第8話

文字数 2,562文字

       8

 渋谷駅に着いたところで携帯が鳴った。所長からだった。どこにいるのかと聞かれたので渋谷の駅と答えた。それは好都合だといって、すぐにこられるかと聞かれた。私は行くと答えた。
 宮益坂下の交差点を渡って緩やかな上り坂を歩き、渋谷郵便局の前を通って宮益坂上交差点手前で左に曲がり、少し行ってまわりに比べて比較的新しいそのビルを見上げた。その四階にスワン探偵事務所があった。
 社員は二百人ほどだ。勝手知ったる事務所内に足を踏み入れると、今日もなかはガランとしていた。主だった調査員の面々は、素行調査や浮気調査やあるいは盗聴器発見などで、ほとんどが出払っていた。商売繁盛で結構なことだ。
 なんでも、最近はストーカー対策やいじめ対策の依頼が多いそうだ。これもご時勢か。世のなかがざわついてくると、探偵依頼が増えてくるような気がする。ただし、これはあくまでも私の感想だ。もっとも、世のなかがざわついていないときなどないが。
 表通りに面した南側の奥まったところに、ガラス張りのパーティションで区切られた所長室がある。なかにはデスクと八人座れる会議テーブルがある。そのデスクの椅子に所長は座って新聞を読んでいた。
 所長室のドアは常に開けられている。本人は、開かれた職場風土と親しみやすい上司を気取っているようだが、必ずしもそれは成功しているとは思えない。本人にはいわないが、いつも苦虫を噛み潰したような所長の表情こそが問題だと、私はそう思っている。
 私が所長室に入って行くと、所長は新聞を畳み、老眼鏡を外した。彼は、たしか私より二歳は若いはずだが、ほとんど白髪で、顔の皺も多い。警視庁捜査一課の係長だった所長は、敏腕警部といわれていたらしい。しかし、事情があって定年前に辞めている。その事情は知らない。
 所長が会議椅子に座るように眼で促した。私が座ると所長もデスクから会議椅子に移ってきた。
「忙しいところ悪いな」
 所長が私の前に座った。
「そうでもない」
「今日は仕事で渋谷か」
「まあそんなところだ」
「ところで、土屋記者は知っているな」
「土屋記者?……ああ、所長が紹介してくれた政治部の記者だな」
 所長がうなずいた。
「あれは先週の木曜日だったな」
 戸川凛子のことを電話で尋ねたことをいっていた。私はそうだといってうなずいた。
「戸川凛子という代議士のことを尋ねたんだって」
「まあ、そうだ」
「次の日、土屋から電話があった。サブやんがなんで戸川代議士のことを調べているんだといって、しつこく聞いてきた」
「ほう、それで?」
「俺はなにも聞いていないから知らないと答えた。どうやら土屋は、サブやんが戸川代議士を調査していると思っているようだ」
「私が? しかし土屋記者はなんで気になるんだ」
 所長がポケットから飴を出して口に入れた。私もすすめられたが断った。
「禁煙してそろそろ半年になるが、いまだにヤニが恋しいといって疼きやがる」
 奥さんから相当強くいわれて禁煙したそうだ。まあ、いつまで続くかみものだ。
「それで、いま抱えている案件ってその代議士の調査か」
 飴を口のなかで転がしながら所長が聞いた。
「違う。戸川代議士が調査対象ではない。彼女は依頼人だ。詳しい内容はいえない。悪く思わないでくれ」
「それだけ聞ければ充分だ。それで、土屋だが、そのときついでに話してくれた。保守党の次期総裁選のことだ。サブやんはなにか知っているか」
「いや、知らない」
「ぼちぼちニュースで表に出てきているから耳にしているかも知れないが、幹事長の野島秋声と官房長官の藤井康次の一騎打ちだ。すでに水面下では熾烈な争いをしているようだ」
「そうなのか」
「なんでも、伯仲しているらしい」
「そういえば、土屋記者から戸川代議士のことを聞いたとき、彼女は野島幹事長のお気に入りだと聞いたな」
「そうなんだ。ずいぶんかわいがられているようなんだ。いろんな意味で」
「ということは……」
「そういうことだ。ただしあくまでも噂だ。だけど相手陣営にしてみれば、格好の醜聞だ。その噂が本物で、さらに表沙汰になればな。そうなれば一気に優勢になる。そんなこんなで両陣営とも相手側の弱みを握ろうと血まなこになっていると、まあ、そういうわけだ」
「それで土屋記者も神経を尖らせているというわけか」
「そういうわけだが、話は続きがある。なんでも、藤井陣営ではフリーライターの秋本晃という野郎を手先に使っているらしい。こいつはな、あまり評判がよろしくない。金になることだったらなんでもやります、というタイプらしい」
「土屋記者からの情報か」
「そうだ。土屋の話だと、その秋本は戸川代議士にべったりと張り付いているらしい。そんな雰囲気のときに、サブやんが戸川代議士のことを尋ねるから土屋は気になったようだ」
「そういうことか……」
「彼女が依頼人とすると、直接会ったんだろう」
「事務所にきた」
「戸川代議士をマークしていたとしたら、秋本はサブやんのことも知ったかもな……充分に気をつけてくれ。とにかく素行の悪い男だと評判だからな」
「わかった。気をつけるよ」
「話はそれだけだ。とにかく気をつけてくれ」
「ありがとう」
「それから、いつなんどきでもかまわない、俺が必要になったら遠慮なく声をかけてくれ」
「血が騒ぐか」
「そんなんじゃないが、いざとなったらいつでも一肌脱ぐさ」
「承知した」
 オーナーから乞われて所長におさまったが、その条件は、現場厳禁だったらしい。だから、一日中デスクの椅子に座って新聞をみている。相当ストレスがたまっているはずだ。警視庁時代は、現場を飛びまわっていた男だからつらい境遇だろう。本当は、素行調査や浮気調査やストーカー対策といった外回りをやりたいはずだ。私にはお見通しだ。友として、そんなストレスを少しでも解消させてやりたい気持ちで、つい承知したといってしまったが、本当は所長を引き込むつもりはない。戸川代議士から釘を刺されたこともあるが、いまさら寝た子を起こす真似はしたくないからだ。
「いつでもいいからな。夜でもいいぞ」
 私は所長の勇ましい言葉を背中で聞きながら、スワン探偵事務所をあとにした。
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