第15話

文字数 6,245文字

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 東京駅の八重洲口を出て、八分ほど歩くと、横に細長い十階建てのビルがある。阿比留工業の自社ビルだった。阿比留工業は、売上高が五千億の準大手ゼネコンではトップクラスの会社だった。マンション開発と住宅関連事業でその名前が広く知られていた。
 野島幹事長の後援会会長である阿比留健太郎は、創業者の長男で二代目社長であった。くる前に娘の奈緒子から得た情報によると、阿比留健太郎は、七十五歳で相当なワンマンだという。ただ、血圧が高く、高齢ということもあって、長男である専務の阿比留伸介に近々代替わりするらしい。その阿比留伸介は四十八歳。親父に頭を押さえつけられているバカ息子ではなく、それなりにやり手らしい。
 約束の時間の八分前にビルに入った。決められた時間はたった三十分間だった。間違っても遅れるわけにはいかなかった。まず入口の受付で、自分の名前と用件を告げた。受付嬢はすぐさま専務秘書に内線電話をかけた。内線電話はなかなか終わらなかった。その間、私は受付の前で、待ての合図でひたすらお預けを食わされている飼い犬よろしく、行儀よく律儀に立っていた。五分後、やっと内線電話を切った受付嬢は、受付前方の待合椅子を指差した。
 今度は待たされることはなかった。奥のエレベーターから若い女性が降りてきて、私の前にきて社長秘書だと名乗った。一瞬聞き間違いかと思った。私は専務秘書がくるものとばかり思っていた。ところが社長秘書だという。そんな私の表情に気づいた社長秘書は、社長と専務がお会いになります、といい、慇懃に頭を下げた。先方の事情はわからない。だが反対する理由はなかった。私は秘書と一緒にエレベーターに乗り、最上階で降りた。
 最上階は役員フロアーだった。通路は分厚いカーペットが敷かれ、個室が並んでいた。それぞれのドアには、役職を示すプレートが貼ってあった。一番奥の部屋が社長室だった。秘書は、ドア横のICカードリーダーに自分のICカードをかざして解錠すると、もう一度慇懃に頭を下げた。
 入ると、前に秘書のデスクがあり、さらに奥にもドアがあった。秘書がそのドアをノックすると、なかからどうぞという声が聞こえた。秘書がドアを開け、私を通してくれた。
 広い部屋だった。上場企業の社長室の標準がどの程度の広さなのかわからないが、おそらく平均的な広さなのだろう。ただ、調度品は予想に反して質素だった。大きなデスクと応接セットと書棚があるだけだった。なんとなくトロフィーや賞状のたぐいが所狭しと並べられているのを想像していたが、それはなかった。
 テーブルを囲んで、ひとり掛けの椅子が六脚整然と並んでいる応接セットに、すでにふたりの男がこちらを向いて座っていた。
 右側に座っているのがたぶん専務の阿比留伸介。きちっとした七三分けで、若いのにところどころ白髪がみえる。スポーツでもやっているのか、がっしりとした体格と、エラの張った四角い顔が特徴的だった。だが、なにより眼を引くのは、そのギョロ眼だった。
 左側に座っているのが同じくギョロ眼で丸刈り頭の老人。社長の阿比留健太郎だ。むかしみた経済誌に顔写真が載っていた。こうして当人の顔をみてそのことを思い出した。いま実際に間近でみると、阿比留健太郎も阿比留伸介と同じように、がっしりとした体格の男だった。
 私が名前を名乗ると、阿比留伸介が前の椅子に座るようにとすすめてくれた。
「あんたがくることは専務から聞いた。なんでも戸川代議士の紹介らしいな。用件は南雲直人君のことだと聞いたんでわしも同席することにした。かまわんだろう」
 私が差し出した名刺には眼もくれずに、阿比留健太郎は相手をねじ伏せるような野太い声でそういった。
「もちろんかまいません」
 そもそも私の承諾など求めてはいなかった。その証拠に、阿比留健太郎は、私の話が終わるか終わらないかのうちに、野太い声で続きの話をもうはじめていた。
「ただし、あんたを歓迎しているわけではない。生業についてとやかくいっているのではないぞ。直人君についてどんな話をするのか興味があるので会うだけのことだ。そのことをお忘れないようにな」
 特徴であるギョロ眼で睨まれた。社長も専務もギョロ眼だが、社長のほうがひとまわり顔が大きいので、パグそっくりだった。だが、愛嬌があるのは顔だけで、性格のほうは、愛嬌があるとはとても思えなかった。
「それで、用件をお話しいただきましょうか」
 専務がそういって少し体を乗り出した。そのとき、さきほどの秘書が三人分の湯飲みを持って部屋に入ってきた。彼女は湯飲みを素早くテーブルの上にくばり終えると、流れるような動作のまま会釈をして早足で部屋を出て行った。そういうふうに躾けられているのか、それとも一刻も早くこの部屋から逃げたかったのか、それはさだかではないが、途中でつんのめってしまうのではないかと心配するほどの早足だった。
 私は咳払いをひとつしたあと、口を開いた。
