空耳でもない。まだかすかに鳴っている。思いついてリビングを出た。廊下に置いてある固定電話のベルが鳴っていた。
 電話のディスプレイには公衆電話の表示が出ていた。公衆電話からかけてくる相手など思いあたらない。セールスは公衆電話を使わないだろう。それだけはたしかだ。躊躇していてもしようがない。受話器を取った。
「もしもし」
 男の声だった。聞き覚えのない声だった。次に名前をいったようだが聞き取れなかった。
「どなたですか」
 そう聞いたあと耳をこらした。
「秋本だが」
「え?」
「秋本晃だが」
 声が出なかった。心臓が大きく脈打った。だれかが冗談をいっているんだと思った。
「驚いているようですな。そんなに意外かね」
 秋本の声は落ち着き払っていた。
「本当に秋本さんか?」
 声がうわずった。
「本人だよ。草野篤彦代議士と仲がいいといえばわかるだろう」
「どうやら本人のようだ」
 それを聞いて秋本はドスの利いた声で笑った。
「いま時間は大丈夫かい」
「大丈夫だよ。ちょうどビールを飲んでいたところだ」
 声は普通に戻っていた。
「それはおくつろぎのところ申し訳ないね」
「かまわないよ。いつかはあんたと話をしたいと思っていた」
「それは光栄だ」
「ところで、電話をかけてきたということは、やはり私のことは知っていたんだな」
「ああ、あんたは戸川代議士とドライブをしただろう。うしろでみていたよ。そこであんたの素性が気になった。まさか戸川代議士に聞くわけにはいかないよな。素性がわかるまでずっと気になっていたよ」
「なんでわかった」
「聞きたいかい」
「ああ、聞きたいね」
「あんたと仲がいい園部の旦那に聞いた」
「やつか。すると、私の電話番号もやつから聞いたのか」
「素性も電話番号もすぐに教えてくれたよ」
「口の軽いやつだ」
「あんたの娘さんは弁護士なんだってね」
「それもやつからか」
「そんなに怒らないでよ。園部の旦那はあれでも根は正直者なんだからね」
「そうかね。しかしやつからどうやって聞き出したんだ」
「あまり話したくないな」
「まさか暴力じゃないだろうな」
「悪い冗談だ……いやね、草野代議士がおもしろおかしく話してくれてね。ある副大臣の表に出せない色恋沙汰の話をね。そのネタをちらつかせたらすぐに口を割ったよ」
「呆れたやつだな」
「まあ、いわばジャーナリストの性というやつだね」
「それはそうと、公衆電話というのはどういうわけなんだ」
「当たり障りのない用事以外は公衆電話を使うようにしているんでね。携帯だと記録が残るだろう」
「すると私への電話は当たり障りのある用事なんだな」
「まあ、そういうことだな」
「用心深いんだな」
「習慣でね」
 かすかに車の音が聞こえる。
「どこからかけているんだ」
「都内とだけいっておくよ」
 耳をすましたが、かすかに聞こえてくる車の音以外は聞こえない。
「それで用事というのは?」
「そんなに慌てないでよ。少し俺に付き合ってくれよ。このあとの約束まで時間があるんでね」
「硬貨は充分にあるのかね」
「それは心配ない。充分に用意したよ」
「いいだろう。とことん付き合うよ」
「そいつは嬉しい。ところで、この前は失礼した」
「なんのことだ」
「あちこちと引っ張り回しただろう」
「ああ、あれか」
「ちょっとからかってやろうと思ってね」
「あんたも人が悪い。それでいつ気がついたんだね」
「代官山のマンションからわかっていたよ。だいたい園部の旦那がいたときから俺は知っていた」
「すると、私はひたすら間抜けな探偵を演じていたわけだ」
「その探偵だけどね、参考に教えてくれないかな」
「なにを?」
「あんたは戸川代議士からなにを頼まれたんだ」
