第36話

文字数 7,102文字

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 コンビニの店舗横にあるビルの入口前で時計をみた。約束の時間の五分前だった。私はビルのなかに入り、一応念のために壁にあるフロア案内板を確認してから、狭くて窮屈な階段で二階に上がった。私は、上半分が曇りガラスになっているドアの日本腎臓移植推進協会の印刷文字を確認してから、軽くノックをしてドアノブをまわした。
 入ると眼の前のカウンター近くにいた二十代後半の女子事務員がこちらを向いた。前回きたときに対応してくれた同じ女子事務員だった。私が名前を名乗り用件をいおうとしたときに、窓ぎわのデスクにいた狩野照子が私の名前を呼んで立ち上がった。
 白髪が半分ほど混じったまだら模様の髪が眼を引く狩野照子は、チェック柄のブラウスに黒のチノパン姿だった。
「座っていてくださる。いま行きます」
 親しみを込めた笑いを浮かべた狩野照子はそういうと、応接セットがあるコーナーを指差した。私が座るとすぐに、受付をしてくれた女子事務員が、ふたり分の麦茶を持ってきた。
「お待たせしました」
 麦茶をひとくち飲んだところで、狩野照子がきて私の前のソファーに座った。
「直人君が無事に出てきてよかったわ」
 狩野照子が笑顔でそういった。
「彼から連絡がありましたか」
「電話があったわ。声が元気そうなのでひと安心よ」
「いきさつはお聞きになりましたか」
「戸川先生からの電話でだいたいのことは聞いていたので、本人にはあえて聞かなかったわ。直人君もいいづらかったのか、ふれなかったわね。彼はひたすら謝るだけよ。私に謝る必要はないと、彼にそういったわ。そうそう、片桐道子さんからも電話があったのよ。彼女、ほっとした声を出していたわね」
「直人君からの電話のあと、戸川代議士とはお会いになりましたか」
「電話だけよ。近々協会のセミナーがあるのでそこでお会いすると思うわ。スタッフもその準備でほとんど出払っているのよ」
 たしかにスタッフはひとりしかいなかった。
「ところで今日はなにかしら」
 狩野照子があらたまって聞いた。
「腎臓移植についてお聞きしたいことがあります。ただし、これはあくまでも私自身の後学のためです」
「いいわ。なんでも聞いてちょうだい」
 狩野照子が座り直し、足を組んだ。
「腎臓移植にからむ犯罪が過去にあったと記憶していますが、もしも詳しくご存じならば教えてください」
「あら、そういうお話なの……」
 狩野照子が古い記憶をたどるかのように眼を細めた。
「そうね。あったわね。私が知っている事件でいいかしら」
「結構です」
「平成十八年にU市で発覚した事件よ。その前年、市内の病院の透析患者Aが、ある女性に、その女性は借金があって苦労していたんだけどね、借金の金額に三百万円上乗せするという条件で腎臓の提供を要望したのよ。そして患者Aは、その女性を妻の妹と偽って実際に移植を受けたわ。でも受け取ったのが約束の金額よりも少なかったため、女性が警察に相談して事件が発覚したのよ。翌年に患者Aと仲介したその妻が逮捕され、女性も種類送検されたわ」
「その女性は警察に相談したということは、犯罪と認識していなかったのですかね」
「どうもそうらしいわ。患者Aと妻は、もちろん犯罪と認識していて、その女性に口止めしていたこともわかったのよ。この事件はそれだけですまなかったの。これが発端となり、移植をおこなった病院が口頭約束だけで書面での約束を交わさなかったなどのずさんな管理が露見されたの。さらに、調査の過程で、あなたもよくご存じだと思うけど、M医師がかかわった病気腎移植の問題も明るみに出たわ」
「病気の腎臓を移植に使ったというあの有名なやつですね」
「そうよ。この問題は賛否両論があっていまだに物議を醸しているでしょう。むずかしい問題ね。あとは、たしか平成二十三年よ。都内の医師Aが、暴力団組員Bから紹介されたもと暴力団組員Cと虚偽の養子縁組をして、生体腎移植をおこなうつもりで一千万円を支払った事件ね。でも結局は、暴力団組員Bがさらに現金を要求したことから移植はおこなわれなかったのよ。これにより臓器移植法違反などで五名が逮捕されたわ。この事件は臓器売買の犯罪としては、暴力団が関与していた事件として、かなりインパクトがあったわね。この事件を受けて、日本移植学会は平成二十四年に倫理指針を改定したわ」
