第28話

文字数 2,279文字

       28

 朝四時にトイレに行った。いつもならまた寝るのだが、眠れなくなった。十分後には眠るのを諦めた。
 新聞を取りに外に出た。空気がどんよりと重い。日の出前だが空はうす明るい。この分だと雨にはならないだろう。
 いつもなら、トースト一枚と牛乳ですませている朝食だが、今日は目玉焼きとバナナを奮発した。食べたあとに気合いが入っていることに気がついた。
 新橋で京浜東北線に乗り換え、蒲田駅で降りた。西口を出て、眼の前の駅前ロータリーを横目に、アーケードがある商店街に入った。朝の通勤時間はすぎているためか、人通りは少ない。自転車に気をつけながら進み、亀屋百貨店を左折して商店街を抜けた。
 少し行くと東急池上線と東急多摩川線の線路がある。その高架下を通り、さきの十字路の床屋がある角を右折した。
 道が狭くなった。高校と中学が左右にある通りに入った。その通りを抜けて、いくつかの角を曲がり、やや広い道に出たところに、めざすマンションがあった。
 建物の真ん中に左右を仕切るように階段がみえる三階建ての古ぼけたマンションだった。一階の階段脇に郵便受けがあった。郵便受けは二個ずつ三段あった。さりげなく郵便受けをのぞくと、真ん中の左側に、畑中のネームプレートが貼ってあった。間違いなく目当てのマンションだった。郵便受けの並びと部屋の並びが等しいのであれば、畑中富雄の部屋は、二階の左側になる。窓をみると、厚手のカーテンがかかっていて、なかの様子はわからない。
 道路を挟んだ向かい側に小さな公園があった。ベンチと砂場とブランコがあった。若い母親が脇に立って、小さな子供をブランコに乗せていた。この公園は張り込みには好都合だった。
 部屋には涼平がいるのか、それとも直人がいるのか。ふたりともいれば好都合なのだが。いずれにしても、一日中部屋にいるわけがないと思っている。必ず買い物に出るはずだ。それを狙った。焦ることはなかった。じっくりと腰を落ち着けて張り込みを続けるつもりだった。私は子供連れの若い母親がいなくなった公園のなかのベンチに座り、新聞を広げた。私の視線は、新聞のさきにあるマンションの階段を見据えていた。マンションを出入りする住人は、間違いなく視界に入るはずだった。
 一時間以上がすぎた。新聞は何回手に取っただろうか。怪しいジジイが公園のベンチに座ったまま動かない。そんなことをだれかが警察に通報したらどうしよう。そんなつまらないことを考えてしまう。
 若い男らしいのが階段を下りてきた。反射的に時計をみた。午前十一時十五分。顔を注視した。写真でみた直人の顔を思い出してみる。だが、距離があってはっきりわからない。でも私の勘は、そうだといっている。急いで新聞を畳み、男のあとを追った。
 ポロシャツにジーンズ。背はいまの若者の平均か。どちらかというと痩せている。写真よりも髪は伸びているような気がする。全体的な印象は、目立たずおとなしい学生。そんな感じだ。まだ顔は確認できていない。
 細い通りからやや広い通りに出た。前方に東急池上線と東急多摩川線の線路があった。高架ではない。男はどこに行こうとしているのか。駅でないことだけはたしかだ。駅に行くには遠回りになる。
 踏み切り警報機が鳴りはじめた。男の顔をみるチャンスだった。間にふたり挟んで横に立った。露骨にならないように男の顔をみた。
 写真でみた南雲直人が横に立っていた。面長で切れ長の眼に口元のホクロ。ようやくさがしあてた。もっと興奮してもいいのに、不思議と冷静だった。直人は通りすぎる車窓からの視線を避けるように、自分の足元をみつめていた。
 遮断機が上がり、立ち止まっていた人たちが歩き出す。私は少し遅れて直人のうしろについた。
 蒲田駅に通じる広い道路にぶつかり、そこを右折した。このまま進むと駅に出るが、駅には行かないはずだ。その答えはすぐに出た。ほどなくしてコンビニに入った。たぶん昼飯の調達だろう。私はコンビニを通りすぎ、直人が出てくればすぐにわかるように、街路樹のそばで立ち止まった。
 十分もしないうちに直人が出てきた。手にはポリ袋を提げている。大きさからみて、コンビニ弁当とペットボトルのようだ。すぐにあとを追った。
 きた道を戻っている。私は一定の間隔を空けて直人のうしろを歩いている。あたりを見回すわけでもなく、うしろを振り返るわけでもなく、直人の足取りは、ときおり横を通る自転車に注意を払うぐらいで、淡々とした歩みだった。
 気がつくと、いつのまにかマンションの前にまできていた。直人は階段を上がろうとしていた。私は駆け足で追いつき、直人の背中に声をかけた。いきなり自分の名前を呼ばれた直人は、驚いた顔で振り返った。
「南雲直人君だね」
 もう一度名前をいった。
「はい」
 直人は素直に返事をしてうなずいた。
「やっとみつけたよ」
 私がそういうと、直人は不思議そうな顔をした。
「君をさがしていたんだ」
「僕を?」
「そうだよ」
 名刺を渡した。直人は名刺を食い入るようにみた。
「探偵というと……」
「依頼されて君をさがしていたんだよ」
「そうなんですか。依頼人はもしかして叔母さんですか」
「違う。戸川凛子代議士だ」
「え?」
 なんでという顔になった。
「ここで立ち話もなんだから、部屋に入らないか」
 手に提げているポリ袋の中身をさりげなくみた。弁当とペットボトルがふたり分だ。
「涼平君も一緒だね」
 直人はもう一度不思議そうな顔をした。
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