第3話

文字数 11,978文字

       3

 古びたスチール製のドアから入ってきたはじめての訪問者は、眼の前に立っているカーテンパーティションに戸惑い、決まって立ち止まる。そして、そこに貼ってある紙をまじまじとみて、おもむろに左側に顔を向ける。そのあと、左側のデスクとテーブルとソファーがある四畳半ほどのスペースをみて、その狭さに驚き、デスクにいるジジイをみて、さらに驚く。それがほぼ共通したひとコマだった。
 だが、時間どおりにやってきた眼の前の訪問者は違った。そのいずれにも戸惑いや驚きはなく、流れるような動作で私の前に立ち、「戸川です」と電話よりも三歳は若い声で名乗った。
 土屋記者の話はあたっていた。十人いれば九人は美人というに違いない。さらに、そのなかの三人は、小悪魔的な美人と形容するだろう。
 優しくカールした栗色の髪がピンクのスーツに似合っていた。聞いていた年齢よりも若くみえる。たぶん五歳はサバを読んでも通るだろう。ややしゃくれた顎と鼻筋の通った小顔は、気の強そうな印象を受けるが、愛嬌があると受け取る人もいるだろう。性格は愛嬌があってほしいが。
「お忙しいとは思いますけど、少し私のお話を聞いていただけるかしら」
 戸川凛子が優しい声を出した。私はひとつうなずいた。
 戸川凛子は、私がすすめたソファーに座ると、手に持った赤のブリーフケースを隣のソファーにきちんと置いた。私はおもむろにデスクをまわって向かいに座った。いい香りが漂っていた。あいにくと無粋な私は見当もつかないが、たぶん高級な香水をつけている。
 いつもの名刺交換のあと、相手の名刺をじっくりとみた。半分以上を占めている上半身の写真がやはり眼を引く。それに比べてやや控えめな党名と、その二倍はあろうかと思われる自分の名前は赤だ。裏を返した。事務所の住所や電話番号に混じって、自分の携帯の電話番号もあった。
 戸川凛子をみると、同じように私の名刺を眺めていた。やがて彼女は名刺から私の顔に視線を移した。ちょっとさぐるような視線だった。なんだか人品の値踏みをされているような感じがした。若いとはいえ、代議士ともなると、いままで数多くの人と会い、その評価を下してきたであろう彼女の眼には、探偵業というあまり上品とはいえない職業を生業としている私は、どのように映っているのだろうか。聞いてみたい気がするが、たぶん聞かないほうがいいのだろう。
 私は彼女に断ってソファーから離れ、法律事務所側にある冷蔵庫からお茶のペットボトルを出し、ふたつのコップに注いだ。あいにく娘の奈緒子とふたりの事務スタッフは外出していた。
「あいにくと私しかおりませんのでなんのおかまいもできません」
 そういいながら戻った私はコップをテーブルの上に置いた。彼女は軽く頭を下げた。
「梅雨だというのに暑い日が続いていますな」
 戸川凛子はなにも答えず私の顔から視線を外さない。どうやら雑談はする気がないようだ。私は咳払いをひとつして手帳を開いた。
「それではご用件を承りましょうか」
「最初にお断りしておきますが、あなたを知ったのは弁護士の桑原先生からのご紹介です」
 桑原先生のところを特に力を込めて彼女はいった。
「もちろん桑原弁護士はご存知ですね」
 私は、ええ、といい、うなずいた。
「たしか、桑原先生は保守党の顧問弁護士をやっていらっしゃる」
 知っているがあえて尋ねた。
「そうですわ」
 今度は彼女がうなずいた。
 娘の奈緒子が独立する前に世話になった師匠筋の弁護士だった。ずいぶん前になるが、娘を介して桑原弁護士から調査の仕事を一度だけしたことがあった。桑原弁護士はユーモアのわかる人物だった。私とは妙に気の合うところがあった。おそらく、私のことをおもしろおかしく話したであろうと容易に想像できた。ただし、それが眼の前の人物に通じたかどうかは疑問だ。
「私は桑原先生をよく存じ上げております。大変信頼のおける先生です。その先生からのご紹介なので、私はあなたを信用して調査をおまかせすることにしました。これからお話しすることは、個人情報という微妙な問題に触れることなので、そこのところは重々承知をしていただく必要があります」