「倫理指針?」
「移植医療にたずさわる人たち向けの指針よ」
「なるほど。それで具体的にどう改定したんですか」
「全体の構成の見直しをしたというわけね。ちょっと待ってね」
 狩野照子はそういうと、自分のデスクに戻り、書類の山から一冊のファイルを取り出して戻ってきた。
「これをみてちょうだい」
 ファイルを受け取った。なかに用紙が入っていた。全体で八ページだった。タイトルは、〈日本移植学会倫理指針〉となっていた。序文と本文に分かれていた。
「異種移植とか個人情報の保護とかあるけど、最初のほうにある死体臓器移植と生体臓器移植のインフォームドコンセントが重要ね」
「つまり、説明と同意」
「医師は病状や治療方針を分かりやすく説明し、患者の同意を得る。そういうことね。まずは読んでみて」
「拝見します」
 全体を読んだ。次に特に重要だと思った部分を二度読みした。要約するとこうだ。

○親族に限定する。親族とは六親等内の血族、配偶者と三親等内の姻族をいう。
○親族に該当しない場合においては、当該医療機関の倫理委員会において、症例毎に個別に承認を受けるものとする。非親族間の生体臓器移植を計画する場合には、当該施設は日本移植学会に意見を求めなければならない。日本移植学会は、倫理委員会において当該の移植の妥当性について審議して、その是非についての見解を当該施設に伝えるものとするが、最終的な実施の決定と責任は当該施設にあるものとする。
○提供は本人の自発的な意思によって行われるべきものであり、報酬を目的とするものであってはならない。
○臓器の売買の禁止。
○受刑中であるか死刑を執行された者からの移植の禁止。

「親族に該当しない場合なんですが、ようするに、最終的には病院側の裁量にまかせる、ということですね」
「そういうことね。学会ではこれまでに十数例の審査がなされているようね。でもね、最終的に病院側の裁量にまかせるといっても、日本においてはかなりハードルは高いということだけはたしかね」
「他人からの臓器提供に関しては、犯罪が入り込む余地は少ないといえますか」
「そうね。日本ではかなりむずかしいんじゃないかしら」
「組織的となると、なおむずかしいといえますか」
「むずかしいでしょうね」
「とすると、犯罪が入り込む余地があるとすると、移植を目的とした偽装結婚と偽装養子縁組ですかね」
 狩野照子はセルの眼鏡を外し、ハンカチでレンズをふいてまたかけた。
「……たしかにそうね。移植学会でも、婚姻後一定の期間を設ける、という案も議論されたことがあるらしいけど、現在のところ婚姻期間については一定の決まりはないわね。それと、養子縁組についても、成立後五年以上経過していることが必要、としている病院もあるけど、徹底していないわね」
「そこに臓器売買が入り込む余地がある……」
「臓器売買の犯罪をどう防ぐかよね……さっき話した事件以降は、書類等で親族関係を確認する病院が増えるようになったんだけど、実際は意図的な親族偽装に関しては、不正を見抜くのはむずかしいのが現実ね。でもね、組織的となるとどうかしら。組織的というと大がかりなものでしょう。そこまでのドナーの確保が可能かしら。単発では絶対ないとはいえないけどね」
 狩野照子がようやく麦茶をひとくち飲んだ。事務所内は静かだった。ひとりいるスタッフが叩くキーボードの音だけが聞こえていた。
「佐分利さんは組織的な犯罪をお知りになりたいわけね」
「まあ、そうですね」
「そうなると、やはり海外ね」
「海外ですか」
「いわゆる臓器ビジネスね。組織がらみで継続的に臓器ビジネスをやるとしたらやはり海外が舞台ということになるわ」
「詳しく教えてください」
「噂話やニュースで知っている程度よ。そういうつもりで聞いてくれるかしら」
「わかりました」
