第10話

文字数 8,582文字

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 郵便ポストの脇に立っていると、五分もしないうちに赤のプリウスが眼の前で止まった。運転席には女性がいた。戸川凛子だった。車には戸川凛子だけだった。私を確認すると、助手席を指差し、乗れという合図をした。私が助手席におさまると車はすぐに発進した。
「お忙しいところごめんなさいね」
 モスグリーンのスーツがなかなか似合う戸川凛子は、優しい声を出した。
「少しの間おつき合いくださいね」
「ええ、いいですよ」
 そうはいったが、少しせっかちすぎはしないか。そう思った。依頼を受けてからまだ三日しか経っていない。
「といっても調査の催促ではありませんのよ」
 こちらに顔を向けた戸川凛子はそういうと、悠然と微笑み、すぐに顔を戻した。すっかり心を読まれていた。
 車は桜田通りを皇居に向かって走っている。運転は慎重だ。ついでにといっては悪いが、いい機会なので、片桐道子と狩野照子に会って話した内容を簡単に報告した。戸川凛子は終わるまで口を挟まずに聞いてくれた。
 すでに車は左折して内堀通りに入っていた。正面に国会議事堂がみえている。さて、私をどこに連れて行くのか。
「明日は、直人君の友達の立花有紀さんと会い、そのあとで移植コーディネーターの篠田美咲さんと会います」
「立花有紀さんというのは直人君の恋人かしら」
「さあ、そこまではわかりません」
「移植コーディネーターの篠田美咲さんというのは?」
「移植予定だった千葉の病院のコーディネーターです」
「たしか大森台中央病院だったわね」
「そうです」
「わかりました。また報告をお願いします」
 調査の話はこれで終わりらしい。私からの話を聞きたくてドライブに誘ったわけではないようだ。ではなんだろう。冷房が効いた部屋から逃げ出して気分転換のドライブか。まさか。ジジイとのツーショットは、気まぐれにしても絵にはならないだろう。
「不思議な顔をなさっていますわ」
 どうやら彼女の顔をじっとみていたようだ。
「これは失礼」
 私は正面を向いた。
「なんの用事があるんだろう、というようなお顔ですね」
 戸川凛子がまた悠然と微笑んだ。私が返す言葉を考えていると、さきに戸川凛子が口を開いた。
「佐分利さん、いま保守党が騒がしいのはご存じかしら」
「さあ、知りませんな」
 総裁選のことかと思ったが黙っていた。
「次期総裁選のこと、なにかご存じかしら」
 やはりその話題だ。私はとぼけることにした。へたに口をすべらせて、情報源が所長だとわかると、取り扱い注意の警告を受けている手前、いらぬ疑いを抱かせてしまう可能性があるからだ。
「残念ながら知りません」
「そう。佐分利さんは私のことをお調べになったんだから、私が野島派だということはご存じなんでしょう」
「ええ、まあ」
「野島幹事長が次期総裁選に出ます。藤井官房長官もどうやら出るようです。そうなると一騎打ちです。下馬評では藤井先生がちょっとだけ有利です。でもまだわかりません」
 右側は桜田濠だ。左に国立劇場がある。時期が悪い。できれば桜をみながらのドライブと洒落てほしかった。
「水面下では熾烈な争いがすでにはじまっています……表にみえない戦いというのは汚いものなんです。結局のところあらさがしです。両陣営とも相手側の醜聞を必死にさがしています。それもボスの醜聞なら申し分がありません」
「そんな話をなぜ私に?」
 世間話にしては生々しい。
「これからが本題です」
「これは失礼」
「相手陣営は秋本晃というフリーライターを手先に使って私をひそかにマークしています」
「ほう」
 驚いてみせる。秋本晃という名前は所長から聞いて知っているが、ここはとぼけるしかない。
「佐分利さんは秋本晃という人物はご存じかしら」
「いや、知りません」
 幸いに戸川凛子はハンドルを握って正面を向いている。表情をみられずにすんだ。
「その男はどういう人物なんです」
 あえて聞いた。
「風俗ネタとゴシップ記事の専門らしいわ。あと、業界では結構有名らしいの」
「有名?」