「それは企業秘密だ。ただいえるのは、総裁選とは一切関係がないとだけはいっておくよ」
「本当なのか」
「私のいうことは信用できないかね」
「では信用しましょう。本当はね、もうそんなことはどうでもいいんだよ。ただ聞いてみただけだ」
「どういうことだ」
「いまはもう総裁選は興味がないということだよ」
「意味がわからないな」
「その意味を知りたいかね」
「知りたいね」
「俺が戸川代議士にべったりと張り付いていたことは知っているよね」
「知っているよ。草野代議士と一緒に戸川代議士のスキャンダルをさがしているんだろう」
「その情報源は園部の旦那からか。それとも戸川代議士からか」
「どっちでもいいだろう」
「では両方からということにしておくか」
「それで結構」
「もうちょっと友好的になってほしいね。でもまあいいか。それで、戸川代議士のスキャンダルさがしだが、実はそれは表向きでね」
「どういうことだ」
「俺はね、本当は当て馬なんだよ」
「当て馬?」
「そうだよ。思い切り派手に動いて、相手陣営を攪乱させるのが俺たちの役目なんだよ」
「そういう目的であんたは雇われたのか」
 そういえば、秋本の動きが派手すぎておかしい、と園部が話していたのを思い出した。どうやら園部は、早くから違和感を覚えていたようだ。
「表向きは俺を雇ったのは草野代議士となっているが、実際は藤井陣営の幹部の指示さ。わかっていると思うけど、草野代議士は陣営の幹部の操り人形でね。その操り人形の操り手、すなわち幹部の指示は、思い切り派手に動いてくれ、だったんだよ。そこまでいわれるとわかるだろう。バカでも。もっともわかっていない人もいたけどね」
「操り人形の先生か」
「ははは、そうだよ。あの先生、勘違いしてえらく張り切っちゃってね。手柄を立てれば役職も夢ではないと思ったんだね。まあ、そんなことはどうでもいいか」
「ということは、藤井陣営で動いている本命は別にいる……」
「あんた、勘がいいね」
「本命ってだれなんだ」
「さあね……」
「教えろよ」
「気分が乗ればあとで教えるかも知れないな」
「ずいぶん勿体ぶるじゃないか。では別の質問をしてもいいか」
「どうぞ」
「片桐涼平のアパートに行ったのはあんただろう」
「おや、なんで知っているんだ」
「やはりあんたか。あんたをみた人物がいた。その人物はあんたの名前を知らなかったが、私はなんとなくあんたではないかと思った」
「その人物はだれなんだ」
「それはいえない」
「もしかして佐分利さんも彼のアパートに行ったのか」
「行った」
「なんのために」
「ある人物をさがしていた。その情報を聞くために片桐涼平のアパートに行った」
「それは企業秘密の件かい」
「まあ、そうだ。あんたはどうなんだ。なんで涼平のアパートに行ったんだ」
「俺もある人物をさがしていた。片桐涼平なら行方を知っているんじゃないかと思って行った」
「いまでも片桐涼平をさがしているのか」
「いまはもうさがしてはいない」
「さがす必要がなくなったというわけか」
「まあそうだ」
「ある人物とは小田英明のことだろう」
「それも知っているのか。驚いたな」
「なぜ小田英明をさがしていたんだ」
「それはいえないな」
「それは小田英明が殺されたことと関係があるのか」
「さあな」
「小田英明を殺したのはあんたか」
「なんとまあ、ストレートできたね」
「違うのか」
「俺はやっていない。本当は俺がやったとは思っていないんだろう」
 たしかにそうだ。犯人ではないと思っている。ただの勘だが。
「では犯人の心あたりは」
「ないね」
「キャバクラに行ったのもあんただろう」
「おやおや、もう驚かないよ。たしかに俺だ。小田英明の行方がわからないので、英明の女だったら知っているのかと思って行った」