「はあ」
 私は軽く頭を下げた。
「しつこいようですが、なにかあると桑原先生にもご迷惑が及ぶこと、ご承知くださいね」
「はあ」
 私はもう一度軽く頭を下げた。
 桑原弁護士の顔を立てるのが八割。もしかしたらという期待が二割。そんなところか。それで結構。そうであっても文句をいう筋合いではない。
「そのつもりでこれからのお話を聞いていただきます。当然ながらご家族のかたにも他言無用です。あなたは非常に口が堅いかただと噂でお聞きしましたが、私に後悔させることはありませんね」
「もちろんです」
 だれからの噂なのかは知らないが、本当のことなので私はすぐにそう答えた。
 戸川凛子はちょっと居住まいを正した。
 事務所内は充分に冷えていた。私には少し寒いぐらいだった。彼女は額に軽くハンカチをあてた。
「ある男性の行方をさがしてほしいのです。男性の名前は、南雲直人。二十二歳。大学生です」
 戸川凛子はそういったあと、横に置いてあるブリーフケースのなかから一枚のメモ用紙と写真を取り出し、私に寄こした。写真は半年前に撮った南雲直人だとつけ加えた。
 まず写真をみた。写っているのは若い男がひとり。上半身が写っている。黒のハーフコートを着ている。屈託のない表情。白い歯をみせている。痩せてもいないし太ってもいない。色白で髪はやや長め。特徴をあげると、面長で切れ長の眼がそうか。それと口元のホクロが印象的だ。いまどきの大学生といった感じか。背景はどうやら大学のキャンパスのようだ。
 次にメモ用紙をみた。そこにはその若者の名前と住所と携帯の電話番号が書いてあった。
「なるほど。失踪調査のご依頼ですな」
「ちなみに、そこにある電話番号に何回もかけていますが、電源が切られているようです」
「そうですか」
 私は写真とメモ用紙を手帳に挟みながら、政治的な背景があるのならちょっとやっかいだな、とそんなことを考えていた。
「では、詳しくお聞きしたいのですが、よろしいですか」
 私はメモを取る体勢を取った。
「その前に佐分利さん、お時間が許すのなら少しだけ脇道に逸れていいかしら」
「かまいませんよ」
 時間ならたっぷりある。私はうなずいた。
「本題に入る前の予備知識と考えていただきたいの」
「わかりました」
「内臓の話です。内臓といっても腎臓のことです。もちろん人間のですよ」
 うん? なんだって?……私はジンゾウという言葉を二度心のなかで呟いた。
「ごめんなさいね。驚かれたでしょう。佐分利さん、腎臓のことはお詳しいですか」
 いきなり先生から指名された生徒のように私はちょっとどぎまぎした。しかし私はすぐに立ち直り、むかしなにかでみた人体図鑑を思い出した。たしか腎臓は左右ひとつずつあって、背中側の腰の少し上あたりにあったと記憶している。働きとしては……老廃物を尿として体外に出すというものだったはずだ。
「残念ですが、腎臓の知識はほとんどありません。知っているのは、間違っていなければ、左右ひとつずつあるということ、老廃物を尿として体外に出す働きをしているということ、そのぐらいです」
「残念ですけど、ほとんどの人はそのぐらいの知識なのね。ごめんなさいね。責めているのではないのよ。私だって以前はそのぐらいしか知らなかったわ」
「それをうかがって安心しました」
 戸川凛子はフフフと小さく笑った。
「ちょっと長くなるかも知れませんけどいいかしら」
「かまいませんよ」
 お茶をひとくち飲んだ。つられたのか戸川凛子もお茶のコップに手を伸ばした。お茶はほどよく冷えていた。
「カンジンカナメという言葉があるでしょう。ご存じだと思いますけど、非常に大切という意味です。肝心要とも書くし肝腎要とも書くんです」
 戸川凛子は自分の眼の前で指を使ってふたとおりの漢字を書いてみせた。