「ええ、悪名でね」
「なるほど。そのゴシップ記事の有名人があなたをマークしているということは……」
「誤解なさらないで。私には出て困るような醜聞はありません」
「そうですか……」
「私、まわりくどいの嫌いなんで単刀直入にいいます。野島先生と私が特別な関係ではないかと向こうは思っているようなんです。そこで私をマークしているんです。たぶん秋本だと思うんだけど、それらしい人物を頻繁にみかけているわ。遠目でね」
 ということは、ふたりの噂はマスコミも含めて永田町ではかなり有名ということだろう。
「もちろん、真実ではありません。だれかがやっかみ半分で流したデマです。佐分利さんは信じませんよね」
「もちろん」
「嬉しいわ」
 なんのために呼ばれたのかよくわからない。まさか愚痴を聞かせるために呼んだわけではあるまい。しかし、まわりくどいのが嫌いというわりには、結構まわりくどい。
「佐分利さん、私はご存じのようにまだ一年生議員です。立場も弱いし、発言力もまだありません。いま保守党で一番力を持っているのは幹事長の野島先生だと思っています。でも私は残念ながらまだまだ認められていません。いまは野島先生の側近である関森正人幹事長代理のもとで修行中といったらいいのかしら。そんな身分なんです。だから派閥のなかの私の位置は、ほんの使い走りみたいなものです。私はこれから野島先生のもとで汗をかき、そして認められて、将来は野島先生の懐刀といわれるようになりたいんです。そのために噂話をポジティブにとらえ、それを利用しようと思っています」
「言いにくいことをはっきりいいますね」
「私、まわりくどいの嫌いなんです」
「すると関森正人幹事長代理はたんなる踏み台ですか」
 彼の顔はテレビでみたことがある。たしか五十手前だったはずだ。下膨れで眼鏡をかけていて短躯肥満だったと記憶している。
「そういってしまえば身も蓋もないですわ」
「しかし明快な論理ですな。そこまでいうとかえって気持ちがいい」
「褒めてくださるのね。やはり佐分利さんはわかってくださると思っていたわ」
「そりゃあどうも。しかし、やはりあなたはいい意味での野心家ですな。それに賢い」
「最初にお会いしたときもそんなことをおっしゃったわ」
「そうでしたか」
「ごめんなさい。また脇道に逸れてしまったわ。本題はこれからです。いまお話しした秋本晃というフリーライターは、もしかしたら佐分利さんのことを嗅ぎつけて接触してくるかも知れません。まさかすでに接触してきたということはないでしょうね」
「いや、まだ私の前に現れてはいません」
「そう。よかったわ」
「秋本晃という人物についてなにか情報はありませんか」
「四十代というしか私は知らないわ。もちろん私は会ったことはありません。それでね、その秋本というのはかなりクセのある人物らしいの。だから充分に注意してほしいの」
「わかりました。ご忠告肝に銘じます」
「私が佐分利さんに依頼した調査は、総裁選とはなんの関係もありません。この調査のことは相手陣営はもちろん野島先生も知りません。間違いなくプライベートな依頼です。でもどこでどう誤解されるかも知れません。特に秋本が変に勘ぐらないとも限りません。私がいっている意味はおわかりですね」
「あなたが依頼した調査内容が表に出ては困るし、また関係者に迷惑がかかってはいけない。そういうことですな」
「そうです。とばっちりで関係者に迷惑がかかるのを一番恐れています」
「わかりました。充分に注意しましょう。それで秋本が接触してきた場合ですが、具体的にどうしろと?」
「それはあとでお話しします」
 車はいつしか九段下に向かっている。まもなく靖国神社がみえてくるはずだ。美女が運転する車でこのままドライブを続けるのも悪くはないが、うきうきするような会話じゃないのが残念だ。
「本当はこうしてお会いするのはどうかと思ったんです。秋本がどこで眼を光らせているかわかりませんものね。でもこの方法を選んだ理由は、もうひとり会っていただきたい人がいるからなんです。それで佐分利さんのご都合はいかがかしら」
「それはかまいませんが、だれでしょう」
