第42話

文字数 1,646文字

       42

 八月も終わりになろうとしている。相変わらず猛暑で熱帯夜が続いている。
 金曜日の今日は、腰と背中に張りがあり、すでに暑くなっている時間帯に出てきた私は、事務所に着くなり、少しへばっていた。
 けたたましい金属音で自己主張をやめない椅子に座ったとき、ちょうど電話を終えた奈緒子が、みずからお茶を持ってきた。
「今日は遅いのね」
「失敗した。涼しいうちに出てくればよかったよ」
「ねえ、お父さん、少し痩せたんじゃない」
「変わらないさ」
「そう、それならいいけど」
 変わらないといったが、最近は体重計に乗っていない。今日あたり測ってみるか。
「ねえ、今度の日曜日は空いている?」
「たぶん」
「ゆかりがうるさいのよ。おじいちゃんと一緒に食べるんだって」
 孫のゆかりがそういってくれるのも、あと何年なのか。
「夕飯か?」
「ええ、こられるでしょう」
「ああ、行くよ。ところで、カップケーキ作りはまだ続いているのか」
「ああ、あれはもう飽きたみたい。最近はクッキーよ」
「ということは……」
「覚悟しておいてね」
「わかった。せいぜい腹を空かせて行くよ」
「それから、彼は無事に着いて明日から仕事だって」
「そうか」
 奈緒子の夫の義孝は、短い夏休みを終えて二日前にアメリカに戻っていた。
「それでね、お正月はゆかりと一緒に向こうに行ってみようと思っているの」
「それはいいね。ゆかりも喜ぶだろう」
「ちょっと遠いけどね」
「義孝君には話したのか」
「ええ、賛成してくれたわ。それで彼がね、お父さんも一緒にどうっていっているんだけど」
「それはありがたいが、遠慮しておくよ。長旅はごめんこうむる。ふたりで行っておいで」
 狭い椅子に長時間縛られているのは苦痛以外の何者でもない。尻は痺れるし、腰は悲鳴を上げる。家でビールを飲みながらのんびりとテレビをみているほうがよっぽどましだ。
「まださきだからゆっくり考えておいて」
「わかった」
 奈緒子が自分のデスクに戻った。
 私はバッグから新聞と携帯を取り出し、デスクの上に置いた。お茶をひとくち飲み、新聞を広げた。そのとき携帯が鳴った。
「元気か」
 所長の元気な声が響いた。
「まあまあかな」
「それは重畳。ところでいまは暇か」
「根が生えそうだ」
「それは助かる。今日こられるか」
「どんな案件だ」
「いつものように浮気調査だよ」
「わかった。何時に行けばいい」
「こっちも用意があるから、午後二時でどうだ」
「わかった」
「ところで、園部からその後連絡はあったか」
「おとといあった。やっこさん、鼻息が荒い」
「ほう、なんで?」
「例の秋本のレポートだが、今度の事件のあらましを追加して本にするんだとさ。秋本と共著にするらしい」
「共著か。やっこさんもいいところあるな。本になったらぜひ読ませてもらうよ」
「私は遠慮する」
「うん? なんでだ」
「なんでも、スーパーヒーローのジャーナリストと、その足を引っ張る間抜けな探偵が登場するらしい」
「そいつはいい。それはぜひ読ませてもらうよ」
「勝手にしろ。そんなことよりも、きのう戸川凛子から電話があった」
「戸川代議士から?」
「ああ、南雲直人のことを知らせてよこした」
「なんだって?」
「片桐道子さんと直人は検査入院も終わり、いよいよ腎臓移植の手術らしい」
「それはよかったな」
「ああ、ほっとしたよ。戸川代議士も喜んでいた」
 二時の約束を再確認して私は電話を切った。携帯をデスクの上に戻し、また新聞を手に取った。久しぶりの仕事だ。おそらくそれほど厄介な調査にはならないだろう。どうやら今日のビールは格別に喉に染みわたりそうだ。外出は新聞を読み終わってからにする。途中で昼飯を食べ、本屋に寄るつもりだ。

                             了


(参考文献)
・日本臨床腎移植学会 「生体腎移植ドナーガイドライン」
・日本移植学会倫理指針
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