「単刀直入にお聞きします。五月十五日、八重洲口のコーヒーショップで、専務は南雲直人君とお会いしていますね」
 予想外の話だったらしく、専務の体は固まり、心底驚いた顔をしていた。社長のほうはといえば、ギョロ眼で私を睨んだままだった。
「どうなんでしょう」
 念を押すと、専務は固まっていた体を動かし、やや眼を細めた。
「なんの話かわからんが、なにをお聞きになりたいのかな」
 視線はまっすぐ私を向いていた。
「まずそれが事実かどうかお聞きしたい。実はみた人がいるんです」
 ほうという顔をした。
「……それで?」
 どうやら事実であると認めたようだ。そのさきを促した。
「みた人によると、おふたりともなにやら深刻な顔でお話をされていたらしい。そこで、そのお話ですが、内容をお聞かせいただけないでしょうか」
 専務がモゾモゾと体を動かした。いきなり立ち上がって大声を出すのではと思った。私はちょっと身構えた。怒鳴りつけられてもおかしくない質問だとわかっていた。しかし専務はただ体を動かしただけだった。それは戸川凛子の紹介だから遠慮したのか、それとも思ったよりも私がジジイだったから遠慮したのか、それはわからない。
 社長が煙草に火をつけた。次にお茶を一気に半分ほど飲み、煙草をせわしなくふたくち吸って消した。大振りのガラスの灰皿にある吸殻は、ほとんど長いまま消されていた。昨今は、ほとんどの事務所で禁煙になっているが、ここだけは治外法権のようだった。
「なぜあなたに話さなければいけないんですかな」
 専務の疑問はもっともなことだった。
「その後の南雲直人君については、専務はご存じない?」
「おっしゃっている意味がよくわかりませんな」
 どうやら直人の失踪については知らないらしい。それを話さない限り専務はとぼけるだろう。最悪の場合、ここからつまみ出されるかも知れない。戸川凛子は、おまかせします、といった。ということは私の判断にまかせたということになる。
「専務はご存じないようなのでお話しします。六月一日の朝に、叔母の片桐道子さんあてに連絡を入れたあと、直人君は消息を絶っています」
「え?……」
 専務が理解できないという顔になった。
「直人君は現在行方知れずで連絡が取れない状態です」
「なんですって?」
 専務が大きな声を出した。
「彼の友人たちの協力も得て、いろいろとさがしてはいますが、いまのところ行方はわかっていません」
「それは本当か」
 今度は社長が大きな声を出してぐいと体を乗り出した。
「本当です」
「つまり……それは失踪?」
 専務がそういって小さく唸った。
「そのようです。もっとも、失踪という言葉は、片桐道子さんは抵抗があるようですが」
「あんたは道子さんに会ったのか」
 もとの声に戻った社長が聞いた。
「会いました」
「道子さんはなんて?」
 専務が聞いた。
「ちょっと待った。それであんたは直人君の失踪調査をしているのか」
 私が専務に答える前に社長が口を挟んだ。
「そうです。依頼人を申し上げるわけにはいきませんが」
「そんなことはどうでもいい」
 社長が野太い声で吠えた。
「すると、最初のあんたの質問だが、そのことが直人君の失踪に関係しているというんだな」
「それはまだわかりません。判明している事実をひとつひとつ検証しているところです」
 社長が丸刈り頭に手をやり、ひと撫でした。
「どうなんだ」
 社長が横を向いて専務に問いかけた。
「こうなったらいわないわけにはいきませんね。たしかに、五月十五日に八重洲口のコーヒーショップで直人君と会いました。私が会いたいといったんです。その二日前、つまり五月十三日でした。涼平君から……涼平君というのは……」
 私に向かって説明しようとしたので、私はそれを遮り、片桐道子さんの息子さんのことは知っています、といった。阿比留伸介はうなずき、話を続けた。
「その涼平君から相談したいことがあるといって連絡があり、会いました。相談というのは借金の申し込みでした。金額は二百万でした。意外と大金なので驚きました。断ると次に百万になりました。最後は五十万でもいいといいました。でも私は断りました。実は、涼平君と会う三日ほど前でしたが、母親の道子さんから私に電話があったんです。涼平がお金を貸してほしいといってきても、絶対に貸さないでほしいといわれました。涼平君はまず母親に無心したらしいんです。でも彼女は断ったようです。そのときに、涼平君は私の名前を出して頼るようなことをいったようです。そこで道子さんは気になって私に連絡をしてきたんです。結局私は道子さんのいうとおりにしたわけですが、やはり気になるので、直人君ならそのへんの事情を知っているのではないかと思って、彼を呼び出して尋ねたというわけなんです」
「直人君はなんていいました」
「なにも知らないといって、非常に驚いていましたね。それは嘘じゃないと思いました。そして彼は涼平君に確かめてみるといっていました。なにかわかったら連絡をくれることになっていたんですが……その後なにも連絡はないです……もしかしたら……まさかね。いや、迂闊なことはいえないな」