 車はいまきた道を戻っている。
「いまお話に出た関森正人幹事長代理ですわ」
「踏み台の先生ですか」
「嫌ですわ」
「そんな大物がなんの用事です」
「お会いになればわかります。それから、関森先生は私が佐分利さんに依頼した調査の内容はなにも知りません」
 憲政記念館をすぎて庭園のところを左折した。背中越しに国会議事堂がみえる。前方にハザードランプを点灯させている黒塗りの高級車が止まっている。戸川凛子はその車のすぐうしろで止まった。
 こちらの車を確認できたのか、前方の車の後部ドアから太めの男が降りてきて、こちらに向かってきた。男は戸川凛子の車の後部ドアを開け、座席におさまった。車体が大きく揺れた。男は関森正人だった。
「関森幹事長代理です。こちら探偵の佐分利さんです」
 戸川凛子が歌うような声でお互いを紹介した。
「関森です。よろしく」
 甲高い声だった。
「こちらこそ」
 体をねじって挨拶をするのもつらいので、前方を向いたまま軽く頭を下げた。
「こういっては失礼だが、もっとお若いかたかと思った」
「初対面の人はだいたいそういいます」
「ははは、そうですか。悪気はありません」
「かまいませんよ。事実ですから」
「あなたは、わが党の顧問弁護士である桑原先生からずいぶん信頼されているようですな」
「そんなことはありません。ほんの使い走りです」
 運転席で戸川凛子が、フフフ、と小さく笑った。
「それで戸川先生、例の話は?」
「フリーライターの秋本晃の件は佐分利さんにはご説明しました。そうですわね、佐分利さん」
「ええ、お聞きしました」
「すると協力していただけるのかな」
「そのお話は先生のほうからと思ってまだです」
「そういうことなら、私のほうからお願いしましょう。それで佐分利さん、戸川先生がプライベートな件であなたに仕事を依頼したようだが、それについては私はなにも知らない。ところが、戸川先生からお聞きになっていると思うが、話に出てきた秋本が勘違いしてあなたに接触してこないとも限らない。もしそういう事態になったら、本来ならば無視するんでしょうが、そうしないでいただきたい。おわかりかな」
「……ようするにお友達になれと」
「ははは、おもしろいことをおっしゃる。そう、お友達になってほしいんです」
「つまりお友達になって懐柔しろと」
「そう、はっきりいうとそういうことになる。ただし、仲間に入れるつもりはない」
「かなり問題のある人物のようですから、お仲間にはちょっと。ただ情報はほしい。佐分利さん、そういうことです」
 戸川凛子が補足した。
「具体的にどうするかは戸川先生と相談してほしい。そうそう、ただとはいわない。それなりの見返りは用意しますよ」
 そういうと関森正人は、鼻から大きく息を吐き出した。バックミラーをのぞくと、眼鏡を外してハンカチで顔をぬぐう関森正人が映っていた。
「即答はできません。まあ、でも前向きに検討させてください」
 権力に抗するほど私は愚かではないし、ましてや声高に非難して正義を振りかざすほど、私は世間知らずではない。ただし、それは表向きだ。恭順の意を示しても、動かないことは世間にはよくあることだ。運転席にいる戸川凛子が意味ありげに笑ったのがみえた。どうも彼女には見透かされているような気がする。これだから美人は嫌いだ。
「佐分利さん、いい返事を待っていますよ。決して悪いようにはしない。なんたっていま党のなかで一番力を持っているのは、野島幹事長なんだからね。風は確実に野島先生のほうに吹いている。だから佐分利さんもその風に乗ったほうがいい。そうだろう、戸川先生」
「本当ですわ。関森先生のおっしゃるとおりです」
「戸川先生もそうだ。まだお若いが先見の明を持っている。私はね、戸川先生を買っているんだよ。いずれわが党の重要なポストをまかせられるだろう。そんな器量があるんだよ」
「嬉しいですわ。将来総裁になられる関森先生にそこまでいっていただけるなんて光栄です」
「ははは、嬉しいことをいってくれる。いやなに、近々政策集団を立ち上げようかと思っているんだ。野島先生も応援してくれていてね。もちろん戸川先生にも声をかけますよ」