「一個がこぶし大の大きさでそら豆のような形をした腎臓は、それほど重要な臓器なんです。佐分利さんのおっしゃるとおり、人間の体内には二個あって、血液中の老廃物を濾過して余分な水分とともに尿を作る機能と、あとは体内の水分量や電解質の調整やホルモンの分泌と調節といった機能があります。つまり、生命を維持し、身体の環境を一定に保つ大切な役割を担っているんです。でも腎臓も沈黙の臓器といわれていて、そのため症状の発見が遅れ、気がついたときには深刻な状態になっていることが多いの。その腎臓に問題が起きると、尿毒症や高血圧や貧血などといった症状が現れるんです。そして一度失われた腎臓の機能はもとに戻ることがむずかしく、進行すると慢性の腎不全になる可能性があるんです。佐分利さん、慢性腎臓病の患者数はご存じかしら」
「いいえ」
「約千三百三十万人。これは成人の八人に一人の割合なんです。もう国民病なんです。そして、さらに腎臓の機能が低下し、日常生活を送ることが困難になった場合は、透析療法や腎臓移植によって腎臓の機能を代替する治療が必要となるのが現状なんです。ようするに末期の腎不全になると、命をつないでいくためには、移植か透析が必要となるの。その透析なんだけど、日本は世界有数の透析大国で、透析人口は三十三万を超えているんです。驚くことに毎年一万人弱ペースで増えているんです」
「透析大国といわれる理由はなんです」
「腎臓移植が少ない。それと透析医療の技術の高さ。つまり死亡率の低さね。あと、透析に入らないようにする努力がちょっとだけ医療機関に足りないということもあるわね」
「努力が足りない?」
「ええ、保存療法という考えかたがあって、食事療法と薬を活用すれば透析を遅らせることも可能だという試みです。それを実践する医師もいます。でも残念ながら医療機関にとっては透析のほうが収入が大きいということがあげられるのよ。ただ、保存療法は医師の負担が大きいという側面があるのも事実よ。だから一概に医療機関を責めるわけにもいかないのよね……透析の話に戻るわ。佐分利さん、透析患者はライフスタイルを大きく変更しなければいけなくなることはご存じかしら」
「時間を拘束されるということですね」
「そうなの。圧倒的に多い血液透析の場合、一週間に三回、それで一回にかかる時間は四時間なのよ。大変な拘束でしょう。そして食事制限が厳しく、合併症の危険もあるわ。透析患者の生存率は、五年で六十パーセント。そして平均余命は健常人の概ね半分といわれているのよ」
「なるほど。それは大変だ」
「わかっていただけたかしら。でもね、それでも元気に明るく頑張って生きている人はほとんどよ。そのことも忘れないで。佐分利さん、ここまでが前置きです。これからが本題です。ここまではよろしいかしら」
「ちょっと待ってください。本題に入る前に、できればいまお話に出た腎臓移植のこともお聞きしたいですね」
「そうね。その説明も必要だったわね。私のほうはかまわないけど、佐分利さんのお時間は大丈夫かしら」
「大丈夫です」
「では前置きを続けるわね……そもそも腎臓移植とは、ほかの人の腎臓を移植することで腎臓の働きを回復させる治療法よ。末期腎不全の唯一の根治療法なの。方法はふたつあるわ。献腎移植と生体腎移植よ。献腎移植は、脳死または心停止されたかたからの移植ね。これは善意により提供されます。いま献腎移植希望登録者数は、一万二千人を超えるの。そして待機期間は、平均約十五年もかかるのよ。これはね、改正臓器移植法によって増えたとはいえ、献腎ドナーの絶対的不足があるのよ。やはり献腎という意識の問題ね。献腎移植が多い欧米に比べて日本人には希薄なんだと思うわ。死に対する考えかたの違いがね……いっぽう、腎臓移植の九割弱にあたる生体腎移植は親族からの提供よ。厳密にいうと、六親等以内の血族と三親等以内の姻族に限られるわ。もちろん腎臓提供者、つまりドナーは善意に基づく自発的な提供意思が必要なのはいうまでもないわ。実施症例数でいうと、生体腎移植は国内で毎年約千五百。献腎移植も合わせると約千八百弱。これは、日本の人口あたりの腎臓移植件数でいうと、先進国のなかでは最低で、アメリカの五分の一で韓国の半分以下なの。なぜ日本は少ないのか……それは献腎ドナーが不足していること。それと透析医療に対する社会保障制度が充実していること。ようするにわが国はやはり透析主導なのよ。私はそう考えるわ」