「臓器ビジネスというと、中国やフィリピンが舞台になるわ。中国では年間一万件以上の臓器移植がおこなわれているわ。その大半が死刑囚のものよ。中国はたしか平成十九年に、旅行ビザしか持たない外国人に対する臓器移植を禁止したわ。だが、表向き禁止とされているけど、実際は抜け道が多く、裏では半ば公然と外国人への臓器移植がおこなわれているのが実情ね。フィリピンでも、以前は死刑囚や無期懲役囚を対象に腎臓売買がおこなわれていたという話を聞いたことがあるわ。だから、貧しさから腎臓を売る人が後を絶たず、売買が横行する実態に歯止めをかけようと、政府が闇取引による売買を法制化することで、トラブルを防ぎ、腎臓を提供するドナーの権利を保障するとしたんだけど、批判が多く、まだ実現に至っていないようね。だからまだ闇の臓器売買が横行しているわ」
「アメリカあたりはどうなんです」
「アメリカでは、腎臓移植は約三千万かかるらしいわ。保証金も含めると約五千万かかるという話もあるぐらいよ。そこへいくと中国やフィリピンは欧米に比べれば格段に安いわね。だから中国やフィリピンに集中するわけね。さらにいまは、臓器ビジネスの舞台は、さらに貧しい国に場所を変え、インドやバングラデシュなどでもおこなわれていると聞くわ」
「なるほど」
「現状はそういうことなのよ。ということはわかるわよね」
「組織的な犯罪が入り込む余地がある……」
「なかにはそういうケースもあると思うわ。つまり、臓器売買ブローカーと暴力団と悪徳仲介業者が手を組むトライアングル構図ね。現地では臓器売買ブローカーがドナーを集め、日本では悪徳仲介業者がレシピエントを集め、さらに海外の病院と提携して患者を送り込むのよ。臓器売買ブローカーといっても、裏組織が実態ね。その裏組織と手を結び、仲介業者との橋渡しを日本の暴力団がするのよ。中国やフィリピンが安いといっても、患者は結構な金額を払うことになるんだけど、その多くが犯罪組織に流れるのよ」
「仲介業者はどのように患者を集めるのですか」
「いまは簡単に情報を得られる時代よ。インターネットがそうでしょう」
「なるほど」
「残念なニュースもあったわ。海外で腎臓移植を希望する日本人患者に、T大医学部の講師が現地の医師に紹介状を書き、仲介業者から謝礼をもらっていたのが発覚した事件よ。これをみても闇は深いとみていいのでは。だから、海外で腎臓移植を希望する場合は、細心の注意を払う必要があるのよ。知らずに犯罪に加担するかも知れないでしょう」
「現在、どれだけの人が海外で移植を受けているんでしょうか」
「腎臓に限っていえば、二百人ぐらいといわれているけど、実態は不明ね」
「帰国した患者が罰せられるということは?」
「それはないわ。逮捕されたケースはないはずよ」
「ひとつ疑問があります。移植を受けた患者は、術後のケアが必要になりますが、海外で移植を受けた患者の場合はどうなんでしょう」
「免疫抑制剤もそうね」
「そうです。薬に関していえば、一生飲まなければいけないはずですよね。また体のケアも当然必要になりますよね」
「もちろん日本の病院に頼ることになるんだけど、病院が拒否する場合もあるわ。訴訟になったケースもあるのよ。これに関しては、移植学会も病院も厚労省も判断を下していないわ」
「拒否した病院側の言い分はなんです」
「〈海外で臓器移植した患者は受け入れない〉そういう内規があるという言い分ね」
「いくら内規があるといっても、拒否するというのは乱暴な気がしますね」
「一番悲惨なのは患者ね。死活問題でしょう。勝手に海外で移植を受けたんだからあとは知らないではね……ようするに、いくらお金を出しても腎臓を手に入れたいと願う患者が多いのが現状ね。それをもっと真剣に考える時期にきていることは間違いないのよ……協会の集まりでいろいろな人たちとお話しするでしょう。いろいろな意見があるのよ。偽装結婚とか偽装養子縁組というと聞こえは悪いけど、お金がからまなくて、だれにも迷惑をかけなければ、つまり、善意のおこないであれば、許されるんじゃないかしら、という人もいるわ。ようするに、犯罪でなければ、それを十把一絡げにしてほしくないということね。本当に移植を必要としている人たちが犯罪とわかっていても踏み出さざるを得ない状況を第三者が簡単に非難はできないとおっしゃる人もいるわ。海外に行く人たちだって、やむにやまれずにそうするんであって、できるのであれば私もそうしたい、と真顔でおっしゃる人もいるのよ」
 狩野照子はそういうと私をみた。私は狩野照子の本音ではないかと思った。
「そういうことを発言する人たちに、私は大声で非難できません。それほどむずかしい問題だと思います」
「そうね……」
