第26話

文字数 2,302文字

       26

 午前九時十五分。事務所に着いたときには、じっとりと汗をかいていた。雨でも降るのだろうか。湿気がすごい。今日も三十度を超すという。梅雨明けはまだまだだというのに。
「今日はお早いですね」
 原田洋子が冷たいお茶が入ったコップを持ってきてそういった。
「ありがとう。暑くならないうちにと思ったんだけど、もう暑いね」
「本当ですね。いまがこうですと今年の夏はどうなるんでしょう」
「まったくだ。今日は?」
 私は法律事務所側に向かって顎をしゃくった。
「先生は来客中です」
「もう?」
「このところ忙しいんです」
「それはなにより」
「喜んでいいんでしょうか。セクハラ相談です。最近急激に増えています」
「おっと、迂闊なことはいえない。嫌な世のなかになってきたね」
 電話が鳴っている。もうひとりのスタッフである伊藤綾子は電話中のようだ。原田洋子が慌てて自分のデスクに戻った。
 バッグから携帯と新聞を取り出した。携帯はデスクの上に置いて新聞は開いた。
 小田英明の事件の続報は載っていない。進展がないのだろうか。そういえば所長からも連絡がない。小田愛子からも連絡がない。小田愛子に電話をする勇気はまだなかった。
 携帯が鳴った。願いが通じたのか、小田愛子からの電話だった。私の声が少し裏返った。
 聞きたいことが山ほどあった。だが大人の対応をした。お悔やみをいって、気を落とさないでと慰めた。
「ありがとうございます。あんな兄ですけど、いなくなってみると少し寂しいです」
 小田愛子は疲れた声を出した。
「わかるよ。大変だったね。少しは落ち着いた」
「まだ落ち着かないです。やることがいっぱいあって」
「警察からはいろいろと聞かれたかい」
「聞かれました。生活のことや交友関係のことです。でも私は兄のことはほとんど知らないから警察はがっかりしていたみたい。それから、涼平さんと佐分利さんのことは話してはいません」
「では、恐喝のことも?」
「ええ、そんなことはいえません」
「ありがとう。助かるよ」
「それでよかったんですよね」
「それでいいよ。君から話すことはないよ」
「それを聞いて安心しました」
「事件の進展はどうなのかな。刑事からなにか聞いていない」
「両親が状況を尋ねたので少しは話してくれたようですけど、あまり進展はないみたいです。なんでも兄の交友関係を重点的に調べているらしいです」
「少し時間がかかるかも知れないね。君も大変だけど気をしっかりと持ってね」
「はい。ありがとうございます。それで、涼平さんの居所ですけど、なにかわかりましたか」
 やはりそれが気になるようだ。
「まだわからないんだよ」
「そうですか……相変わらず電話もつながらないし……どこに行ったんだろう涼平さんは……」
「私も手を尽くしてさがしているからね。もう少し待ってよ」
「はい。よろしくお願いします」
「忙しいのにこちらこそありがとう」
「あ、まだ切らないでください。佐分利さんにお伝えしなければいけないことがあるんです」
「なんだい」
「前に佐分利さんが、涼平さんの知り合いでお金持ちがいないか、と聞いたでしょう」
「たしかに聞いた」
「私、思い出したんです。たぶんお金持ちを」
「だれ?」
 いちオクターブ高い声が出た。
「ゲーム会社の社長です」
「なに、ゲーム会社」
 さらに高い声が出た。相沢めぐみが話してくれた内容と一致する。手のひらが汗でぬれた。
「正確にいうと、知り合いはそこの社長ではなく、その息子さんらしいです」
「その会社の名前はわかる?」
 呼吸が苦しくなった。
「ドリームメイクソフトウェア社です」
「なに? もう一度」
 もう一度聞いて名前をメモった。
「その会社は有名なのかい」
「有名です。佐分利さんは〈アレースの伝説〉というゲームをご存じですか」
「聞いたような気がする」
「アールピージーのゲームです」
「なんなのそれ?」
「ロールプレイングゲームです。つまり、プレイヤー自身がゲーム内の登場人物となって進行するゲームのことです」
「なるほど」
 わかったようでわからない。だがわかったふりをした。
「結構有名なゲームです。そのゲームを開発した会社です」
「そうなのかい」
「いまはスマートフォンでも遊べるんです」
「そういうのは疎いからな……それで、息子の名前は知っているの?」
「たしか、畑中富雄と聞いた記憶があります」
「畑中富雄……涼平君とはどういう知り合いなんだろうか」
「詳しいことは知りませんけど、なんでも、むかしバイトさきで仲よくなったらしいです」
「ありがとう。これで一歩踏み出せるよ」
「お役に立てそうですか」
「大いにね」
「よかった」
 もう一度礼をいって電話を切った。電話を切っても興奮は続いた。興奮をしずめるのに時間が必要だった。興奮がしずまると、すぐに動いた。まず原田洋子を呼び、ドリームメイクソフトウェア社をインターネットで検索してもらった。知りたいのは社長の名前と会社の住所と電話番号だった。それはすぐにわかった。次にその会社に電話をした。社長に取り次いでもらうには社長の息子の名前を使った。
 息子さんの件でどうしても話がある、といって面会を申し込んだ。当然相手は渋った。胡散くさいやつと思ったはずだ。だが私は粘った。最後は懇願した。ようやく熱意が通じたのか、根負けしたのか、わからないが、やっと今日の午後三時に会うことを承諾してくれた。電話を終えたとき、私は思わず椅子から立ち上がり、よし、と控えめだが力強い声を上げた。
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