「質問はいいですか」
「ええ、いいわ」
「腎臓移植患者の生存率はどうなんです」
「生体腎移植の場合は五年で約九十七パーセント。献腎移植でも五年で約九十三パーセントよ」
「それはまたすばらしい数字ですね」
「医学の進歩ね」
「腎臓移植をするとバラ色に聞こえますが、デメリットはどうなんです」
「当然あるわ。移植を受ける人、つまりレシピエントは手術が必要になることね。そして拒絶反応を防ぐため一生免疫抑制剤が必要になること。その薬の副作用もあるわね。それから術後の定期検診が必要ね。生体腎移植の場合は、さらに健康体のドナーにもメスが入ること。ドナーも術後の定期検診が必要になること。そんなところかしら。でも、透析から解放されて健康な人と同じような生活が可能になるのよ。メリットのほうが大きいといえるんじゃないかしら。ほかに質問はあります?」
「いいえ、結構です」
「では、いよいよ本題ね」
 若いからなのか、それとも話し好きなのか、それはわからないが、戸川凛子は少しも疲れた顔をみせなかった。
「行方をさがしてほしいといった南雲直人君なんだけど、彼の立場がいままでのお話で察しがついたでしょう……」
「すなわちレシピエント?」
「その逆よ。ドナーよ。レシピエントは彼の唯一の身寄りで、叔母の片桐道子さん。彼女は透析患者よ。その片桐道子さんがいわれるには、連絡が取れなくなったのは、今月の一日からだそうです。それも突然連絡が取れなくなったらしいの」
「一日というと、二週間ほど前ですね……その日にちははっきりしているのでしょうか」
「片桐道子さんによると、前日まで彼と電話連絡が取れていたそうよ。でも次の日の朝、つまり六月一日の朝、彼から道子さんの携帯にメールが届いたの。私はそのメールをみせてもらったわ。メールは、しばらく留守にするのでさがさないでほしい、という内容でした」
「留守にする……それほど心配するような内容ではないと思いますけどね」
「私には信じられないのよ。もう少し説明させて……道子さんはメールの内容に驚き、すぐに電話をかけたそうよ。でも、もう電源が切られていて、つながらなくなっていたそうです。私もそうだけど、その後、何度電話をしてもつながらないんですって。南雲直人君はお渡ししたメモにあるアパートでひとり暮らしなんだけど、片桐道子さんは心配になって二度ほどアパートにも行ったそうよ。でもいつも留守。最後は思い余ってアパートの大家さんに鍵を開けてもらって部屋に入ったそうよ」
「だがいなかった」
「ええ、最悪の事態も想定していたんですって。でもそれは取り越し苦労だったとほっとしていたわ。でもだからといって心配がなくなったわけではないでしょう。それから彼女、ご自分を責めているわ」
「責めている?」
「ええ」
「それは、失踪の理由に関係しているんですね」
「彼女は自分の責任だと思っているわ……私が聞いたお話では、四か月ほど前、彼女は腎臓移植を決意したそうよ。彼がいなくなったのは、組織適合性検査も終わって次のステップである検査入院を間近に控えているときなんですって。つまり、片桐道子さんは、ドナーを決意した直人君が、自分のためを思って無理をしたんだろうと考えたのね。その結果、彼が追い詰められたんだろうと考えたわけ」
「ちょっと待ってください。そもそも腎臓移植をさきに言い出したのはだれなんです」
「直人君らしいわ。自分がドナーになると言い出したらしいわ」
「それだとおかしい。彼は自分の意思で決めたんでしょう」
「そうよ。さっきの前置きでお話ししたけど、ドナーの善意に基づく自発的な提供が建前よ。でもね、彼の境遇がね……早くにご両親を亡くした直人君に、救いの手を差し伸べたのが唯一の身寄りである叔母さんの片桐道子さんなの。直人君は中学から叔母さんに世話になっているのよ。透析で苦労している私をみてドナーを申し出たけど、やはり心の片隅で躊躇するところがあって、それがプレッシャーになったのでは。そう道子さんはおっしゃっているわ」
「それを聞いてあなたはどうお答えになりました」