「女のことは英明から聞いていたのか」
「前にね」
「涼平はなんで知ったんだ」
「英明と飲んだときにやつが連れてきた。そのときに知った」
「阿比留伸介に電話をしたのもあんただろう」
「驚いたな。そこまで知っているんだ。佐分利さん、あんたは何者なんだ」
「ただの探偵だよ」
「ただの探偵? そうは思えないな……まあ、いいか。俺はあんたを気に入ったよ」
「そいつは嬉しいな。それで阿比留伸介はなんで知ったんだ」
「飲んだときに涼平から聞いた。すごい人物と知り合いなんだな、とおだてたら嬉しそうな顔をしたよ」
「そこまでして小田英明をみつけたかった理由はなんだ」
「それはいえないといっただろう」
「では質問を変えよう。小田英明が片桐涼平を恐喝していたんだが、それは知っているか」
「なんだそれは」
「知らないのか」
「知らないな」
 知らないというのはどうやら本当のようだ。
「質問を受けるばかりだが、こちらからも質問はいいかね」
 秋本の声はじれている声ではなかった。
「ああ、答えられる範囲ならね」
 私はそう答えた。
「あんたはさっき企業秘密だといったが、それは腎臓移植を推進する協会となにか関係があるのか」
 なぜかどきりとした。戸川代議士から依頼された調査を見透かされたような気がしたからだ。
「なぜそう思う」
「戸川代議士をつけていて、腎臓移植を推進する協会に出入りしているのを知った。それと関係があるのか」
「さあな」
「頼む。それだけは教えてくれ」
 秋本のなにかがこちらに伝わった。思わずそうだと答えていた。秋本は小さな声で、やはり、と呟いた。
「もしかしたら、佐分利さんと俺は同じところを向いているのかも知れないな」
「どういう意味だ」
「そのうちわかるよ」
 なにを意味しているのか考えた。わからなかった。秋本が私の名前を呼んでいた。
「悪い。ちょっと考えごとをしていた」
「ではそろそろ本題に入ろうか」
「なんだい本題というのは」
「とびきりおいしい情報さ」
「ほう、そうなのか」
「関森正人幹事長代理は知っているだろう」
「ああ、知っているよ。あんたもさっきいっていたけど、戸川代議士と楽しいドライブの途中で割り込んできた踏み台の先生だ」
「なんだい踏み台って?」
「いや、なんでもない。それで関森がどうしたって」
「彼の秘書で吉見というのがいる」
「それで?」
「彼はね、かなり借金があってね。お決まりのギャンブル好きというやつさ。そこを藤井陣営は眼をつけた。そこまでいうともうわかるよな」
「つまり、その吉見という秘書は藤井陣営のスパイなのか」
「そういうことだ。彼こそ本命というわけだよ」
「本当か?」
「嘘をついてどうするんだ。吉見は野島陣営の票読みや内部情報を藤井側に伝えている。そして、表向きは俺だが、裏では吉見が戸川代議士のスキャンダルをみつけようと動いているんだ。俺さえ気をつければと思うだろう。ようするに、疑心暗鬼になっているときは、みえる対象だけが大きくみえる。それしかみえないともいえる。そこが狙いだね」
「驚いたな……しかし、そんな重要な情報をなぜ私に教えたんだ」
「なぜだろうね。あんたを気に入ったからかな。それとも、この前さんざん引っ張り回したことへの罪滅ぼしかな。まあ、どうとでも取ってよ」
「ほかに理由があるんだろう」
「なぜそう思うんだ」
「うまくはいえないが、こうしてあんたと話ができて、私はあんたのイメージができた」
「ほう、ぜひ聞きたいね」
「あんたは、もともとは裏社会のレポートでは定評があったというじゃないか」
「よくご存じで」
「根っこには強烈なジャーナリスト魂が残っていると思う。根っこ以外は多少は腐っているかも知れないがね」
「ははは、おもしろいね、佐分利さんは」
