第9話

文字数 1,941文字

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 バッグから新聞と携帯を出してデスクの上に置き、ゆっくりと椅子に座った。めずらしく椅子の機嫌はよかった。そのかわり、こちらの腰の機嫌がさきほどからよくなかった。なんだか肩も痛い。やれやれ、と私は呟くと、新聞を手に取った。
「佐分利さん、お茶を飲みますか」
 原田洋子がカーテンパーティションから顔をのぞかせてそういった。
 新聞から顔を上げた私は、途中のコンビニで買ったお茶のペットボトルを持ち上げた。
「ああ、飲んでいるんですね」
 原田洋子がわかったというようにうなずいた。
「ところでもうお仕事をしてきたんですか」
 原田洋子がソファーのところまで移動してきた。
「そうなんだよ。もしかしたらまた出かけるかも知れないけどね」
 午後になったら直人の恋人かも知れない立花有紀と、移植コーディネーターの篠田美咲に、電話をかけて会う約束を取りつけるつもりだった。
「今日はなんだか静かだね」
「先生と伊藤さんは一緒に外出です。そのままお昼をすませてくるみたいですよ」
「そうかい。原田さんはお昼どうするの」
「私はお弁当です。佐分利さんはお昼どうされます」
「もうすませてきたよ」
 スワン探偵事務所を出たあと、渋谷駅の立ち食い蕎麦でお昼はすませていた。
「それまで電話番をしているから遠慮なくどうぞ」
「ありがとうございます。そういえば、佐分利さん、最近少し痩せました?」
「いや、変わらないよ」
 とはいったが、本当は少し痩せたかも知れない。
「そうですか。健康には気をつけてください」
「ありがとう」
「健康管理はおひとりでは大変ですよね。佐分利さん、そろそろ奥様のこと、お考えになったらいかがです。先生も内心ではそう思っているようですよ」
 ありがたいことに、原田洋子からは何回か親身な助言を受けている。そういえば、スワン探偵事務所の所長も同じようなことをいっていた。最近は高齢者用の会員制集団見合いなるものが流行っているらしい。ひとつ参加してみてはどうだ、といっていた。冗談じゃない。想像しただけでゾッとする。
「ところで、ご亭主は元気かい」
「おかげさまでピンピンしていますよ……なんだか、またはぐらかされたようですね」
 原田洋子はそういって苦笑いを浮かべた。
「そうそう話は変わりますが、夏休みに先生はゆかりちゃんを連れてアメリカに行かれるんですか」
 あらたまって原田洋子が聞いてきた。
「なにかいっていた?」
「ええ、この前お父さんからすすめられたといっていました」
「それで、行く気になっていたかい」
「迷っているみたいでした。簡単に行けない距離ですからね。でも、行く気になっているような感じは受けました。私も行ったほうがいいといいました。なんといっても、ゆかりちゃんがかわいそうですものね」
「まだちょっと日にちがあるから、ゆっくりと考えればいいさ」
「そうですね」
「ちょうどお昼のようだよ」
 壁の時計は十二時になっていた。
「あら、そうですね。じゃあ電話番をお願いできますか」
「いいよ」
 原田洋子がデスクに戻り、テレビがある会議室に弁当を持って入って行った。彼女は、NHKの昼のニュースと朝ドラの再放送が日課になっていた。私はペットボトルのお茶を飲み、新聞を広げた。いつもの昼どきの風景だった。
 新聞を読み終わり、ペットボトルのお茶を空にしたところで、奈緒子と伊藤綾子が帰ってきた。その足で、朝ドラの再放送をみるため会議室に消えた。これもいつもの昼時の風景だった。私は携帯と手帳を持って前のソファーに移動した。一時まであと十五分。私は眼をつぶった。
 一時になって三人が会議室から出てきた。とたんに電話が鳴った。いつもの午後の風景が戻った。
 私はまず立花有紀に電話をかけた。知らないジジイからの電話に戸惑う彼女の警戒心を解くのに五分、事情を説明するのに十分、会う約束を取りつけるのに五分かかった。結局、会うのは明日の午前十一時に決まった。場所は上野だった。
 次に篠田美咲に電話をかけた。こちらは狩野照子が事前に連絡を入れてくれていたおかげで話はスムーズにいった。結局、会うのは明日の午後三時に決まった。場所は勤務さきの病院だった。
 電話を終えて携帯をテーブルの上に置いたときにタイミングよく携帯が鳴った。すぐに手に持って通話ボタンを押すと、聞き覚えのある声が聞こえた。戸川凛子だった。
 会えるかという電話だった。私はもちろん二つ返事だった。待ち合わせ場所に指定されたのは、財務省の入口前の郵便ポストだった。その脇に立っていろということだった。どうやら車で拾ってくれるらしい。私はバッグに必要なものを詰め、事務所を出た。
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