「私?……その気持ちはとってもわかります、といったわ。病気でもない体から腎臓を一個提供することはものすごく勇気がいることです、ともいったわ。でもね、そういいながら私は、そのときものすごく嫌な感覚に襲われていたわ。なんだか消化不良を起こしたときのような感覚ね」
「ほう、それは具体的にはどんな?」
「違和感よ」
「違和感?」
「ええ、そうよ。違和感。でも誤解しないで。道子さんの気持ちに対しての違和感ではないのよ。私の違和感は、直人君があんなメールを残して道子さんの前からいなくなった、ということに対しての違和感なの」
「あなたがいだいた違和感に私が違和感を覚えるといったら怒りますか」
「怒らないわ」
 戸川凛子が悪戯っぽく笑った。
「私がなぜ違和感を覚えたのか。それは直人君から受ける印象のせいなの。どうやら私と直人君の出会いからお話ししないとわからないわよね」
「そうですな。ぜひその出会いからお聞きしたいですね」
「わかったわ……私が片桐道子さんと南雲直人君を知ったのは、腎臓移植を推進する団体の理事長さんからのご紹介なんです。おふたりともそこの熱心な会員で、理事長さんとも親しくて、その縁で知り合ったんです」
「それだけ?」
「ええ、そうよ。紹介されたときが初対面です」
 若干違和感を覚えるが、まあいいだろう。
「もし差し支えなければその団体名を教えてください」
「日本腎臓移植推進協会です」
「NPO法人ですか」
「ええ、そうよ。理事長さんのお名前は、狩野照子さん。彼女はジャーナリストでもあるわ」
「ほう、ジャーナリストですか」
「腎臓移植に関する本を何冊か出版されています」
「なるほど……それで?」
「直人君と道子さんにお会いしてお話ししたのは三回ぐらいだったわ。いずれも短い時間だったけど、いつも感じたのは、すごく真面目な好青年という印象だった。そしてまっすぐな性格も感じたわ。とても好感の持てる青年でした。そしてものすごく移植に前向きだったわ。瞳がとても澄んでいて、本心で叔母さんを助けたいと思って行動しているのがわかったの。そんな彼が叔母さんを裏切るような行動をしたなんてどうしても考えられないのよ。どうしても信じられないのよ……どうやら納得していないようね」
「私の気持ちはこのさい置いておきましょう。それで、南雲直人君をさがし出してどうしたいのです」
「道子さんときちんと会って真摯に話し合ってほしいの。逃げずによ。そうしてどうするのが一番いいのか、もう一度考えて決断してほしいの。移植をするのか、しないのかを。そのうえで、もし理由が聞けるのであれば、姿を消した理由もね」
 どうもこちらのほうが消化不良を起こしているようだ。胸のあたりがモヤモヤとしている。
「素朴な疑問ですが、よろしいですか」
「ええ、なんなりと」
「ご依頼の調査は片桐道子さんからではなく、なぜあなたからなんです」
「たぶんお尋ねになるのではないかと思ったわ。それはね、片桐道子さんが調査を依頼することにあまり乗り気ではないからなの。彼女は、直人君が心変わりをした結果、自分に合わせる顔がないから姿を消したと考えているのよ。だからいなくなったといっても、そんなに深刻に考えていないわ」
「そのうち姿をみせるだろうと……」
「そうね。そう思っているようね。でも、私がすすめたので一応は行方不明者届をもよりの警察署に提出しているはずよ」
 なぜ戸川凛子はそこまでしてやるのか、そこがわからない。
「どうしてもわからないのですが、なぜそこまでしてあなたが彼女たちのためにやってあげているのか。そこがどうも……」
「不思議?」
「ええ」
「別に深い意味はないわ。本当よ。彼女たちのためになにかをしてあげたい。それだけよ。いわば私のお節介よ」
「お節介ですか」
「いけない?」
「いいえ」
「もっとも、いらぬお節介と思われないことを願っているわ……まだ納得されていないようね」
「そんなことはありません」
「信じてはもらえないかも知れないけど、これでも損得勘定抜きで動くこともあるのよ」
 戸川凛子はフフフと笑った。
「こんなところでいいかしら。もう疑問はないでしょうね」