「涼平君が直人君になにかしたとか」
「いやいや、やめましょう。縁起でもない」
「ふたりの間になにかあったという事実でもつかんでいるのか」
 社長が私にそう聞いた。
「なにもありません」
「本当か」
 社長がギョロ眼で睨んだ。白状するならいまのうちだぞ、とその眼がいっていた。
「本当です」
「そうかわかった」
 意外と簡単に納得してくれた。
「涼平君ですが、お金の用途はいいましたか」
「それがね、しつこく聞いたんですがいわないんですよ。ただ、相当焦っているような感じは受けました。道子さんにいわれていなければ貸していたでしょうね。二百万は無理ですけどね」
 社長が新しい煙草に火をつけ、ふたくち吸って消した。専務は腕を組み、天井をみつめている。
 アパートの隣の住人が部屋のなかで直人と若い男が言い争いをしていたのを聞いている。お金のことで揉めていたようだったといった。五月の二十日だ。涼平が阿比留伸介に借金を申し込んだのが五月の十三日だ。そして阿比留伸介が直人を呼び出して事情を聞いたのが五月の十五日だ。日付の辻褄は合う。やはり言い争いの相手は片桐涼平だったかも知れない。
「それで、直人君の失踪の原因だが、あんたは本当につかんではいないのか」
 ひとつの嘘も見逃さないとでもいうように、社長は私を直視していた。
「道子さんはこう考えています。それをお話しする前に、直人君が腎臓移植のドナーになると決心した件はご存じでしょうか」
「知っていますよ。本人から聞きました」
「わしも知っている。あとで専務から聞いた」
「それならば話は早い」
 私は眼の前の湯飲みに手を伸ばし、ひとくち飲んだ。
「彼は叔母の道子さんに恩義を感じてドナーになるというぎりぎりの選択をしたが、それがだんだん重荷になり追い詰められてしまい姿を隠した。だがそれは一時的なもので、落ち着けば姿を現す。道子さんがおっしゃったことを要約するとこうです」
「道子さんがそんなことを?」
「しかし内心は穏やかではないと思います。かろうじて持ちこたえているという感じを受けました」
「そうでしょうね」
「あんたは違う考えなんだろう」
 社長が野太い声を出した。奈緒子はこうもいっていた。阿比留健太郎の個性は若いときから現場で鍛えられたものだと。この声と顔で迫られたらたいがいはビビってしまう。それもそうだが、どうして肖像写真の主は、揃いも揃って苦虫を噛み潰したような表情なんだろう。そんなことを一瞬考えた。正面の壁に、阿比留健太郎によく似た老人の肖像写真が額縁におさまっている。おそらく創業者だろう。その写真の主はギョロ眼で私を睨んでいる。さきほどから居心地の悪さを感じていたが、これのせいだった。あるいは、来客者を萎縮させるのが狙いなのか。
「なにか含むところがありそうだな」
 社長が体を反らした。威圧感は充分だった。
「含むところはありません。ただ、私は本人と会ったことはありませんが、いろいろな人に彼の人となりを聞くにつけ、今度の失踪は大いに違和感があります」
「それは私も同じです」
 専務がそういってうなずいた。
「あんたの意見をまだ聞いていない。直人君の失踪の原因を本当はつかんでいるんじゃないのか」
「残念ですがまだわかりません。これは本当です」
 社長は腕を組んで唸った。専務も同じように腕を組み、上を向いた。
「しかし心配だな……」
 社長が呟いた。
「ところで、佐分利さん、片桐家とわが社の関係は知っているんだろうな」
 社長が突然大きな声を出した。
「なんでも道子さんの亡くなったご主人がこちらの役員だったとか」
「そうだ。その関係でわしは涼平君も直人君も小さいときから知っている。だから心配なんだよ。彼らのことがな」
 社長の威圧感はなくなった。ひとりの老人の顔になっていた。
「わかります。その気持ち」
「もう時間だ。約束の三十分はすぎた。もうよろしいな」
 阿比留健太郎が時計をみてそういった。もうワンマン社長の顔に戻っていた。
「最後にひとつだけ。直人君はこちらに入社が内定していると聞いていますが、今回の騒動でその内定に影響するようなことがありますか」
 もし内定が取り消されるようなことがあれば、私は今日の訪問を悔やむことになるかも知れない。だからこの質問はぜひ聞いておかなければいけないと思っていた。
「見損なってはいけないな。彼の内定を決めたのは、本人に直接会ってわしが決めた。決して依怙贔屓ではなく、あくまでも人物評価によるものだ。だから彼の失踪理由がどんなものであれ、わしは彼を守る」
 横の阿比留伸介が大きくうなずいた。
「それをうかがって安心しました。本日は貴重なお時間を取っていただき、ありがとうございました。大変参考になりました」
「佐分利さん、直人君をさがしてくれ。お願いする」
 最後に頭を下げられた。普段は頭を下げることなどないのだろう。横にいる阿比留伸介が驚いた顔をしていた。
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