第25話

文字数 5,657文字

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 自宅に帰ったのが午後九時。足が棒のようになっていた。キッチンで水を一杯飲んだあと、バッグを持ったままリビングのソファーに座った。眼を閉じてソファーの背もたれに全身を預けた。体もそうだが頭のなかも重かった。
 十分後、頭のなかが少し軽くなった。そこで、やらなければいけないことを考えた。いくつか思いついたが、やはり夕飯を最優先することにした。
 重い体をキッチンに運び、有り合わせの材料で簡単な夕飯を作った。腹がくちくなると元気が出てきた。食器を洗ったあとに、次になにをやるべきか考えた。いくつか思いついたが、頭のなかをもっと軽くするために風呂に入ることにした。いつもより長めの風呂にした。
 風呂を出て次にやるべきことはふたつあった。ビールにするか、戸川凛子に電話をするかだった。本当は三つあった。三つ目の園部への電話はスルーすることにした。
 結局、ビールの誘惑に負けた。リビングのソファーでチーズをつまみに缶ビールを開けた。
 半分ほど飲んだときにテーブルの上の携帯が鳴った。所長からだった。所長の声はなんだか弾んでいた。
「とりあえず小田英明の報告だ。いま話しても大丈夫か」
「大丈夫だ」
「所轄の旧知の刑事に聞いた。この男にはちょっとした貸しがあるんでな。まあ、それはどうでもいいか。彼は重い口を開いてくれたよ。だがそれほど進展はない。いまのところ目撃情報はない。公園付近は監視カメラがないのでこっちは苦戦しているようだ」
「財布や携帯などの所持品は残されていなかったんだろう」
「そうらしい。それで物取りの線も捨てきれないようだ」
「身元はすぐにわかったのか」
「身元を示すものはなかったが、指紋ですぐに判明した。小田は傷害でマエがあった」
「なるほど」
「捜査本部だが、いまは付近の聞き込みと平行してホストクラブの同僚を洗っているといっていた」
「同僚を?」
「どうやらこの同僚は小田英明を強請っていたようだ」
「ほう、なんで?」
「なんでも、小田英明はこの同僚の彼女を誘惑して寝たようだ。それがわかり強請られたということだ」
「なんだそれは。小田英明と片桐涼平の構図と同じじゃないか」
「自分がされたことを今度はやるほうになったということだ」
「それでなにを要求されたんだ」
「お金だよ。二百万」
「同じ金額だ」
「ただ、小田英明は全額は払えないといって半分の百万に値切ったそうだ」
「呆れたな。でも払ったんだ」
「ああ、渋々な。なんでも、この同僚にはヤクザのお友達がいて、そいつも出てきたのでしかたがなくだ」
「しかしその同僚はよく喋ったな」
「そいつが喋ったわけではない。そいつの彼女が喋ったんだ。なんでもそいつがほかの女に走ったんで頭にきたらしい」
「ではその同僚が本命か」
「そうは簡単ではないようだ。まだ不確かだが、そいつにはアリバイがありそうなんだとさ」
「そうなのか」
「むかしの暴走族仲間も調べているようだ。いまのところはこんなところだな」
「すると、小田英明が片桐涼平に仕掛けた例の件は本部ではつかんでいないんだな」
「恐喝のことか」
「そうだ」
「つかんでいないようだ」
「片桐涼平と秋本の名前は上がっているのか」
「こちらからその名前を上げるわけにはいかないので、はっきりとはわからないが、それもつかんではいないようだ」
「そうか。ありがとう」
「ところでキャバクラのほうの感触は?」
「それは今度ゆっくりと話す」
「わかった。なにか進展があれば、旧知の捜査員から連絡をもらうことになっている。そのときは知らせる」
 電話が終わった。気がつくと右手で缶ビールを握ったままだった。飲もうと口に運んだ。だが空だった。電話の間に全部飲んでしまったようだ。なんだか物足りない。いつもは一本と決めているが、今日は追加をしたい気分だ。だがその前に、あとまわしにした用件をすませなければならない。
 戸川凛子はツーコールで電話に出た。最初に片桐道子の息子の涼平も直人と同じように行方がわからないことを話した。
「涼平君の失踪の原因はなにかしら」
「それはまだわかりません」
「直人君の失踪と関係があるのかしら」
「あると思います」
「それはたしかな証拠でもあるのかしら」
「いいえ、私の勘です」
「ではまだはっきりとはわからないわね。それで涼平君のことは道子さんはご存じなのかしら」
「さあ、どうでしょう。私からは話してはいません」
「そう……知るとショックが大きいでしょうね……」