「では、最後の質問です。あなたは医療保険問題に熱心に取り組んでいるとお聞きしています。いままでのお話をうかがってそれは充分にわかりました。あなたと日本腎臓移植推進協会はどのようなつながりがあるんです」
「私が医療保険問題に取り組んでいることをご存じなのね。もしかして私のことお調べになったのかしら」
「ええ、まあ、少し。もし気分を害されたのでしたら謝ります」
「いいえ、大丈夫よ。それで私のことをなんで知ったのかしら」
「ある記者から聞いたんです」
「だれかしら、その記者さんは」
「政治部の記者とだけいっておきます」
「そうなの。悪い評判でなければ嬉しいわ」
「なかなか向上心があるかただと、その記者からうかがっています」
「いいかたを変えれば野心家ということね」
 すぐに切り返すところは機知に富んでいる。
「ご自分でおっしゃるのならそうなんでしょうね」
「どうかしら。でもだれでも多かれ少なかれ野心はあるんじゃないかしら」
「それは否定しません」
「そうそう、協会とのつながりをお聞きになったのね……そもそもは、私が所属している委員会の先輩議員の引き合わせなんです。その先輩議員は、もともと協会のサポーターをしていて、私の活動もよくご存じで、両方がプラスになるだろうと動いてくださったの。そのご縁なんです。私は理事長さんとお会いしてその活動に賛同しました。それで私もサポーターになって協会の活動に協力をさせていただいているんです」
「それは政治活動の一環なんですな」
「そうね。佐分利さんがおっしゃったように、私は医療保険問題に取り組んでいます。いま中心で取り組んでいるのが、腎臓病や透析や腎臓移植の問題です。これは私のライフワークなんです。佐分利さん、いま日本の医療費で透析にかかる年間の費用はいくらなのかご存じかしら」
「いいえ、知りません」
「一兆五千億円以上よ」
「そんなに」
「患者ひとりあたり年間約五百万円かかっているのよ。ただし患者自身は公的助成制度を利用することにより、一か月一万円から二万円ほどですむの」
「なるほど。それで国の医療費を圧迫していることになるわけですな」
「現在の国民医療費は四十兆円を超えていて、透析患者が国民医療費の約四パーセントを使っている。これを多いとみるのか、そうでもないとみるのか、意見が分かれるわね。佐分利さん、国民病といわれる糖尿病の三大合併症のひとつで、糖尿病性腎症があるでしょう。現在は透析導入の原因疾患の第一位はこれなんです。いまは透析患者全体の四十三パーセントにもなるのよ。佐分利さんもご存じだと思うけど、2型糖尿病は、生活習慣によって糖尿病になる人が多いでしょう。そう聞くとなんだか本人の責任のように聞こえて、なかにはそれで透析が必要となるのは自業自得だと、そんな極論をいう人もいるのよ。それはもちろん論外よ。糖尿病はね、生活習慣ばかりではなく、遺伝体質も関係しているといわれているので、本人のせいだとばかりいえないのよ。そこはわからなくてはね」
「しかし、それを極論と思わない人も結構いるのでは」
「そうね。残念ながらね。それは、自分だけが損をしているとか、自分だけが犠牲になっているかのように思っている人よね。そういうのは、社会保障や生活保護の恩恵を受けている人たちに向けてヘイト攻撃をする人と同じ目線のような気がするわ。それを偏見だと切って捨てれば簡単だけど、頑なに思い込んでいる人にはなかなか通じないわ。でもね、ちょっと考えかたを変えればどうかしら。つまり、この社会はひとりではなく、大勢が横でつながっていると考えるのよ。結局はこの社会は支え合う社会でしょう。支えている人もどこかでだれかに支えてもらっているし、支えてもらっている人もどこかでだれかを支えているのよ。こういうことをいうと、きれいごとばかりいうと攻撃されるかしら」
「いいえ、私は攻撃しません」