「怒らないのか」
「不思議だね。あんたの人徳か」
「あんたは、なんていうか……そうだな。覚醒したみたいだな」
「まさか……」
 無言になった。切れてはいない。私は秋本の言葉を待った。
「実はね……」
 言葉が出た。慌てて右手に受話器を持ち替えた。さきほどから受話器を持つ左腕が痺れていた。
「こんなクソみたいな生活にほとほとうんざりしてね。ここらでおさらばしたいと思ったんだよ。だからだれかに話してすっきりしたかった。そういうことだよ」
 本音のような気がする。気になるのは秋本のこれからの行動だ。なにをしようとしているのか。
「このあと約束があると、あんたはいったよな」
「ああ、いった」
「どんな約束なんだ」
 嫌な胸騒ぎがした。
「いう必要はないね」
「だれかと会うのか」
「まあ、そんなところかな」
「だれと会うんだ。教えてくれよ。なんなら私も付き合うよ」
「ははは、本当にあんたはおもしろい人だな」
「教えろよ。だれと会うんだ」
「わかった。わかった。教えるよ。会うのはたいした人物ではない。相手は園部の旦那だよ」
「園部? 本当か」
「嘘じゃない。本当だ。ただし、なんで会うのかはいえない」
「園部とあんたは水と油じゃないのか」
「おもしろい比喩だ」
「仲よくなったのか」
「ああ、そういうこと。おっと、もう時間だ。ではそろそろ切るよ」
「ちょっと待ってくれ。あんたに戸川代議士からの伝言がある」
「俺に?」
「そうだ。戸川代議士はあんたに会ってもいいといっている」
「彼女が俺に?……なんで?」
「それは知らない。私は伝えるだけの役目だ。それでどうなんだ。会う気はあるかい」
「いまはあまりその気はないが、まあ、考えておくよ」
「わかった。連絡を待っているよ」
「そろそろ切るが、あんたと話ができてよかった」
「私もだ」
 無言になった。電話が切れたのかと思った。切れてはいなかった。やがて軽い口調の言葉が聞こえた。
「いいことを教えよう」
「なんだい」
「成田に〈えみ〉という名前の小料理屋がある。女将の名前は高木絵美。一度行ってみてくれ。いい店だよ」
「成田?」
「千葉の成田だよ。京成成田駅のすぐ近くだ。じゃあな」
「ちょっと待ってくれ。あんたが戸川代議士と五月の中旬ごろに会っていたと聞いたが……」
 唐突に電話が切れた。嫌な質問だったから切ったとは思えなかった。それまでに嫌な質問はあった。だが秋本は切らなかった。たんに時間がきたので切った。そう思えた。しかし長い電話だった。椅子を持ってきて座ることさえ思いつかなかった。足が棒のようになっていた。気がつくと背中が汗で濡れていた。
 リビングに戻ってソファーに座り、五分間考えた。五分後、携帯を手に取った。
 戸川凛子は電話に出なかった。かわりに伝言メッセージが流れた。折り返しをお願いするメッセージを吹き込んだ。
 ビールはぬるくなっていた。ひとくち飲む。苦みだけが口に残った。我慢して飲み続けた。
 三十分後に携帯が鳴った。戸川凛子からだった。
「お忙しいところすみません」
 まず謝った。慌ただしい雰囲気が伝わってきた。
「直人君のことかしら」
 声をひそめているのがわかった。
「いいえ」
「では別口のほう?」
「そうです」
「ごめんなさい。いまちょっと抜け出してきたところなの。すぐに戻らないといけないのよ。明日でもいいかしら」
「結構です」
「それでは明日の午前十時に、財務省の前の郵便ポスト横でいいかしら」
 前と同じように車で拾ってくれるようだ。
「結構です」
 会話を終えた。私は缶ビールを手に取った。一気に苦みを飲み干した。
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