 狩野照子が考え込むように首を傾げ下を向いた。なにかを考えているようだ。表情が暗くなった。私は気になって彼女の名前を小声で呼んだ。彼女は気がつき、顔を上げた。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたわ」
 狩野照子は疲れた表情をみせた。私は時計をみた。
「すっかりお邪魔をしました」
「いいのよ」
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
「参考になったかしら」
「非常に勉強になりました。しかし、こうしてあなたのお話をお聞きしてわかったことがあります。これからも海外移植はなくならないということです。不正な移植も含めて」
「残念ながらいまはそうね。未来の医学に期待ね」
「IPS細胞ですか」
「IPS細胞による再生医療は、臨床応用の開始は七年から十年以上かかる見込みなのね。あと、人間以外の動物からの腎臓移植は、まだまださきになるようね。次世代に実現をめざしているらしいから。唯一の救いは未来の医学は明るいということよ」
〈さまよえる臓器〉
 秋本の言葉がよみがえった。秋本は私になにをいいたかったのか……。
「このぐらいでいいかしら。ちょっと用事を思い出したわ」
 狩野照子はそういった。本当に疲れた表情だった。私は礼をいって立ち上がった。
「あ、そうそう、そういえば、最近だけど佐分利さんと同じことを聞きにきた人がいたわ」
 狩野照子がそういって私をみた。
「だれです?」
 私はもう一度座った。
「ジャーナリストといったわね。ちょっと待ってね」
 狩野照子はそういうと、自分のデスクに戻り、一枚の名刺を持って戻ってきた。
「拝見します」
 名刺を受け取ってみた。名前と肩書きしかない。
 名前は、成田晃。肩書きは、ジャーナリスト。
 秋本だと直感した。彼の地元は成田だ。おそらく秋本の別名だろう。取材で別名を使っていたとしてもおかしくはない。
「きたのはいつです」
「名刺の裏をみて。日付があるでしょう。私は会った日を書くことにしているから」
 裏をみた。鉛筆書きで日付が書いてあった。
「これによると今年の五月十三日ですね」
「そうね。そのぐらいだったわ」
「取材は海外の臓器ビジネスについてですか」
「そうよ」
 秋本のつかんだネタというのは、海外の臓器ビジネスがらみとみて間違いないと思った。当然暴力団がからむ。記事にされては困るはずだ。当然つぶしにかかる。ようやくひと筋の光がみえた。
「今度週刊誌で特集を組むんですって。その取材といっていたわね」
「その男は四十台前半で悪相ではなかったですか」
「たしかに怖い顔だったわ。ちょっとビビっちゃったもの。顔もそうだけど雰囲気が怖い感じがしたわね。でも話してみるとそうでもなかったわ」
「あなたのことはなにで知ったんでしょう」
「なんでも、協会のセミナーにきたことがあるんですって。そういっていたわ。知っている人なの?」
「ええ、まあ」
 狩野照子は殺された秋本晃と成田晃が同一人だとは気がついていない。知らないのであればあえていうこともない。
「そうだ。いま思い出したけど、戸川代議士に取材したほうがいいと、その人にいった記憶があるわ」
「戸川代議士に?」
「ええ、そうよ。彼女は医療保険問題に熱心に取り組んでいるでしょう。だから参考になると思ってすすめたのよ。私の名刺の裏に簡単に紹介文を書いてその人に渡したわ」
 秋本が戸川凛子に会ったのは取材のためだったとわかった。おそらく秋本は成田晃の名刺で会ったはずだ。だから戸川凛子は秋本と気がつかなかった。
 私は成田晃の名刺を返し、もう一度礼をいって立ち上がった。
 夜に戸川凛子に電話をした。戸川凛子は、狩野照子からの紹介で成田晃というジャーナリストの取材を受けたことは認めた。わかったのは、取材を受けたのは狩野照子が秋本と会った三日後だったということと、彼女は成田晃が秋本晃だと知らずにいたということだった。私からその事実を知らされた戸川凛子はもちろん驚いた。だが、その取材で、秋本は総裁選のことは一切質問せず、戸川凛子のライフワークともいうべき医療保険問題だけを熱心に聞き取ったという。その事実は私のなかに強烈に残った。
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