「ありがとう。それで話を戻すわ。ようするに、透析患者を単純に個人の責任に持っていっては駄目なの。でもね、健康に対して配慮することは必要よ。そのための啓蒙活動は大事なの。しかし現実は毎年患者が増えているのも事実。そのためにいかに医療費を減らしていけるか考えるのも大事なの。私はさきほど日本が透析大国になった理由として、腎臓移植が少ないのもそのひとつだといったでしょう。それは献腎移植希望登録者数と実施数をみてもわかるわよね。たとえば、献腎移植を希望して登録する腎臓バンクというものがいまあるでしょう。それの別仕組みが必要と考えているの。たとえていうならそれは、生体腎臓バンクというべき仕組みね。それを別途作り、生体腎移植をしたくてもできない移植希望者を登録して、その人たちに、献腎のように意思表示をしたかたの死を待つのではなく、バンクに提供を希望した善意の第三者の腎臓ですぐさま移植が可能になるシステムね。そんなシステムが必要と考えているの。ただそれには、臓器売買の犯罪や匿名性の担保などの問題をどう解決するのかといった、法整備が必要なのは当然ね。それ以外にもあるわ。それは病気腎移植とか修復腎移植とか呼ばれている移植の推進ね。これは病気で摘出された腎臓を捨てるのではなく、悪い部分を取りのぞいて移植に使うの。ただし、厚生労働省は先進医療に条件付きで適用を決めただけで、いまはまだ正式適用を目指している段階ね。私はこの病気腎移植のことをもっと世のなかの人に知ってもらう活動と、いま話した生体腎臓バンクの仕組みを国や厚生労働省に認めてもらえるよう働きかける。それが私のライフワークなの……ごめんなさい。また脇道に逸れてしまったようね」
「ちっともかまいませんよ。やはりあなたはいい意味での野心家ですな。それに賢い」
「よくとらえると賢明。悪くとらえると抜け目がない。どっちかしら」
「もちろん賢明なほうです」
「そう、嬉しいわ」
 戸川凛子はそういうと、横に置いてあるブリーフケースを手もとに引き寄せた。どうやら話はもう終わりのようだ。
「お話はよくわかりました。最善を尽くします」
「では引き受けていただけるのね」
 戸川凛子は余裕の笑みを浮かべた。私が断ることなどはなから考えてもいないのだろう。そんな余裕の笑みだ。
「これは叔母さんの片桐道子さんにお聞きしたほうがいいのかも知れませんが、直人君はほかにトラブルを抱えていたとか、そういう話はご存じではありませんか」
「知らないわ。それは道子さんに直接お聞きになったほうがいいわ」
「ではそうしましょう。できれば、片桐道子さんの電話番号と狩野照子さんの電話番号をお願いできますか」
 戸川凛子は軽くうなずくと、ブリーフケースから手帳とボールペンを出して、余白のページを一枚破くと、暗記しているのか、すらすらと書いて私に寄こした。私はそれを自分の手帳に挟んだ。
「私からおふたりには話を通しておきます」
「それは助かります」
「最後に、佐分利さんは充分にご理解いただけていると思いますけど、今日お話に出た個人の情報にかかわる問題は、充分に取り扱い注意です。もちろんあなたのお嬢さまである神山奈緒子先生や、親しいご友人である、たしかもと警視庁の警部さんも、その例外ではありませんわ」
 もと警視庁の警部というのは、スワン探偵事務所の所長のことだ。
「私のことをお調べになったんですね」
「お互いさまね」
 私が苦笑いを浮かべると、戸川凛子は余裕の笑いを浮かべた。これだから美人は嫌いだ。
「それではまたお会いしましょう」
 戸川凛子が立ち上がった。
「適時連絡を入れます」
 私も立ち上がった。
「わかったわ。ではよろしく」
 戸川凛子は余裕の表情で軽快にスチール製のドアまで歩き、振り返らずに出て行った。
 私はデスクに戻り、手帳に挟んだメモ用紙を出した。女文字で南雲直人の住所と電話番号が書いてある。次に携帯を手に取ってためしにメモにある電話番号にかけてみた。戸川凛子がいうように、電源が切られている旨の無機質な声が流れた。
 それから十五分後、私が新聞を読んでいるとき、娘の奈緒子とスタッフの原田洋子と伊藤綾子が前後して帰ってきた。とたんに事務所が喧騒につつまれた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み