 戸川凛子の声が沈んだ。次に涼平を恐喝していた小田英明というホストクラブのホストが殺されたことを話した。
「その殺人事件は涼平君と関係があるの」
 戸川凛子の声が大きくなった。
「それはまだわかりません」
「小田英明と涼平君の関係は?」
「むかしの暴走族の仲間です」
「小田英明が涼平君を恐喝していたのね」
「そうです」
「恐喝の事実はだれに聞いたの?」
「小田英明の妹です」
「登場人物が増えてなんだか混乱してきたわ……それで、涼平君はなんで恐喝されたの」
「美人局です」
「要求はお金なの?」
「そうです。期限が迫ったので失踪したとみることもできます」
「そうならば直人君の失踪とは関係ないんじゃないかしら」
「私はつながっているような気がします」
「なんだかとても複雑になってきたわ」
「それから、これはまだ不確かな情報ですが、秋本らしき男が涼平君をさがしているようです」
「なんでそこで秋本が登場するの」
 戸川凛子の疑問はもっともだった。
「いまの情報も含めてもう少しお待ちください。全体図がおぼろげにみえてきました」
「わかったわ。引き続き調査をお願いね」
「わかりました。実はまだ続きがあります」
「なにかしら」
 総裁選がらみで秋本をマークしている園部直樹というフリーライターが接触してきたことを話した。
「それで、園部というフリーライターは、総裁選を調べているんですね」
「そうです」
「その園部というフリーライターはなぜ秋本をマークしているの?」
「園部と秋本はむかしからの知り合いだったようなんです。園部は総裁選を追っているうちに、秋本をみつけ、それで気になってマークしているようです」
「たしか佐分利さんは口が堅いので有名でしたわね」
「そのとおりです。余計なことは話してはいません」
「それを聞いて安心したわ。それで園部という人はなにが目的で佐分利さんに接触してきたのかしら」
「秋本の情報と総裁選の情報の交換です」
「それで佐分利さんはなんて答えたのかしら」
「考慮するとだけ答えました。もちろん考慮するつもりはありません」
「それは賢明ね」
「ところで話は変わりますが、余田徹代議士はご存じですよね」
「藪から棒になんですか……もちろん存じ上げています。それがなにか?」
「今日おみかけしました。草野篤彦代議士と一緒でした」
「詳しく話して」
 草野代議士をマークしていた園部から連絡をもらって代官山に行ったこと、代官山のマンションは草野の愛人が住んでいること、そのマンションに四人が一堂に会したこと、四人というのは草野代議士と愛人と秋本と余田代議士だということ、それらをわかりやすく簡潔に話した。話し終えて戸川凛子の反応を待った。反応は芳しくなかった。
「有益な情報ではなかったようですね」
「そんなことはないわ。貴重な情報よ」
「あまり驚かれませんね」
「いまの私の気持ちは、本当だったのね、という驚きね……実はね、余田先生は要注意人物なのよ。われわれのグループのなかでは。向こう側に通じているのでは、という噂はあったわ」
「たまたま知り得た情報なのでお知らせしました。本筋とは関係ないですが」
「本筋も大事だけど、そういう情報も大事よ。いつでも歓迎するわ」
 また連絡をすることを約束して電話を切った。
 眼の前のテーブルには空の缶ビールがあった。追加をしたい気分は変わらなかった。決断は早かった。冷蔵庫に向かうつもりで腰を上げたとき、また携帯が鳴った。所長からだと思った。だが違った。
「長い話し中でしたね」
 園部直樹からだった。そのまま黙って切ることもできなくなった。本当は一番話したくない相手だった。
「これでも忙しいんでね」
「だれです。お相手は」
「いう必要はないだろう」
「私の知らない人ですか」
「そういうこと」
「おや、機嫌が悪いですね」
「そんなことはない。ちょっと疲れているだけだ」
「お疲れのところ申し訳ないですが、その後どうなったかな、と思いましてね」
 やはりその話題だ。
「いわなきゃいけないのか」
「お聞きしたいですね。われわれはいわば相棒ですよ。情報は共有しましょうよ」
 かすかに人の声が聞こえている。テレビだろうか。
「声が聞こえるがテレビなのか」
「聞こえますか。そうです。テレビです。邪魔だったら消しますよ」
「ということは自宅か」
「そうです。佐分利さんからの電話をいまかいまかと首を長くして待っていたんです」
 嫌味なやつだ。
「来そうもないのでこちらからかけました」
「もしかして酒を飲んでいるのか」
 口が滑らかなのでたぶんそうだろう。
「まさか。まだ仕事中ですよ。メモを整理していたんです」