「嬉しいですわ。なんといっても先生は政策通でいらっしゃる。特に防衛関係では先生は傑出していらっしゃるものね」
「ははは、ありがとう」
 よくまあ、これだけ歯の浮くような会話を平気で続けられるもんだと、いまさらながら政治家という人種に驚いた。残念ながら私はいつでも天邪鬼になれる男だ。黙っていようと思っていたが、止まらなかった。
「でも、総裁選はいまのところ藤井康次氏のほうがやや優勢なんでは」
 バックミラーに映った関森正人の笑い顔が一瞬で固まった。戸川凛子のほうは、なにごともなかったかのように、すました顔をしている。しかし関森正人の立ち直りは早かった。
「そんなことはないよ、君。それは一部マスコミが意図的に流しているんだ。実際は違う。蓋を開けてみれば野島先生の圧勝だよ、君」
 なんだかバカバカしくなった。私はそうですかとだけいって黙った。
「もうそろそろよろしいですか、関森先生。佐分利さんはこのあと予定があるらしいんです」
「これは失礼。ではよろしく。佐分利さん、風は確実に野島先生に吹いている。その風に乗ることです。吉報を待っていますよ」
 関森正人が車を降りた。待っていたかのように、前方の車の助手席から秘書らしき男が降りてきて後部ドアを開けた。関森正人は肩を揺すりながら歩いている。彼が自分の車におさまると、秘書らしき男によってドアが閉められた。
「やれやれ、あなたも人が悪い」
「ごめんなさい」
 関森正人の車はすでにいない。
「しかし、彼はずいぶん芝居がかっていますね」
「関森先生はお芝居がお好きなんです」
「芝居といっても、みるに堪えない素人芝居でした」
 戸川凛子は、フフフと笑った。
「しかし驚きました。こんな話をされるとは思いませんでした」
「ごめんなさいね」
「関森先生も秋本のことをご存じということは、野島派ではあなたをマークしている秋本の情報は共有されているんですな」
「もちろんです。生き馬の目を抜く世界ですもの」
「情報戦というわけですな」
「ええ、そうよ。それはそうとして、佐分利さんは曲がったことがお嫌いですか」
「なんですかいきなり」
「さきほど関森先生の提案に即答はできないとおっしゃったでしょう」
「ああ、そのことですか。深い意味はありませんよ。それに前向きに検討するといったはずですが」
「たしかにそうおっしゃっていたわね。でもちょっと嫌な表情をされていたようにみえたわ」
「まだまだ修行が足りないようですな。もっとも三十年前ならきっぱりとお断りしていたかも知れません」
「すると、いまは酸いも甘いも噛み分ける年齢になったということね」
「すれただけですよ」
「いい意味で枯れてきたのね」
「それは買いかぶりです」
「私、これでも人をみる眼はございますのよ」
「その美しい眼もたまには曇ることもあるでしょう」
「フフフ、お上手ね」
 戸川凛子がゆっくりと車を発進させた。
「それでね、佐分利さん、さきほどのあなたの質問なんですけど」
「秋本が接触してきた場合の私の取るべき行動ですな」
「ええ、そうよ。むずかしい話ではないわ。秋本が接触してきたら、こういってほしいの。戸川に会わせてやると」
「え? なんですって?」
「私に会わせてやるといってほしいのよ。私が会ってもいいといっていた、でもいいわ」
「会うつもりなんですか」
「ええ、会うわ」
「秋本は注意人物だとあなたはおっしゃった」
「まさか危害を加えられることはないでしょう」
「それで会ってどうするつもりなんです」
「さあ、どうするかは会ってみなければわからないわ」
 会ってみなければわからないなんて嘘だ。彼女のなかではきっちりとシナリオはできているはずだ。しかし会ってどうするつもりなんだ。
「懐柔ですか」
「喧嘩はしないつもりよ」
「それならばいっそのこと、ご自分から接触してはいかがです」
「それは駄目よ。向こうがさきに接触してきたという事実が重要なのよ。こちらからさきに仕掛けてはいけないの。わかるわよね。どこでどう誤解されるかわからないでしょう」
「それは同じ派の仲間から誤解されるかも知れないということですな」
「さすが佐分利さん、察しがいいわ」