 自分のことを棚に上げて偉そうなことはいえないが、なんとなく腹が立つ。
「まずそっちから話してもらおうか」
「いいですよ。あのあと、草野の車は余田代議士の事務所近くまで行って余田代議士を降ろしました。さすがに事務所前までは行けなかったようですね。余田代議士は歩いて事務所に向かいました。私はそのまま草野の車を追いました。草野はどこも寄らずに自宅に帰りました。以上ですね」
「それだけ?」
「ええ、そうですよ。それでは佐分利さんの番です」
 どうしても話さなければいけないようだ。気が重いが。
「秋本は代官山から電車で渋谷に行った。そのあと、渋谷駅を出て、明治通りにあるスタバに入った」
「渋谷警察署のさきにあるスタバですか」
「そうだ。知っているか」
「入ったことはあります」
「やつはコーヒーカップを持って二階に上がった。私も続いた」
「それで?」
 園部の声が弾んでいる。
「離れていて、それでいてやつがみえる席が空いていたので座った。やつはそこに一時間いた」
「一時間も。なにをしていました」
「ほとんど眼をつぶっていた。たまに手帳を開いていた」
「電話とかメールは」
「みている限り、それはなかったな」
「ふーん、それで?」
「スタバを出てからハチ公前広場に行った」
「だれかと待ち合わせですか」
 園部が興奮した声を出した。
「そこに三十分いて駅に入った」
「待ち合わせではなく?」
「ハチ公とにらめっこをしていただけだ」
「ふーん、それで?」
 声がトーンダウンした。
「山手線に乗って新宿に行った」
 喉が鳴る音がかすかに聞こえた。なにかを飲んでいる気配が伝わる。ビールか、焼酎か、それともワインか。どうせ安い酒だろう。
「ちょっと待ってくれ」
「なんです」
「小便だ」
 そういって携帯をテーブルの上に置き、キッチンに行った。冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出して開けた。ひとくち飲んでから缶ビールを持ってリビングに戻り、テーブルの上の携帯を手に取った。
「待たせたな。それで秋本だが、新宿で降りて伊勢丹に入った」
「なにかを買いに?」
「買わずに店内をブラブラしていた」
「嫌な感じですね」
「上の階から下の階までブラブラしやがった」
 ビールをひとくち飲む。げっぷが出そうになって慌てて口を押さえた。
「それで?」
「伊勢丹を出て西口に行った。都庁だ」
「都庁?」
「展望室に行きやがった」
「観光ですか」
「あそこは景色がいいからな」
「そんな呑気なことをいっている場合ではないですよ。佐分利さん、これはもうバレバレじゃないですか」
「それはどうかわからん」
「そのあとは?」
 園部が少し怒ったような声を出した。腹が立って電話を切ろうと思ったが、我慢した。
「そこにしばらくいて、次は池袋だ」
「なんとなくさきがみえてきました。池袋のどこに行ったんです」
「サンシャインの水族館だ」
 園部が、ああ、と情けない声を出した。その声を聞きながら、ビールをグビリと飲んだ。げっぷが出た。
「おや、ビールですか」
「これが飲まずにいらりょうか」
「戯言をいっている場合ではないですよ」
「悪い悪い」
「それでどうしました」
「呑気に魚を観察してから新宿に戻った」
「次はどこです」
 声が小さい。
「歌舞伎町に行った」
「ほう、歌舞伎町ですか」
 少し期待する声を出した。
「新宿区役所近くの居酒屋に入った」
「まさかひとりで飲んだというんじゃないでしょうね」
「カウンターでひとり酒だ」
「佐分利さんは?」
「私はやつから離れたカウンターの隅で飲んだ」
「やつの様子はどうでした」
「静かに飲んでいたよ。やつは強いな。焼酎のロックをグビリグビリ飲んでいたぞ」
「だれかと連絡を取るというようなことは?」
「なかったな。静かなもんだった」
「そのあとはどうしました」
「わからない」
「え? わからないとは」
「小便に行って戻ったらいなくなっていた」
 園部が絶句しているのがわかった。
「成果がなかったわけではない」
「……そうですか」
 園部は消えてなくなりそうな声を出した。
「秋本という人物のイメージがつかめた」
「まあ、次はうまくやってください」
「あんたにいわれなくてもわかっている」
 長い電話が終わった。いつもなら缶ビール一本で気持ちよくなるのだが、今日は二本飲んでも酔わない。疲れすぎているからか。こんなときは寝るに限る。ソファーから離れたがらない尻を無理やり引きはがした。
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