「でもあなたのその計画は関森先生は承知なんですか」
「詳しくはご存じありません。具体的にどうするかは私と相談してほしいとおっしゃっていたでしょう。私にまかせるということなのよ。ですからこれは私の一存です。どうかしら。やっていただけるかしら」
「それはかまいませんが……では秋本が話に乗ってきたあとの手はずは?」
「秋本と連絡をつけられるようにしてほしいの。そのあとは私がなんとかするわ」
「わかりました」
「嬉しいわ。本当に今日はお話しできてよかったわ」
「私もです」
「……佐分利さん、私ね、探偵という職業に偏見を持っていました」
「ほう」
「最初に佐分利さんとお会いしたときも、多少そういう眼でみていました」
「いまはどうです」
「正直にいっていいかしら」
「どうぞ」
「まだ二割はあるわ」
 聞きようによっては、相当な嫌味に聞こえるが、そうは聞こえなかった。戸川凛子の人徳か、今日の私の機嫌がすこぶるいいのか、微妙なところだ。
「八割は信用されたんですね」
「ごめんなさいね。素行の悪い探偵のニュースがあったりしたでしょう」
「探偵はおしなべて金で動くと思っていましたか」
「ええ。ごめんなさい」
「私は要領が悪いんです」
「野心家じゃないのね」
「ははは、あなたも人が悪い」
 戸川凛子は、またフフフと笑った。
「ではよろしくね。そうそう、佐分利さんとはもう同志ですわね」
「同志ですか……お若いのになかなか古風なことをおっしゃる」
「この言葉を使うと、おじさまがたに喜ばれるんです。佐分利さん、女が政治の世界で生きていくのは大変なんですよ」
「私がいうのも変ですが、あなたはじいさまがたが束になってもかなわないぐらいお強い。りっぱな政治家になりますよ」
「皮肉かしら」
「とんでもない。本心ですよ。でも、歯の浮くようなセリフが気に障ったのでしたら謝ります」
「いいえ、佐分利さんの本心でしたら嬉しい言葉だわ。ありがとう」
 霞が関三丁目交差点の信号が赤になった。車は減速した。
「佐分利さん、降りていただくのはこのへんでいいかしら。しつこいようですが、さきほどの私からのお願いはよろしく。それからこれからも私への連絡をお忘れなく」
「心得ました」
 戸川凛子は虎ノ門交差点まで送ってくれた。車を降りて、新橋方面に向かう赤のプリウスを見送った私は、その足で事務所に向かった。

 暗くなってから事務所を出て直人のアパートに向かった。直人の部屋の隣に住む若い男に、直人をみかけたり、物音を聞いたりしたら、連絡をもらうことになっているが、まだない。若い男を信用しないわけではないが、やはり自分の眼でみてみたい。
 直人のアパートの前に着いたときに時計をみた。駅からの時間は前回よりも確実に早くなっていた。一階の道路側に面した部屋の前に立ったが、キッチンの窓ガラスに明かりはみえない。ためしにドアノブをまわしてみたが鍵はかかっていた。それほど落胆はなかった。
 六世帯のうち、半分の三世帯に明かりがついていた。隣の部屋は明かりがついていた。ドアをノックした。しばらくして返事があり、ドアが細めに開けられた。若い男は私の顔を覚えていてくれた。
「ああ、この前の」
 そういうと、若い男は外に出てきてくれた。猫の写真がプリントされているTシャツに半ズボン姿だった。
「食事中だった?」
「ええ、まあ」
 口の端にソースがついていた。
「それは申し訳ない。それで隣の南雲さんだが、相変わらず姿はみえないかな」
「いないみたいですね」
「物音も聞こえないかな」
「ええ、聞こえないですね」
「訪ねてきた人は?」
「僕が知っている限りいないですね」
「なにか気がついたことがあったときは連絡をお願いしますね」
「わかりました」
「これ途中で買ったんだけど、よかったらどうぞ」
 途中のコンビニで買ったお茶のペットボトルを渡した。
「ああ、どうも」
 若い男が受け取った。
 若い男が自分の部屋に入ったあと、直人の部屋の前に移動した。そっとドアに耳を近づけた。なかは気味が悪いほどひっそりとしていた。
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